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Episode1

はらぺこ淫魔、恋をする。-15

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 一向に訪れない衝撃を不審に思って顔を上げると、ピタリと石像のように男の腕が止まっていた。男も何が起こったのか分かっていないようだ。目を白黒させキョロキョロと辺りを見渡している。ある所で、男の顔が驚愕に染まった。つられるようにしてリオンも男の視線を辿る。
 そこに居たのは、

「ディ、ナンさま……?」
「こんにちは、リオン」

 ディナンはいつもの優しい笑顔でリオンに声をかけると、スッと表情を消し再び男を見やった。

「ねえ、いつまで私のリオンに触っているの?」

 と、ディナン。地を這うような低い声に男の肩がびくりと揺れ、ゆっくりと手が離れていく。掴まれた腕を摩っていると、ディナンが苦々しい顔をした。驚いて手を止めると、大丈夫だというように微笑まれる。
 男はというと、リオンを一瞥し、おもむろにディナンに向き直った。

「……今のは、なんだ?」

 確かめるように腕を振りながら男が聞いた。ディナンはゆるりと首を傾げ、酷薄な笑みを浮かべた。

「なんだ、だって? 冒険者なのにそれすら分からないのか?」

 普段のディナンより少し尊大な口調に、リオンはぱちくりと瞬きした。男はあァ゙⁉ と声を荒らげている。

「俺は特級の剣士だぞ、大概の魔法は知っている!」

 貴様何を使った、と男はそう言ってディナンを睨みつけた。
 二人の話についていけていないリオンはきょとんと首を傾げている。

「まさか、禁術でも使ったか?」
「まさか! そんな、使うはずないでしょう?」

 殺気立つ男をものともせず、ディナンはそう言って小さく肩を竦めた。さらに男を煽るように長い指を唇に当て冷笑を浮かべてみせる。

「君みたいな大したことのない人間に使うなんて、そんな勿体ないことはしないよ」
「なッ貴様ッ!」

 いきり立った男が肩に背負った大剣を抜いた。物騒な展開にリオンは目を見開いた。
 ディナンが倒されるところなんて想像できないが、相手は手練れの剣士である。どうしよう、と思わずディナンを見ると、美しい顔が不愉快そうに顰められていた。
 ディナンの表情の意味はよく分からないが、とにかく彼を守らなければとリオンは男へと腕を伸ばした。が、寸前でその腕はピタリと止まることとなる。
 リオンの聞き間違いじゃなければ、ディナンが小さな声で面倒だな、と言ったのだ。思ったよりも余裕がありそうである。男も聞こえたのだろう、大剣を持つ手に力がこもったのが見えた。

「それより、私のリオンに何をしようとしていたの?」

 男の構える大剣なんてまるで視界に入っていませんと言わんばかりである。
 緊迫した空気にあまりに似つかわしくないディナンの言動に、冒険者としてのこれまでの経験から、その涼しい顔は虚勢だと判断した男は得意気に口を開いた。

? ハッ、こいつはな、俺の、情婦になるんだよ」

 ディナンの顔から一切の表情が消えた。途端、男の顔が恐怖に染まる。

「ヒッ、この魔力……貴様、もしかしてッ…!」
「もしかして、何?」

 ディナンがそう言うが早いか、バチンッ、と男の姿が消えた。男が視界から消えたことで緊張の糸が緩む。胸元を掴みながら大きく息を吐いた。

「大口叩いたところで程度か……相変わらず他愛のない」

 男が居た場所を見つめながら、ディナンはそう呟いた。小さな声だったのでよく聞き取れなかったリオンが小さく首を傾げ、まあいいか、と首を振る。
 ひとまずお礼を言おうとディナンの名前を呼ぶと、男はハッとした顔をしてリオンの元へ駆け寄ろうとした。

「リオン、大丈夫だっ、た……」

 ディナンは小さく目を見開くと、気遣わしげにリオンを見た。視線の意味を察したリオンが笑おうと無理やり口角を上げる。
 ギュッとディナンの眉間に皺が寄ったのを見て、リオンはくしゃりと顔を歪め視線を下に落とした。
 男がリオンに向かってくる時、ちょうどその足元にはベゴニアの花があった。美しく咲いていた花は男の巨体に押しつぶされ今や見る影もない。
 俯いたことでぐしゃりと潰れたその姿が直接目に飛び込んでくる。何度見ても変わらない現実にずるずるとその場にしゃがみこんだ。

「ううッ……」
「リオン」

 薬草はもちろん、潰れた花まで器用に避けてリオンの元までやって来たディナンが、汚れるのも構わず膝をついた。傍に感じる他人の気配にリオンの肩が微かに揺れる。

「リオン」

 ただでさえ薄い体をさらに小さくしてまるまるリオンの背中に、ディナンの手がまわされた。自分以外の暖かい体温にのろのろと顔を上げる。思ったより近くにディナンの顔があって少し驚いた。
 心配そうにリオンの顔を覗き込んでいたディナンは、顔を上げたリオンと目が合うと安心させるように微笑んだ。その間も男の手はゆっくりとリオンの背中を撫で続けている。
 鼻の奥がつんとして、リオンは咄嗟に目を逸らした。潰れた花を見ながら自分に言い聞かせるように早口に捲し立てる。

「しょ、しょうがないです。こうなったのは僕のせいだし、植物なんていつか枯れるものだし、きっと根は生きてるから花はまた咲くし、また育てればいいんだから、だからもうい」
「リオン、私を見て」
「え……?」
「しょうがないなんて言わなくていい。こうなったのもリオンのせいじゃない。大丈夫だから、諦めるようなことは言わないで」

 だってこれはリオンの大事なものなんでしょう? とディナン。リオンの顔がくしゃりと歪んだ。

「で、でももうグシャグシャになっちゃったし……ど、どうしよう」

 初めて人に吐露した弱音は、息を吞むほど美しい笑顔にすくわれた。

「大丈夫。私を誰だと思っているの?」
「……?」
「いい子だから、助けてって言って、リオン。私なら君を助けてあげられる」
「……ほんとに?」
「ほんとに。リオンに嘘はつかないよ」

 優しいその声がリオンの思考をゆっくりと侵食していく。

「リオンが助けてって言えばどんなときも、絶対、必ず助けてあげる」

 ずっと一人で生きてきたリオンにとって、その言葉はまるで悪魔の囁きのようだった。
 縋るように手を伸ばすと、背中に回っている手とは反対の手で掴まれる。握られた手を力いっぱい握り返しながら、リオンは叱られるのを恐れる子供のようなか細い声で言った。

「た、たすけて」
「仰せのままに」
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