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第三章<空白の谷の魔女編>
13:絵本と閑寂の世界
しおりを挟む見えない壁が割れたことで、その向こうに隠されていた空間が出現する。
驚いていた俺たちだが、その壁が再び閉じてしまわないとも限らないので、相談するよりも先にその中へ向かうことにした。
そこにあったのは谷だ。
視認できないほど遠くまで高い山脈がそびえ立っているのだが、橋を渡る前の渓谷とは違う。その光景は、とても不思議なものだった。
山も谷も空さえも、まるで雪化粧をしているかのように、すべてが真っ白なのだ。
「寒く……はないな。土も木も草も、白い色をしてる……?」
「雪が積もってるってわけじゃなさそうっスね」
グレイがそう言いながら、靴底で足元を擦ってみる。だが、地面の白が消えることはない。
雪が降っているわけでもないというのに、始めからこの空間には色が無かったかのようにも見える。
それ以外は普通の光景に見えるのだが、何となくこれまでとは空気が異なるように思えた。
「魔力が強まっているな……やはり、この場所が空白の谷で間違いないということだろう」
シェーラやルジェが感じている魔力は、この場所に来たことでどうやら増しているらしい。
より魔女に近い空間なのだと考えれば、この場所が目的地であることは間違いないようだ。
「本当に、空白の谷に辿り着くことができたのか……」
にわかには信じ難い思いだが、空白の谷は絵本の中の架空の存在ではなかったのだ。
しかし、あの絵本の中で目にした空白の谷は、真っ暗で恐ろしい印象を受けるような描かれ方をしていた。
それに比べて、この光景はどちらかといえば、まるで正反対ではないだろうか?
「ここまで来られたのなら、あとは魔女を探すだけですね」
「手分けした方がいいスかね?」
「いや、広さも何があるかもわからない場所だ。下手に人手を分散させるより、固まって行動した方が良いだろう。ここから先は、本当に何が起こっても不思議ではない。オレたちにとっても未知の領域だ」
一般人の俺たちと比べても、国王の傍で多くの経験を積んできたはずのルジェだが。
そんなルジェやシェーラをもってしても、魔女のテリトリーとは常識の範囲外の空間のようだった。
少し前までは実在しているとすら思っていなかった存在なのだ。当然といえば当然のことなのかもしれない。
「凄く、静かですよね……渓谷や樹海でもそうだったけど、生き物の気配がしない」
空白の谷は、まるで時が止まったような場所だった。
風も吹いておらず、生き物の声もしない。どこを見ても真っ白で、色が無いせいもあるのだろうか?
なんとなく、俺にはここが寂しい場所のように感じられていた。
(魔女は、こんな場所で一人で過ごしてるのか……?)
魔女の思考回路なんて俺たちにはわからないと言われて、始めは俺もそうだろうと思った。
けれど、こんなに静かで寂しい場所で、魔女は一人でも平気な人物なのだろうか?
自らの意思でこの場所にいるのだろうから、魔女はこの環境を好んでいるのかもしれないが。
「ルジェさん。魔女って、絵本によれば魔獣と同じように恐れられてる存在なんですよね?」
「ああ、そうだな。そもそもが空想の中の存在だと思っていたが、恐ろしい魔法を使って人間に害をなす存在だとされている」
俺はあの絵本をしっかり読み込んだわけではなかったので、魔女が恐れられているという理由が、はっきりとは理解できていなかった。
確かに猫たちとは違って、人々の認識を塗り替えてしまうような、大規模な洗脳魔法を実際にかけているのだ。危険な存在だと認知されるのも無理はない。
俺たちが気づいていないだけで、他にももっと悪さをしている可能性だってあるだろう。
洗脳をしてしまえば気づかれないというのであれば、きっと何だってできるはずだ。
(けど……何か、釈然としない)
「ヨウさん、どうかしましたか?」
考え込む俺の様子を不思議に思ったらしいコシュカが、顔を覗き込んでくる。
同じく横から覗き込んでくるヨルの頭をひと撫でしつつ、俺は考えていることを話してみることにした。
「自分にとって都合よく洗脳をするのは、良いことじゃないと思う。だけど、それならもっと違うやり方があったんじゃないかって思うんだ」
「違うやり方ですか?」
「たとえば、魔女自身を最高権力者として認知させるとか。これだけの力があるんだったら、きっとこの世界を掌握することだって不可能じゃないだろ?」
「それは……推論ではあるが、できないことではないだろうな。そんな事態になっていたらと思うと、ゾッとするが」
「だけど、魔女がかけた洗脳魔法は猫に関する認識と、俺が偽物の勇者だって思い込ませるものでした。もちろん、それ以上のことはできない可能性もあるのかもしれないけど……」
俺にはどうしても、魔女が絵本で語られているような、恐ろしい存在だとは思えなかったのだ。
悪意を持っているとするなら、もっと他に上手いやりようは無かったのだろうか?
「猫に対する認識は、誰にも気づかれないままだったわけで。この場所に閉じこもっている魔女にとって、もっとメリットのある洗脳魔法なんて、いくらでもあったんじゃないかって」
「単に愉快犯のような性格をしているだけ、という可能性もあるがな。明確な理由などなく、どこかで私たちの姿を眺めながら楽しんでいるだけかもしれない」
「その可能性も、あるとは思います」
シェーラの言う通り、特に理由があってかけられた洗脳魔法ではない場合もあるだろう。
他にはない大きな力を持つからこそ、俺たちでは考えつかないような使い方をすることだってあるかもしれない。
そこにどんな理由があるのかは、結局のところ、魔女本人しか知り得ないことなのだ。
それを知るためには、魔女本人に直接会って聞いてみるしかない。
「仮に悪意がねえとしても、店長を偽者に仕立て上げたのは立派な悪意だと思うんスけど」
「それは同感です」
グレイとコシュカの言うことはもっともだ。
猫に関する洗脳には何か理由があったとしても、俺を陥れるためにかけられたとしか思えない洗脳魔法に関しては、明らかに俺に対する悪意を感じる。
実際、もしも国王たちにまで洗脳魔法がかかっていた場合、俺は処刑されていた可能性があるのだから。
けれど、魔女から恨みを買うようなことをした覚えなど、当然ながらあるはずもない。
「ニャ……!」
「あっ、オイ……!」
そんなことを考えていた時、突然印章猫が何かを見つけたように走り出す。
いくら足跡が残るとはいえ、こんな場所ではぐれてしまっては大変だ。
俺たちは記憶を消されて追い出される可能性もあるだろうが、魔女が猫に対して悪意を持っているとすれば、印章猫はどうなるかわからない。
慌ててその後を追いかけていくと、辿り着いた先には、不自然にうねって結合した二本の真っ白な大樹があったのだ。
死の森では真っ黒に炭化した木も目にしたが、それとはまるで正反対で神秘的に見える。
絡まる大樹の中央には、人工的に作られた入り口と思われる木製の丸い扉があった。
この場所に他者が入り込めないことを考えれば、十中八九ここが魔女の家なのだろう。
大樹に近寄ろうとする印章猫を抱き上げたルジェは、腰から引き抜いた長剣を片手に取る。
シェーラも同様に、背負っていた矢筒の中から弓矢を一本引き抜くと、扉に向けて弓を構えた。
「ルジェさん、シェーラさん、まずは話し合いを……!」
「話の通じる相手ならばそうしよう。だが、油断は禁物だ。先手は打たせん」
突然武器を構えた二人に驚くが、どうやら話し合いをするという意思はあるらしい。
だが、いきなり攻撃を仕掛けてくる可能性もゼロではないと踏んでいるのだろう。
俺は念のために、肩の上にいたヨルをいつでも守れるよう抱きかかえる形にする。
一方の魔女は、やはり俺たちの来訪に気がついていたのだろう。
こちらの準備が整ったところで、扉が静かな音を立てて開かれていくのが見える。
場にこれまでにないほどの緊張が走るが、次の瞬間戦闘が始まるというようなことはなかった。
「……あれが、魔女……?」
ゆっくりと開かれた扉の向こう。
そこから現れたのは、ゆるくウェーブがかった真っ白な長い髪に、緑色の瞳をした可愛らしい女性の姿だった。
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