華麗なあなたと契約結婚

美凪ましろ

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#01.そんなあなたと契約するまで

#01-02.溺愛注意報

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「えー本日のお勧めはリブシンです」爽やかな印象の青年がメニューの書かれた黒板を手に持ち、「リブシンとは、サーロインの一種。A5ランクにあたる最高級のお肉で、めちゃ、めちゃ、美味しいです。お勧めです!」
「じゃあそれを」目を細めて笑う広坂。「他に、……夏妃くん。食べたいものは、あるかい……?」
 ちょっとお高めだ。一人焼肉のへっちゃらな彼女だが、行くのはいつもリーズナブルなお店。ところが店員さんお勧めのリブシンは100gでなんと2300円。とてもじゃないけど、彼女には出せない値段だ。
 表情で読み取ったらしい。広坂は微笑し、「ここで女の子に支払わせるほど、野暮な男じゃないよぼくは。好きなものはなんでも頼みな? ここ、なんでも美味いんだから、まじで……。
 ああそうだ、塊のベーコンが好きなら、ポテトサラダがお勧めだ。他にはそうだな……上ハラミとロースが食べたいな。夏妃くんはなにか、嫌いなものや、食べられないものはある?」
「ありません、全然……」と彼女は首を振り、「ああ、じゃあ、ポテトサラダ、食べたいです……あと、あればオイキムチも」
「あったと思うよ」ここでドリンクが運ばれてきて、お互い生ビールで乾杯。ビールの美味い季節がやってきた。ところが、六月だというのに、まだ暑い夏の訪れる気配はない。梅雨が遅れ、九月も暑いそうだ。ジョッキでぐいぐい飲むと、「あー美味しい!」と彼女は顔をほころばせる。「お仕事のあとのビールって本当、最高ですね!」
「……結構、飲むの?」
「毎週金曜は、ご褒美に、家でビール飲むって決めてます。ああ、そうだ、注文でしたね……」小さなメニューを二人で覗き込むと広坂の距離が――近い。顔を傾けさえすればキス……出来ちゃいそうだ。電車内では、たわいもない雑談に終始した。広坂の胸中は、分からない。何故……、彼女に契約結婚を勧めたのか。
 けれど、彼女はひとまず、この場の雰囲気、お料理、広坂との会話を楽しむことを優先した。でなければせっかくセッティングしてくれた広坂に失礼だ。個人経営で、テーブルが五つ、二十人も入ればいっぱいになりそうな、こじんまりとしたお店は、広坂と同じく、予約をしたひとたちで、いっぱいだ。
 カウンター内で調理する店主は、丁寧に料理の説明をしてくれた。「お嬢さん、ハラミはお好きですか? うち、ハラミが美味しいんで是非――。ね。広坂くん!」
「ありがとうございます」と彼女は頭を下げた。「わたし、ひとり焼肉平気で行くんですけど、なんか、……めちゃめちゃ美味しそうで、期待してます」
 ははは、と店主が笑った。白髪の、でも若々しい印象の、感じのいい男性だ。「こんな可愛いお嬢ちゃんにそんなこと言われちゃったら、おじさん張り切っちゃうなあ」
「――大将。駄目ですよ。おれ、この子にべた惚れなんですから」言って広坂は彼女の手を取り、その甲に――キスをした。彼女は驚いた。なまあたたかく濡れた広坂の唇の感触、そのうるおいが津波となって彼女の胸に、迫った。手にキスされただけでこんなになるなんて初めてだ。しかし、そんな彼女の変化に気づかず、大将は、「そっかそっか。ねえお嬢さん。リブシンはこれなんだよ」
 言って店主が、ステーキ肉の塊を掲げる。その店にいる皆が釘付けになる。カウンターキッチンが、店内を見渡せる作りとなっている。「美味しいんだよぉう。他では食べられないから、是非、食べてって」
「ありがとうございます」と彼女は頭を下げた。「お腹空いてるんで、もりもり食べちゃいます!」
 小さく手を振り、店主は会話を打ち切った。……が。
「ひ、ろさかさん、あの……」わざとなのだろうか。広坂は彼女の手を握りしめたままだ。握るといっても、力は強くない。意図的に入れていないのだろう。彼女の感触を味わうようなやさしさを伴ったものであり、その――感触。不思議と、手を重ねているだけなのに、胸が、苦しくなる。こんな感覚――初めてだ。広坂とてそれは同じらしく、
「なんか、きみの感触、気持ちいいね……」言って広坂は指と指を絡ませる。「華奢で、しろくて、小さくて……保護欲をそそられるよ」
「わたし――守って貰うような、弱いタイプじゃ、ありませんよ。自分のことは、自分で、出来ますし……」
「――強がるあなたも好きだけれど、もっと違うあなたも――見てみたい」
 広坂の目は、真剣だった。けれど彼女は思う。結婚、ではなく、契約結婚、と言わなかったか? つまりそれは、愛のない男女が行きがかり上、なにかしらの事情で行うものだ。
「ひ、ろさかさんて……『ぼく』と『おれ』のときがあるんですね……」
 彼女の発言に「ああ」と広坂は応じた。「迫力を出したいときは『おれ』呼称で、普段は『ぼく』かなあ?」
「そっか」広坂のぬくもりを感じながら彼女。「さっき、……『おれの夏妃』って言ってくれたのすごく……嬉しかったです」
「嬉しい?」広坂の疑問に慌てて彼女は応じた。「いや、別に、その、……他意はないです。おれの夏妃だなんて、普段言われませんから……どきどきしちゃった、それだけです」
「――夏妃」まっすぐ見つめられ、心臓にときめきを覚える。「おれのものになる? おれに――抱かれたい?」
「いやっ、なっ、その……」広坂みたいな美青年に言われ、悪い気はしない。それどころか歓迎だ。いますぐ、失恋の痛手を忘れられるくらいの、めちゃくちゃなセックスをして欲しい――と乞う自分自身を、彼女は自分のなかに発見してしまう。
 ここで、料理が届いた。無煙ロースターの下の焼肉コンロで、手際よく広坂が焼いていく。「手、離すね?」離されるのが惜しまれた。でも、仕方ない。彼女はビールを飲んだ。そして、焼けたばかりのお肉を頬張る。――美味い!
 脳細胞に衝撃が走る。こんな美味しい肉、食べたことがない……! 噛み応えがあって味わい深くって、噛みしめるたびに暴力的なまでの旨味に、支配される……いままで食べてきた肉はなんだったのかと問いたくなるくらい。
 彼女は食べたのはタン塩だ。リーズナブルな店に行くとまるいかたちの遠慮がちで薄ーい肉が出てくる。――が、この肉といったら、厚みがあって、噛み応えがあって――最高。目から自然涙が湧いてくる。美味しすぎて泣けてくるなんて生まれて初めての経験だった。ほろほろ涙を流す彼女の頭を広坂がぽんぽん撫でる。「美味しいね。ぼくは、幸せ……」泣くことを諫めるどころか、彼女を気遣う発言をする広坂。彼は彼女のためにずっと肉を焼いてくれた。食べるたびに彼女は「うきゅー!」と喜び悶え、広坂を笑わせていた。「気持ちのいい食べ方をするんだね、あなたって。見ているこっちが幸せになるよ……」
 タン塩とカルビロースハラミ、ポテトサラダを平らげたところでいよいよリブシンの登場。見た感じ、脂のさしの入ったステーキ肉だ。どう見ても旨そうだ。店員は、「お時間十分ほど置かれると、お肉がいい具合になりますので、そうしたら焼いてお召し上がりください。塩とわさびをつけて食べるのが、お勧めです!」
 すると広坂が、「飲み物お替りする? なにがいい? ぼくはマッコリにするけど……」
「あーわたしマッコリ飲みたいです」
「じゃあマッコリ二つ」
 爽やかなその店員は「かしこまりました」と笑みを見せ、スマホで素早く打ち込む。……へえ、と彼女は感心した。いまどきは、スマホがハンディ替わりになるのか。世の中、変わったなあ、と。彼女の行く焼肉の店では、いまだ手書きの店も珍しくはない。リブシンが室温に戻るまでのあいだ、彼女は、気になっていたことを聞いてみる。「広坂さん、よく来られるんですか? このお店……」
「やー過去三回ほどかな。友達夫婦と、野郎ひとりと、あとは両親も連れてきたことがあったなあ……引っ越し祝いんとき」
「広坂さんて、実家暮らしでしたっけ?」
「まさかまさか。それなら、きみのことを、誘わないよ……両親は横浜のほうに住んでいて、ぼくは一人暮らしさ。マンション探してたらさぁ、たまたまいい物件が見つかったんで、それで、ローン組んでる」
「えっ分譲なんですか。買ったんですか」
「まだ返済中。十一年前……そのあと、ムサコバブルが始まったから、ここいらの株もどんどんあがってるよ……うちはファミリータイプのマンションなんだけど、売りに出てた物件の値段見たら、買ったときよりもあがってた。びっくりだね」
「……差し支えなければ、購入した経緯などを、お聞かせ願えますか……?」
「んー」と広坂はジョッキを空にすると、「だって、勿体ないじゃない。老後のことを考えたときに、賃貸の家賃を払い続けるよりかは、返済終わっていて、管理費だけになったほうが安いし、定年後に売却するって手もあるからね……。資産運用としても有効だ。
 それに、ぼく実は軽い閉所恐怖症なんだよね……。六畳以下の、密封空間が駄目で。ワンルームとか完全アウト。会社みたく広い場所なら平気なんだけどさぁ……電話ボックスや聴力検査のボックスとか、あとは……二人乗りのスポーツカーとか駄目だったかな。だから学生んときの飲み会とか苦労したよ。ほら六畳一間の友達んちに集まって飲んだりするだろう? 酒飲んでても急にぞくっと来ちゃって。ドア開いてたらなんとかなんだけどね。何故か動く乗り物は平気なんだけど、アパートの一室とか『閉ざされてる』感が強いところが苦手で。深呼吸したり俯瞰する自分作ったりしてどうにか凌ぐんだけどさぁ」
「苦労されてますね」と彼女。「えーとでも、こういうお店は平気なんですか?」
「居る相手にもよるね。その、……信頼する相手と一緒だと、割りかし平気だ」
「そっか……大変ですね」気づかわしげに言う彼女に、ぼくの話はいいんだ、と広坂は手を振り、「『あの』話をしないとね」と話を戻す。
「……つまり、いやになったらやめてもいい。誰か別のひとを好きになった時点で終了。
『関係』もない。ベッドはそうだなあ……クイーンサイズのがあるんだけど、抵抗あればぼくはしばらくソファーでもいいよ」
「……ひとりに、なりたく、ないです……」彼女は思う。もう、あの孤独には戻りたくない、と。彼氏がいつ来るのかを待ち構え、寂しくシングルの布団で眠る日々を。彼氏が、他の女を貪り、彼女の純潔を汚すのを――知りながら。
「じゃあ、抱きしめ合いながら、眠る……?」
「なっ」顔を赤くする彼女にくつくつと広坂が笑った。「あなたの反応って、すごく可愛い。すごく、素直で純粋な、あなたのことが――大好きだよ」
 ――いま、なんと。
 広坂は、同じ会社とはいえ、別部署の人間だ。新卒で入った彼女はいろんな部署に回され、別部署の仕事を一通り経験した。そこで、広坂の下で働いたこともある。また、総務に戻ってからも、名目上は総務部所属の彼女であるが、忙しい他部署の手伝いに駆り出されることもある。面識はあり、短期間であれど一緒に仕事をしたことがあるので、うっすらであれど、広坂の人柄は分かっているつもりだ。彼は、偉い立場の人間にも関わらず、その権威を振りかざすことなどなく、一介の平社員である彼女にも親切に、フラットに、仕事を教えてくれた。
 その広坂が、あろうことか自分を、好き、だと……?
 驚きに目を見張る彼女に広坂が補足を入れる。「その、……リブシンも、きみも、大好きだってこと……。ところでそろそろ十分経つよね。焼こうか?」
 リブシンというステーキ肉は、食べやすいように縦方向に三、横方向に一つに切られている。つまり、六ピースだ。広坂がトングで肉を焼いていくとすごい煙があがる。分厚いステーキ肉から油がしたたり落ち、こちらの食欲を刺激してくれる。「ああ……美味しそう。ところで、広坂さん、そろそろ替わりましょうか? お肉焼くの、大変でしょう?」
「だぁめ。きみは、お姫様なんだから……ぼくの大切な」
 はっ、と広坂が目を見開いた。なんだろう、このひとの反応こそ、いちいち……愛おしい。ところが、広坂は動揺を一瞬にして押し込めて、「お姫様は食べてて。きみのためになにか出来るってことが、ぼくの幸せ、なんだから……男なんだから、格好つけさせなさい。女の子に焼かせるとこなんか大将に見られたら、ぼく、なんて言われるか、分っかんないよ」
 ――そっちなのか。少々、失望する自分を見つけてしまった。つまり、彼女のためというのは方便で、あとで店主にいじられるのを阻止するために、焼いてくれているだけ……。
 ぽろり。
 彼女の目から涙が落ちた。……何故だろう。慌てたのは彼女だ。「いえ、別に、なんでもないんです……ちょっと情緒不安定で」
「はい。焼けたよお嬢様」焼けたばかりのリブシンを彼女の皿に置く広坂。敢えて、なかったことのように接する彼のやさしさが胸に染みた。「実はぼくも食べたことないんだ。めっちゃ期待してる……」
 広坂が自分のぶんを皿に置くのを見届け、ふたりで、リブシンにありつく。――と。
 気絶するかと思った。――美味い。美味すぎる……! 今度は違う意味で涙が流れてきた。じゅわあ、と噛みしめるたび肉の旨味が口いっぱいに広がる。ああ幸せ……!
「美味しい。本当、美味しい……!」涙を拭いながらも箸が止まらない。「こんな美味しいお肉、初めて食べたかも……!」
「あとで写真送るね」抜かりなく、広坂は、運ばれてきたときに写真を撮っていたらしい。「あー。たまらん。幸せぇ……」
 ここで、彼女は、気づいた。……広坂と一緒だから、楽しいのだ。
 ひとり焼肉は、自分のペースで食べられるから、ある意味楽ではあるが……誰かに気遣いをしなくてもいいという観点において。だが、広坂の場合は、彼女に『合わせて』くれる。それで要らぬ負担をかけていないか、気にはかかるものの、しかし、広坂の様子といったらいかにも自然で。彼女の食べ方、それにペースを見計らい、彼女に『重く』ないようにこつこつと焼いてくれる……つき合いの長い恋人のように。
 そのあとは石焼ビビンバやチャンジャやぷりっぷりのいくら丼を平らげ、店主に挨拶をして店を後にした。店を出たあとの彼女は、幸せでいっぱいの気分だった。「ご馳走様です」と広坂に頭を下げ、ひとまず、広坂のマンションへと向かう。
「……待って」ミントのガムを手渡される。お会計のときに、渡されたらしい。商店街のアーケードを抜けたところにあるその店の周りは、人通りが少ない。来た時よりも随分と空が暗くなったな、と思いながら広坂と並んで歩けば、切なげに広坂が、

「……キス、したい。駄目かな……」

 爆弾発言が待っていた。

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