朝凪の口付け

妓夫 件

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終章 わたしの心の青海原

6話

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気付けばまた夜になり、丸い月が暗い空に浮かぶ頃、今晩の私たちは昨日行き損ねた海辺へと出掛けることにした。

タクマさんの家は玄関から門までの距離があるだけで、私の別荘よりも海に近い。
すぐに心地よい波音が聴こえてくる。


ザザ────……


「私の居ないときにも、朝は海に行ってるんだよね」と訊くと「ああ」と頷く。

「冬はひたすら寒いけどな。 熱いコーヒー淹れて持ってったり」

今年は私も一緒に行きたいなあ、なんて思う。

「私のこともたまに思い出してね」とお願いをしてみたら、「今わの際みたいな言い方やめろ」ちょっとだけ怒られてしまった。


公道沿いのいつもの石段を降り、浜辺に出て周りに街灯なども何も無くなると、煌々とした満月が輝き、辺りを明るく照らしていた。


ザザ…ン────


砂を踏みしめるタクマさんが、月のクレーターには名前があると説明してくれた。
そしてそれには、言葉の終わりによく海とついているのだと。

「実際は水なんてないのにね?」

「昔はあるって言われてたからなあ。 っても、それはまだ厳密には分かんねぇらしいけど。 溶岩石の地質が似てるからとも。 でも、もしかして、こういうとこでつけたんかもな」


この地球とおなじに、おごそかに水をたたえる月の海。

そんなものを想像しながら月明かりの下の海辺を、彼と歩く。
光の筋が長く伸び、「こんな月の晩は夜の海もいいね」とそれを遠くに望んだ。

「ムーンロード……ね。  なあ、オマエみたいのって、やっぱり結婚式とかベタなモンに憧れるワケ?」

バージンロードみたいな言葉でも思い付いたんだろうか。
元々あんまり派手なことは好きではないので、私はちょっと眉を下げて首を横に傾けた。

「んー……うちはお父さんとお母さんが、結婚30年記念に、もう一度したいって言ってるよ。 あ! そしたら、みんなで一緒にする!?」

その方が、目立たないし。
ポロッとその場のノリで言ってしまったけど、よくよく考えたら、私、先走りすぎ。

なんとなく恥ずかしくなって、俯きながら黙って彼のあとをついていく。


「は。 横並びに母娘合わせて四人とか、諸々とツッコミどころが満載だな。 そのことについては、あとからゆっくり話すとして、だ」

意外なことにタクマさんが普通に笑っている。

「……もしもそうなったら、多分。 こっちの歳考えると、オマエがノンビリ教員なって、実績作ってる時間は余りねぇんだよなあ」

もしもそうなったら。
それは、イコール、そうなる可能性があるということですか!?

「とはいえ……オレはオマエのやりたい」

「分かったよ!  じゃ、私、東京帰ったら塾のアルバイトから探してみるね!  この辺り、学習塾は結構あるもんね」

それなら、準備しておくのに越したことはない。
タクマさんの杞憂を取り除くべく、私は彼の言葉に被せて即答した。


それから彼は少し間を置いて、波が来ない距離の海際でふと、立ち止まる。

「……ああ、オマエ昔、この辺で溺れてたんだよな。 三歳んとき」

「えっここ!?  水さえないじゃないの」

砂浴びするサイかカバじゃあるまいし。

「引き潮だろ……しっかりしろよ理学部」

「私の専攻は数学科だよ。 へええ……?  なんだか不思議だねえ……あ、満月で潮汐が大きくなる、とかお父さんが言ってた。 あの人、釣りも好きだから」

「……月の引力に引っ張られるのが海とすると、オマエは月になんのかな」

彼がぽつりとそんなことを言うので、
「え?  それは、逆じゃないのかなあ?」
私はすき好んでだけど、常にタクマさん基準だし。と返事をすると。

「……さあな」ひと言呟き、彼がまた水平線に視線を移した。


改めて、波に洗われた自分の足元をじっと見詰める。

ここは小さな頃の私がいた場所。

月が作る道は、今立っている場所から水平線の彼方まで続いている。
ポツポツポツポツと、幻想的な濃い青紫の綾波が形作る、黄金色の灯りの合間に、遠い思い出が浮かんだ。


波打ち際で、私はタクマさんと出会って。

しばらくの間、父と母に手を引かれ。

また彼と再会し、しばらくの間、距離を置いては同じ時間をタクマさんと歩んだ。


そして、光の道の向こう。 半ば辺りに見えるのは、今こうしている、手を繋いで歩く私たち。


それは水平線の彼方まで。

きっと見えなくなるまでずっと続いて、小さなタクマさんなんかもたくさんたくさん増えて、いつか彼と抱き合って天に還れれば、すごく、最高に幸せだと思う。


『人生とは、地図のない航海のようなものだという』


誰の言葉かは忘れたけれど、昔、ここで手を繋ぎながら父がそう教えてくれた。

私の地図は手の中にある。

そしたら思い切り帆を張って、私はそれに向かって一生懸命に進むだけ。


「綾乃」

呼ばれて、私の少しあとを歩いていた彼の方に振り向くと、タクマさんがなにかを探すように視線をさ迷わせてから、ゆっくりと口を開く。

「今まで飽きもせず、想ってくれてて感謝してる。 こっちが、オマエに飽きる日は100パーセント来ねぇから……まあ……オレの綾乃のままでいろ」


『オレの綾乃のままで』


彼の言葉。


言って欲しいとお願いしたわけじゃない。
彼が私のために選んで求めてくれた初めての告白。


特にどうしろということもなく、そばにいれば良いのだと。
臆病でなくただ優しい彼が、そんな風に私を望んでくれた。

タクマさんの表情が歪んで、濡れたガラスみたいにぼやけた。

「……って、おい」

それは形のない、世界にひとつしかないエンゲージリングのように思えた。
私にとって例えば結婚式とか、そんなものよりも、なによりもなによりも尊いもの。

「ったくまた、泣くなよ。 いじめてるワケじゃねぇぞ……」

『泣くな』いつもはそうきつく言うはずの彼が、困った様子で私に腕を回して胸に包んでくれた。

これからは、私の泣く場所はここになるのかもしれない、なんて思う。

あったかくて大好きな私のタクマさん。


それはほんのもう数年後の未来。


朝も夜も潮騒を聴きながら、私は青海原に抱かれる夢をみる。




[完] 
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