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お膳立て

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 溝口ゼミ一行は、夕方旅館へ到着すると世話になる旅館の女将が出迎えた。
「お待ちしておりました」
 広い和風作りのロビー玄関に明るい女将の声が響き渡る。
「お部屋のご用意はしてありますので、学生さんは男性陣女性陣分かれて大部屋でお願いしますね。もうご用意できておりますので、少しごゆっくりされてくださいね。教授は、いつものお部屋ご用意できてますよ」
 女将に先導され、ぞろぞろと部屋に向かっていった。

 美羽と文乃はみんなと少し遅れて付いていく。その道すがら。
「美羽、ちょっとこっち来て」
 美羽は言われるがままついていくと、文乃は周りを気にするような素振りをみせる。そして、誰もいないことを確認してから文乃はふうっと息を吐いて美羽に目を向けた。
「ちゃんと浴衣持ってきた?」
「せっかくの花火なんだから浴衣を着なくちゃダメだって、文乃に散々言われていたから一応……」
「じゃあ、文乃は浴衣を着て待機ね。宴会に来なくてよし」
「どういうこと?」
「だって、宴会好き?」
 率直に尋ねられて美羽の声が詰まる。正直に言えば宴会は好きじゃない。アルコールは飲めないし、苦い思い出を作ってくれた小泉たちもいる。今更どうこうという話はないだろうが、気が重いことはたしかだ。それに溝口教授の話もなかなか面白いけれど、たぶん今日はいくら聞いたって頭には入ってこなさそうだ。煮詰まっている美羽の答えをすぐに見抜いて文乃は先回りして答えた。
「やっぱり苦手でしょ? だから、美羽は浴衣に着替えて十九時に屋上で大隈先輩を待つべし」
「え? だって、怜は、今日宴会の中心人物になるのよ?……それに教授の様子だと怜を今日一日離すとは思えない。なんとか、私自分で時間見つけるから大丈夫よ」
「さっき言ったでしょう? 大船に乗った気でいなさいって」
「そりゃあ、そうだけど……」
 眉根を寄せている美羽にいつものカラッとした笑顔を見せてくる。
「私を信じて」
 この笑顔を見ると、うじうじ考えてしまう自分が間違えているんじゃないかと思えてくるから不思議だ。文乃が大丈夫だと言ったら、きっと大丈夫なんだろう。そう思えてくる。美羽は、分かったとしっかりと頷くと、文乃は「よし!」と明後日の方向を向いて闘志を燃やしていた。が、ふと気づいたように今度はそっと視線を滑らせてくる。
「でもさ、本当に美羽はそれでいいの? 大隈先輩送り出して」
 今度は遠慮がちに聞いてきて、美羽は思わず笑いながら答えた。
「もちろん。むしろ、このまま日本にくすぶられちゃった方がイラっとする」
「そっか! わかった。じゃあ、美羽は思ったことをやってきて」
「ありがとね、文乃」
 ぐっと拳を握って目の奥に灯している文乃の炎をもらい受けるように美羽もまた決意を心に燃やしていた。

 宴会が始まった。当然、怜は教授の横に強制的に座らされて大きくため息を吐く。
集まるメンバーの中に美羽と文乃がいないことに気付いて怜は辺りを見回していると、文乃が浴衣姿で入ってきた。
やっぱり美羽がいないことに、不安を覚えたがそれを打ち打ち消すように文乃は満面の笑み。日本酒の一升瓶を持って怜と教授のほとんどない隙間に割り込んできた。その一瞬、文乃が怜に視線をよこしてくる。何か言いたげな瞳に、怜は疑問を投げかけようとしたが文乃はすぐに教授のほうへ向き直っていた。
「溝口教授。日本酒お持ちしました!」
「おお! 気が利くね!」
「日本酒は、教授が好きなお酒だと聞いてリサーチしてきたんですよぉ」
「文乃君がこんなに気の利いたことしてくれるとは」
 元々の上機嫌に拍車をかけて、声が二オクターブ高い。それに反比例するように怜の胸の内は重くなっていく。
「教授、ご機嫌ですねぇ」
「そりゃあ、この一大プロジェクトが始まるんだ。楽しみで仕方がない。大隈だって手伝ってくれるだろうしな」
あはは! と冗談のめかした本心をぶつけてくる。それに対して、もう我慢も限界だと言わんばかりに怜は息を大きく吸い、口を開きかけたところで、文乃がそれを遮った。
「お注ぎしますねぇ」
 ご機嫌で、伏せられていたコップを手に取る教授。一方の怜は吐き捨てたかった言葉が押し返されて、不意打ちを食らったように目を見開いていると酒を注ぎながら文乃が顔を向けてきた。その顔は黙ってみてろとでも言いたげだ。何を企んでいる? そう思った矢先「うわ!」教授の叫び声。が聞こえた。なんだ? 文乃を避けて、前のめりになりその状況をみると、注いでいた文乃の酒瓶の口がコップからズレて教授のワイシャツを濡らしていた。
「あ! ごめんなさい!」
 文乃の叫びと共に慌てたような声を上げていたが、一向に瓶を上向けない。その上、手が滑る! と訳の分からない叫びをあげて文乃の手から酒瓶が滑り、座っていた教授の上に思い切り落ちた。胡坐をかいていた教授の足の上に酒瓶が見事にひっくり返って着地しドボドボと注ぎ口から酒が流れだす。ひどい惨状で被害を被っている教授さえも呆然とするしかない。だが、文乃は「どうしよう!」と叫びながらただ傍観しているように見える。あまりの酷さに固まっていた教授の体がようやく動き出し、自ら酒瓶を机に戻していた。ここまできたら怒りを通り越して、表情がなくなっていた。そこに文乃は「本当にごめんなさい」と頭を下げている。
 そんな騒動に気づいた学生の面々。渡も驚いた顔をしていたが、すぐに何かを察したらしい。ざわつく会場に、女将がやってきた。
「あらあら! お洋服のご用意がありますのでお着換えになられてくださいな」
 謝り続ける文乃にひきつった笑顔を浮かべながら、教授は女将さんに促されて大広間からはけていった。
 完全に教授の姿が消えたのを確認して、文乃は怜に鋭く告げる。
「美羽、屋上で待ってるから早く行ってあげてください。この後はどうにかしますから。こんなことでもしないと、あの人引きはがせないでしょ? 私、単位を落とす覚悟でやってるんですからね!」
 文乃のあまりの熱量に怜は唖然としつつ、さすがにここまで豪快すぎる行動をした上に自分がいなくなってしまって大丈夫なのかと、文乃の身を案じそうになるが、その横にいる渡を見てそんなのは愚問だと悟る。
 怜は導かれるがまま宴会場を後にして、美羽の待つという屋上の階段を上っていった。



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