君の容れもの

晴珂とく

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Ⅰ 君の容れもの 第1話

真琴の性転換症

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 朝七時、夏の日差しがレースカーテン越しに照りつける。照明は要らない。ローテーブルの上のシェフレラとパキラの葉は、艶めいて朝を歓ぶ。テレビから流れる軽快な芸能ニュースは、陽の光が反射し、画面がよく見えない。キャスターやコメンテーターの弾む声だけがなんとなく聞こえてくる。
 コーヒーと食パンの香ばしい香りが漂い、ベーコンを焼く匂いは食欲をそそる。
 真琴まことは、皿の上のミニトマトと目玉焼きの横に、ベーコンを乗せ、焼いた食パンも雑に乗せた。朝食プレートとコーヒーを両手に持ってダイニングテーブルに乗せる。廊下に続くリビングの扉が開く。誠司せいじが起きてきた。彼は瞼を半分下ろしたままの顔で、芸術的な寝癖を拵え、Tシャツの下の腹を掻いている。
「あ、起きたの。おはよう」
 誠司は小さな声で「はよ」と返し、テレビの正面にあるソファに深く腰を下ろす。
「何時に寝たの」
「んー……、三時か四時か……、忘れた」
「終わりそう?」
「もう終わるぅ」
 彼は背もたれに体を沈め、両腕を腕に伸ばして欠伸をした。
「マコは大丈夫なの。今日仕事なのに、夜中まで手伝わせてごめん」
「えー全然。明日休みだし。朝ごはんは?」
「まだいい。え……、え、てか、まじで」
 誠司は前屈みに膝に肘をつき、テレビのワードショーに食いついた。
「佐藤ミディナが男になったって……。うそ、やば……」
「あー、性転換症ね。都市伝説みたいに思ってたけど、実際になってる人がいるって衝撃だよね」
「普通に、普通に男だ。ふつうに……、男。俺、佐藤ミディナ好きだったのに……」
「えー、私も好きだったけど、男になってからのほうが、格好よくて断然いいんだけど」
 ジャムを塗った食パンを片手に立ち上がり、テレビに近づいた。彼女、もとい、彼の現在の姿を写したテレビ画面をよくよく見る。
「は……、なにそれ、ちょっとむかつく」
 誠司が鋭い視線を寄越す。ヤキモチだとすぐにわかった。
「いやいや、自分の発言は棚上げかい」
「マコ、後ろの髪、ハネてる」
「え、どこ」
 誠司と目を合わせ、ショートヘアの後頭部を、空いている片手で撫で付けた。
「まだ直ってない。こっち来て」
 手招きをする彼に、中腰のまま近づくと、顎を掴まれ、キスをされる。
「なあ、えっちしたい」
「いや私、仕事だってば」
「うん、言っただけ。早く朝ごはん食べて行きな」
「ねえ、寝癖直してよ」
「ん、大丈夫。360度キマってる」
 彼は、真琴の後頭部をひと撫でし、再びソファに背中を沈める。
「誠司さぁ、二度寝する前にデータ送りなよ」
 食パンをコーヒーで流し込み、皿を流しに置いた。
「言われなくても……」
「あと、お義姉さんの出産祝い渡すの、お盆のときでいいかなあ」
「いいと思う。俺、今月忙しいし」
 彼は頭を掻きながら、トイレへ立った。
 義姉の話題は、二人の空気を微かに変える。親戚達の「子供はまだか」という問いは、挨拶がわりのようなものだ。
 梅雨の天気は変わりやすく、先ほどまで照りつけていた太陽は、雲に隠れ、湿気を帯びた空気が肌にまとわりつく。

 翌日のワイドショーは、性転換症の発症を公表した女優と、性転換症という奇病の話題で持ちきりだった。生放送の番組では、専門家が呼ばれ、性転換症の解説を繰り広げている。

「さて、謎の多い性転換症、通称SCSなんですが、一夜にして性別が変わってしまうというのは、かなり恐ろしいと思ってしまうんですが……、先生、これはどういった病気なんでしょうか」
 番組の男性司会者が、専門家に質問を投げる。
「はい。性別が変わってしまうと言うと、恐ろしく感じる人も多いかもしれませんが、滅多に発症しないので、そこまで怯えなくて大丈夫です。世界的に見ても症例数は五千人ほどですね。発症すると、綺麗に性別が変わります。臓器や体の機能まで。メカニズムについてはまだ研究段階で、解明されていないことのほうが多いです。万が一、発症してしまったとしても、ワクチンでちゃんと元に戻ることができますので、そこは安心してください」
 先生と呼ばれる中年の男性が、淡々と答えた。
「女優の佐藤ミディナさんは、今朝SNSで、ワクチンで女性に戻ったことを発表しました。佐藤さんの性転換症が公表されたのは昨日ですが、六月五日には発症していたとのこと。これは、一ヶ月間も男性の状態でいたことになりますが、そんなに放置していて大丈夫なんでしょうか」
「これは、ワクチンの接種が、発症から一ヶ月経過してからと決められているからです。性別変わるほどの変化を起こすので、体にかなりの負担がかかります。発症から一ヶ月以内はワクチンを接種することができません。ただ、三ヶ月経つと、新たな性別の染色体が体に馴染んで、元の性別に戻ることができない場合や、障害が残るリスクがあります。ワクチンを接種する場合は、一ヶ月経ってからすぐの接種を推奨しています」
「ワクチンを接種するにも制限があるんですね。これってワクチンが打てるようになるまでの期間、普通に生活できるんですか。佐藤ミディナさんは、男性の姿のまま海外へ写真集の撮影へ行ったりなど、アクティブに過ごされていたようですけど」
「はい。性別が変わること以外は、どこか不調になったりとかはないので、普通に生活できます」
「ちなみにこのワクチンを打って戻った後、再発とかは大丈夫なんですか」
「一度ワクチン接種で抗体ができるので、再発したという症例は今のところ確認されていません」
「はあ、じゃあ一度戻ったらそれ以降はまた性別が変わるようなことはないと考えていいわけですね。なるほどぉ。真崎さん、これは――」
 男性司会者は、タレントにコメントを求める。

 アイスコーヒーの氷はほとんど溶けた。テレビを背にして、ダイニングの椅子に腰を下ろす。番組の中のやりとりに、なんとなく違和感を感じた。専門家の発言の中で気になるところは他にもあったが、そこには触れられなかった。
「もう女に戻ったのかぁ、ミディナ」
 誠司がソファに凭れて呟いた。
「男の姿で写真集の撮影もしてたとか、ノリノリだよな。そういうタイプなのは意外だった。俺だったらもっと深刻に考えちゃうかも」
「男になるって、どんな感じなんだろう」
 深い意味はなかった。彼を見ると、両膝に肘をつき、真っ直ぐにこちらを見ていた。
「興味あるの」
「興味っていうか、まあ、単純に」
「でも性別変わったらその一ヶ月間は、エロいことできないよな」
「別にすればいいじゃん」
「えっ、それって女同士で?」
「ああそっちね」
「え、そっちって……」
 なんとなくそれ以上は、話を広げてはいけない気がして、お互いの顔を逸らした。
「なあ、そういえば、京都の取材、前倒しで来週から一週間行くことになった」
「ああ、そうなの。そしたら誕生日と被っちゃう感じ?」
 空になったグラスを持って立ち上がり、壁掛けのカレンダーを見た。
「そうなんですよ。だから、俺の誕生日と記念日のお祝い、前倒しにして」
「はい了解」
「もう結婚して三年経つよ」
「早いね」
「これからもよろしく頼みますよ、真琴さん」
 誠司が背中から腕を巻き付け、抱きついてくる。
「そういうの、誕生日当日か、お祝いの日に言うものじゃない?」
「いいじゃん別に。いつでも言いたいよ。俺はマコがいないと生きていけないんだから、ちゃんとわかっといてってこと」
 誠司はこめかみに頬擦りをしてくる。顔だけ振り返り、彼の頬を柔らかく抓った。
「甘えん坊だなあ、誠司は。いつまで経っても」
「マコにしか甘えねぇよ」
 彼は口を尖らせて、つっけんどんに言う。
 甘えん坊だと揶揄したが、そういう誠司の性格に助けられている。
 休日の昼下がり、時の流れが遅くなる時間。人生の中であと何回、この感覚――胸の内が重くなるような、微かに締め付けられるような感じ――を繰り返すのだろう。繰り返す毎日が、行き先の見えない航海をしているような、落ち着きのなさ。
 だから、彼の真っ直ぐさが、コンパスになる。
 窓の外は、夕飯の買い物も躊躇われるくらいに日差しが強く照り付けていた。

 仕事から帰宅し、夕飯の準備をする。ウインナーソーセージと、卵を焼いて、冷凍の雑穀ご飯を解凍し、バナナとプチトマトを添える。一人の夕食は普段に輪をかけて手抜きだ。
 キッチンカウンターに置いたスマホが振動した。画面に映された誠司の名前を見て、通話ボタンをスライドする。
「もしもし。お疲れぇ」
『お疲れ。マコ、もう家着いた?』
「うん、今からご飯食べる」
『俺もホテル着いたところで、今から食べる。通話繋いだまま一緒に食べよ』
「あ、買ってきたの? 編集さんとご飯とか行かないんだ」
『打ち合わせは移動中にしたし。つかマコは、俺が女の人と二人でご飯とか行ってもいいわけ』
「マコちゃん大好き誠司くんのことは心配してないよ」
『少しは心配しろよ。納得いかねぇわぁ』
「あはは」
『夕飯何?』
 電話口から、ビニール袋の音が聞こえる。
「卵と、ウインナーと、トマトとバナナ」
『朝ご飯みたいだな』
「ああまあね。明日だよね、帰ってくるの」
『うんそう』
「気をつけてね」
『ありがと。マコは明日休みだよね』
 誠司の問いに、うんと答えると同時に、彼はええ、と大きな声を出した。
『は……、えっ、嘘……』
「何」
『マコ…、テレビつけてる?』
「つけてない」
 テレビのリモコンを手に取って、電源を入れた。
『佐藤ミディナが……、死んだって』
 画面の向こうのキャスターから、深刻なトーンで国民的女優の訃報が伝えられた。
 彼女の出たドラマや映画は、必ずヒットする。主演のドラマは続編が組まれ、映画化され、主演映画は、何週間も興行成績一位を独走する。
 前途有望な若き女優の突然死は、メディアを独占した。

 照明を消して、ベッドに潜り込む。何も見えない闇は、やたら静かで、目は冴え、呼吸が僅かに早くなる。
 昨日と同じはずの、一人のベッドで、なぜか涙が滲んだ。別に、佐藤ミディナの、熱いファンだったわけではない。ただ好感を持っていただけだ。
 なのに、なぜか喉がつかえて、心臓が信じられないくらいに痛い。動悸は徐々に激しくなり、汗が吹き出してくる。
「……は……、気持ち悪い……」
 ベッドを抜け出し、トイレへ向かった。
「うっ……、おぇ……」
 胃の中のものが逆流する感覚が、息ができないくらいに苦しい。一度吐いて、治まった吐き気は、すぐにぶり返す。全身に熱がこもって汗が止まらないのに、肌は粟立ち、指先は痙攣していた。
 やっと嘔気が落ち着いた頃に見上げたトイレの小窓は、明るくなっていた。ベッドに戻る体力も気力もなく、トイレの扉を開けたまま横になる。遠のく意識の中で、誠司の顔が浮かんだ。

 瞼を開けると、無機質な白い天井に、灯りの付いていないダウンライトが目に入る。どこかのベッドに寝かされていることは、すぐに把握した。
 人の気配を感じ、首を傾けると、ベッド脇に、眉毛の下がった誠司の姿があった。瞳は濡れていて、すぐにでも泣き出しそうな、昔よく見た顔をしている。
「マコ……、マコだよな……?」
「へ……、なに……」
 聞き返した声が驚くほど掠れて低く、咳払いをした。
「な、ナースコール……」
 彼が震える手で枕元から出ている管の先のボタンを押す。起き上がると、いつもより座高が高い気がした。点滴の繋がれた腕を見ると、明らかに自分の腕ではない太さだった。鼓動が早くなる。
 部屋の扉がノックされ、引き戸がゆっくり開けられた。
「気分はどうですか?」
 白衣の男性が、穏やかに尋ねた。
「気分……、は……、んっんん」
 喉に手を当てて、咳払いをした。指先に不自然な突起物が触れる。
「あなたは、野和川真琴さんで間違いないですか?」
 白衣の男性が尋ねる。誠司の顔を見た。彼も真剣な眼差しで真琴の答えを待っている。「はい」と掠れた声で小さく答えた。
「落ち着いて聞いてほしいのですが、あなたは性転換症を発症し、現在、体が男性になっています」
 大きめの手鏡を伏せて渡され、受け取った。裏返して顔を映す。そこには、紛れもなく男だとわかる姿が映し出された。


 白衣の男性から、薄い小冊子が一部、手渡された。その医師は、性転換症候群の専門医だという。歳は五十代くらいだろうか。眼鏡をかけた顔は穏やかで、親しみやすい印象だ。
「最近、テレビやネットニュースでも取り上げられていたから、性転換症については、なんとなくわかるかな」
 彼の問いに頷きながら、渡された小冊子をめくった。横から誠司も冊子を覗き込む。
「じゃあ、知ってるかもしれないけど、ワクチンで、元の性別に戻ることができます。ただ、体にかなりの負担がかかるので、接種できるのは発症から一ヶ月後以降です。あー、なので……、八月十六日から。ちょうどお盆だから、休み明けだね」
 彼は病室の壁掛けカレンダーを見て確認した。
「えーそれで、パンフレットの五ページにも書いてますが、三ヶ月過ぎると、元の性別に戻れなくなる可能性があるので、ワクチンを接種する場合は、必ず三ヶ月以内の接種です。ワクチンを打ったら抗体ができるので、その後は性転換症になることはほとんどないです。少なくとも今までの症例では再発といったことは一度もないですね。で、ワクチンを打った後は一日、二日程度、高熱が出たりするので、お仕事をお休みするようにしてください」
 彼は、隣に立っていた看護師の女性を見て目を合わせると、彼女が一歩前へ出る。
「そうしたら、旦那さん。手続きとご家族フォローの説明があるので、一緒に来ていただけますか。奥様はまだ先生からの説明があるので」
 女性に促され、誠司は「はい」と小さく言って立ち上がり、彼女と病室を出ていった。
 扉が閉まるのを確認した医師は、こちらへ向き直り、紙を差し出してきた。そこには「性転換症秘密保持契約書」と書かれている。
「ここからお話しする内容は、重要機密事項になります」
 彼は穏やかな表情をしていたが、視線が鋭く、全身の筋肉が強張った。
「実は、性転換症には、一般に公開されていない情報がかなりあります。というのも、患者のプライバシーに関わる部分が大きいんですよね。なので、ここから先の情報は、ご家族には伏せて、ご本人のみ伝えています。他の患者のプライバシーにも関わるので、こうした契約書を結ぶ形を取らせてもらっています」
「え……、違約金とかあるんですね」
 渡された紙に書かれた、穏やかでない字面に思わず尋ねた。発した声は低く、自分のものとは思えなかった。
「あります。ただそれだけではなく、悪質な契約違反が見受けられる場合……、例えばですけど、お酒の席などで酔った勢いで人に話してしまうとか、そういった場合があれば、損害賠償の請求や、告訴も辞さない、ということになります」
「それって……、佐藤ミディナが死んだことと関係ありますか」
「彼女は自殺だと言われていますね。この契約については、SCS協会で定められているので、彼女もこの契約を結んだとは思いますが、おそらく契約違反そのものは、自殺とは関係ないかと思います。これからお伝えする内容が、たぶん原因かなと……。そのくらいデリケートな…内容です。納得していただけるようであれば、サインを、ここに」
 彼にボールペンを渡され、受け取ってサインをする。
「この内容は、旦那さんやご家族にも口外しないようにしてください」
 二人の間に緊張の糸が張られていく。真琴は咳払いをして、手を組んだ。
「性転換症候群と言われているんですが、実はウイルス感染です。ただ、条件を満たさないと発症しないので、ウイルス感染によるものだとは公表されていません。その条件というのが、ご本人のプライバシーに関わることだからです」
 医師は衝撃の事実を淡々と口にした。ウイルス感染が公表されていない時点で、大問題ではないのか。彼は続ける。
「発症する条件というのが、LGBTQなどのセクシャルマイノリティに属していることです。LGBTQというのはわかりますかね」
「あ、はい。大体は……」
「前提として、体の性別は、性染色体の組み合わせで決まります。X染色体やY染色体というのは、聞いたことありますか」
「はい」
「専門的な話は省きますが、先天的にLGBTQのどれかに属する人は、この性染色体にイレギュラーな配列が含まれていることがあります。それが、性転換ウイルスが感染した際の発症の条件になっているんじゃないか、というのが現段階での見解です」
「え……、イレギュラーって……」
「あ、誤解しないで欲しいのですが、イレギュラーな配列というのは、病気や異常とか、そういうことではなく、個性のひとつだと定義されています。あー、例えば、背が高いとか、小柄とか、そういう身体的特徴の延長みたいな感じです。アジア人と欧州の人とでは、肌や髪の色、目の色も違いますよね。そういう個性のひとつです」
「あの……、わ、私にそういうのがあったってことですか」
「今までの症例による研究では、その可能性が高いです。それで、LGBTQの話に戻るのですが、LGBTQといっても、いろんな形があります。まずLGB、同性愛やバイセクシュアルに関しては、先天的にそうである人と、周りの環境やパートナーの影響で、後天的にそうなる人がいると考えられています。発症の可能性があるのは、先天的にそうである人ですね。ただ、後天的にそういった指向になったと思っている人でも、本人が気づいていないだけで、先天的にそうであったという可能性もあります。ここまでは大丈夫そうですか」
「はい……」
「あとはトランスジェンダーとクイアですね。この二つの違いはわかりますか」
「なんとなく……」
「トランスジェンダーは、体の性別と性自認が一致しない人ですね。クイアは、クエスチョニングとも言います。いろんな形があるのですが、端的にいうと、性的指向や性自認を特定のカテゴリに当てはめない人です。この二つに関しては、後天的にそうなる、というのは基本的にはないのですが、先ほどと同じように、大人になるまで気付かなかったという人は多いんです。例えば、恋愛経験や性的な経験がなかったり、というのもそうですし、今までのパートナーや恋愛対象がたまたま異性で気付かなかったなど……」
 彼は手元のバインダーの資料を見ながら説明し、顔を上げた。
「不躾なことをお聞きするんですが、今の話を踏まえて、今の段階でご自身がLGBTQのどれかに当てはまるんじゃないかという、自覚や心当たりはありますか?」
 彼から目を逸らし「……わ、かんない……、です」と小さく答えた。
「はい、わかりました。わからなくても大丈夫です。では、ここからがさらに重要な話になります。まずは、元々、LGBTQだと自覚があった人。その中でも、トランスジェンダーの自覚があった人は、ワクチンを投与せず、新しい性で生きることを選んでいます。協会では、性転換ウイルスを発症したかたの、その後も定期的に調査を入れているんですが、このパターンの場合は、ほとんどすべてのかたが、幸せな人生を送られています」
「……はい」
「ただ、元々、トランスジェンダーの自覚がない人、これは他のセクシャルマイノリティの自覚があった人もなかった人も含みます。そういった人のワクチン接種率は半数ほどです。約半数のかたがワクチンを接種せずに新しい性を選びます」
「え、トランスジェンダーじゃないのに、戻らない人がいるってことですか」
「元々の自覚がなかっただけで、新しい性別になってから、トランスジェンダーだったかもしれないと気づく人も多いということです。あとは、トランスジェンダーではないけど、クイアかもしれないという認識はあって、体の性はこっちがしっくりくる、ということで新しい性を選ぶ人もいます。それで……、ここが本当に重要な話なんですが……」
 医師の声のトーンが僅かにシリアスになった。手のひらに汗が滲み、肌の表面がひりつく。
「その中の、約半数のかたがその後、発症から一年以内に自殺しています」
 自殺、という言葉に小さく心臓が跳ねた。佐藤ミディナのニュースが頭の中で反響する。動悸が激しくなり、暑くもないのに汗が額を流れた。
「ちなみにこれは、ワクチンを投与するという選択においても、同じくらいの割合なんです。ワクチンを投与して、元の性別に戻った人の約半数が、元の性別に戻った後、一年以内に自殺しています」
 彼は、一度咳払いをして続けた。
「遺書が残されていない場合も多くて、推測の範囲もあるのですが、トランスジェンダーの自覚がないまま元の体の性別に戻ってしまった可能性、あるいは、クイアの認識はあるけど、どっちの体が自分に合っていたのか決めきれなかった可能性もあるのではないか、と考えられています。もちろん、それだけではなく、複合的にいろんな理由が絡み合って、ということもあるかもしれませんが……。ただ、自殺したほとんどの人が、例えば借金があったり、職場や家族との人間関係、仕事環境に悩んでいたりとか、そういった、他に自殺に繋がりそうな、思い当たる節が周囲の人たちから見て、特に無かったという状況です」
 医師は、バインダーを膝の上に伏せ、上体を前屈みにして手を組んだ。真琴の目をまっすぐに見る眼差しに威圧感すら感じる。
「……つまり、何が言いたいかというと、ご自身の内面のセクシャリティと、体の性別を一致させた選択、あるいは、一番しっくりくる形にできる選択が、何より大事ということです。今までご自身で自覚されていない、セクシャリティの不一致があった可能性があります。ワクチンが打てるのは、一ヶ月後からになりますが、ご自身のセクシャリティと、真摯に向き合う時間にしてください」
 鋭い眼差しの医師に気圧され、鼓動の速さが、耳まで届いた。手のひらの汗をシーツで拭った。
 病室に漂う、薬品のような匂い。見慣れない、逞しい腕。白くて固めのシーツの布団がかけられた脚を立てると、前より体が大きいことが、否が応でもわかった。脚の間には何かがもたつく感じ。
 外は風があり、シマトネリコの葉が緩やかに揺れていた。
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