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第三部――『きみは、ぼくの花』
■6 *
しおりを挟む誠治は、父の経営する会社に入社すると、夜も昼もなく働いた。
世の中には、学ぶことだらけだった。
父の会社は、一介のIT企業に過ぎない。だが、彼の父親は、きょうだいや親戚の運営する会社や銀行と手を組み、一条グループなるものを形成していた。
誠治は、その舵取りをつつがなく行うための、一齣というわけだ。
会社に入る前は、社長の息子として特別扱いされるのではないかと懸念に加えてほんのすこし期待もしていたが――杞憂だった。
父親よりも年上の男に怒鳴られることもしばしだった。
父は、いい経営者なのだと、思った。
トップに立つものが権力にあぐらをかいていたとしたら、このようなことは起こりえない。社長のプロ意識が全社員に浸透している証拠だ。『息子と思わず厳しくしてやってくれ』それを言うのは簡単だが、周知徹底させるのは難しい。
彼にとって、初めて父が偉大に見えた瞬間だった。
誠治が最初に就いたのは営業職だった。ユーザーのことが分からなければ経営もなにもあったものではない、という父の意図があってのことだとか。誠治は、大口の顧客から個人の顧客まで様々な人間の相手をし、会社への要望や、ユーザビリティ、それに感想などを聞き出した。誠治の父親の会社は、法人相手にシステム開発をするだけでなく、パッケージソフトも開発・販売しているゆえ、ユーザー層は厚い。必然、彼の仕事には話術も求められる。世間の常識。流行にも精通する必要があった。年配のユーザーに対して、孫の話題から入ることもあるのだ。
よって。専門の書籍を読むのみならず、テレビで最新のアーティスト情報や、旅行雑誌に至るまでくまなくチェックした。
勿論、彼の仕事には業務知識も要求される。会社では諸先輩方に叱咤激励を受けながら業務を遂行し。行き帰りの満員電車に揺られながら分厚い書籍を読み。帰宅すればコンビニで買ったラーメンをかき込みながら音楽番組を見る。風呂やトイレの時間も音楽や英語のラジオを聞いていた。
比喩ではなく一分一秒も惜しく。女を抱くどころか自分を慰めることさえろくろくできない日々が続いた。
果たして、自分が社会人としてやっていけるのか。責務を果たしつつも茫漠とした不安が彼を支配していたが。
一年経った頃に、社会人としての自分の輪郭が見えてきた。
顧客や、先輩の笑顔に触れる機会に恵まれた。彼のたゆまぬ努力が、結実したかたちだ。
『一条さんになら任せられる』という台詞も聞けるようになった。
それは、彼が初めて、自身の手で掴みとった勝利であった。皮肉にも、彼の父親が築いた檻のなかでこそ、彼は開花したのだ。もはや、彼を『一条社長の息子』というフィルターを通して見るものは誰もいない。
学生の頃は、すこし事情が違った。小学生の頃に、彼の担任教師が、明らかなえこひいきをしてきたことがあった。褒められるのは常に、彼。美術や書道で受賞するのが必ず彼に固定されていた。クラスメイトの彼に向ける眼差しは冷たかった。
結果は勝ちでも、実質は敗北。彼は惨めに感じた。
誠治の目からすれば、ほかに、もっと賞にふさわしい人間はいくらでもいた。なのに、いつも不相応な冠を被されて、彼は、とても不愉快だった。
以来、彼は、目立たぬよう行動をした。意識して日陰の道を歩いた。そうすれば、誰に妬まれることも恨まれることも憎まれることもない。こっぴどいいじめを経験したわけではないが、感情の軋轢が彼には煩わしかった。ただでさえ親にはハイレベルの振る舞いを要求されているのだ。それ以上のなにものも避けたかった。
そんな彼が小さな反抗を始めたのは高校を卒業する頃だった。
執事も召使いもいる豪邸に住んでいたわけだが、彼は、一人暮らしを希望した。決められたレールに従って生きるのなら、せめて、大学に通う間くらいは、息苦しい親元を離れたかった。
学部も、将来的な経営者にふさわしいであろう経営学部ではなく、国際学部を選択した。大学の合格を複数得たのち、わざと経済学部の学校の入学金を支払わなかったのだ。父は、浪人することのほうがまずいと考えたらしい。怒りはしたが、最終的には了承した。
実家から一時間以内の距離。親の所有するマンションにて一人暮らしという条件つきではあったが、初めての一人暮らしは、誠治に、パラダイムシフトと呼べるほどの変化をもたらした。
大学の恩師との出会いも影響した。恩師の、人間は主観でしか物事を判断できないという思想は、彼を自由にした。
これまで受けてきた様々な差別や理不尽な扱いは、『思い込み』の成せるわざだと思えば、納得できるとまでは言わないが、溜飲が下がる思いがした。
血が、すべて。
育ちがすべて。
生まれた環境が人間を決める。
そのように思い込む人間は、世の中に多い。だが誠治は、個人主義を標榜する構築主義に触れ、行動や思考の型が人間を決めるという思想を学び、ようやく、部分的にであれど、開放されたのだ。
自分の内側に潜む、自分に対する、『かくあるべき』という鎖から。
そして彼は恋に落ちた。相手の女性に告白できぬような過ちも重ねたが、それらは、初めて彼が自分の人生に立ち向かった結果でもあった。
彼自身に積極的にフィードバックされたわけではないが、彼に対する上司の評価は高かった。『我慢強い』『ガッツがある』『飲み込みが早い』入社三年以内に正社員の三分の一が退職する時代だ。彼のような努力家は重宝された。
自分自身が努力することにより、周りの評価も変わり、信頼を得る――この一連のプロセスは、誠治を変質させた。
おどおどした表情は消え去り、ピンチのときにも悠然と笑みすら浮かべられるようになった。
しかし、彼自身途上であるから、よってマネージャークラスの人間にときとして現れる、自尊や高慢とも無縁であり、彼は一貫して謙虚さと低姿勢を保った。
他方、みなぎる自信を抑えこむにはまだ若すぎたわけで――周りを冷静に観察し分析することが求められる彼には、同じ会社の女性が彼にどういう視線を注いでいるのかが見えていた。
都度、彼は、やんわりと断りを入れた。一度、社内の、九官鳥とあだ名されている噂好きの女性に、自分はゲイだと告白したのは効果的だった。以降、彼が誘われる機会は激減した。一度、顔しか知らない別部署の男性に誘われたのには肝を冷やしたが。別段、誠治は同性愛者に偏見があるわけではないが、彼が好きになるのはあくまで女性のみである。
女のからだに挿入する以上に幸福な瞬間など、彼には見つからない。
彼は。松岡綾乃を思い出さないわけではなかった。だが、思うたび、彼女は、いまごろきっと、ほかの男に抱かれているに違いない。そう言い聞かせ、自分の妄執を突っぱねた。もう、彼が情欲をぶつける相手はいない。あの女のありがたみが分かった。
いまどきハンバーガーを食べる仏教僧よりも強固に色欲を遮断し続ける彼の元に、ある知らせが届いた。
「二次会? やんの? おまえが?」
「そ」電話口の相手は喜びを声に隠さない。隠すつもりもないのだろう。「相手は、なんと、あだっちーなわけよ」
「ふーん。そっか。おめでと」
「おっまえさあ……」相手が肩を落とす様子が目に浮かぶ。「もっと、振りでもいいからさあ、驚いた振りしろよ」
「驚いてるよ。ちゃんと、ぼくは驚いている」たまらず誠治は笑った。この男と、花嫁となる相手は、確かに学生時代は顔見知り程度で、盛りあがる様子など見られなかった。
それが、卒業後に再会してみれば、結婚するまでに至るわけだから、人生、なにが起きるか分からない。
「それにしてもさあ」誠治は、しみじみと呟いた。「二次会程度で、わざわざ全員に電話して回ってるわけ? 大変だなあ。メールですませりゃ、いいじゃん」
と言いつつ、ひとりひとりに電話をする彼の姿勢に誠治は好感を持った。
「分かるけどさあ、一生に一度のことだからさ、手間なんか惜しみたくないんだよ」気持ちのこもった感じで相手は答える。「せっかくみんな時間作って来てくれるわけなんだしさ」
世の中の花嫁花婿が、みんなこのような殊勝な心がけを持ってくれていたら。
誠治が結婚式に出席したのは、まだ大学を卒業して二年足らずということもあり、三回程度。だが、彼は『顧客』から結婚式にまつわる悲喜こもごもを聞き出した。
ご祝儀が、二万円。……結婚式には出席して頂けるだけでありがたいもの。だが、その話を聞いたときに誠治は眉を潜めた。独身の彼でも知っている。偶数は割り切れるゆえ『別れ』を彷彿させるから避けるべき数字。相手に悪気がなく、世間知らずなだけであればいいのだが。
自分の式には会社が一緒なだけのあまたの人間を呼びつけておいて、いざ自分が呼ばれれば相手の式に一切出席せず。ご祝儀やお祝い品を送るどころか電報も打たない。顔見知り程度の後輩に二次会の司会までをさせ、散々苦労をかけた末に、礼は一斉送信メール一本。
いずれも、息子さんが被害者だ。
他方。ロシア駐在の人間がわざわざ電報をよこし、その内容がユーモアに富んでいるうえに最後にはほろりと泣かせる内容で、皆が涙したとか。
不安がる両親をよそに、幼い妹の面倒を最初から最後まで見きった立派なお姉ちゃんの逸話など――そういった場面にしか見られない人間の強さや優しさに、クライエントの声を通して、誠治は触れられた。
『彼』なら、間違いなく出席者の幸せな記憶に残る式を行うだろうと確信しつつ誠治は口を開いた。「ほんで、大学の連中、どんくらい呼ぶの?」
「正直、きりがないからさあ、一個したまでって決めてるよ」
それを聞いた瞬間。
真っ先に、松岡綾乃の顔が思い浮かんだ。
この、花婿になる彼とは、大学の学祭の実行委員を通じて知り合った仲だ。綾乃も、実行委員であった。彼女は、どんな場所に行っても自分に求められる役割を瞬時に見抜き、献身的に動く。彼も、そんな綾乃のことを高く評価していたようだ。個人的に連絡を取り合うほど仲が良いというわけではなかったが、準備や打ち上げのときに、よく会話をしている様子が見られた。もっとも。この彼はギャル系が好みで、誠治としては、綾乃が彼の毒牙にかからない可能性は否定出来ないが、しかし、極端に低いだろうことを見抜いていた。彼は、タラシだった。
それが。地味系の女とでき婚と来たものだ。
因みに、綾乃に好意を抱いていた小池丈一郎も、同じく学祭の実行委員だった。誠治は、内心、丈一郎を『金魚のフン』と呼んでいた。――あいつは、綾乃の所属するものすべてに参加するのだ。滝沢教授のゼミまで一緒だったのには呆れた。恋心が彼の進路を狂わせていなければいいが。
誠治は、パレスチナ問題を卒論に選ぶゆえ、アメリカの研究を専門とする滝沢教授のゼミには入らなかった。滝沢教授同様、先鋭的な思考を持つ、政治学が専門の、一流の教授に師事した。何故パレスチナ問題かというと、人間がどうしてあんなにいがみあうのかに興味が湧いたのだ。調べても、明確な答えは得られなかったが。思うに、人間は、誰かを憎むために生きている。おれを軽蔑した血縁信者然り。おれに愛と憎しみを植えつけた親父然り。
いずれにせよおれは、確かめられるのだ。
松岡綾乃への想いが、彼女を前にして、いったいどんなかたちで顕在化するのか。
或いは、色あせたセピア色の思い出として消化できるのか。
松岡綾乃が、いったいどんな男と結ばれているのか。
それとも、まだ男を知らないままか。
おれに在学中鋭い目線をよこしつづけた小池丈一郎は、いまでも松岡綾乃を愛しているのか。たぶん、間違いなくそうだろう。誠治は結論した。
すべてを彼女の口から聞き出すことは難しいだろう。
だが、いまのおれにはすべてを見抜ける自信がある。
そのために、入社して以来、たゆまぬ努力を続けてきたのだと彼は自分を誇りに思った。
(待っていろ、綾乃)
それから、二言三言会話をして電話を切った。楽しみにしていることを相手には伝えた。
誠治は珍しく高揚していた。
喉に乾きを感じたが、水など要らない。彼を潤すのは積年の恋だけであった。
誠治は、意識の高ぶりを感じたまま、純粋無垢な綾乃から衣服を剥ぎ取り、艶めかしい裸体をあくることなく頭に描き、右手を駆使してから、ベッドに入った。それでも足らず、誠治は合計三度、抜いた。
久々に嗅ぐ綾乃のバストは、清潔な香りがした。
* * *
渋谷に、十七時。
ガラス張りのオープンな店の前には、既に人だかりができていた。結婚披露宴から続けて出席するメンバーもいるようだ。みな、揃いの白い紙袋を手に下げている。
見知った人間の姿を見つけ、誠治は自分から声をかけた。「よう。久しぶり」
「おー。誠治ぃー」
「おっ、なんだなんだ、誠治じゃねえか。すこし老けたか?」
「老けてなんかねえよ」と誠治は笑った。
友人たちと談笑しながら店に入る。入ってすぐ左手の荷物置きスペースは、誠治と同じようにいま訪れた人間でいっぱいで、朝の通勤電車のように、ごった返していた。
どうにかそこでジャケットをハンガーにかけ、荷物を置き、フロアへと移動すると、今度は後輩たちの姿を見つけた。向こうから声をかけてくれた。
誠治は、たまに同級生の集まりに誘われることはあれど、自分からは積極的に交流を持たない。ただひた走る彼にそんな余裕などなかった。唯一個人的に連絡を取るのは沖縄に帰ったあの親友一人のみ。彼は、事業を起こしたらしく、忙しく走り回っている。誠治よりも先の道を進む友人の話は含蓄に富んでおり、将来、経営者になる立場の人間としても、興味深かった。
二次会にて、彼は、自分が『浮いてしまう』のではないかと少々懸念していたが、これまた杞憂だった。
会えなかった時間が長くとも、昔のようにフランクに語りかけられればたちまち距離など消失する。知人と語り合うのみならず、知人が披露宴でテーブルが一緒だったため仲良くなったこれまた新しい知人と名刺交換をした。
表面上は穏やかに談笑しながらも彼は焦っていた。
松岡綾乃の姿が見当たらないのだ。
彼は、腕時計を見た。開宴五分前。常に、先を読んで行動する彼女にしては珍しい。
誠治が人の輪から離れ、入り口を見たときに――
彼自身が恋い焦がれてやまないその女の姿が現れた。
ひかりをまとい、ゆっくりと。
彼女という存在が圧倒的なのか。ひとが自然と道をあけていく。まるで彼女という存在に導かれ――魅了されているようだった。モーセの十戒の海が割れるシーンを彷彿させる。友達と談笑していた男が、まともに彼女を見た。誠治は、そいつを殴り飛ばしたい衝動を押し殺した。
見事なプロポーションは健在。やはり、誠治は彼女の胸元に目が行ってしまうのだが、白いジャケットの下に着ているのはどうやらベアトップドレス。光沢のあるレモンイエローの生地が上品だ。彼女は、まるでオスカー女優のように堂々としており、かつ、美しい。
後ろからついてくる小池丈一郎がSPのようで、すこし笑えた。相変わらずのようだな、と誠治は内心で彼に話しかけた。
目が合うと、松岡綾乃は微笑し、小池丈一郎は睨みつける。この対応も、対照的だった。
誠治は、彼女たちが移動するに従い、大学の中心メンバーのところへと移動する。
来い。おれのところへ。――綾乃。
誠治の望み通り、彼女たちはちゃんと誠治についてきた。
しかし、輪から一メートルほど離れたところで、誠治は意図的に足を止めた。
「……一条先輩。お久しぶりです」
背中に、愛おしい女の声が降る。
誠治は、振り向きざま微笑んだ。「……相変わらずきれいだね、きみは」
「相変わらずお上手で」くすり、と笑う彼女の唇の動きに誠治の目は引き寄せられる。続いて、邪魔なドレスに隠された胸の谷間も。「先輩、会社のほうはどうですか。大変ですか」
「まあまあ、だね」誠治は彼女を先に行かせ、そして笑いかけた。「でも、充実してるよ。きみのほうは?」
「So so, といったところです」片手を挙げて揺らす彼女の動き。笑顔が夏の日射しのように、誠治のこころを焼いた。
ここで会話は打ち切りとなった。彼女は、先輩方に挨拶に出向き、終わる頃には二次会が開始。主役は、花嫁と花婿。
だが、誠治の目には、ほかのどんな花嫁よりも、彼女が美しく見えた。
誠治は、彼女の後方に立ち、美容室にてセットされたであろう髪を見つめつつ、ひとつの感情に身を焦がした。
(おれは、まだ、おまえを求めている。――綾乃)
* * *
二次会のあとは仲間内でカラオケに行った。人数が多すぎて二部屋に別れ、彼女とも部屋が別になってしまったのは残念だった。
途中、会社から一本電話が入ったため部屋を出た。月曜に対応しても間に合う要件だった。携帯電話を持っていると、こういうときに、嫌になる。皆、自力で考えることを忘れ、他者に頼ってしまうのだ。
ところが、その一本の電話は、誠治に思わぬ幸運をもたらした。
「一条先輩。あの……」
突然後ろから声をかけられ、誠治は驚いた。振り返れば予想通り――松岡綾乃。
咄嗟に彼女の後ろを確かめる。金魚のフンは、不在。
誠治がなにか問いかける前に、彼女が説明を加えた。「……トイレに行ったときに、先輩の姿を見かけて、それで、……待ってたん、です……」
なにか、勇気の要るようなことを告白しようとでもいうのか。
彼女の瞳は、緊張ゆえに見開かれている。
誠治はそれを見据え、柔らかく尋ねた。「ぼくになにか、……話したいことがあるの?」
彼女が首肯する。
誠治は、とうとう、彼女の頭に手を添えた。温かい感触が伝わる。気持ちが血流のように全身に広がっていく。それを感じながら、誠治は、手を離さぬまま、彼女に語りかけた。
「じゃあ、このあと、……二人きりで話そうか」
絶対に離さない。綾乃。
* * *
四次会に行く連中を尻目に、誠治は、彼女と一緒にすこし歩き、タクシーを捕まえた。都内に、一条グループの息のかかったホテルがあるのだ。それを使うのは少々癪だが。もしもというときに、すぐ部屋を取れる。それも、最上の。
そんな展開を期待するなというほうが無茶だ。
誠治は、車内で勃起しないか不安なくらいだった。だから、面白くもない思想家のことを考えつつ、窓の外を眺めた。見慣れているゆえ面白くもなんともない景色だった。
彼女は静かだった。聞き上手で聞き役に回ることが多かったことを思い返す。誠治は、実は、彼女のことをよく知らない。信念の片鱗に触れることはあれど、その実体は掴めていない――それで、よくも恋に落ちたものだ。
これからだよ、綾乃。
きみのことを、もっと教えて。
手を組み合わせ、誠治は祈った。そのときが訪れることを。
松岡綾乃が、彼にすべてをさらけ出してくれるその瞬間を。
タクシーを降り、ホテルの前に立ったときに、彼女の顔に警戒の色が走ったことに、誠治は失望を隠せなかった。
なんだ。きみのためにここに来たっていうのに……。
「ここで、飲み直そうと思ったんだけど、……駄目?」あくまで穏やかに誠治は話しかける。すると、彼女は、「いえ、違うんです」と首を振る。
「ずっと、考えていたことを行動に移すのには、すごく勇気が要って……」
「松岡さん」誠治は、彼女の手を取った。その手は思っていたよりもずっと小さくて、震えていた。「ぼくは、きみの味方だよ。これからも、ずっと……どんなことがあっても」
みるみるうちに彼女の目に涙の膜が張る。誠治は、その変化を見届ける。
彼女の瞳が、すっと細まる。決意を秘めた人間の動き。
やがて、綺麗に紅を引いた唇が動く。
「ずっと、……忘れられなかったんです。一条先輩のことを……」
花の開く瞬間のように、それは鮮烈だった。
* * *
本当なら、その場で「おれもだ」と告白し、思う存分彼女を貪り、抱き潰したかった。だが、さすがに、公衆の門前では憚られる。
上階へ行くエレベーターの動きがもどかしい。着いても、廊下を走るわけにもいかず、誠治は、あくまで平静を装い、ゆっくりと歩いた。
彼女は無言だった。緊張しているのだろう。彼女の言うことが本当なら、おそらく――
「……一条先輩のおうちのホテルなんですか?」カードキーをさしていると不安げな顔で彼女がそんなふうに訊く。誠治は、「厳密には、違うよ」と彼女を先に部屋に入れた。
オートロックなのだから確かめる必要などないのに、一人暮らし歴が長いとドアの鍵をかけているか確認する癖ができてしまう。ドアチェーンをかけ、思いついて『Do not disturb』という掛け札をかけた。
これで邪魔する者はいない。安堵する誠治の耳に彼女の声が届く。
「すっごーい! なにこれ! なにこれ!」
部屋は、252平米。ヨーロッパのホテルをイメージした、アイボリーの内装、そして調度品で統一された格調高いスイートルーム。一泊の値段は誠治の月給を軽く超える。
「ねえねえ! 先輩! ほかの部屋も見ていいですか!」
「いいよ」
答えると彼女の姿はもう見えなくなっていた。無邪気な彼女の姿が、実に、愛おしい。
やがて、ひと通り室内を見て回ると、彼女は息を切らし、こちらへ戻ってきた。「……すっごい。なんですかこの部屋。部屋、ありすぎでしょ……」
誠治は冷蔵庫から取り出しておいたミネラルウォーターを彼女に手渡した。「利用する人間を、きみのように驚かせ、満足させるために、こういう部屋はあるんだよ」彼にとって、部屋はあくまで部屋でしかない。それ以上の価値を持たない。
ダイヤモンドの夜景よりも、よっぽど魅力的なものを、彼は目にしているのだ。
「シャワー、浴びておいで」彼は、彼女がミネラルウォーターを口にするのを待って発言し、視線を感じながらネクタイを緩めた。「きみのあとはぼくも浴びる。……いいね」
このあとの展開は自明。
意志を確認する問いに対し、彼女は緊張した面持ちで「はい」と頷いた。
* * *
誠治がシャワールームを出ると、彼女は、ドレス姿でベッドのうえに座っていた。心もとない、という表情。
無理もない。これから初めて、抱かれるんだから。
――おれが、教えてやるよ、なにもかもを。綾乃。
ダイヤモンドの夜景を右手に、白いベッドのうえでイエローのドレスを身にまとう彼女へと近づいていく。因みに。彼女がシャワーを浴びているあいだに、ホテルにアメニティや着替えを用意させた。それを伝えるのは、いまである必要はないだろう。
誠治は、彼女に近づいてベッドに膝をつくと、彼女の背中に手を回し、静かに、互いのからだを倒していった。
誠治は、重みを預けたうえで、誠治の動きを待つ綾乃の髪を撫でた。瞳のなかの星のひかりに魅了される。
「綾乃……」
「……先輩」
「ベッドのうえでもおれは先輩なの?」と誠治が苦笑いをしてみせると、「あっ」と綾乃が小さく叫ぶ。
「やだもう、ごめんなさい、なんか癖で……」
「いいよ別に」笑って誠治は彼女の頬に触れる。「けれど、ぼくがきみのなかに入ったときには、ちゃんと、誠治、って呼んで欲しいなあ……」
「気をつけます」
「気をつけてもらうっていうより、……ぼくはきみの、乱れた姿が見たい」
両手で彼女の頬を挟み込み、そして彼女にくちづける。最初に口紅。ちゃんと歯磨きもしたんだろう、そういう味がした。
彼女の口内に舌を侵入させると、彼女はディープキスが初めてだということが分かった。
口を離し、誠治は命じる。「ちゃんと、舌、絡ませて。じゃないと、キスじゃないよ」
「……はい」
なんだか彼女は泣きそうな顔をしている。誠治は、気づかない振りをした。次は、胸だ。
本当なら、ドレスの胸元に手をかけて一気に引き下げて思う存分貪りたいのだが処女にそれをするべきではないのだろう。
片手を彼女の首の後ろに添え、あいたほうの手でファスナーを下げていく。
誠治は、最初に彼女の全身をはだかにした。
「だめ、……見ないで、先輩……」
なにを言っているのだこの女は。
確かに、電気は点いている。だが、おれは、何年も恋い焦がれた女を目の前にしているんだぞ。はだかにひん剥いて、飽きるほど見ていたいのは当然ではないか。
「お願い」と言いながら、よりによって胸元を両手で隠す綾乃に誠治は少々失望をした。そこは、男が一番愛撫をしたい部分に決まっているではないか。
ため息を吐き、誠治はベッドから離れ、部屋を真っ暗にする。断りを入れ、ベッドサイドのランプを点けた。これくらい許されないと、やってられない。真っ暗なんて、お化け屋敷でもありえない事態だ。
それから、誠治は自分の服を脱ぐ。そして、再び彼女に覆いかぶさりキスをする。
……彼女。キスが致命的に下手だ。
キスをしたまま胸を揉んでやると、「あ!」とまた彼女が叫んだ。……今度はなんだ。
「……だめ。そんなところ、触らないで……」
誠治は、怒りで頭が沸騰するのをなんとかこらえた。
これから、おれときみは、セックスをしようとしているんだぞ。
胸触らないとかまじありえねえだろ。
「松岡さん、きみは……」声が震えるのはどうしようもなかった。「おれに、抱かれたいの。抱かれたくないの。どっち?」
「えっと……」即答。できないのかよ。誠治は内心で悪態をついた。「わたし、先輩のことがずっとずっと好きで……」
それはさっきも聞いた。同じことを二度繰り返すのは無駄以外のなにものでもない。
「だったら、ぼくにぜんぶ、委ねられるよね」誠治は、無理に笑みを作った。「痛くないようにするし、きみが嫌なことは絶対にしないから、……ぼくに、任せてくれる?」
続く彼女の声は、委員会で聞くときのように、なんだか機械的だった。
「はい、分かりました……」
* * *
男なら誰でも処女を抱くことを夢見るものだが。
いま、誠治が対面している処女は、予想を超えて難儀な女だった。
乳首は簡単に立った。だが、からだはこわばったままで胸を揉みまくっても全然静かなのだ。
不謹慎な例えだが、少女を犯すレイプビデオを彷彿させる。あの少女は、挿れられるとき以外は全然声を出さなかった。あれと同じだ。
誠治は、経験が少ないほうではないと自負している。女はいつも簡単に陥落した。思えばあれは、女の側が抱かれ慣れていることへの自信ゆえなのだろう。
目の前の彼女はなかなか開かない。いろいろと愛撫してみても全然反応がないので、思い切って肝心なところを指で触れてみると「いやっ!」と叫ばれてしまった。
……、
どうすればいいのだろう。
「……恥ずかしいのは分かるけど。ここ、濡らさなきゃ、すごく痛いよ」自分で、言った台詞が逆効果だと分かった。「きみ、……感じて、濡れてきてるのが分かる? ほら、音……」誠治は意図的に音を立てた。
彼女の顔が赤く染まる。息もあがる。よし、効果的みたいだ。
あとは定番の、乳首と陰核攻め。
「ひあっ、なにこれっ」やっと、彼女らしい声が聞こえた。誠治は笑っていじめ続ける。「ぼくの背中に、手を回して……」
「先輩……」
なんど言ったら分かるのだろう。『誠治』と呼べと。
穴の周辺が、ようやく、柔らかくなってきた。頃合いか。
誠治が避妊具を装着していると、彼女が身を起こして誠治を見てきた。……怖いのだろうか。
誠治は、優しく彼女の頬にくちづけた。「……大丈夫。優しくするから」
「は、じめて、なんです、わたし……」
「それは分かってる」
「ふえっ?」彼女が驚くことのほうが誠治には驚きだった。「な、なんでですか、わたし、仲の良い友達以外の誰にも言ってませんよ」
「当然だろ」誠治は、彼女の背中を支えながらゆっくりと倒れこんだ。「きみは、大学一年のときからずっとおれが好きだったんだから」
膣口に男根をあてがうと、彼女の綺麗な顔がすこし歪んだ。なんだその反応。
セックスは、明るく楽しく行うものじゃないのか。
苛立ちを胸の奥にしまいつつ、誠治は彼女に告げる。「挿れるよ」
「――は」
い、た……っ!
彼女が小さく叫ぶのを彼は聞いた。あれだけ濡らしたんだからそんなはずはないのに。でも、ここで止めると悲惨なことになる。
「力、抜いて」誠治は彼女のなかを押し進みながら命じる。だが、彼女は歯を食いしばるばっかりで。
なんだこのレイプもどきのセックス。
誠治は、すこしでも彼女を楽にするようキスをした。普通、挿入時の接吻は相当盛りあがるものだが、相変わらず彼女はぎこちなく。舌を絡ませれば避けるときた。それじゃあ、いつまで経っても楽にならないよと説教したい気持ちだった。
挿れきったときに彼女のからだを抱きしめにいった。柔らかい豊満な乳房が潰れる。彼女の背中は汗をかいていた。
誠治は彼女の目を見つめた。「ぼくのこと、……好き?」
「大好き、です」
痛みをこらえる彼女がなんとも健気だ。誠治は彼女と繋がったまま、背中を丸め、彼女の最も弱いだろう乳房に舌を這わす。やだ、だめ、そんなとこ舐めちゃ、と言われようが、知ったことではない。
これで痛みもすこしは和らいだだろう。
誠治は、頷いた。今回は、これでいい。仕方ない。
そのまま引き抜こうと思ったのだが、――背中に伝わる感触。
彼女が、誠治の背中に手を回したのだ。……どうしたのだろう。
「だめ、です、先輩……」到達直後の彼女はまさに妖艶。顔をしかめている表情が男を魅了するのに効果的でさえある。「わたしで、ちゃんと、気持ちよくなってください……」
健気な発言。だが『誠治』だと言えと何度言えば。
相反する二つの感情に相対しつつ、誠治は彼女の頬を撫でた。「無理だったら途中でもちゃんと言うんだよ、誠治って」
潤んだ瞳で頷いた彼女のことは、生涯記憶していたいと思った。
* * *
夜景のなかに散らばる星に似た明かりが部屋を明るくしてくれている。それでも、彼らに、漆黒の闇を覆い尽くすほどの力はない。
窓に透けて見える自分の顔は、亡霊のようだ。
ホテルの最上階。最上のスイートルームにて。長年想い合っていた二人がようやくして結ばれる。
条件は、こんなにも整っているのに。
煙草の火をもみ消し、誠治はテーブルに乗せた手を組み合わせる。
なにか、ボタンを掛け違えたかのようなセックスだった。あんなに好きだった相手だというのに、こんなもんでいいのか?
疑問を、誠治は胸のなかに押し込めた。
……回数を重ねればすこしはマシになるだろう。セックスも、キスも。
誠治は振り向き、ベッドのうえでこんこんと眠り続ける彼女の裸体を見つめた。わざとうえにシーツはかけていない。
寝ていても高さを保つあの膨らみ。質感。
間違いなく極上。
だが拙さといったら……。
誠治は、二本目の煙草に火を点けた。学生時代は、煙草に憧れる連中の気持ちがさっぱり理解できなかった。彼らは大概マーク・パンサーの言うとおり『KOOL』になりたいからこそ煙草を吸う。暇だから煙草を吸う。学校の裏でこそこそと。女との待ち合わせ時間を持て余して吸う行動原理が誠治には分からない。暇なら本を読めばいいし、あんなまずいものをなにしに吸うのか。
そんな誠治でも、社会人になった途端、煙草を吸うようになった。というのは、会社の喫煙室は情報の宝庫。違う部署の人間に容易に接近できるのだ。社内で、社長の息子たる誠治のことを知らない人間はいなかった。向こうから勝手に距離を置かれる場合も多い。だから誠治は無知を装った。わざと負けてやることもあった。彼らを自己満足に浸らせるため。そこまでして構築しなければならない関係性というものが――得なければならない情報というものが、往々にして世の中にはあるのだ。
一条誠治は再びヴィーナスの裸体を見つめた。あれほどふくよかではないが、紛れもなく美しい裸体だ。これまで出会ったほかのどんな女よりも。
女は、抱かれるときに演技をするという。けども誠治の知るかぎりでは松岡綾乃はそのようなタイプではない。
一条誠治は、予感した。
熟したからだ。だが未熟な精神。
あのアンバランスさにいつか夢中になる男がいるのかもしれない。
だがそれは、おれではない。
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