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桜3
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声で制するよりも先に、身体が勝手に動いていた。
気付いたときには、目の前の女肩を掴んでいて、しゅっと風を切る音。
なんだろう?
そんな疑問が、思い浮かんだところで、鼓膜が破れそうなほどの悲鳴があちこちから、聞こえてきた。
そこで初めて気付いた。自分の左腕がざっくり切られ、白の長袖ワイシャツが赤く染まっている。
腕から溢れる赤い液体が手を伝ってポタポタと床に滴り落ち、水溜まりを作っている。痛みはほとんど感じなかった。
振り返ってきた女。その顔は、蒼白で無表情。それなのに、白目がやけに赤い。
女の背後にある個室から、先ほどの男性三人が飛び出してきて、私を見て目が飛び出さんばかりに、見開いているのが見えた。その中に、サトと呼ばれている男性もいて、端正な顔立ちは驚愕に包まれていた。女がそちらへ振り返ろうとする。
この女の目当ては、サトだ。このまま彼女が振り返って、彼がいることに気付いたら、危ない。私は無我夢中で、女の腹部に突進して押し倒した。必死に彼女の腰にしがみついて、身動きとれないようにさせる。
「逃げてください」
サトへ必死に呼びかけたつもりだったが、女の叫びでかき消される。
「ふざけんじゃないわよ!」
甲高い雄叫びだった。反射的にびくっと肩が跳ねあがらせながら、母の怒声によく似ているなとこんな時に場違いなことを思っていると、再び女の手が、天井に向かって振り上げられていた。
血走った瞳と手の中の鋭い切っ先が、真っ直ぐに私へ向けられている。
くるであろう衝撃に備えて、ぎゅっと目を閉じると、急激に腕が痛くなった。
突然、頭がぼんやりして、その奥から母の大激怒している顔が思い浮かんだ。今頃、食器を投げ飛ばしたり、花瓶を割ったりして、みんなに大迷惑をかけているかもしれな い。極限のストレスがたまると、母はそうやってものにあたる。みんなに多大な迷惑をかけているに違いない。
兄も似たような気質の持ち主。兄の場合は、人に八つ当たりをする。どうでもいいことに難癖をつけて、お手伝いさんたちを罵倒したりして、ストレスを発散させるのだ。
鏡花さんたちは、大丈夫だろうか。私のせいで本当に申し訳ないことをしたなと思う。
こんなことになったのは、みんなに迷惑をかけてしまった代償なのかもしれない。
騒々しい音がどんどん遠ざかる。そのまま闇に吸い込まれるように、私は意識を手放した。
…………
ぼんやりと視界が明るくなる。
その先には、見慣れぬ白い天井。
「紅羽ちゃん! よかった……」
安堵の表情を浮かべる三浦が見えた。どうして病院にいるのか、よく理解できずにいると、三浦店長が説明を加えてくれた。
「女の人に襲われて怪我したの、覚えてる?」
記憶が呼び覚まされると同時に、左腕がズキズキ痛んだ。
女の赤く血走った瞳がフラッシュバックする。あの時は必至だったため、恐怖を感じる余裕もなかった。今更ながら、鳥肌が立ちそうになる。だが、そんなことよりも、もっと気がかりなことがある。気を取り直す。
「あの時いらっしゃったお客様は、ご無事ですか?」
三浦の瞳に困ったような、呆れたような色が浮かんでいた。
また、変なことを入ってしまっただろうか。そんな不安を吹き飛ばすように、店長はふっと笑う。
「……自分がそんな目に遭ったのに、人の心配だなんて。どれだけ、お人好しなんだか……。お客様は、みんな無事よ。あなたのお陰でね。紅羽ちゃんが女にしがみついた後、個室から出てきた男性陣があの女を取り押さえてくれてね。そのあとすぐに来た警察に連行されていったわ」
「そうですか……それならよかった」
ほうっと息を吐くと、三浦は眉根を寄せる。
「あの時は、本当に焦ったわ……。腕からかなり出血していて、顔が真っ青なんですもの。天野さんがね、物凄く心配してた」
「天野さん?」
聞いたことのない名前だ。首をかしげると、三浦が電動ベッドのリモコンを手にする。
「ちょっと背中起こしてもいい?」
頷くと、三浦がボタン操作して、電動ベッドが起き上がっていく。ちょうどいい角度にきたところでストップすると、三浦はポケットから走り書きされたメモを取り出していた。右手でそれを受けとる。
『天野 湊』と書かれていた。
その下に連絡先らしき電話番号。やはり、全く心当たりがない。目を瞬かせると、三浦がいう。
「この人は、個室にいた男性。ほら、キャップをかぶっていて、女の子たちからキャーって言われてた方」
あの端正な顔立ちの人か。頷くと、店長が続ける。
「紅羽ちゃんが、目を覚ましたら、連絡がほしいって置いていったの。謝りたいって」
「謝る? その方に謝られるようなことは、されてないと思うんですが……」
そういうと思った、と店長は苦笑する。
「あの女、天野さんのストーカーだったの。あの女にずっと付け回されていて、最近警察へ相談しに行ったんですって。そしたら、女がそれに気付いてしまって、逆上したらしいの。それで、今回の過激な行動になったらしいわ。それで、天野さんがね。『本来ならば、僕が受けるべき被害を、影山さんに背負わせてしまって、大変申し訳ない』って」
「そんな、これくらい、気にされなくてもいいのに……」
「いやいや、気にするレベルでしょ」
私の左腕を指差されてみやる。前腕部全体にテープのようなものが張られている程度。やはり大したこはないのではと思うが、三浦は首を横にふる。
「医者が、あと少し病院に運び込まれてくるのが遅れてたら、危なかったって言ってたくらいなのよ? 腕の傷、残ってしまうみたいだし……。ともかく、紅羽ちゃんはしばらく入院よ」
三浦はサイドテーブルを私の前へ移動させ、乗っていた書類を指さした。
「さっき看護師さんがやってきて、この書類すぐに書いてくれって言われたの」
ペンを手に取り、名前や生年月日、現住所まですらすら書いていったが、緊急連絡先記入欄で固まってしまっていた。
それは、つまり親の連絡先を書けということだ。
腕の傷なんかよりも、そっちの方がずっと大問題だ。どうにかして、連絡がいかない方法はないものか。頭をフル回転させると、ふと春樹たちの顔が浮かんだが、すぐに打ち消す。ただでさえ迷惑をかけているのだ。これ以上頼めるはずもない。
もうこれ以上の我儘は、許されないということなのかもしれない。緊急連絡先の欄に置いたペン先が震える。
意を決して、動かそうとしたら、手の中のペンが消えてい、三浦の手にあった。
「緊急連絡先は、私のところでいいわね?」
「……いいんですか?」
思わず尋ねると、三浦はいう。
「じゃあ、今日から私の親戚の娘ってことで」
あっさりそういって、緊急連絡先を書き終えていた。考えてみれば、バイトとして雇ってくれた時も、今何をしているのかなどの事情さえも何も聞かれることはなかった。三浦の懐の深さが、本当に有難い。ここまで、頼ってしまうのだ。せめて、今の私の立場は言わないわけにはいかないと思う。
「実は、私……」
口を開きかけたところで、三浦はしーっと人差し指をたてていた。驚く私に、三浦は目を細めていた。
「話したくないことは、話さなくていい。私が紅羽ちゃんの事情を聞いたところで、どうすることもできないと思うしね。それに、大切なのは過去じゃなくて、今でしょ? じゃあ、私は書類出してくるついでに、天野さんに連絡いれてくる」
三浦は、出会った時と同じような女神のような微笑み浮かべ、部屋を出ていった。
優しさが胸にしみて、じわっと温かくなる。 みんなから与えられる恩に、私はどう報いればいいのだろう。
気付いたときには、目の前の女肩を掴んでいて、しゅっと風を切る音。
なんだろう?
そんな疑問が、思い浮かんだところで、鼓膜が破れそうなほどの悲鳴があちこちから、聞こえてきた。
そこで初めて気付いた。自分の左腕がざっくり切られ、白の長袖ワイシャツが赤く染まっている。
腕から溢れる赤い液体が手を伝ってポタポタと床に滴り落ち、水溜まりを作っている。痛みはほとんど感じなかった。
振り返ってきた女。その顔は、蒼白で無表情。それなのに、白目がやけに赤い。
女の背後にある個室から、先ほどの男性三人が飛び出してきて、私を見て目が飛び出さんばかりに、見開いているのが見えた。その中に、サトと呼ばれている男性もいて、端正な顔立ちは驚愕に包まれていた。女がそちらへ振り返ろうとする。
この女の目当ては、サトだ。このまま彼女が振り返って、彼がいることに気付いたら、危ない。私は無我夢中で、女の腹部に突進して押し倒した。必死に彼女の腰にしがみついて、身動きとれないようにさせる。
「逃げてください」
サトへ必死に呼びかけたつもりだったが、女の叫びでかき消される。
「ふざけんじゃないわよ!」
甲高い雄叫びだった。反射的にびくっと肩が跳ねあがらせながら、母の怒声によく似ているなとこんな時に場違いなことを思っていると、再び女の手が、天井に向かって振り上げられていた。
血走った瞳と手の中の鋭い切っ先が、真っ直ぐに私へ向けられている。
くるであろう衝撃に備えて、ぎゅっと目を閉じると、急激に腕が痛くなった。
突然、頭がぼんやりして、その奥から母の大激怒している顔が思い浮かんだ。今頃、食器を投げ飛ばしたり、花瓶を割ったりして、みんなに大迷惑をかけているかもしれな い。極限のストレスがたまると、母はそうやってものにあたる。みんなに多大な迷惑をかけているに違いない。
兄も似たような気質の持ち主。兄の場合は、人に八つ当たりをする。どうでもいいことに難癖をつけて、お手伝いさんたちを罵倒したりして、ストレスを発散させるのだ。
鏡花さんたちは、大丈夫だろうか。私のせいで本当に申し訳ないことをしたなと思う。
こんなことになったのは、みんなに迷惑をかけてしまった代償なのかもしれない。
騒々しい音がどんどん遠ざかる。そのまま闇に吸い込まれるように、私は意識を手放した。
…………
ぼんやりと視界が明るくなる。
その先には、見慣れぬ白い天井。
「紅羽ちゃん! よかった……」
安堵の表情を浮かべる三浦が見えた。どうして病院にいるのか、よく理解できずにいると、三浦店長が説明を加えてくれた。
「女の人に襲われて怪我したの、覚えてる?」
記憶が呼び覚まされると同時に、左腕がズキズキ痛んだ。
女の赤く血走った瞳がフラッシュバックする。あの時は必至だったため、恐怖を感じる余裕もなかった。今更ながら、鳥肌が立ちそうになる。だが、そんなことよりも、もっと気がかりなことがある。気を取り直す。
「あの時いらっしゃったお客様は、ご無事ですか?」
三浦の瞳に困ったような、呆れたような色が浮かんでいた。
また、変なことを入ってしまっただろうか。そんな不安を吹き飛ばすように、店長はふっと笑う。
「……自分がそんな目に遭ったのに、人の心配だなんて。どれだけ、お人好しなんだか……。お客様は、みんな無事よ。あなたのお陰でね。紅羽ちゃんが女にしがみついた後、個室から出てきた男性陣があの女を取り押さえてくれてね。そのあとすぐに来た警察に連行されていったわ」
「そうですか……それならよかった」
ほうっと息を吐くと、三浦は眉根を寄せる。
「あの時は、本当に焦ったわ……。腕からかなり出血していて、顔が真っ青なんですもの。天野さんがね、物凄く心配してた」
「天野さん?」
聞いたことのない名前だ。首をかしげると、三浦が電動ベッドのリモコンを手にする。
「ちょっと背中起こしてもいい?」
頷くと、三浦がボタン操作して、電動ベッドが起き上がっていく。ちょうどいい角度にきたところでストップすると、三浦はポケットから走り書きされたメモを取り出していた。右手でそれを受けとる。
『天野 湊』と書かれていた。
その下に連絡先らしき電話番号。やはり、全く心当たりがない。目を瞬かせると、三浦がいう。
「この人は、個室にいた男性。ほら、キャップをかぶっていて、女の子たちからキャーって言われてた方」
あの端正な顔立ちの人か。頷くと、店長が続ける。
「紅羽ちゃんが、目を覚ましたら、連絡がほしいって置いていったの。謝りたいって」
「謝る? その方に謝られるようなことは、されてないと思うんですが……」
そういうと思った、と店長は苦笑する。
「あの女、天野さんのストーカーだったの。あの女にずっと付け回されていて、最近警察へ相談しに行ったんですって。そしたら、女がそれに気付いてしまって、逆上したらしいの。それで、今回の過激な行動になったらしいわ。それで、天野さんがね。『本来ならば、僕が受けるべき被害を、影山さんに背負わせてしまって、大変申し訳ない』って」
「そんな、これくらい、気にされなくてもいいのに……」
「いやいや、気にするレベルでしょ」
私の左腕を指差されてみやる。前腕部全体にテープのようなものが張られている程度。やはり大したこはないのではと思うが、三浦は首を横にふる。
「医者が、あと少し病院に運び込まれてくるのが遅れてたら、危なかったって言ってたくらいなのよ? 腕の傷、残ってしまうみたいだし……。ともかく、紅羽ちゃんはしばらく入院よ」
三浦はサイドテーブルを私の前へ移動させ、乗っていた書類を指さした。
「さっき看護師さんがやってきて、この書類すぐに書いてくれって言われたの」
ペンを手に取り、名前や生年月日、現住所まですらすら書いていったが、緊急連絡先記入欄で固まってしまっていた。
それは、つまり親の連絡先を書けということだ。
腕の傷なんかよりも、そっちの方がずっと大問題だ。どうにかして、連絡がいかない方法はないものか。頭をフル回転させると、ふと春樹たちの顔が浮かんだが、すぐに打ち消す。ただでさえ迷惑をかけているのだ。これ以上頼めるはずもない。
もうこれ以上の我儘は、許されないということなのかもしれない。緊急連絡先の欄に置いたペン先が震える。
意を決して、動かそうとしたら、手の中のペンが消えてい、三浦の手にあった。
「緊急連絡先は、私のところでいいわね?」
「……いいんですか?」
思わず尋ねると、三浦はいう。
「じゃあ、今日から私の親戚の娘ってことで」
あっさりそういって、緊急連絡先を書き終えていた。考えてみれば、バイトとして雇ってくれた時も、今何をしているのかなどの事情さえも何も聞かれることはなかった。三浦の懐の深さが、本当に有難い。ここまで、頼ってしまうのだ。せめて、今の私の立場は言わないわけにはいかないと思う。
「実は、私……」
口を開きかけたところで、三浦はしーっと人差し指をたてていた。驚く私に、三浦は目を細めていた。
「話したくないことは、話さなくていい。私が紅羽ちゃんの事情を聞いたところで、どうすることもできないと思うしね。それに、大切なのは過去じゃなくて、今でしょ? じゃあ、私は書類出してくるついでに、天野さんに連絡いれてくる」
三浦は、出会った時と同じような女神のような微笑み浮かべ、部屋を出ていった。
優しさが胸にしみて、じわっと温かくなる。 みんなから与えられる恩に、私はどう報いればいいのだろう。
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