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心温まり、冷やされる
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私はアイシングを入れた絞り袋の先を、慎重に丸型のクッキーの上に向けた。それから、ゆっくりと円を描くように絞り袋を動かしていく。丸型は初心者向けの形なので、普段であれば容易なことである。
しかし。途中で絞り袋を握る手が震えてしまい、アイシングはクッキーからはみ出てしまったのだった。
「っ、また失敗だわ」
失敗作となったクッキーを皿に置きながら、私はため息を吐いた。皿にはすでに、アイシングを失敗したクッキーの山が出来上がっていた。
クラーラがリシャルドを褒美として求めたことは、次の日には宮殿内でも周知の事実となっていた。
使用人たちが私に直接何かを言ってくることはないが、変に気を使われているのは嫌でも分かる。クラーラのことはなるべく考えないようにすると決めていた。しかし周囲にそんな態度をとられると、つい彼女のことが頭をよぎってしまうのだった。
それに加えて、今日は公務がない休みの日なので、仕事に没頭することもできない。趣味のお菓子作りでもして気を紛らわそうと思ったものの、この有様である。
「……もうそろそろお茶の時間だし、全部自分で食べちゃいましょう」
ため息を吐いてそんな独り言を呟いていると、厨房のドアから可愛らしいノックが聞こえてきたのだった。その音だけで、誰が来たかを知るには十分である。
扉を開けると、私の予想通りイェジィが立っていた。その表情には、「今日のお菓子はなあに?」とはっきり書かれていたのだった。
「ふふっ。イェジィ、いらっしゃい。今日はヒヨコちゃんと一緒なのね」
イェジィは宮殿内を散歩する時、決まって動物の形をしたポシェットを持ち歩いている。彼が‘‘連れ歩く’’動物は日によりけりなのだが、今日は黄色のヒヨコだったのだ。
「うん! 見て、ヒヨコちゃんのお首。スタイを巻いてもらったんだ!」
見ると、ヒヨコの首周りにはチェック柄の布が巻かれていた。おそらく、裁縫の得意なメイドが作ってくれたのだろう。
「あら、可愛いじゃない。とってもお似合いだわ」
「えへへ」
「こら、イェジィ。お義姉様の邪魔をしちゃダメでしょう?」
イェジィを追うようにやって来たのは、義母上だった。
「ユスティア、ごめんなさいね」
「いえ、ちょうどお菓子作りも終わったところでしたので、お気になさらないでくださいな」
「あら、そうなの。だったら、良ければ一緒にお茶にしない?」
「ね、今日のお菓子はなあに? おねえ様! この匂い、もしかしてクッキー!?」
爛々とした目でイェジィに見つめられ、申し訳なさでいっぱいになる。とはいえ、失敗したものを食べさせる訳にはいかないので、私は仕方なく首を横に振った。
「ごめんね、イェジィ。クッキーを焼いたんだけど、全部失敗しちゃったの」
失敗したクッキーを山積みにした皿を見せながら、私は言った。
すると、義母上はとんでもない一言を口にしたのだった。
「あら、とっても美味しそうじゃない。ね、イェジィ?」
「うん! 僕、おねえ様のクッキー食べたい!」
「っ、お、お義母様、その……アイシングもはみ出てみっともないので、召し上がっていただく訳には……」
「このくらい、大丈夫よ。さ、食堂でお茶にしましょうか」
「わーい!」
こうして、失敗作のクッキーを三人で食べることが決まってしまったのだった。
+
「どれもとっても美味しいわよ、ユスティア」
「あ、ありがとうございます」
アイシングを失敗したクッキーを、義母上もイェジィも次々と口に運んでいく。その様子を見て、私はようやくホッと息を吐いたのだった。
二人共ピンクのアイシングから食べたってことは……機嫌は良いみたいね。
実は私には、お菓子作りとは別にもう一つ特技があった。最初に食べるクッキーの色で、相手の気持ちを大まかに知ることができるのだ。これを私は、「クッキー占い」と密かに呼んでいた。
占い結果も良好なことに安心して、私もゆっくりとお茶を楽しむことにしたのだった。
「ユスティア」
「?」
「今回の件で、貴女が心配することはないわ」
クッキーを食べ終えたところで、義母上はそう言ったのだった。
「リシャルドからお話は聞いたわ。とりあえず、家族全員が貴女の味方だから、安心してちょうだい」
「っ、ありがとうございます」
「ウクラーリフ国王陛下を通じて、きちんとお断りするから。こういう場面には私も主人も慣れてるから、大丈夫よ」
そこまで言って、義母上は頼もしい笑みを浮かべた。その表情は、国の民から愛される王妃にふさわしいものであった。
義母上―――ヨアンナ王妃は、子爵家の出ということで、義父上との婚約が発表された当時は批判の声も多くあったという。
しかし、その評判は瞬く間に覆っていくこととなる。彼女の思いやりのある性格と、頭脳明晰ぶりは、人の心を動かすには十分すぎるものだったのだ。
そしてひとつ、王妃の人気を決定付けた大きな出来事がある。それは、顔の痘痕の治療である。
ラフタシュでは、数年前に痘痕を薄くできる治療法が開発された。それは痘痕に限らず、傷跡や火傷跡などにも使える画期的な方法であった。
しかし、治療には強い痛みを伴うこと、そして複数回の施術が必要ということもあり、なかなか普及しなかった。そんな時に手を挙げたのが、義母上だった。
義母上は以前、病気の後遺症により顔に痘痕があった。それをこの治療法で治すことを、彼女は決めたのである。
『過去の傷と共に影で生きるのではなく、辛さを乗り越えてでも日向で生きるという新たな選択肢を示す。それが、国の代表である王妃としての役目だと私は思うのです』
王妃の言葉は、多くの人の心を打った。そして彼女は苦しい治療期間を経て、痘痕のほとんど消えた肌を手に入れたのである。
義母上の勇気ある行動は傷を持つ者に勇気を与え、治療を受ける人々は増加したという。
そんな彼女に心強い言葉を掛けられると、自然と心が落ち着いてきたのだった。
「ありがとうございます……お義母様」
「気にしないで。しばらくは好きなことをしてのんびり過ごしなさいな」
そこまで話していたところ、食堂に義父上がやって来たのだった。
「貴方、お帰りなさい」
「ああ、ただいま」
とは言ったものの、義父上はかなり浮かない顔をしていた。
「あら、どうしたの?」
「それがな……ウクラーリフの聖女殿の件、少し面倒なことになるかもしれないんだ」
せっかく温まった心が再び冷えていくのを感じたのは、言うまでもない。
しかし。途中で絞り袋を握る手が震えてしまい、アイシングはクッキーからはみ出てしまったのだった。
「っ、また失敗だわ」
失敗作となったクッキーを皿に置きながら、私はため息を吐いた。皿にはすでに、アイシングを失敗したクッキーの山が出来上がっていた。
クラーラがリシャルドを褒美として求めたことは、次の日には宮殿内でも周知の事実となっていた。
使用人たちが私に直接何かを言ってくることはないが、変に気を使われているのは嫌でも分かる。クラーラのことはなるべく考えないようにすると決めていた。しかし周囲にそんな態度をとられると、つい彼女のことが頭をよぎってしまうのだった。
それに加えて、今日は公務がない休みの日なので、仕事に没頭することもできない。趣味のお菓子作りでもして気を紛らわそうと思ったものの、この有様である。
「……もうそろそろお茶の時間だし、全部自分で食べちゃいましょう」
ため息を吐いてそんな独り言を呟いていると、厨房のドアから可愛らしいノックが聞こえてきたのだった。その音だけで、誰が来たかを知るには十分である。
扉を開けると、私の予想通りイェジィが立っていた。その表情には、「今日のお菓子はなあに?」とはっきり書かれていたのだった。
「ふふっ。イェジィ、いらっしゃい。今日はヒヨコちゃんと一緒なのね」
イェジィは宮殿内を散歩する時、決まって動物の形をしたポシェットを持ち歩いている。彼が‘‘連れ歩く’’動物は日によりけりなのだが、今日は黄色のヒヨコだったのだ。
「うん! 見て、ヒヨコちゃんのお首。スタイを巻いてもらったんだ!」
見ると、ヒヨコの首周りにはチェック柄の布が巻かれていた。おそらく、裁縫の得意なメイドが作ってくれたのだろう。
「あら、可愛いじゃない。とってもお似合いだわ」
「えへへ」
「こら、イェジィ。お義姉様の邪魔をしちゃダメでしょう?」
イェジィを追うようにやって来たのは、義母上だった。
「ユスティア、ごめんなさいね」
「いえ、ちょうどお菓子作りも終わったところでしたので、お気になさらないでくださいな」
「あら、そうなの。だったら、良ければ一緒にお茶にしない?」
「ね、今日のお菓子はなあに? おねえ様! この匂い、もしかしてクッキー!?」
爛々とした目でイェジィに見つめられ、申し訳なさでいっぱいになる。とはいえ、失敗したものを食べさせる訳にはいかないので、私は仕方なく首を横に振った。
「ごめんね、イェジィ。クッキーを焼いたんだけど、全部失敗しちゃったの」
失敗したクッキーを山積みにした皿を見せながら、私は言った。
すると、義母上はとんでもない一言を口にしたのだった。
「あら、とっても美味しそうじゃない。ね、イェジィ?」
「うん! 僕、おねえ様のクッキー食べたい!」
「っ、お、お義母様、その……アイシングもはみ出てみっともないので、召し上がっていただく訳には……」
「このくらい、大丈夫よ。さ、食堂でお茶にしましょうか」
「わーい!」
こうして、失敗作のクッキーを三人で食べることが決まってしまったのだった。
+
「どれもとっても美味しいわよ、ユスティア」
「あ、ありがとうございます」
アイシングを失敗したクッキーを、義母上もイェジィも次々と口に運んでいく。その様子を見て、私はようやくホッと息を吐いたのだった。
二人共ピンクのアイシングから食べたってことは……機嫌は良いみたいね。
実は私には、お菓子作りとは別にもう一つ特技があった。最初に食べるクッキーの色で、相手の気持ちを大まかに知ることができるのだ。これを私は、「クッキー占い」と密かに呼んでいた。
占い結果も良好なことに安心して、私もゆっくりとお茶を楽しむことにしたのだった。
「ユスティア」
「?」
「今回の件で、貴女が心配することはないわ」
クッキーを食べ終えたところで、義母上はそう言ったのだった。
「リシャルドからお話は聞いたわ。とりあえず、家族全員が貴女の味方だから、安心してちょうだい」
「っ、ありがとうございます」
「ウクラーリフ国王陛下を通じて、きちんとお断りするから。こういう場面には私も主人も慣れてるから、大丈夫よ」
そこまで言って、義母上は頼もしい笑みを浮かべた。その表情は、国の民から愛される王妃にふさわしいものであった。
義母上―――ヨアンナ王妃は、子爵家の出ということで、義父上との婚約が発表された当時は批判の声も多くあったという。
しかし、その評判は瞬く間に覆っていくこととなる。彼女の思いやりのある性格と、頭脳明晰ぶりは、人の心を動かすには十分すぎるものだったのだ。
そしてひとつ、王妃の人気を決定付けた大きな出来事がある。それは、顔の痘痕の治療である。
ラフタシュでは、数年前に痘痕を薄くできる治療法が開発された。それは痘痕に限らず、傷跡や火傷跡などにも使える画期的な方法であった。
しかし、治療には強い痛みを伴うこと、そして複数回の施術が必要ということもあり、なかなか普及しなかった。そんな時に手を挙げたのが、義母上だった。
義母上は以前、病気の後遺症により顔に痘痕があった。それをこの治療法で治すことを、彼女は決めたのである。
『過去の傷と共に影で生きるのではなく、辛さを乗り越えてでも日向で生きるという新たな選択肢を示す。それが、国の代表である王妃としての役目だと私は思うのです』
王妃の言葉は、多くの人の心を打った。そして彼女は苦しい治療期間を経て、痘痕のほとんど消えた肌を手に入れたのである。
義母上の勇気ある行動は傷を持つ者に勇気を与え、治療を受ける人々は増加したという。
そんな彼女に心強い言葉を掛けられると、自然と心が落ち着いてきたのだった。
「ありがとうございます……お義母様」
「気にしないで。しばらくは好きなことをしてのんびり過ごしなさいな」
そこまで話していたところ、食堂に義父上がやって来たのだった。
「貴方、お帰りなさい」
「ああ、ただいま」
とは言ったものの、義父上はかなり浮かない顔をしていた。
「あら、どうしたの?」
「それがな……ウクラーリフの聖女殿の件、少し面倒なことになるかもしれないんだ」
せっかく温まった心が再び冷えていくのを感じたのは、言うまでもない。
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