君の容れもの

晴珂とく

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Ⅸ 君の容れもの 第9話

誠司の覚悟

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 かつてないほどに、部屋の空気が重かった。いつも一緒に食事をしていた二人掛けの小さなダイニングテーブルの上に、真琴が書類を差し出した。嫌な感じに心臓が鳴り、脂汗が吹き出す。体は強張り、胸の動悸は早まっていく。
 離婚届の真琴の欄はすでに埋められていた。
「マコ……、待って、話聞いて。頼むから。ほ、本当にやってない……」
 真琴は視線を落としたまま目を合わせてくれない。
「本当なんだって! 久しぶりに学部の飲み会で飲みすぎて、送ってもらっただけ。そしたら家の中まで来られて……」
「脱いでた。あの人」
 ため息混じりの低い声だった。
「それはっ、だって勝手に」
「触ってもいない?」
 真琴の問いに、え、と小さく声が漏れる。即座に否定できないことは、肯定そのものだ。
「もういい。わかった」
「や、違……」
「最後までしてないのは信じるよ」
「じゃあ……、考え直してよ」
「でもそういうことじゃない!」
 声を張った低音に、反射的に肩があがった。
「俺とだって……、最後までしてない」
「それは……、だって」
「そうだよ、俺ができなかったから俺が悪い。わかってるよ」
「そんなこと一度も言ってないだろ」
「わかってる、誠司は一回も責めてない。でも、だから俺たちは……、触り合ったりすることが、深くつながる手段だった」
 頭を殴られたような衝撃だった。胸の内が黒く覆われていく。
「だから、俺にとっては、触っただけで同じくらい……、許せない。ごめん」
 勝手でごめん、と真琴は繰り返した。
 なぜ謝られているんだろうと、遠いところで朧げに考える。胸に鈍く広がる痛みに息が苦しい。「早く書いて」と促され、鉛のように重い腕を必死に動かした。

 ストーリーの入ってこない海外のコメディドラマをサブスクで流しながら、ソファに座ってタバコの煙を吐いた。ローテーブルの上に開いたクロッキー帳は真っ白だ。十四ミリの刺激は、脳みその芯から眩んで、いろんなことがどうでもよくなっていく。スマホの振動に小さく心臓が跳ね、画面に表示された担当編集者の名前を見て舌打ちした。
「……はい」
『お疲れ様でぇす。水無月みなつきです。野和川さん、今お時間、大丈夫ですか?』
 矢鱈やたらと歯切れよく話す女性の声に、スマホを耳から少し離し、大丈夫ですと答えた。
『原稿受け取りましたぁ。今回もありがとうございます。それで、えー、ちょっと気になったんですけど、野和川さん、ちょっと体調とか、崩されたりとか、してました?』
 言いたいことはなんとなくわかったが、なんと答えようか考えあぐねていたら、彼女は続ける。
『いやぁ、なんというかですね、いつもと少し、少しだけ、作画の雰囲気違うなあと思いまして。全体的にはいつも通り可愛いんですけど、なんと言いますか、ディティールというか、線の感じと言いますか』
「……そういえばちょっと風邪気味でした」
『あっ、そうなんですね! もう大丈夫なんですか?』
「はい。すいません」
『あっ、よかったですぅ。いつももう再来月のネーム上げてくれてる時期なんで、心配してました。あでも、病み上がりだと思うんで、無理しないでくださいね。いつもが早いだけで、スケジュールは余裕あるんで』
「すいません」
『あっ、全然、全然! ただの確認だったので。じゃ、次の作業入っちゃってください。ネームもお待ちしてますね』
 お大事にと彼女の用件は締め括られ、電話を切った。頭を乱暴に掻きむしり、タバコをテーブルに叩きつけるように取り出し、また火をつける。
 テーブルの上のシェフレラとパキラは萎れ気味だった。胸に鈍い痛みが広がる。この家のどこにいても、何をしていても、真琴の存在が息づいている。立ち上がって見回すと、足の踏み場もないくらいに散らかっていた。着た服と、洗濯したものの区別がつかない衣類の山がそこかしこにある。ダイニングテーブルとキッチンカウンターは、空き缶と、半端に飲み物が入ったコップで埋まっていた。ゴミ出しのタイミングを逃した大きなゴミ袋がいくつか。
 一度立ち上がったものの、気持ちは急速に萎んでソファに再び体を沈めた。深く沈むように、重くなっていく。白い天井を見上げ、ダウンライトをしばらく見つめていた。指に挟んだタバコがいつの間にか短くなっていて、「あつっ」と吸い殻を床に落とした。そっと拾い上げて灰皿に入れる。重い体を持ち上げて、出かける準備をした。
 真琴の働くカムフィットネスに、登録だけはしてあった。運動不足を解消するために入会したものの、なかなか来れずに会費だけ毎月引き落とされている。
 真琴がレッスンに入っている時間を狙ってやってきた。
 会員アプリでスタジオレッスンの予定を確認して知ったのは、真琴がアクア系のレッスンも始めたということだ。
 ――女のときは、水着が嫌でアクア系やってなかったのに……。
 黒い靄が胸の中に流れてくるのを、息を吐いて押し出した。真琴の姿を確かめるため、児童の保護者用観覧席からプールを見下ろす。
 真琴を発見した途端、眩暈がして足元がふらついた。
 昔から、常に体のラインが出ないようなオーバーサイジングの服を着ていた。体を触り合うときですら、ほとんど着衣だった真琴の裸を見た回数は、片手で数えられるくらい。その真琴が、今は上半身には何も身につけず、腰から太ももにかけてぴったりとフィットする水着だけを着用して人前に立っている。
 ――胸出してんじゃねぇよ……。女だったときの姿を知ってるスタッフもいるだろ……!
 真琴に他の男性スタッフが近づき、耳打ちした。真琴は笑顔で男性スタッフの肩を軽く叩いた。
 ――近いだろ……っ。
 今度はレッスン生らしき若い女性二人が真琴に近づき、話しかけていた。すると、女性のほうから腕を伸ばし、真琴の胸や腹の筋肉を触り出した。
「はあ?」
 思わず声が出て、周りの視線を集めることになった。咄嗟に手のひらで口を押さえる。
 ――なに触らせてんだよ……!
 無意識に貧乏ゆすりをし、内臓は煮えたぎるように熱を持つ。そのうち矢も盾も堪らなくなって、気づけば帰路を走っていた。
 家に入って、玄関のたたきに出しっぱなしの靴を蹴飛ばし、勢いのまま寝室のベッドに沈んだ。胸に広がる黒い靄は、濃さを増して、呼吸困難に陥りそうになる。
 ――結局、あいつの恋愛対象ってどっちなんだ。
 今まではずっと、真琴の周りをうろつく男だけが鬱陶しくて仕方がなかった。中性的な雰囲気の真琴は、学生の頃は女性にも人気があり、ファンレターやプレゼントをもらうこともあった。それに関して、当時はあまり気にしていなかったが、今は女が異性になるわけで――。
「俺はどっちを牽制すればいいんだ……」
 声に出してハッとした。「あーくそ!」と叫びながらうつ伏せで枕を拳で叩いた。
 ――どんなに妬いたって、マコはもう――。
 くそ、くそっ、と叫びながら滲む涙を枕に沁み込ませた。このセミダブルのベッドで、真琴と一緒に寝ていたのが、随分と昔のことのように思える。真琴が寝ていた位置のあたりに腕を伸ばした。手のひらを滑らせると、シーツは満遍なく冷えている。
 真琴が男になってから、少し窮屈に感じていたセミダブル。毎晩のように誠司の横でマスターベーションをしていた真琴の息遣い。ときおり漏れる、ほとんど吐息の声。自慰をしていると気づいても、どう反応すればいいのかわからなくて寝たフリを続けた。
 ――俺は、誠司のことを、抱いてみたい――。
 真琴の言葉を思い起こす。
「なんで何もしなかったんだろ……」
 一度だけ、うなじを舐められたことがあった。振り向いて、声をかけた瞬間に真琴は射精した。
 ――そういえば、女のときもときどきオナニーしてたとか言ってたな……。
 結婚してから、真琴とは週に一、二回はそういう行為――挿入はしなくても、二人はそれをエッチと呼んでいた――をしていた。だから誠司は、ほとんど自慰をしていなかったが、真琴は違ったらしい。
 ――あ……。
 唐突に、体中の血流が巡り出し、腹の奥が熱を持つ。しばらく触っていなかった分、一気に臨戦態勢まで膨らんだ。
「あーもう、くそ……」
 ジーンズを下げ、張り詰めたそれを取り出して握った。真琴に最後に触ってもらったのはいつだったか思い出せない。代わりに自慰をする真琴の息遣いと、吐精する瞬間の切なげな顔が瞼に浮かぶ。
「は……、う……っ」
 吐き出した欲をティッシュで拭う。
 圧倒的な物足りなさに虚しさだけが増した。手のひらを背後に伸ばしてみる。後孔に指をあてがい、周辺を揉むように触った。中に指を入れようとしてみたが、
 ――怖い――。
 自分では到底できなかった。

 部屋中に散乱した洗濯物を片付けて、掃除機をかけた。溜まったゴミもやっと出して、キッチンの流しを埋め尽くしていた食器も洗った。シャワーを浴びて、念入りに体を洗ってある。家中を繰り返し歩き回って、体の芯から震えて落ち着かない感覚を逃すことに必死だった。
 そこに電話をかけたのは、二、三十分ほど前だ。
『お電話ありがとうございます。タチ専門デリバリーヘルス、マウンテンブースターです。ご予約でしょうか。すぐのご利用でしょうか』
 通話口の男性の闊達な声に気後れした。
「あ、い、い、今、今、空いてますか」
『かしこまりました。すぐのご利用ですね。ご希望のキャストはお決まりですか』
「や……、まだ……」
『現在出勤中のキャストですと、赤石、高尾、北岳が、すぐのご案内が可能です』
 事前にウェブサイトで確認していたが、モザイクのかかった男性の写真に興味が持てず、誰を選べばいいのかわからなかった。
「あ、はい、じゃあ、どなたかで……」
『お好みに合わせてご提案させていただくことも可能ですが、体型やお顔のタイプのご希望はございますか。例えば、体型は細身かマッチョか、お顔はくっきりタイプか、あっさりサイプか、など……』
「あ、あ、じゃあ……、背、背は、高くて、筋肉も……、そこそこあって、か、顔は、目鼻立ちがこう……、整ってて、ハーフっぽい顔立ちで……」
 真琴(男性版)の容姿を思い浮かべながら、なるべく近い外見の人に来てもらえるよう注文を羅列した。
 電話口の男性は、かしこまりましたと感じよく答えた。それからコースの確認と、決済とキャンセルについての説明を受けて通話を終えた。
 通話を切ってからそろそろ三十分が経過する。
 ――無理そうだったらキャンセルすればいいんだから、平気、平気……。
 胸に手を当てて、自分に言い聞かせていたら、インターホンが鳴った。エントランスのロビーインターホン前に立つ男性は、背が高く、カメラに首から下しか映っていない。仕方なくロックを開けて、玄関前まで来てもらう。
 玄関のインターホンが鳴り、カメラ前に立つ男性を見て肝が冷えた。確かに注文通りの外国人らしい顔立ちの男だったが、真琴とは似ても似つかない。堀の深い、屈強な印象の男性だった。体格も筋肉隆々で、プロレスものの漫画だったら絶対悪役の、ハードな逆三角形。
 ドアチェーンをかけて、扉を少し開けた。生で見ると、ますます厳つい。
「すみません。腹痛くなっちゃって、キャンセルで……」

 ソファに倒れ込むように横になった。緊張が解けて、急激に体がだるくなる。
「あーくそ。マコと全然違うじゃん……。怖すぎだろ」
 あのキャストを勧めた電話口の男性に苛立ちすら覚えた。
 だけど、いきなりゲイ風俗はハードルが高かったかもしれない。リサーチ不足だった。
「最初から生身は無理だよな。まずは鑑賞からだ」
 作業部屋のパソコンをつけて、ゲイビデオを検索した。
 ――ああやっぱり。
 先ほどの男性のような、屈強で厳つい男性も散見されるが、もっと細身で綺麗目の男性が出演する動画も見つかった。
「あーそうそう、こういうのが近い」
 画面上に並ぶ男の裸体のサムネイルの中でも、比較的ソフトなイメージのものをクリックした。それを数分後には後悔することになるとは思わないだろう。
 同じくらいの体格の男二人が裸で絡み合い、一人がもう一人を組み伏せ、下にいる男は脚を大きく開き、ひっきりなしに喘いでいた。それはまるで、
 ――女みたいだ……。
 組み敷かれる男を自分に置き換えた。頭の中で何かが破裂するみたいに顔に熱が籠っていく。慌ててウィンドウを閉じた。
「だめだ、きつい……。あんなの、絶対むり……」
 そう声に出してから、焦燥を帯びた黒い感情に、内臓を抉られる。唐突に理解した。
 ――自分が、遠くに行っちゃうみたいな――。
 セックスができなくて真琴が泣きながら言っていたこと。理解したつもりでいた。
 だけどどこかで、いつか、いつか、と望みをかけていた。
 ――恥ずかしい……。
 真琴の理解者のふりをして、追い詰めていた。
「ふられて当然じゃん……」
 背中を丸め、涙と鼻水を袖口で乱暴に拭う。
 スマホの着信にびくりと肩が跳ねた。表示された担当編集者の名前を確認し、洟をかんでから通話ボタンを押す。
「……はい」
『あっ、水無月ですう。野和川さん、今大丈夫ですか』
「はい」
『ネーム拝見しましたぁ。ありがとうございます。この件で打ち合わせできればと思うんですけど、明日とかって、ご自宅伺わせてもらっても大丈夫ですか』
「……あの、外でもいいですか。打ち合わせの場所」
『あっ、私は全然、どこでも大丈夫です。どの辺がいいでしょう』
「ちょっと……、調べてメールします」

 待ち合わせの珈琲店に入ると、水無月は入り口に近いボックス席に座っていて、こちらに手を振った。用件はなんとなくわかっていた。
「今月号も評判上々でしたよぉ。ランキングも三位をキープしてます」
 言いづらいことを伝えるとき、まずは相手を褒めるというのは、マニュアルにでも書いてあるのだろうか。ありがとうございます、とひとまずの礼を述べ、次の言葉を待った。
「あっ、それで、この前いただいたネームの件なんですが」
「ダメですよね、自分でもわかります」
 言われる前に自分で言った。そのほうが、ダメージが少ないからだ。
「あっ、やっ、ダメっていうか、ダメではないんですけれどもぉ、ちょっと今までと雰囲気が違うなって感じだったんですが、何か心境の変化とかありました?」
 極めて婉曲的に、プライベートを探られているが、とりあえず「雰囲気って例えば」と質問で返した。
「ストーリーの流れとしては、プロットの通りなので、問題ないんですけど、なんというか、その運び方と言いますか、あー、なんていうんですかね」
「言葉選ばなくていいんで、ハッキリ教えてもらえると」
「あっ、はい。なんていうか、システマチックというか、淡々と流れてる感じです。いつもみたいなエモさがない。でも野和川さんのよさって、爽やかだけど、どことなく胸がぎゅっとするみたいな、こう、う……って胸の辺りを締め付けるみたいなエモキュンだと思うんですよね、私が思うには。まあ、少女漫画なので、基本的にはキュンが要所要所に散りばめられてるのが前提のジャンルではあるのですが、野和川さんは、それが甘くなりすぎないみたいな。なんだろ。夏の終わりの潮風を体全体に浴びるような、爽やかさと少しの湿っぽさ、に加えるコメディ要素の配分が、絶妙なんですよ」
 急に早口になってノンブレスで言い切った彼女の顔には、達成感がすけて見える。
「野和川さん、令和の矢川やがわ先生って言われてるの、知ってます?」
 畏れ多すぎる大御所の名前に、頭を抱えた。
「それ、SNSで見たけどほんとやめてほしい……。アンチコメも同じくらいあったし……」
「エゴサしたんですかぁ? 野和川さんみたいなタイプは絶対やっちゃダメですって、前も言ったじゃないですか」
 野和川さんみたいなタイプ――男の割に繊細な性格――で悪かったな、と心の中で毒づいた。
「とにかく、ここ重要な局面なので、野和川さんならもっといいネームできると思うんです」
「……再考します」
「はい、お願いします。あっ、それで、あともう一つあって、ちょっと立ち入ったことお聞きしてしまうんですけど、その……、プライベートのほうで、何かあったりとか、しました?」
 きた、と思った。今日の本題はおそらくこっちだ。
「差し支えない範囲で構わないので、よければ話してくださいませんか。私たち編集者は、漫画家さんが憂いなく描けるようなサポートもしていきますので」
 確かに、仕事に多少なりの支障が出ている時点で、伝えておくべき案件なのかもしれない。テーブルに肘をついて、彼女に顔を見られないように手で覆った。
 ふう、と息を大きく吐いてから、
「……離婚した」
 と小声で、短く伝えた。
 数秒の間があったあと、えっ、と今日一番の声量の叫びに近い声が聞こえた。
「え、えっ、いつですか」
「……先月」
「えっ、えぇ……。えっ、ていうか、奥様って、原稿のお手伝いもやってくれてましたよね。だからアシスタントも入れないで……、あっ、だから、そっか、そういう……」
 作画のクオリティが落ちた件や、スケジュールの遅れに、彼女の中で納得がいったようだ。
「えっ、でも……、私、お二人はその、すごくラブラブなイメージがあったんですけど、どうして……」
 腹の真ん中に、鉛を落とされたみたいに、体が重く沈んでいく。
「あ……、とりあえず……、わかりました。話してくださってありがとうございます。えっと、一ヶ月とか二ヶ月とか、休載しますか」
「……でも仕事してないとしんどいっていうか……」
 情けなく揺れる声が出た。
「あっ、そしたら、付録のお仕事入れてもいいですか。ちょっと大型の企画があって、どっちにしろ、連載と並行してだと、かなりタイトになっちゃうボリューム感だったんで。カラーですけど、休載にしたらいけそうですかね。ボリュームこのくらいです」
 水無月は書類をテーブルの上に差し出した。内容を碌に確認せず「じゃあそれでお願いします」と回答した。
「ありがとうございます。じゃあそれで編集長に報告しますね。あっ、あと次からは、アシスタント必要になりますよね。こっちで手配しましょうか」
 彼女の言う通り、アシスタントがいないと厳しい。でも――。
「少し考えさせてください……」

 水無月と別れてから、駅と反対方向に歩き出した。普段使わない駅をわざわざ指定したのは、事前にリサーチしたゲイバーに立ち寄るためだ。風俗や動画といった性産業の中ではなく、実態をリサーチすることが先だと気づいた。
 スマホで地図を見る。周りの建物と地図上の現在地を照らし合わせるために顔を上げた瞬間、心臓が痛むほど跳ねた。
 ラブホテル。後ろ姿でわかってしまう。今出てきたのは、真琴だった。男と手を繋いで。しかもその男は――。
 顔の産毛が逆立つほどに、内臓を掻き回すような動悸がする。瞬間的に頭に血が上る。気づけば真琴の肩を思い切り掴んでいた。
 顔を歪める真琴の腕を掴んで、力任せに引っ張った。一刻も早くホテルから遠ざかりたい。あの男から引き離したい。背中で真琴が叫ぶように何か言っているが、聞き取る余裕はなかった。
「誠司!」
 腕を振り切られて振り返った。
「痛いってば……」
 真琴は誠司の掴んでいた腕をさすっていた。困惑を滲ませる表情に、抑えが効かず、真琴の胸ぐらを掴む。
「お前何やってんだよ……!」
「何って……」
「ホテルから出てきただろ!」
 体を勢いよく押し離され、尻餅をついた。
「誠司には関係ない!」
 立ち上がり真琴の胸ぐらを再び両手で掴み「関係なくねぇ!」と怒鳴った。
「俺は……、俺は、マコ……、マコが……」
 感情が昂りすぎて言葉が繋げられない。真琴の胸にぶつけるように額をうずめた。荒くなる息の中で「頼む……」と懇願した声は震えていた。
「マコが……、マコがいないとだめなんだ……。マコの好きにしていいから、お、俺っ、俺のこと……、抱けよ。してくれ……、頼むから……っ」
 手段やプライドなんか、気にして足踏みしている時間はなかった。危機感で押しつぶされそうだ。
 真琴に腕を引っ張られ、大通りに出た。素早くタクシーを拾った真琴に抱えられるように同乗し、真琴が行き先を告げて車は発進した。
 古い二階建てのアパートの前でタクシーは停まった。真琴に押し出される形でタクシーを降りる。黙って歩き出す背中についていった。
「なあ、ここ住んでんの。マコの給料なら他にいいとこあるだろ」
「すぐ入居できるところだと限られてくんの。時期的にも少なかったし」
 逃げるように出ていった転居を思い返す。家具も家電も何もいらないと言って、ほとんど衣類だけを持って真琴は出ていった。
 建物脇の外階段を上る真琴についていく。二階の三つ目のドアの鍵を開け、目で合図を送ってきた。扉を開ける真琴の脇をすり抜けて中へ入る。扉が閉められた瞬間、覆い被さるように深いキスをされた。
「マコ、待って。シャワー浴びたい」
「いいよ、気にしない。てか、石鹸の匂いするし、入ってきたんじゃないの」
 普段鈍いところがある癖に、こういうところだけやけに鋭い。
「あの辺り、誠司の用があるとこなんてないでしょ。何してたの」
「だから俺は、マコが抱く側がいいって言うから、俺なりに……、まずリサーチをと思って……」
 言葉を紡ぐたび、さっきの光景が甦り、胸が詰まった。
「あいつ……、あいつとやったのかよ」
「それ知ってどうすんの」
 毒の刃物を刺されたみたいに、胸から痛みが波及していく。
 ――否定しないのかよ――。
 よりによってあの男。手をつなぐ二人の後ろ姿が浮かび、胸が張り裂ける。壁に背をつけて崩れ落ち、頭ごと膝を抱えた。
「待って、ほんとに無理……。耐えられない。嫌だ……」
 指先に痺れるような痛みが広がり、拳を握った。真琴も動かない。何も言わない。誠司の揺れる吐息だけが静寂の中に泳いでいる。
「……あの辺りは、ゲイバーとか、ゲイ向けのお店しかないよ。そういう場所に、一人で行こうと思ってたの」
 真琴の問いに、何も答えなかった。衣擦れの音と、近くなった声で、真琴がしゃがみ込んだことがわかる。
「お店によっては危ない目に遭うこともあるよ。ただでさえ誠司はお酒弱いんだからさ、ホテルに連れ込まれたりしたらどうすんの」
「うるせぇよ。お前はいいのかよ」
 胸の奥が煮えたぎるように熱い。口に出してから頭に血がのぼる。あの男と来てたのだ。
「マコの隣に他のヤツがいるのがつらい……」
 絞り出した声は情けなく揺れていた。顎を持ち上げられ、唇に柔らかい感触が触れる。
「ほんとにいいの? 誠司のこと……」
 頷く代わりにキスで返した。
 狭い1Kのシングルベッドに寝かされる。真琴は女のときから、こういうときに主導権を握りたがった。いつも気づいたら上に乗っていたけど、誠司より小柄だった真琴に、組み敷かれる感覚はなくて、抱く側でいるつもりだった。
 だけど今、自分の上に乗っている真琴は、背も筋肉も、誠司より逞しくて、まさに組み敷かれている、というのが正しい。圧迫感がある。ハイゲージニットとインナーのTシャツを胸の上まで捲られて、真琴の舌が肌に触れた。肌の上を這う手のひらは、見た目からして誠司の手よりも大きい。脚の上に乗る真琴は重くて、誠司は身動きが取れなかった。脚の間にある彼の中心は、すでに硬くなっているのが服越しにもわかる。大きな手のひらに、服の上から陰部に触れられる。鳩尾みぞおちあたりが跳ねるように痙攣した。
 真琴は上体を起こし、ベッドから足を下ろして背を向けた。
「……マコ、なんで……」
「ごめん。やめよう」
 彼は背を向けたまま吐息交じりに言った。真琴の服の裾を掴んで「やめんなよ」と縋る。
「無理しなくていい」
「無理じゃねぇよ! なんで、なんで……」
 声が震えた。
「そんなに怖がってるのに、無理やりするみたいなのは嫌だから……」
「怖がってない……っ」
 振り向いた真琴の顔を見て、掴んでいた彼の服を離した。虚ろで濁った目は、誠司を見ていない。
「誠司は無理だと思うよ、男とこういうことするの」
「無理じゃない。俺が誘っただろ」
「別にそれが悪いとかそういうことじゃない。世の中の大半の人がそうなんだから、普通だよ。俺が女の体で抱かれるのが無理だったみたいに、仕方ないことなんじゃない」
「違う! 俺は……、マコだから」
「妻が男になったから、無理になった。これが普通だから、責任とか感じなくていい」
「聞けよ!」
 真琴の胸ぐらを掴む。
「責任とかじゃねぇよ! 俺はマコだから……、マコだから、いいと思ったんだ。俺がこだわってたことなんて、瑣末なことだって……」
「誠司は執着してるだけだよ」
 真琴は誠司の手を外した。
「ずっと一緒にいたんだから、情もあるだろうし、今はちょっと寂しいだけだよ」
「おい…! 俺はマコじゃないとだめだって言ってんだよ」
「それが勘違いだって。このまま距離置いてればそのうち冷静になれるよ」
「俺の……気持ちを決めつけんな! こっち見ろよ」
 真琴の肩を力任せに引っ張ると、彼は誠司を一瞥して顔を逸らした。
「もう終わりにしよう」
 淡々と放たれた二度目の訣別は、人ごとのように浮遊した。
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