灰色の犬は愚痴だらけ

皐月 翠珠

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ない袖は振れないので

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 窓から見える寒空が、季節がすっかり冬になった事を告げてくる。ここ最近で、急に冷え込んだなぁ。もうお散歩の時は洋服が必須かもしれない。
 そんな事を考えてから後ろを振り返ると、ご主人様がとても深刻そうな顔でテーブルに両肘をついて手を組んでいた。
「これは矢尾美奈海の一人暮らしが始まって以来、最大のピンチかもしれない」
 芝居がかった様子でそう呟くご主人様の目の前には、スマホとお財布。ご主人様は、その二つを何度も交互に手に取っては頭を抱えている。
 これはおいらがどうしたのと聞くのを待っているんだろうか。だとしたら、犬と会話を成立させる事ができると思ってるやばい人だし、そうじゃないとしたら見ている人もいないのに一人でこれだけ真剣な顔でお芝居をしているやばい人だと思う。つまり、どっちにしろやばい。
「やばい、やばいよ…これは本当にやばい」
 うん、知ってる。
「どうしよう………お金がない!」
 切実な悲鳴と共に、ゴンッていう頭がテーブルにぶつかる音が重なった。
「───うああああ、足りない!どう考えても次の給料日まで持つ気がしない!」
 頭を掻きむしりながらそう嘆くご主人様。説明するとこうだ。どうもどうしても欲しいものがあるらしく、それを手に入れるためにここ二ヶ月ほど節約生活をしていたけど、ついに限界を迎えてしまった。
 電気やガス、水道代の高騰こうとうも痛かったみたいだ。寒くて例年より早く暖房をつけていたら、部屋は暖まったけどお財布の方は寒々しくなっていった。
 ご主人様の給料日は毎月十五日。今はまだ三日。ご主人様の所持金は三千円ほど。つまり、まだ十日以上ある中で一日あたり三百円ぐらいしか使えないという事だ。おいらに人間のお金の感覚はあんまり理解できないけど、ご主人様の焦りっぷりを見るによっぽどカツカツなんだろう。
「どうしよう…まず何から削ろう…無駄遣いになってる一番の原因…」
 ブツブツ独り言を言いながら、ご主人様はビールの缶を傾ける。
「…」
「…」
「………これだな」
「わふっ」
 しばらく缶を見つめて考え込んでいたご主人様は、苦渋くじゅうの決断の末ガックリとうなだれた。



「はい、とむ、ご飯だよ」
「キャン!」
 空腹の衝動に従って、おいらはお皿に飛びついてもぐもぐとご飯を食べる。
「美味しい?」
「キャン!」
「そっか、美味しいんだ…」
 しみじみとした声にふと顔を上げると、ご主人様がおいらをガン見していた。いや、正確にはおいらじゃなくておいらのご飯を、だ。
 ここのところ、ご主人様の夕飯はお茶碗一杯のご飯と具のないお味噌汁ばかりだ。朝と昼は、夜の内に握っておいた小さめのおにぎりが二つずつ。二日に一度は、ふりかけをかけるというささやかな贅沢を楽しんでいるらしい。今までお昼ご飯は会社の食堂で定食を食べていた事を考えると、かなり少ないんだろうなとは思う。
 だけど、だからっておいらのご飯を見てヨダレを垂らすのはやめてほしい。おいらドン引きだよ。怖いよ。
「あ、気にしないでね。とむはお腹いっぱい食べていいんだよ?」
 ドッグフードを美味しそうなものとして見てる人間を差し置いて、気にするなっていう方が無理だと思うのはおいらだけじゃないよね?気になるよ。どう頑張っても視界に入ってきて食べづらいよ。かと言って、食べる?って差し出すのもご主人様の人間としての大事な何かを奪うみたいで言えないよ。
「ハアァ…お腹空いたよぉ…晩酌したいよぉ…」
 クッションを抱きしめて欲望を口にするご主人様の声には、覇気がない。しっかり食べてる時でさえ色々やらかすのに、こんな状態でちゃんとお仕事はできているんだろうか。夏前にダイエットしていた時よりずっと辛そうだ。
 ただ、ご主人様がえらいのはおいらにかけるお金には手を出さないところだ。ご飯の量が減る事もなければ、トイレシートをケチる事もない。暖房はあまりつけないようにしてるけど、おいらが寒い思いをしないように毛布や洋服であったかくしてくれている。
 そんなご主人様は、モチベーションを保つために節約生活が辛くなると必ずやる事がある。
「あー、やばい。くじけそう。見よう」
 そう言って、棚から預金通帳を取り出す。ペラペラとゆっくりページをめくってはニヤニヤしている。目標金額が貯まっていくのを見て心を落ち着けているんだろうけど、おいらに言わせれば怪しすぎるし狂気じみていてとても怖い。
 それにしても、そこまでしてご主人様が欲しいものって何なんだろう。確か、お散歩中に大金の奥さんと会って話をした直後からあれこれ調べてお金を貯めだしたんだっけ。あの時はマロンの自慢話が特に長くてうるさくて、ご主人様達の会話が全然聞こえなかったんだよな。一体何を話していたんだろう。帰りぎわにお礼を言って、頭を下げていたのは何となく覚えてる。
 まさか、宝石がいっぱいのアクセサリーとか高級ブランドのバッグなんかを買うためじゃないだろうな。今おいらの頭の中に、大きなサングラスをしてゴテゴテのブランド物に身を包んだご主人様の姿が思い浮かんで、思わず身震みぶるいをする。嫌だ、おいらそんなご主人様見たくないよ。ご主人様は、くたびれた部屋着でおっさんくさくビールとおつまみを楽しんでいるのがいいんだ。さりげなくディスってないかって?だって、本当の事だもん。
「キャン!キャン!」
「え、何、どしたの?」
 ご主人様の膝に乗ってほっぺを一生懸命舐めるおいらに、ご主人様は戸惑ってる。ご主人様が何を欲しがっているのか知らないけど、そんなのなくたっておいらはご主人様が大好きだよ。
「アハハ、くすぐったいよ!何もう、甘えん坊タイムですか?」
 しょうがないなぁなんて言いながら、ご主人様もまんざらでもなさそうにギューッと抱きしめてくれる。ほらね、ご主人様はこういう感じが一番いいんだよ。甘えたがってると勘違いしてるご主人様に便乗して、おいらはここぞとばかりに甘えまくった。



 とっくに真っ暗になった外を見つめる。そろそろご主人様が帰ってくる頃だ。おいらは夕方からずっとソワソワしていた。今日は十五日。そう、ご主人様にお給料が入る日だ。
 辛い節約生活も今日で一旦終わり。ご主人様の目標金額がいくらなのかは知らないけど、少なくともご飯を我慢するような事にはならない筈だ。寝言でも「ビール…ビールが飲みたい…」って言ってたほど、ご主人様は節約という言葉に追い込まれていた。せめて今日くらいは、晩酌をさせてあげたい。
 足音が聞こえる。おいらは玄関まで走ってドアが開くのを待つ。ガチャガチャと鍵を開ける音がして、バンとドアが開かれた。
「ただいまぁ、とむ!」
「キャン!」
 入ってくるなりおいらを抱きしめるご主人様は、晴れやかな笑顔をしていた。右手には、ビールやおつまみの入ったエコバッグ。それが意味するところは一つだ。
「貯まったよ!これで買える!ビールも解禁だぁ!」
 飲むぞー!って叫ぶご主人様は、まさに苦行を乗り越えた修行僧のようだった。まあ開いたのは悟りじゃなくて、欲望の扉みたいだけど。でもご主人様が嬉しそうだから何でもいっか。おいらも尻尾を振っておめでとうを伝える。
 結局、ご主人様が何を買おうとしていたのかはわからなかったけど、その答えはそう遠くない内に明かされる事をこの時のおいらはまだ知らなかった。

ない袖は振れないので、作ってみました。
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