獅子心姫の淑女闘争

若島まつ

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五、姫君の牙 - la Princesse morde -

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 シダリーズは酒場の楽隊がテーブルと手で奏でる舞踊曲に合わせて酔っ払いのダンスの相手をしながら、カウンター席の方へ視線を巡らせた。
 ダンスはひどいものだが、こっちはもっとひどい。酔っ払いに絡まれようが多少無礼な扱いを受けようが、権威と自尊心だけはご立派な老臣たちに囲まれて王国議会に参加しているシダリーズには軽く受け流すことなど容易い。しかし、これは別だ。
 視線の先のギイは膝に女性を乗せて、シダリーズが見たこともないようなキスをしている。ギイの手が女の赤いドレスの腰に触れたとき、シダリーズの胃が何故かぐるぐると回転し始めた。
「…ルマレ閣下はいつもあんな感じなの?」
 シダリーズはギイの悪友と繋いだ腕で作った輪をくぐり、訊ねた。男は無精髭の口元を大きく左右に引き伸ばした。
「あんなって?」
「あんな…節度のない行為を、公衆の面前でなさるのかしら」
「ははは、いつものことさ」
(やっぱり、遊び人ね)
 シダリーズは冷ややかに相槌を打った。
「お嬢さんもあいつに惚れたんならやめたほうがいいぜ。あいつは女誑しだ」
「まさか。ルマレ閣下はわたしの相手にならないわ」
「いいねぇ。エラデールの若い娘はみぃんなギイに惚れてるが、王都のお嬢さんはやっぱり違うなぁ」
 シダリーズはニッコリと笑って足を止め、お辞儀をして、ダンスを終えた。
 その後、彼らとのゲームで得た金で対戦した全員に酒を奢ると、大喜びした男たちは次々にシダリーズに跪き、騎士の真似事をし始めた。
 これはさすがに恥ずかしい。なにしろ、酔っ払った男たちが何人も列を成してシダリーズの手に口付けする許可を求めにくるのだ。周囲から女王さまだのお姫さまだのと囃し立てられて――姫というのは間違いではないが――顔から火が出そうなほど居たたまれなかった。
 三人目の男の、よく生い茂った髭の奥にある分厚い唇が手の甲に触れる前に、シダリーズの腕を引いた者がいた。
 ギイ・ルマレだ。
「もうじゅうぶんだ。帰るぞ」
 不機嫌な声色だ。こんな風に横暴に連れ出されるのは癪だが、そろそろ疲れてきたから頃合いとしては丁度良い。
 シダリーズはギイの悪友たちに礼儀正しく礼を告げて、腕を引くギイに付いていった。しかし、このまま黙って連れ出されてやるほどシダリーズは殊勝ではない。
「ずいぶんお楽しみだったようだけど、あなたはもういいの?」
「あんたこそ楽しんでたろ。下品な男たちを手玉に取って」
 ギイは鼻で笑った。わざと怒らせるような言い方をしているのは、分かっている。シダリーズはニッコリと笑顔を作った。
「まぁ。それこそ下品な言い方ね。みんな話してみたら友好的で善良な方たちだったから、お陰で有益な時間を過ごせたわ。あなたこそ、可愛らしい恋人を置いて出てきてしまうなんて冷たいんじゃないかしら」
「恋人じゃない」
 そう言ってギイが顎でしゃくった先を振り返ると、娼は既に他の男の膝の上にいた。
「ほらな。安心したか?」
 ギイが言った。揶揄うように、唇を片側だけ吊り上げている。
「ええ。安心したわ」
 これには、ギイは面食らったようだった。シダリーズが憤慨して否定すると思っていたのだろう。
(そこまで子供じゃないのよ)
 シダリーズは心の中で舌を出した。ギイに見せる顔は、スンと澄ましている。
「恋人でなければ彼女があなたに泣かされることはないもの」
「俺がいつ恋人を泣かせたって?」
 ギイは馬の前で立ち止まり、シダリーズに大きな手を差し出した。その目はもう笑っていない。
「知らないわ。でも、あなたはきっとそういう人よ。少なくとも、わたしにはそう見えるわ。あなたって、誰とでも仲良くするのに、誰とも深い関係にはなろうとしないわね。孤独な人。でもそれを望んでもいる。そのくせに女性はみんな自分の思い通りにできると思ってるでしょう。わたしのことも」
 シダリーズが冷たく言った。
「わたしは確かに育ちの良いお嬢さまだけど、自分の心は見せないでおいて相手にだけ曝け出させようとするような、臆病で利己的な方と深く関わろうとするほど世間知らずじゃないの。だから、わたしがあなたの思い通りになることはないわ。絶対に」
 言ってやった。と思った。このささやかな勝利に気分を良くして顎を上げながら、馬に乗るためにギイの手を取った瞬間、逆襲に遭った。
 手を強く引かれ、その腕に捕らえられ、近づいてくる端正な顔を拒む間もなく、唇を奪われた。
 シダリーズはあまりのことに混乱した。そして、混乱した頭で思った。強引なくせに、ギイ・ルマレの唇は驚くほど優しい。――
(何を考えているの)
 ふとよぎった不埒な考えを必死で頭から振り払い、身を捩ってギイの腕から逃れようとした。
 しかし、ギイの腕はそれを許さなかった。首の後ろを強く掴んで押さえられ、喰いちぎられそうなほど強く唇が押し付けられる。温かい舌がぬるりと下唇を舐めたとき、シダリーズの身体が思わぬ反応をした。
 心臓が破裂しそうなほどに跳ね上がり、身体中が粟立った。嫌悪ではない。肌の上を走ったそれ・・は、砂糖を紅茶に溶かすほどの容易さで体内に入り込み、思考を鈍らせ、熱っぽい小さな衝動を身体の至る所で引き起こした。
 ギイの舌が口の中へ入ってくる。熱く、身体の奥を探られるような感覚だ。舌が絡め取られ、うまく呼吸ができない。ギイの舌から逃れようと悶えるうちに舌を唾液が唇からこぼれて、シダリーズの細い顎を濡らした。
 昨日会ったばかりの男に、ここまでさせてしまうなんて。
(情けない…)
 腹の奥が熱を持ち始める。身体がこんなふうになったことは、今までに一度もない。
 恥ずかしい。こんな姿を見られたくない。それなのに、深く青いギイ・ルマレの瞳が危険な熱を伴ってシダリーズを映している。
 不思議な感覚だった。怒りにまかせて相手を思いきり拒絶したいのに、自ら唇を開き、ギイがしているように舌を踊らせてしまいたくなる。
 シダリーズの衝動を止めたのは、ギイの首筋から漂う別の匂いだった。この甘い香水の残り香が、新たな衝動を起こさせた。シダリーズは自分の手が何をしようとしているのか考える暇もなく、ギイの頬をパチンと打った。
 ギイはようやくシダリーズの唇を解放した。眉を寄せ、不遜にも唇を吊り上げて笑った。
「ほらな、思い通りになったぞ。俺を殴った」
「最低ね」
 他の女性の匂いを身体に纏わり付かせたまま性的な接触を図ろうなど、あまりに恥知らずだ。
 背後でブル、と馬が鼻を鳴らした。だんだん頭が冴えてくると、ギイの本当の意図がわかってきた。沸々と怒りが湧いてくる。
 ギイはシダリーズの怒りを楽しむような顔で言った。
「王都に帰りたくなったか?」
「ふざけないで」
 自分でも初めて聞く声だった。まさしく獅子心姫の名に相応しい自分が、今ここにいる。
「あなたの子供じみた嫌がらせで尻尾を巻いて逃げるようなら、最初からここには来ていないわ。わたしには果たすべき使命があるの。自分の責任を捨てることは、矜恃を捨てることよ。それに比べたら、今のあなたの些細な悪戯・・・・・なんて、風に帽子を飛ばされた程度のものだわ」
 このクソ野郎。と言うのは、我慢した。身分を隠しているとはいえ、一国の姫が決して口にしてはいけない言葉だ。
「なら、俺を頼るな。寝泊まりする場所だけは提供してやる。外に放り出して野盗にでも殺されたら胸糞悪いからな」
 ギイは不機嫌そうに目を細めた。シダリーズも、同じくらい不機嫌だ。
「言われなくても、もうあなたの手を借りようとは思わないわ。ですが今日の案内は感謝します、ルマレ閣下。さあ、馬を引いて」
 シダリーズは高飛車に言った。これは頼っているのではなく、命令しているのだ。
 数秒の沈黙の後、ギイは舌を打って手を伸ばした。シダリーズはびくりとしないよう肩に力を入れ、その手が手綱を握るのを横目で見た。この手は節が大きく、指が長い。
「乗るなら乗れ」
 ギイは冷たく言い、シダリーズが自分の腕につかまって鎧に足をかけるのを見ていた。
 視線がうなじにひっかかって、ひりひりする。それでもシダリーズはギイの顔を見ないようにした。気を緩めたら最後、顔色を変えてしまいそうだ。

 この夜も、シダリーズは枕に顔を埋めて、真綿の谷に叫び声を放っている。
「あぁーっ!もう!なんっなのよ!何なのよー!あの、ギイ・ル・マル邪悪!!邪悪なル・マル悪魔…!!」
 ひとしきり声を上げると、肩で息をしながらベッドの端に座り直し、髪をサッサと手で直した。そろそろマノンが戻ってくる。
 ギイ・ルマレの魂胆は分かっている。
 この町を知れば知るほど、ここが嫌になって出て行くと思っているのだ。ならず者が集まるような酒場に連れて行ったのも、違法な賭博の仲間に入れさせたのも、そういうことなのだろう。
 それが上手くいかなかったから、実力行使に出た。それだけのことだ。
(だからって、あんな――)
 シダリーズは無意識のうちに唇に触れた。顔から火が噴き出しそうなほど熱くなったのは、もはや自分ではどうにもできない。
 二十六年余り生きてきて、あんなものを経験したのは初めてだった。かつて婚約していた隣国の王とは慎ましやかなキスさえもしたことがなかったし、その破談後に婚約者の候補として挙がっていた男性たちとも同様だ。
 あんな、互いの粘膜を混ぜ合わせ、相手の一部を自分の内に呑み込もうとするような、生々しく強烈な感覚は、シダリーズにとっては大事件だった。
(あんなことを、誰とでもするなんて)
 他の女性とそれをした後で、平然と自分にも迫ってきたあの男が腹立たしい。嫉妬の類などではない。そんなことをする理由がないからだ。この怒りは、初めての口付けを陰険な策謀で汚した男に対して向けられたものだ。
 だが、これを顔に出してはいけない。そうすればギイ・ルマレの思う壺だ。こんなことは全く意に介していないと、そう思わせなければならない。

 マノンとジャンがルマレ邸へ戻ったのは、それから間もなくのことだった。
「ジルベールさんが引き続き領主邸の荷駄係として様子を探っています」
 と、ジャンがやっとの事で手に入れてきた干し肉をナイフで切り分けながら言った。マノンもジャンも、今日一日ほとんど食事をしていないのだ。シダリーズの‘お願い事’のために忙しくしていたせいもあるが、そもそもこの町には食糧が極端に少ない。酒場の料理も、肉はどれも小さく、野菜は少なく、味付けは正に素材そのものといった感じだった。大酔した人間ばかりだった理由がよく分かる。酒に酔わなければ、少しも美味と感じないからだ。
「領主邸の食料庫はどうだった?」
 シダリーズのお願い事とは、これだ。マノンとジャンは今日、早朝から領主邸に運び込まれる荷駄に紛れて邸内に潜入し、使用人に紛れて食料庫や敷地内を調べていたのだ。潜入は、驚くほど簡単だった。閉鎖的な土地で見知らぬ顔があればすぐに露見するだろうと思ったが、外部の人間がここに入り込んでくることなど端から想定していなかったのだろう。
「豊富です。とても」
 ジャンが答えた。
 食料庫にはひと冬を超せる以上の穀物が保管され、地下の氷室には夥しいほどの肉が保管されていた。明らかに徴税の域を超えている。王国が定めた税率を大幅に上回って領民から徴収しているとなれば、領主がしていることは搾取であり、横領だ。
 シダリーズの内側で小さな獅子が牙を剥いた。民を統べ、その生活を守るべき為政者たる者が、このような暴虐を働くなど、許されない。
 それだけではない。外部から届くものは極端に少ないものの、全てが領主邸の中へ運び込まれていった。書簡の類も同様だ。
「領主邸の邸内に入れるのはどうも年寄りの執事とその息子と、数人の使用人だけのようです。荷駄係は裏の小さな戸口で受け渡すだけみたいでした」
「書類が全部邸内に入っていくなら、やっぱり読み書きができる人は領主の近くにだけいるということかしら」
 シダリーズの頭にギイ・ルマレの顔が思い浮かんだ。
 あまり考えたくないが、彼も横領の手助けをしているのだろうか。
(いいえ、そんなはずはないわ)
 シダリーズはぷるぷると首を振った。もし横領を手伝っているなら、報酬を得ているはずだ。その割には屋敷は質素だし、特に生活に困っているような様子はないものの、特別に金回りがよいという様子もない。
「…この家の主は、信用できるんですか?」
 マノンが囓っていた干し肉を置いて声を低くした。顔色が悪い。なぜか、シダリーズの喉がひりついた。
「悪い人ではないと思うわ。でも――」
 シダリーズはさっき起きたことを必死で思い出さないようにした。それでも、唇が微かに熱を持つ。
「――注意するに越したことはないわね。明日からは彼とは別行動することにしたから、安心して。この屋敷も、朝と夜、寝泊まりにだけ使いましょう。ルマレ閣下や使用人に監視されても、影響がないように、話し合いは外でしましょう。わたしたちがするのは、あくまで教育局の任務よ。横領のことは、王都に帰ってから陛下に報告して早急に手を打つわ。絶対にこのままにはしない」
 ジャンとマノンは静かに頷いた。
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