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本編後番外
『バレンタイン』
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「バレンタイン?」
無垢な声でアドルフが復唱した。その話題を振ったリチャードの側仕えである彼は頷き、だから贈り物を用意する必要があるのだと説く。
「アドルフ、お前はいつも旦那様にバターたっぷりの焼き菓子やらチョコレートやら砂糖がたっぷり入ったミルクティーを飲ませて貰ってるよな」
「はい」
「だからお返しにクッキーを焼くぞ」
「はい……はい……?」
「そこは疑問に持つな」
アドルフの返事にはどことなく戸惑いが含まれていたが、それを無視して彼は話を続ける。彼とて進んで二人の間にお節介を焼く気はない。ないのだが、彼は見てしまった。去年の2月14日、リチャードがそわそわと丸一日執務室の机に腰を落ち着けることのなかった姿を。翌日どことなく肩を落としながらもいつも通りに振る舞うリチャードの姿を。
言い出せなかったんだな、多分。
リチャードはアドルフに何かを与えることが好きだ。アドルフは何も持たず、何かを与えるということは彼に幸福を与えることに繋がる。今のアドルフを形どる全ては彼が手ずから与えたものの結果である。
だが、それ故にアドルフが何かを与えたことはない。アドルフが捧げられるものはその身くらいしかなく、その身も心もとうの昔にリチャードのものだ。だから経験がない。何も、今までずっと。
地方領主の旦那様の内縁の妻、という立場に立ってから数年が経つ。今年で二十歳を迎えたアドルフは、似合わない従者の服を着ていた頃よりも賢くなった。例えば側仕えの彼が「街まで雑貨を見に行かないか」と誘えば「リチャード様のそばを離れるわけにはいきませんので」と言い返せるようになった。以前は困り顔で言い淀むか、何事もイエスマンであったアドルフが。少しは自分の頭で考えるようになったということだ。それは喜ばしい。
だが、やはり人間情緒が少し経験不足なところは否めない。ついこの間だって折角バレンタインという日があって、日頃の感謝を込めて菓子を贈る日があると伝えたのに、見事スルーしやがった。まるで自分には関係のない話だと顔に書いてある。かといって、旦那様に何かプレゼントしてやれというのは流石に無粋が過ぎる。悶々と悩んだ末に、結局彼は「俺も用意するからお前も旦那様にプレゼントしろ」という親切心とお節介が混ぜこぜになった答えを出した。
さて、問題といえば、側仕えに必要な技能の中に『菓子作り』が含まれていないことくらいだ。
「小麦粉、卵、バター……げっ砂糖こんなに使うのかよ!? 太るわけだな……」
「ボウルを洗ってきました、これに材料を入れればいいのですか?」
「おー……あっおい待てボウルちゃんと拭いたか?」
「え?」
「あー!」
2月13日の夜。厨房から聞こえる声を聞きながら、リチャードは珍しく自分が不機嫌であると自覚していた。なにせアドルフから直々に半休をお願いされ、半日前から顔を合わせていない。
時期が時期なだけに少し浮ついた気持ちになりながらも、過度の期待を寄せずに暇を与えたのが6時間ほど前、同時に休みを申し出た側仕えが最愛のアドルフと街に出かけたと聞いたのが5時間前、戻ってきたのが3時間前。何やら甘い匂いを全身に漂わせながら難しい顔をしていた。それから二人は厨房に篭りきりだ。
二人の死角に立つとそっと壁にもたれ掛かり、聞き耳を立てる。
「で、どれが美味しかった?」
「ええっと、最初に食べた……丸い……」
「マカロンは難しい。次」
「ではチョコレートがコーティングされてた……」
「湯煎はお前にはまだ早いからチョコ菓子は駄目だ。なるべく火を使わないやつな」
「では、では……カスタードプディングは……」
「……作り方わからねえ! 悪かったな!」
結局取れる選択肢が少なく、当初予定していた通りクッキーに決まったようだった。
「悪いな、どうせなら凄いもの作ろうって街中歩き回ったのに」
「いいえ、とても新鮮でした。お店の中でお菓子を食べるなんてリチャード様とも経験がないのです」
「え? やべー、それ旦那様には秘密な。俺が殺される」
半分笑いながら言っているが、もう遅い。下心など全くない善意で行われたことだとわかっていても、リチャードは自分が嫉妬で気分を害しているのがわかった。
善意の行為であれば全て許せるとは思わないが、この場合は二人に何の落ち度もない。早くこの場を離れないと、自分の醜い嫉妬で二人を邪魔してしまいそうだ。だというのに、中の様子が気になって地面に根を張ったように脚が動かない。
中では楽しげな笑い声が聞こえていた。床に卵を落としたり、型取りが上手くいかなかったり、余熱を忘れていたりと四苦八苦しているようだったが、アドルフは楽しそうだった。
その笑顔はリチャードがいつも見る、はにかむものと違うように思えた。
「…………」
今更、自分の手の中に一人の人間を閉じ込めておくことの不自由さと理不尽さを感じる。もっと違った道があれば、アドルフは多くの友人に囲まれた生活を送っていたかもしれないのだ。
だが、手放してやれない。たらればの話に意味などなく、アドルフは奴隷に生まれリチャードはそれを買った。生かすも殺すも自由の命を手元で大切に育てている。それに後ろめたさを感じることはない。そして誰もそのことを責めないだろう。アドルフ自身でさえも。
バターの香り高い匂いが厨房の外にまで漂ってきた頃、はっきりと「できた!」と言う声が聞こえた。慌てて厨房のそばを離れる。
あとのことは知らない。ただ、その日はアドルフと夜を共にしなかった。彼はリチャードの元へ訪れなかったからだ。
翌日目を覚ますと、ベッドサイドに見慣れないものがあった。コップに注がれた牛乳と皿に盛られたクッキー。
「……?」
リチャードも今は三十路を過ぎた男だが、昔のまだ少年と呼ばれる年齢だった頃、覚えがある。これはクリスマスの夜に用意するサンタ宛のプレゼントだ。
どうにも知識が混在している気がする。だが、これで昨晩アドルフが来なかった理由は理解できた。
「避けるしかなかったのだな、ベッドへ引き込まれると朝まで寝てしまうから」
「リチャード様、おはようございます」
独り言を言った直後、扉が開く。振り返ったリチャードはそこにいる最愛の格好に目を見開いた。
「贈り物にはこうするのがよいのだと……聞きました」
おず、と躊躇うように身を捩らせるアドルフは昔よりも随分肉付きがよくなった。それがよくわかるのは、部屋に差し込む朝日が彼の身体を余すことなくリチャードの目前に映し出しているから。
大面積の肌色と、局部を覆う太幅のリボン。辛うじて裸ではないが、リボンの中に見えるその下着は娼館の女が身につけるようなものではないか?
思考の止まったリチャードにアドルフが笑いかける。口にクッキーを加えて唇を寄せてきた。
「お受け取りくださりますか? リチャードさま……」
うっとりと頬を染めた誘いを断れるほど、忍耐力を強いてくれるな。
誰の入れ知恵かと聞くまでもないそれを喜ぶべきか諫めるべきか考えながら、一先ずは頂くことにする。言うまでもないが、初めてのプレゼントは忘れられない最高のものとなった。
無垢な声でアドルフが復唱した。その話題を振ったリチャードの側仕えである彼は頷き、だから贈り物を用意する必要があるのだと説く。
「アドルフ、お前はいつも旦那様にバターたっぷりの焼き菓子やらチョコレートやら砂糖がたっぷり入ったミルクティーを飲ませて貰ってるよな」
「はい」
「だからお返しにクッキーを焼くぞ」
「はい……はい……?」
「そこは疑問に持つな」
アドルフの返事にはどことなく戸惑いが含まれていたが、それを無視して彼は話を続ける。彼とて進んで二人の間にお節介を焼く気はない。ないのだが、彼は見てしまった。去年の2月14日、リチャードがそわそわと丸一日執務室の机に腰を落ち着けることのなかった姿を。翌日どことなく肩を落としながらもいつも通りに振る舞うリチャードの姿を。
言い出せなかったんだな、多分。
リチャードはアドルフに何かを与えることが好きだ。アドルフは何も持たず、何かを与えるということは彼に幸福を与えることに繋がる。今のアドルフを形どる全ては彼が手ずから与えたものの結果である。
だが、それ故にアドルフが何かを与えたことはない。アドルフが捧げられるものはその身くらいしかなく、その身も心もとうの昔にリチャードのものだ。だから経験がない。何も、今までずっと。
地方領主の旦那様の内縁の妻、という立場に立ってから数年が経つ。今年で二十歳を迎えたアドルフは、似合わない従者の服を着ていた頃よりも賢くなった。例えば側仕えの彼が「街まで雑貨を見に行かないか」と誘えば「リチャード様のそばを離れるわけにはいきませんので」と言い返せるようになった。以前は困り顔で言い淀むか、何事もイエスマンであったアドルフが。少しは自分の頭で考えるようになったということだ。それは喜ばしい。
だが、やはり人間情緒が少し経験不足なところは否めない。ついこの間だって折角バレンタインという日があって、日頃の感謝を込めて菓子を贈る日があると伝えたのに、見事スルーしやがった。まるで自分には関係のない話だと顔に書いてある。かといって、旦那様に何かプレゼントしてやれというのは流石に無粋が過ぎる。悶々と悩んだ末に、結局彼は「俺も用意するからお前も旦那様にプレゼントしろ」という親切心とお節介が混ぜこぜになった答えを出した。
さて、問題といえば、側仕えに必要な技能の中に『菓子作り』が含まれていないことくらいだ。
「小麦粉、卵、バター……げっ砂糖こんなに使うのかよ!? 太るわけだな……」
「ボウルを洗ってきました、これに材料を入れればいいのですか?」
「おー……あっおい待てボウルちゃんと拭いたか?」
「え?」
「あー!」
2月13日の夜。厨房から聞こえる声を聞きながら、リチャードは珍しく自分が不機嫌であると自覚していた。なにせアドルフから直々に半休をお願いされ、半日前から顔を合わせていない。
時期が時期なだけに少し浮ついた気持ちになりながらも、過度の期待を寄せずに暇を与えたのが6時間ほど前、同時に休みを申し出た側仕えが最愛のアドルフと街に出かけたと聞いたのが5時間前、戻ってきたのが3時間前。何やら甘い匂いを全身に漂わせながら難しい顔をしていた。それから二人は厨房に篭りきりだ。
二人の死角に立つとそっと壁にもたれ掛かり、聞き耳を立てる。
「で、どれが美味しかった?」
「ええっと、最初に食べた……丸い……」
「マカロンは難しい。次」
「ではチョコレートがコーティングされてた……」
「湯煎はお前にはまだ早いからチョコ菓子は駄目だ。なるべく火を使わないやつな」
「では、では……カスタードプディングは……」
「……作り方わからねえ! 悪かったな!」
結局取れる選択肢が少なく、当初予定していた通りクッキーに決まったようだった。
「悪いな、どうせなら凄いもの作ろうって街中歩き回ったのに」
「いいえ、とても新鮮でした。お店の中でお菓子を食べるなんてリチャード様とも経験がないのです」
「え? やべー、それ旦那様には秘密な。俺が殺される」
半分笑いながら言っているが、もう遅い。下心など全くない善意で行われたことだとわかっていても、リチャードは自分が嫉妬で気分を害しているのがわかった。
善意の行為であれば全て許せるとは思わないが、この場合は二人に何の落ち度もない。早くこの場を離れないと、自分の醜い嫉妬で二人を邪魔してしまいそうだ。だというのに、中の様子が気になって地面に根を張ったように脚が動かない。
中では楽しげな笑い声が聞こえていた。床に卵を落としたり、型取りが上手くいかなかったり、余熱を忘れていたりと四苦八苦しているようだったが、アドルフは楽しそうだった。
その笑顔はリチャードがいつも見る、はにかむものと違うように思えた。
「…………」
今更、自分の手の中に一人の人間を閉じ込めておくことの不自由さと理不尽さを感じる。もっと違った道があれば、アドルフは多くの友人に囲まれた生活を送っていたかもしれないのだ。
だが、手放してやれない。たらればの話に意味などなく、アドルフは奴隷に生まれリチャードはそれを買った。生かすも殺すも自由の命を手元で大切に育てている。それに後ろめたさを感じることはない。そして誰もそのことを責めないだろう。アドルフ自身でさえも。
バターの香り高い匂いが厨房の外にまで漂ってきた頃、はっきりと「できた!」と言う声が聞こえた。慌てて厨房のそばを離れる。
あとのことは知らない。ただ、その日はアドルフと夜を共にしなかった。彼はリチャードの元へ訪れなかったからだ。
翌日目を覚ますと、ベッドサイドに見慣れないものがあった。コップに注がれた牛乳と皿に盛られたクッキー。
「……?」
リチャードも今は三十路を過ぎた男だが、昔のまだ少年と呼ばれる年齢だった頃、覚えがある。これはクリスマスの夜に用意するサンタ宛のプレゼントだ。
どうにも知識が混在している気がする。だが、これで昨晩アドルフが来なかった理由は理解できた。
「避けるしかなかったのだな、ベッドへ引き込まれると朝まで寝てしまうから」
「リチャード様、おはようございます」
独り言を言った直後、扉が開く。振り返ったリチャードはそこにいる最愛の格好に目を見開いた。
「贈り物にはこうするのがよいのだと……聞きました」
おず、と躊躇うように身を捩らせるアドルフは昔よりも随分肉付きがよくなった。それがよくわかるのは、部屋に差し込む朝日が彼の身体を余すことなくリチャードの目前に映し出しているから。
大面積の肌色と、局部を覆う太幅のリボン。辛うじて裸ではないが、リボンの中に見えるその下着は娼館の女が身につけるようなものではないか?
思考の止まったリチャードにアドルフが笑いかける。口にクッキーを加えて唇を寄せてきた。
「お受け取りくださりますか? リチャードさま……」
うっとりと頬を染めた誘いを断れるほど、忍耐力を強いてくれるな。
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