君の容れもの

晴珂とく

文字の大きさ
6 / 11
Ⅵ 君の容れもの 第6話

誠司の葛藤

しおりを挟む
 春の大きな風が吹く昼下がり。マンション群の中の、遊具のない公園で、同級生たちはランドセルを寄せ合って下ろし、ボールを蹴り合っていた。彼らの活発な声を聞きながら、誠司は生垣に身を寄せて、その様子を見ていた。
 あの賑わいの中に身を寄せることを想像しては、チームスポーツは好きじゃないと打ち消していく。体育の授業で、誠司をお荷物扱いしてくる彼等の視線。頭の中がぼやけて霞んでいく。
 ボールが足元に転がってきた。同級生の一人がそれを追いかけてそばまで来た。
「うわっ。お前、そんなとこで何やってんの」
 クラスの中でも目立つ男子の、咎めるような口調に、頬が熱くなる。
「お前、サッカー下手なんだから来んなよな」
 同級生の男子は、吐き捨てるように言って輪の中に戻っていった。
 胸の中に、雷雨を含んだ雲が立ち込める。立ち上がって、ランドセルを背負い、その場を離れた。彼らの姿が見えなくなったあたりで、コンクリートブロック舗装の濃い色の上だけをたどって歩く。舗装された道脇の、花壇を囲むレンガに腰を下ろした。ランドセルからノートと筆箱を取り出し、通り過ぎていく人を描き起こしてみる。
「わあ、すごい」
 ノートに影が落ちたと思ったら、そばに人が立っていた。他のクラスの女子だとすぐに気づいた。男子に混じってサッカーをする、目立つ女子だった。くっきりとした二重瞼の、色素が薄い瞳と、僅かに癖のあるショートカットの髪型が、外国人とのミックスのような雰囲気の女子だ。
「ねえ、これキミが描いたの」
 彼女は隣に腰を下ろして、ノートを覗き込むように身を寄せてきた。瞬間的に体が強張り、彼女から体を離すように身をよじる。
「あ、ごめん。見ていい? 見せて」
 誠司のやんわりとした拒絶を、全く意に介さない彼女は、腕を掴んできた。仕方なく少し体を離して座り直してから、彼女に見えるようノートを傾けた。
「わあ、うまいね。他にもある? 見たい」
 見せてもいいページを探すために、ノートを立ててめくった。しかし、彼女はお構いなしに、身を乗り出して覗き込み、これ、と見たいページを指定してくる。それは、少女漫画のイラストを模写したものだった。
「だめ」
 慌ててノートを閉じた。
「えー、それ私も知ってるよ。『ギムレットボーイ』でしょ。全部読んでるよ」
 漫画のタイトルまで言われ、顔が急速に熱をもつ。耳まで熱い。
「男のくせに少女漫画の絵、描くなって言いたいんだろ」
 だいたいいつも後ろに続く会話を先回りして自分を守った。彼女は「そうなの?」と、目を見開いている。想定外の反応に、
「え……、だって男なのに、少女漫画読んでたら、変だろう」
 と、自分が言われたくないことを誘導してしまった。
「読んじゃいけないの」
「いけないわけじゃないけど、変っていうか、普通、気持ち悪いというか……」
「えっ、なんで」
「え……」
 会話がぼんやりと噛み合わず、面倒になってきた。見た目も純日本人ではなさそうだし、ちゃんと日本語が通じていないのかもしれない。
「少女漫画の少女って、女の子っていう意味なんだよ」
「そんなの知ってるけど? バカにしてる?」
 彼女の語気が強くなった。咄嗟に視線を外す。
「いや……、外国の子だから、わかんないのかと思って」
「私? 日本人なんですけど」
「あ、そうなの。ミックスでもなく?」
「うん。ていうか普通に、女子も少年漫画読むし」
「あー、それはわかるよ。でも男子が少女漫画読むのは、違うっていうか」
「えー、なんで」
 先ほどのループに巻き戻された。どう言えば通じるのか全くわからない。黙っていると、彼女が「さっきの見せて」と、言ってきた。もういいか、とノートごと渡すと、彼女は花が咲いたように笑顔になって「ありがとう」と言った。
「わあ、すっごい、うまい。すごいね。すご……」
 彼女は声を弾ませてノートのページをめくっていく。
「あ、『ギムレットボーイ』。めちゃくちゃうまい。すごいね」
「そこまで上手くないよ」
「えっ、めちゃくちゃうまいよ。漫画家になれるよ」
 漫画家という言葉に小さく心臓が跳ねた。平静を装い、「はは……。むりむり」と否定する。
「むりじゃないよ。今、こんなにうまかったら、大人になるまでにもっとうまくなるでしょ。たくさん描いて練習すればなれるんじゃない」
「もっとうまい人はたくさんいるし……。それに漫画家は、絵だけじゃなくて話も考えないといけないだろ。面白い話を考えるって、大変だよ。や、てかそもそも漫画家になりたいわけじゃないんだけど……」
「じゃあ、イラストレーターとか?」
「へ?」
「漫画家じゃないなら、イラストレーターがいいの?」
「や……、そもそもそういう、絵を仕事にするとか、難しいし……」
「えー、でもこんなに好きなのに」
「好きって何が」
「こんなにうまくなるくらい、たくさん描いたってことでしょ。ほら、このノートもあと少しだし」
 胸の真ん中に、無遠慮に手を入れられて、中の神聖不可侵のところを引っ張り出された気分だった。彼女から顔を背けて前髪を触る。胸が詰まって何も言えない。
「私、ゆうより凛太りんたが好きだから、凛太も描いて」
 突然『ギムレットボーイ』の登場人物の名を出され、胸の内に押し寄せた津波が、緩やかに勢いを失っていく。
「ああ、当て馬のほうが好きなの。不毛だなあ」
「当て馬って何」
「主人公とくっつかないほうの、物語を盛り上げるために登場するキャラ」
「なんかその言い方ひどい」
「ははっ。ひどいも何も……」
 おかしくて肩を揺らして笑った。
「ねえ、凛太描いてよ」
「ああわかった」
 強めの風が吹いて、ノートがぱらぱらと捲れた。彼女は素早くそれを閉じた。花壇のカラフルなパンジーが花びらを揺らす。「はい、ありがと」と戻されたノートを受け取ると、体の細胞が入れ替わるような、視界の色が変わったような感覚が駆け抜けた。
 真琴との出会いは、春の風のような凛々しさがあった。

「普通に面白い。すごい」
 漫画原稿用紙に描かれた漫画を読み終えた真琴は、再び最初のページに戻り、ゆっくりとめくりながら余韻に浸っていた。相変わらずのショートヘアは、高校生になってからワックスで動きをつけて、彼女のアンニュイな顔立ちを引き立てている。化粧をしていなくても、垢抜けていて大人っぽい。制服のチェック柄のスラックスを着こなし、男子人気だけでなく、女子にもファンが多い。
「これ、どこかに応募するの」
 顔を上げた彼女の声は弾んでいた。
「絶対、どこか出したほうがいいよ。誠司は漫画家になったほうがいい」
 漫画の原稿用紙を、はいと返される。何も言わずに受け取って、それを眺めた。
「やっぱ落ち込んでる? 私でよければ話聞くけど」
 真琴が首を傾げて顔を覗き込んでくる。落ち込むようなことは身に覚えがなく、「へ、何が」と、調子のはずれた声が出た。
「人によるとは思うけど、周りの友達は、彼氏と別れたら大体は気落ちしてて、話聞いて欲しいって流れになるから。でも、言いたくないならいいし。それか、土日とかどっか出かける?」
「……落ち込んでない。そうなりそうだなって思ってたし。これ、描き始めてから碌に会ってなくて、連絡も返してなかったんだよね」
 返された漫画原稿を、顔の横に掲げた。そっか、と彼女はほとんど息だけで小さく呟いた。
「じゃあ尚更だね」
「何が」
「彼女のこと犠牲にするほど夢中で描いたんだから、どこかに送ったほうがいい」
「……犠牲って言うと、悪いことしてるみたいじゃん」
 彼女は口の中で、あ、と小さく言って、
「ごめん。そうじゃなくて」
 と、訂正した。
「そのくらい頑張ったんだから、ってこと。描いて満足するだけじゃもったいないから」
「描いて満足するだけじゃねぇし」
 自然と語気が強くなった。その後に続く言葉を一瞬ためらうも、もう勢いで言ってしまおうと思った。
「マコに見せるために描いたんだよ」
「私に見せるだけじゃもったいないって」
 行間に込めたメッセージは、清々しいほどに空を切った。出した勇気が、恥と後悔の色を纏いながら霧散していく。学習机の回転チェアに、倒れるようにして腰を下ろした。
「……例えば、出版社に送ったとして、読まれたのかどうかもわからないまま終わるんじゃないかな」
 恥は通り過ぎると攻撃的な感情を帯びてくる。それが表出しないように、つとめてゆっくり、諭すように話した。
「どうしてそう思うの」
「このくらいの実力の人は、他にいくらでもいる。と思うから」
「ここまで描き上げる情熱はあるのに、すごいネガティブ」
 ナイフのような彼女の言葉に、深呼吸をして、そうだね、と答えた。
「でも、万が一、っていうか百にひとつ、いや、万にひとつ、ていうか、まあ奇跡的に? スーパーミラクルな可能性で、いい方向に転んだとしてもだよ。漫画家になるとか俺には無理なんだよ」
「なんで」
「医者家系だし……」
「だし?」
「だから、俺も医者になる前提なの。医者家系ってそういうもんなの」
「お医者さんになりたいの?」
「俺がなりたいとかどうとかじゃないんだよ」
「え?」
 彼女は眉を顰めた。頭頂部に幾つものクエスチョンマークが浮かんでいるのが見える。
「だからこれは趣味でやれたらいいんだ」
 真琴の問いには、答えるほどにこちらが抉られることを知っている。強引にでも話を切り上げたかった。
 だが真琴には通用しない。
「あのさ、家柄のことは私にはわからないし、難しい問題かもしれないけど、そういうの、全部とりあえず横に置いといてさ、誠司はどうしたいっていう本意はどこにあるの。気持ちを置き去りにしてさ、家柄が、とかなんとか、そういうのって問題を複雑にしてるだけだよね。もっと単純に考えたほうがいいと思うんだけど」
 ――やっぱり……。
 真琴に少しでも腹を見せたら無傷ではいられない。自業自得だ。
「例えば、私みたいな庶民の家だったとして、想像してみたとしたら……」
 続けられたタラレバに、逃げ道を塞がれていく。降参の意味で肩をすくめた。
「そうだよ。そりゃ、うまくいくかは置いといて、こっちの道を選んでもいいっていう……、挑戦してもいい自由があるならやってみたい気持ちはあるよ」
 半ば投げやりに言い切ると、彼女は目を見開いて、肺に思い切り空気を入れた。
「なら、やったほうがいいよ!」
「だから無理なんだって。もう終わり。さっきの話、ループするから」
「それって絶対? どうしても? おじさんとおばさんは、誠司のやりたいことを話も聞かず跳ね除けて、頭ごなしに反対する人かな」
「いやそりゃあさ、その『やりたいこと』がもうちょっと現実味のある仕事だったら、相談する余地もあると思うけど、漫画家なんて絶対、相手にもされないと思う」
「そういうのは、ただ相談するんじゃなくて、交渉するんだよ。例えば、高校卒業……は、さすがに厳しいか。大学卒業までにデビューしたら認めてほしいとか」
「医学系の大学進んだ時点で、漫画描く時間なんて皆無になると思う」
「そしたら、漫画描く時間が取れそうな大学とか、学部にしなよ」
「だからそれが無理だって。医学部以外に行くならそこで真っ当な理由が必要だし」
「だから、それが卒業までにデビューするっていう……」
「だから、それが真っ当な理由に入らないんだって! 通じねぇな、もう!」
 声を荒げてからハッとした。瞼を固く閉じた彼女は、弾かれたように両肩を上げた。胸に鈍い痛みが広がる。「ごめん、怒鳴って……」と、彼女に手を伸ばした矢先、鋭く睨まれた。
「自分のさあ、やりたいことを諦めんのを、環境のせいにすんなよ!」
「……え?」
 初めて聞く彼女の怒声に、何が起こったのか把握するまで数秒を要した。
「こんなにさあ、好きなことがあって、センスもあって、それでやる前から諦めるって、どんだけ腰抜けなんだよ! 情けねぇな!」
「あの……、真琴さん?」
 見たことのない彼女の迫力に、思わず付けで呼ぶ。次の瞬間、彼女は両手で勢いよく、誠司の両頬を挟んだ。というか叩いた。ばちんと潔い音がして、耳の奥まで衝撃が走る。
「いった……」
「やれよ、漫画! 自分のことが信じられないなら、私を信じろ! おじさんとおばさんのことは、私が説得してやるよ! 誠司きゅんはパパとママがこわぁい腰抜けだもんね」
 急に挑発的な口調になった彼女に、さすがに癇に障り、彼女の手を払い除けた。
「自分の親くらい、自分で説得する」
「できんの? 自分で言えるの? 漫画やりたいって? 無理でしょ。絶対無理。無理、無理、無理、無理。さっきまで日和ってた誠司きゅんには、ハードル高いよねぇ」
「いい加減にしろよ! できるよ、舐めんじゃねぇ」
 彼女は目を細めて笑い、「言質取った」と満足げに言った。
 瞬間、少女漫画のキラキラトーンを撒き散らす矢が、誠司の心臓を突き破る。暴力的なまでの降参だった。彼女の後頭部を引き寄せて、ひたいにキスをした。わざと音を立てて唇を離すと、彼女の頬はみるみる朱に染まっていく。耳も額も、絵の具をこぼしたみたいに赤が広がる。伝染するようにこちらまで顔が熱くなった。
「な……、な……、キ……」
 さっきまでの威勢はどこへやら、言葉にならない声で抗議する真琴が、ひたすらにかわいい。「感謝の気持ちと、親愛の証」と、キスの理由を説明した。
「そん……っ、チャラい!」
「だから、チャラい意味合いじゃなくて、感謝と親愛だって言ってるだろ。顔真っ赤だぞ、すけべ」
「す……っ、そっちだって赤いじゃん!」
「こういうのは欠伸と一緒で、移るんだよ。マコが先に赤くなったのが悪い」
 彼女は拳を握り込み、無言のまま何度も叩いてきた。もはや首まで赤くして、拳で講義する姿がいとけなく、ふっと笑いがこぼれた。一瞬止まった拳は、さらに力強さを増して、背中を叩いた。

「どうしたの、それ」
 朝の挨拶よりも先に、真琴は低い声で尋ねた。赤く腫れた誠司の頬を見て、目を丸くしている。付き合っていた彼女――C組の伊藤さん――と別れてから、再び真琴と登下校を共にするようになった。
「漫画の件、さっき相談したら、親父に殴られた」
「……ちゃんと全部言った? 奨学金で行くとか」
「言ったよ」
「じゃあなんで……。非の打ち所のない条件のはずなのに」
「そういう親なんだよ、結局」
「諦めんの?」
「まさか。こんなの想定内」
 強がりを言ったが、本当は気が遠くなるほど頭の中は掻き乱されていた。学校までほとんど言葉を交わさなかった。
 放課後、家に来るという真琴を、慌てて制した。
「今日休診日だから親二人とも家にいるんだって」
「だからだよ。おじさんとおばさんに会いに行くんだから。誠司は外で待ってていいよ」
「は、え、何を言う気? まじでやめて」
「ちょっとこれ食べてみて」
 突然、口の中に菓子のようなものを放り込まれた。噛んでみると、さくさくとした食感のクッキーだとわかる。彼女は手にセロファンの袋に入ったクッキーを持っていた。見た目から判断すると、手作りのようだ。
「美味しい?」
「うん、まあ。え、何なの。作ったの?」
「舌の肥えた誠司からして、どのくらい美味しい?」
「別に肥えてないけど……、すげぇうまいよ」
「だよね。調理部の部長にもらったから」
「は、マコが作ったんじゃないのかよ。てか、調理部……、男じゃなかった? なあ、マコ!」
 ポケットの中のスマホが振動した。画面を見ると、真琴からの着信だった。
「それ通話繋いで。心配だろうから聞いてていいよ」
 彼女はそう言って、さっさとインターホンを押してしまった。咄嗟にガレージ横に身を潜める。インターホンから、はい、と女性の声が聞こえた。おそらく定期で契約している家事代行の女性と思われた。
「こんにちは。秋道真琴です」
 真琴は感じよく、ハキハキとした口調で名乗った。少し間があって、玄関ドアから母が顔を出し、真琴は迎え入れられた。真琴と通話がつながっているスマホを耳に当てる。
『ごめんね、マコちゃん。誠司まだ帰ってないのよ。中で待ってて』
『あ、いいんです。今日おじさんもいますか』
『いるわよお』
『おお、真琴。久しぶりだなあ』
『こんにちは。二人とも、手作りって食べれますか。これ、今日の調理実習で作ったんですけど、めちゃくちゃ美味しくできたので、もしよかったら』
 真琴は普段、鈍くて話が噛み合わないことも少なくないが、教師や親世代など、目上の人間と話すときは、随分としっかりして見える。
『あ、手作り無理だったら持って帰るので』
『えー、ありがとう。いただくわ。そしたら、お紅茶淹れるから、一緒にいただきましょう。コーヒーかジュースもあるけど、何がいい?』
『紅茶で』
 遠くで食器の音が聞こえ始めた。父が『しばらくぶりだなあ』と、真琴に話を振った。
『確かに。誠司に彼女がいる間は、来れなかったから』
『えっ、あいつ彼女いたのか』
『やば。これ言っちゃいけないやつだったか』
 通話の向こうの情報漏洩に、小さく舌打ちした。
『母さん、知ってたかー』
 奥に向かって声を張る父に、遠くから『何がぁ』という母の声が聞こえる。『何が知ってるかって?』母の声が近くなり、戻ってきたことがわかった。食器の音が微かに聞こえる。
『誠司のやつ、彼女がいたらしい』
『えー、知らなかった』
『もう別れたのか』
『はいまあ……』
『そうなの』
『同じ学校の子か? どれくらい付き合ってたんだ』
『いやあ、詳しいことは私の口からは……』
『そうよ、お父さん。マコちゃんを困らせないでちょうだい』
『ああ悪い』
 それから三人は、真琴の持ってきたクッキーを、美味しい、美味しいと言って食べながら、真琴の近況や、癖の強い病院スタッフの話などが和やかに繰り広げられた。
「一体何の時間だよ……」
 やきもきしてきた頃、真琴の進路の話になった。
『真琴は体育大学か』
『昔から、運動得意だったものね。推薦で行くの』
『推薦で行けるよう頑張ってはいます』
『しっかりしてるなぁ。比べてあいつは、どうしたものか……』
『お父さん』
『心理学部ですよね。聞きました。でも今朝ダメって言われたって。それはどうしてですか』
 急に核心に切り込んだ。策あってなのか、考えなしなのか、判断がつかない。少しずつ脈が速くなる。
『ああ、その心理学っていうのは保険なんだとよ。他にやりたいことがあって、それを大学卒業までに形にするから、それがダメだったときの』
『はい。漫画ですよね』
『……真琴、全部知ってるのか』
 父の声音が変わった。雲行きが怪しくなる。そんな空気の変化も構わず、真琴は『知ってます。だって私も一緒に考えたので』と答えた。
「ばか、あいつ……」
 立ち上がって門を開けた。スマホは耳にあてたまま。
『なるほど。あいつは俺に反対されて、女の子に泣きついたってわけか』
『それは違います。私が勝手に来ました。だって、おじさん、筋通らないじゃないですか』
『何』
『どうしてダメなんですか。やりたいことがあって、誠司はセンスだってありますよ』
 母が『マコちゃん』と嗜める。
『確かに、漫画家になるなんて、事情を知らない人からしたら、芸人になるとか、アイドルになるとかと同じくらい無謀で痛いと思われるかもしれない。それに、実際のところ才能があったって難しい道なのもわかります。でも、何もやってみる前から夢を奪うのは、親でもやっちゃいけないことです。子供の人生は、親のものじゃない。誠司は誠司のやりたいことに挑戦する権利があります』
 駆け足でリビングに入ると、父が手のひらをこちらに向けて、まだ入ってくるなと目で合図してきた。真琴は背を向けていて、誠司が来たことに気づいていない。
「言いたいことはそれだけか」
 父は真琴に、低い声で尋ねる。
「はい」
「真琴の言いたいことはわかった。そういう考え方も一理ある。だけど、これは我が家の問題でもあるわけだ。俺たちには俺たちの考えがある。例えば、漫画家や芸人は失敗するリスクも高いだろう。そういうリスクが高い選択肢は、できれば避けて通って欲しいっていう親心もある。わかるか」
「はい」
「だったら、人の家の事情にそこまで干渉するのは、失礼だと思わないか」
「思います」
「……わかってるなら、どうして」
「この先、将来、誠司が結婚したら、私との縁は薄くなって、もしかしたら会うことも無くなるかもしれない。異性の友達ってそういうことだって、誠司が言ってました。どんなに仲がいい友達でも、恋人や結婚相手のほうが大事だから……。だから、私は誠司と友達でいられる今のうちに、できることをしたくて。誠司と縁が切れても、私が誠司にあげたものが、この先の人生で生きていくなら、私と誠司が友達だった証になるじゃないですか」
 父は、ソファの背もたれに深く沈んだ。こちらを見てにやりと口角を上げる。父の視線を追って、真琴が振り向いた
「熱い友情だな、誠司」
「入ってきたの」
「やっぱり泣きついたんじゃないか。真琴に」
「違う。止めたけどマコが勝手に……」
「まあなあ。誰かの入れ知恵かとは思ったが、真琴だったか」
 父は首の後ろをさすりながら、ため息混じりに唸った。
「今朝はカッとなったが、あれから俺と母さんも話し合ったんだよ」
「そうよ。あれが誰かのアドバイスだとしたら、誰かに相談するくらいには真剣に考えたんでしょうって」
 父は紅茶のティーカップを手に取り、「まあ好きにしなさい」と小さく言った。
「真琴の言う通り、お前の人生なんだから、自分の責任で好きにしろ。ただ、リミットは大学卒業までだ」
 父の言葉を受けて、真琴と目を合わせた。彼女が立ち上がり、手のひらを掲げたので、ハイタッチに応じた。
「マコ、ありがとう」
 真琴は「よかったね」と笑った。
「真琴が嫁に来てくれればいいんだけどなあ」
 と、父が呟き、「お父さん、野暮ですよ」と母が嗜める。デリカシーに欠ける父へ、心の中で舌打ちをして、真琴を見ると、彼女の顔は温度を失っていた。僅かに膨らんでいた期待の蕾は、再び色褪せ、しぼんでいく。

 時計の針はてっぺんを回った。外は熱帯夜、この部屋の中では、扇風機の空気を掻き回す風と、規則的な時計の針の音だけが静寂を煮詰めている。
 ローテーブルの対角線に座る真琴を盗み見た。弧を描く、伏せたまつ毛が不意に固く閉じられ、彼女は体ごと両手を上に伸ばした。
「終わったぁ」
「俺も今終わったところ」
「ああ、お疲れ」
 データをドライブに入れておいたと言い、真琴は這うようにベッドに上に転がった。真琴のデータを確認し、入稿する。
「まじで助かった。ありがとう」
 彼女はベッドに顔を伏せて「いいえ」とくぐもった声で答えた。うつ伏せに横たわる真琴の隣に寝転んだ。狭いシングルベッドの中で、真琴のほうに体を向ける。顔を伏せていた彼女が体を傾け、こちらに向く。体を寄せて口付けた。どちらともなく口を開け、舌を絡める。その間にも真琴の手は、誠司の服の中に入ってきて、柔らかく撫でるように、肌の表面を淫陽な動きで這っている。
「マコ」
 彼女は、誠司の首筋に唇で触れながら「なに」と返事をした。
「最後までしてもいい?」
 彼女が顔をあげる。
「最後って、挿入のこと?」
「うん。嫌だったらいい。無理させたいわけじゃない」
 逸らされた目が漂わす沈黙は、想像より痛い。言ったそばから後悔し、キスだけで張り詰めていた性器は、力を失っていく。
「いいよ。しよう」
 彼女の返答が耳に届くまでに時間を要し、「いいの」と訊き返すまでに数秒かかった。
「うん。痛いかな」
「どうだろ、まあ、たぶん、多少は……」
「そうだよね」
「や、でもなるべく痛くないようにはするけど」
「そんなことできるの」
「……そう言われるとプレッシャーだけど……。無理そうだったらやめるから言って」
「うん」
「体……、触ったり舐めたりしていい?」
 束の間、萎えていたのも忘れるくらい、全身の血流が体の中心に集まり、膨らんでいた。いいよと許可をもらうと同時に、彼女のTシャツを胸の上まで捲り、何もつけていない小振りな乳房が露わになった。
「脱がしていい?」
「で、電気消したい……」
 ヘッドボードのリモコンを取って照明を落とし、雑にほうった。胸に唇を這わせながら、Tシャツを彼女の首から抜く。中心の突起を舌で触ると僅かに腰がうねった。口内でそれを転がすが、体が強張っていて反応が薄い。片腕で顔を隠していて、彼女の表情はわからない。指の腹で、触れるか触れないかくらいの柔らかさで肌を撫でる。お腹の上を通りジャージのズボンの中に手を入れた。下着の中は汗ばんでいて、指を下のほうまで這わせると濡れていた。ひとまず安堵する。溢れた蜜を指に塗り込み、前のほうのひだを掻き分け、硬くなった突起を見つける。捏ねるように触ると彼女から湿った吐息が漏れた。指の腹で円を描くように捏ねたり、上下に擦ったり緩急をつけて可愛がるとだんだん彼女の腰が動き、息が荒くなっていく。首筋に吸い付くと背中がしなった。目が合うと瞳は濡れていて、口付けると体を小さく痙攣させて彼女は達した。
 静かに息を整える彼女の、よく濡れそぼった奥に指を埋めて、ゆっくりと深いところへ押し進める。弛緩していた彼女の体が、急速に硬くなる。
「痛い?」
「……大丈夫」
 彼女は顔を背けて顔を手のひらで覆っている。
「痛かったら言えよ」
 第二関節まで入れた中指を曲げ、動かしながら「痛い?」と再び尋ねた。
「まあ少し。でも平気。我慢できなくなったら言うから、大丈夫だよ」
「我慢できなくなるくらいまで耐えんなよ。なるべく痛くしたくないから教えて」
 少し間があってから、彼女はわかったと小さく言った。
「指増やすよ」
 もう一本の指を挿入すると、彼女が息を詰めるのがわかった。侵入を拒むかのうように硬くなり、「痛いよな、ごめん」と指を抜いた。
「や、大丈夫だから続けて」
 彼女はしがみつくみたいに、誠司の首元に顔をうずめた。
「でも痛いなら……」
「緊張してるだけだから大丈夫。お願い」
「……じゃあ、息止めないで、力抜ける? 力入ると痛いから、こう、深呼吸する感じ。吸って、吐いて……」
「できるから。早く」
「……下も脱がしていい?」
 彼女が頷くのを確認し、ズボンと下着を一緒に脚から抜いた。彼女の脚の間に体を入れて、薄い茂みの中の突起を触りながら、奥に再び指を入れる。
 時間をかけて一本ずつ指を増やし、三本入る頃には自分の性器が張り詰めすぎて痛かった。
「マコ、三本入った」
 彼女は無言で頷くだけだった。
 サイドチェストの引き出しを開け、コンドームを取り出し装着する。真琴の入り口にあてがった。
「挿れるよ」
 返事がなかった。顔を覆う手のひらを掴んで下げた。日本人離れした綺麗な顔は、この世の終わりみたいな無色の涙を流していた。毒を飲んだような焦燥が心臓を刺す。
 真琴の脚を閉じて、彼女の横にうつ伏せに倒れた。何か声をかけなければと思ったが、拒絶された絶望の波がまだ引いていかない。
「ごめん……」
 真琴の声は揺れていた。彼女の罪悪感を重くしてはいけない。必死に言葉を探した。
「無理にしたいわけじゃなくて……」
 一緒にいられればいいと続ける前に「誠司がイヤなわけじゃない」と彼女が重ねた。
「……怖い?」
「違くて……。怖くないわけじゃないけど、そうじゃなくて……」
 彼女の肩がかすかに震える。
「自分が、遠くに行っちゃうみたいな……」
 前から腹の底に抱えていた、一つの疑念が頭をもたげる。確信はないけど、もし真琴がだとしたら――。
 ――別の人の人生を歩んでるみたいな感覚。
 昔、真琴が言っていたことが脳裏を掠める。それとそれが、繋がるなら、真琴のほうが何十倍も孤独だ。
 顔を背けて肩を揺らす、裸の真琴を抱き寄せた。
「こうしてマコに、触れるだけでも、昔の俺からしたら夢みたいだよ」
 柔らかい彼女の髪に鼻先をうずめる。少し汗の匂いと、真琴の匂いが混ざって脳に気持ちいい。
「いつかマコが、したいと思うときが来れば、そのときできればいいし、でも別にどっちでもよくて、待ってるわけじゃない。無理して変わらなくていいし、そばにいられたらいいよ」
 強がりもある。本当は、抱いて自分のものにしてしまいたい。
 だけどそれは、真琴の心を見失うことだ。
「……でも、付き合ってるのに出来ないのって、嫌じゃないの」
 彼女が振り向いた。
「いろんな人がいるから、他のカップルの性事情なんて本当のところわからないし、俺たちみたいな付き合い方の人だっているんじゃねぇの。それに、こうして触ったりするのはいいんだろ」
 彼女の額に口付けると、その顔が赤く染まっていく。たった今、もっと大胆なことをしていたのに、こんなことで頬を染める彼女に、胸が潰れそうなほど締め付けられる。
「あのさ、高校の頃、一度だけおでこにちゅーしてくれたことあったよね」
 まさに今、それを思い出していた。
「あのとき、心臓が口から出るかと思うくらいドキドキした」
「俺だって、死ぬほどドキドキしてたよ」
「あのときから好きだった? 私のこと」
「うん。あ、いや、好きなのはもっとずっと前から」
 真琴が「ふうん」と小さく言って、しまったと思った。真琴を好きな傍ら、他の女性と付き合ってきた。本命がいるのに、別の人と付き合うというのは、一般的にも珍しくないけれど、真琴には理解し難いかもしれない。また何か、痛いところを突く質問が来るかなと身構えた。
 だけど、違った。
「好きだよ、誠司」
「え?」
「誠司がこの先、違う人を選ぶことになっても、たぶん一生、誠司が好きだよ」
 投げられたのは、脳みそから指先まで粉々に打ち砕く豪速球。彼女の言動を予測するなど、この先一生できないのだ。細く、滑らかな裸体を、力強く抱きしめる。
「俺だって、一生好きだよ。やっとの思いで手に入れたのに、手放すわけないだろ。バカ」
 言葉にして、仄暗い覚悟が決まっていく。ここにある愛しい裸を、もしかしたら一生抱けない。手に入れたはずなのに、いつまでも少し遠い。
 だけど、真琴の孤独を正しく汲むことができるのは、自分だけだという優越感を、彼女はくれた。
しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

王様の恋

うりぼう
BL
「惚れ薬は手に入るか?」 突然王に言われた一言。 王は惚れ薬を使ってでも手に入れたい人間がいるらしい。 ずっと王を見つめてきた幼馴染の側近と王の話。 ※エセ王国 ※エセファンタジー ※惚れ薬 ※異世界トリップ表現が少しあります

とある冒険者達の話

灯倉日鈴(合歓鈴)
BL
平凡な魔法使いのハーシュと、美形天才剣士のサンフォードは幼馴染。 ある日、ハーシュは冒険者パーティから追放されることになって……。 ほのぼの執着な短いお話です。

身代わりにされた少年は、冷徹騎士に溺愛される

秋津むぎ
BL
第13回BL大賞奨励賞頂きました! 最終17位でした!応援ありがとうございます! あらすじ 魔力がなく、義母達に疎まれながらも必死に生きる少年アシェ。 ある日、義兄が騎士団長ヴァルドの徽章を盗んだ罪をアシェに押し付け、身代わりにされてしまう。 死を覚悟した彼の姿を見て、冷徹な騎士ヴァルドは――? 傷ついた少年と騎士の、温かい溺愛物語。

路地裏の王子様と秘密のカフェ ―10年ぶりに再会した親友はトップアイドルでした―

たら昆布
BL
大学生の千秋がバイト帰りの路地裏で助けたのは、今をときめくアイドル『GALAXY』のセンター、レオだった。 以来、レオは変装して千秋の働くカフェへ毎日通い詰めるようになる。 ​「千秋に会うと疲れなんて全部消えちゃうんだ」 トップアイドルとは思えないほど素直に懐いてくるレオに、千秋は戸惑いながらも多忙な彼を支えたいと願うようになる。 ​しかし、千秋はまだ知らない。 レオが10年前に「また絶対会おう」と約束して別れた泣き虫な親友の玲央本人だということに。

勇者様への片思いを拗らせていた僕は勇者様から溺愛される

八朔バニラ
BL
蓮とリアムは共に孤児院育ちの幼馴染。 蓮とリアムは切磋琢磨しながら成長し、リアムは村の勇者として祭り上げられた。 リアムは勇者として村に入ってくる魔物退治をしていたが、だんだんと疲れが見えてきた。 ある日、蓮は何者かに誘拐されてしまい…… スパダリ勇者×ツンデレ陰陽師(忘却の術熟練者)

2度目の恋 ~忘れられない1度目の恋~

青ムギ
BL
「俺は、生涯お前しか愛さない。」 その言葉を言われたのが社会人2年目の春。 あの時は、確かに俺達には愛が存在していた。 だが、今はー 「仕事が忙しいから先に寝ててくれ。」 「今忙しいんだ。お前に構ってられない。」 冷たく突き放すような言葉ばかりを言って家を空ける日が多くなる。 貴方の視界に、俺は映らないー。 2人の記念日もずっと1人で祝っている。 あの人を想う一方通行の「愛」は苦しく、俺の心を蝕んでいく。 そんなある日、体の不調で病院を受診した際医者から余命宣告を受ける。 あの人の電話はいつも着信拒否。診断結果を伝えようにも伝えられない。 ーもういっそ秘密にしたまま、過ごそうかな。ー ※主人公が悲しい目にあいます。素敵な人に出会わせたいです。 表紙のイラストは、Picrew様の[君の世界メーカー]マサキ様からお借りしました。

だって、君は210日のポラリス

大庭和香
BL
モテ属性過多男 × モブ要素しかない俺 モテ属性過多の理央は、地味で凡庸な俺を平然と「恋人」と呼ぶ。大学の履修登録も丸かぶりで、いつも一緒。 一方、平凡な小市民の俺は、旅行先で両親が事故死したという連絡を受け、 突然人生の岐路に立たされた。 ――立春から210日、夏休みの終わる頃。 それでも理央は、変わらず俺のそばにいてくれて―― 📌別サイトで読み切りの形で投稿した作品を、連載形式に切り替えて投稿しています。  エピローグまで公開いたしました。14,000字程度になりました。読み切りの形のときより短くなりました……1000文字ぐらい書き足したのになぁ。

君に望むは僕の弔辞

爺誤
BL
僕は生まれつき身体が弱かった。父の期待に応えられなかった僕は屋敷のなかで打ち捨てられて、早く死んでしまいたいばかりだった。姉の成人で賑わう屋敷のなか、鍵のかけられた部屋で悲しみに押しつぶされかけた僕は、迷い込んだ客人に外に出してもらった。そこで自分の可能性を知り、希望を抱いた……。 全9話 匂わせBL(エ◻︎なし)。死ネタ注意 表紙はあいえだ様!! 小説家になろうにも投稿

処理中です...