獅子心姫の淑女闘争

若島まつ

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十五、姫君の選択 - la Princesse choisit -

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 ギイがジャンとジルベールを伴って外へ駆けて行った後、シダリーズはオオカミの剥製の後ろに踞る老人に手を差し伸べた。
 老人はぶるぶると震えていたが、シダリーズが屈んで声をかけると、多少落ち着いたようだった。
「ここは危ないわ。もっと安全なところに行きましょう」
「こ、こ、ここを出たら、危ないって、ボンフィスが言ってた…」
 ボンフィスとは、あの執事のことだろう。シダリーズは胸にドロドロと怒りが込み上げてくるのを我慢できなかった。これは、弱者に対する虐待だ。それも何十年も続けられていた。
「大丈夫よ、デュロン伯爵。わたしが一緒に行ってあげるわ。ここのみんなはとてもいい人たちなの」
 デュロン伯爵は、小さく震え、怯えるようにキョロキョロと周囲を見回しながら、シダリーズとマノンに手を引かれて屋敷を出た。
 シダリーズはチクチクと胸が痛んだ。この小さな子供のまま心が止まってしまった老人は、もしかしたら屋敷の外にさえ出るのが初めてだったのではないかと思ったからだ。
 シダリーズはマノンと領主を馬に繋がれていない馬車に乗せ、自分は門前にまっすぐ立って煙の細く上がる方向を見据えた。
 数分ののち、屋敷の裏手から轟音と共に大きく黒煙が上がった。恐怖と不安で足が竦む。煙を吸ってから頭がくらくらするし、ひどく眠い。それでも、意地でも膝を折らなかった。
 ここで家臣たちよりも先に倒れるわけにはいかない。
 屋敷の鉄柵の門の外には逃げ出した荷駄係の男たちや周囲の領民が集まってきている。
 やがてやけに静かになった屋敷の裏からギイが姿を現した。その後ろに、縄で繋がれた老執事と息子が重い足取りで続き、彼らを監視するようにジルベールとジャンがその両脇を固めていた。二人の囚人は、顔を赤黒く腫らしていた。
「制圧した」
 ギイが短く言った。
「大儀でした」
 シダリーズは微笑んだ。王族の顔だ。
「ジャン、王都へ早馬を送って、報告を。適切なものがいなければ、あなたが行きなさい。わたしの護衛はジルベールがいれば十分です」
 シダリーズが言うと、ジャンはぺこりと頭を下げて、命令の遂行のためにその場を去った。
「ルマレ閣下はこの罪人たちを牢に繋いでおいて。あなたなら相応しい場所を知っているでしょう」
 この言葉には、冷ややかな含みがある。
 シダリーズはほとんどギイの顔を見ることなく、ジルベールの方を向いた。
「ジルベールは領民の男性たちに声をかけて、鎮火を指揮して。わたしとマノンは女性や子供たちがここに近づかないよう、誘導します」
「心得ました」
 ジルベールが軽快に言った。
 ギイは、縄に繋がれながら恨み言を吐き出し続ける執事のボンフィス親子を引き連れて、地下へ続く階段を下りて行った。
「裏切り者め」
 鍵を掛けた鉄柵の向こうで、ボンフィスの老父が吐き捨てた。息子は、顔面を蒼白にして黙っている。これから起きることを理解しているのだろう。
 ギイは嘲笑った。
「あんたらには残念だが、元々これが俺の仕事だ」
「か、金ならあるぞ!」
 息子が金切り声を上げた。
「親父と俺でたくさん貯めた。ここに大きな農園を作るためだ。その金をやるから逃がしてくれよ。な?しばらくは遊んで暮らせるぞ」
「へぇ。農園」
 ギイは唇を吊り上げた。興が乗ったと見たボンフィスの息子は、鉄柵を掴んでギイに縋った。
「そうだ。燃えた分だって取り返せる。ものすごい金になる。お前を雑用から共同経営者に取り立ててやる」
「何の農園だ?」
「芥子だ!もちろんオピウムを作る――」
「黙れ、馬鹿者!」
 老父が息子の言葉を遮った。ギイは二人の囚人を見下ろし、恐ろしく暗い笑みを浮かべた。
いい息子ボン・フィスを持ったな、ボンフィス。証拠が燃えたから言い逃れできると思ってるなら、間違いだ。どのみち王族を殺そうとしたあんたらは処刑される。せいぜい余生を噛み締めるんだな」
 ギイは言い捨てて地下牢を後にした。
 地上では、火が鎮まり始めていた。風がないことと、小屋の中にあったものが水分を含んだ土と植物だったことが幸いしたのだ。この分なら屋敷への延焼は免れるだろう。しかし、あの執事の言った通り、長年探っていた証拠は燃えてしまった。
 目的は果たせず、欲しいものは永遠に手に入らない。この十年余りを思えばこの結末はあまりに滑稽だが、その価値は十分すぎるほどにある。
 シダリーズが生きている。それこそすべてだ。
(焼きが回ったもんだ)
 ギイは屋敷の周囲に集まる人々を退避させるシダリーズの後ろ姿を眺め、消火作業を続ける男たちに合流した。
 火は夜まで燃え、やがて芥子の温室を炭にして、細い煙となって消えた。

 シダリーズは鎮火後も忙しなく働いた。ルマレ邸で入浴を簡単に済ませ、その客間を拠点に、国王へ宛てた報告書とボンフィス親子の罪、そして哀れな老領主の今後の処遇について、何枚もの料紙にしたためた。
 音もなくギイが部屋へ入ってきたのは、夜更けのことだ。
「もう休めよ」
「いいえ、まだよ」
 シダリーズは顔も上げない。
「いいから――」
 ギイが苛立ったように言い、シダリーズの手を掴んで止めた。
「もう寝ろ。少しとは言え有毒な煙を吸ったんだ」
 あの煙に少量の薬物が混ざっていたことを知ったのは、執事親子を投獄した後だ。吸った時間が短かったことが幸いして健康被害は免れたが、心身共に休息が必要だ。
「あんたひどい顔だぞ」
「わたしにそんなことを言うのはあなただけよ」
 シダリーズは狭い机の上を転がるペンを見ながら口を開いた。
「それは光栄だ、姫殿下」
 また胸がチクリとした。顔を上げられないのは、ギイの顔を見たら感情が溢れそうだからだ。王族の威厳もなく、ただの小娘のようにひどく取り乱して激情を吐き出してしまいたくなる。そういう自分は、好きではない。
 掴まれた手が、じくじくと疼くような熱を持っている。
「…あと少しやったら休むから、手を離して――」
 突然、身体が宙に浮いた。驚きのあまり声も出なかった。咄嗟にギイの肩にしがみ付くと、なんだか百年もこの温もりを待っていたような気分になった。
 ギイの肩に担ぎ上げられたシダリーズの身体は、ベッドに下ろされた。
「…ほらな。あんたには休みが必要だ」
 ギイの優しい声が耳に響く。
 シダリーズは両手で目元を覆い、燃えそうなほどに熱くなった目から流れる涙を隠した。嗚咽が漏れないように引き絞った喉がひどく痛んだ。
 ギイの腕に抱き寄せられてその体温に包まれた時、シダリーズは堰を切ったように泣き声をあげた。
 初めて命の危機に晒された恐怖と、領主の境遇に対する遣る瀬なさと、自分へ向けられた悪意への怒り、それからギイへの想いで、頭の中がぐちゃぐちゃだ。
 ギイは、シダリーズの嗚咽が穏やかな寝息に変わるまで、その背と頭を撫で続けた。

 翌朝、陽も高くなった頃にようやく目を覚ましたシダリーズが最初に見たものは、長い栗色のまつ毛を伏せて眠るギイの顔だった。
 驚いて飛び起きた直後、着の身着のまま、髪をボサボサにして眠ってしまったことを知ると、じわじわと羞恥が襲ってきた。
 目蓋の痛みからして、きっと相当腫れている。
(冷やさなきゃ…)
 こんなみっともない顔をギイには見られたくない。
 マノンを呼ぼうと思って、すぐにやめた。マノンは領主に付き添って領主邸に残ってくれている。ジルベールは囚人たちの監視で今はいない。ジャンは、そろそろ隣の領あたりで早馬を調達してくれただろう。上手くいけば明日にはエラデールに向かっている王都からの使者と合流できるかもしれない。
 今そばにいるのは、ギイだけだ。
 身繕いのためにベッドから抜け出そうとした時、後ろから腕が伸びてきて毛布の中に引き戻された。
「行くなよ」
 寝起きの気怠げな声が、シダリーズの心臓を強く締め付けた。
「で、でも…」
「もう行くな。あんたを失うかと思って、生きた心地がしなかった。もう御免だ」
「勝手な人ね」
 シダリーズは強く抱きしめてくるギイの腕に触れた。恨み言を言う時までうるさく暴れる心臓が疎ましい。
「わたしを突き放したくせに――」
「勝手はお互い様だろ。あんただって目的のために俺を利用した」
 狡い男だ。怒ったような言い方をするくせに、後ろから抱きしめる手を離そうとしない。
「…ジルベールと同業って、どういうこと?誰があなたの主人なの」
 ギイは息をついて、シダリーズの首に顔を埋めた。答えはない。
「ジルベールがヴィゴとかマルセルって名前をたくさん持ってるみたいに、‘ギイ’もたくさんあるうちの一つなの?ぜんぶ嘘?お父さまとお兄さまを泥の道で亡くしたのも、もともとここに代々受け継いだ屋敷があるのも」
 訊いてはならないと分かっているのに、止まらない。だからいやだったのだ。
 シダリーズは、王族だ。政治活動に参加し、国に貢献すべく、公私問わず多くのことに関わっている。それも、間もなく二十七歳を迎える自立した女性だ。ジルベールのような職業の人たちがどんなことをしているのかは想像できるし、誰にも雇い主の情報を漏らせないことも分かっている。ギイが王国に仕えているのであれば、尚更立ち入るべきではない。
 これは不文律のようなものだ。王族として国に仕える以上、自分との関係と任務を天秤にかけるようなことは、禁忌と言っていい。
 それでも、止められなかった。
「あなたのことを、知りたいと思ってはだめ?」
 ばかなことを言ったと思った。これではまるで愛の告白だ。
 シダリーズはギイの腕から抜け出そうと、身体を捩った。
「…忘れて」
 ギイの腕から力が抜け、温もりが離れた時、シダリーズは一人でこの部屋を出ていく覚悟を決めた。ギイとは、住む世界が違う。立ち入ってはならない領域なのだ。
 やけに冷たく感じる扉の取っ手に手を掛けた瞬間、後ろから大きな手が伸びてきて開きかけた扉を閉めた。
 痛いほどに心臓が鼓動し、目の奥が熱くなった。
 抱きしめられていないのに、ギイの大きな身体に包まれているような気分になる。
「顔を見せろ」
「いやよ」
 声が震えるのを、堪えきれなかった。
「起きてからあんたの顔を見てない」
「見ないで欲しいからよ。酷い顔してるの」
 ところが、ギイはシダリーズの腰を掴み、いとも簡単に自分の方を向かせてしまった。
 シダリーズが恨み言を言う間もなく、唇を塞がれた。
 厭になるくらい、甘い。
 入ってくる舌を噛んでやることもできず、シダリーズはギイの首の後ろに腕を回した。
 身体を押しつけられ、舌が奥まで入ってくる。シダリーズがギイの舌に自分の舌をおずおずと触れさせたとき、腰を強く引き寄せられた。
「行くなと言ったろ」
 深い青の瞳が暗く翳っている。懇願するような目だ。
「わたしに命令するなら、対価を払いなさい」
 シダリーズが熱くなった身体を持て余しながら息を切らせると、ギイはもう一度シダリーズの唇を塞ぎ、舌で触れ、愛おしむように啄んで、細い顎に羽が触れるようなキスをした後、その肩に額を乗せた。
 しばらくの沈黙の後、ギイが口を開いた。
「…俺はギイ・ニコラ・ビゼ。四代前まで、エラデールを治めていた一族だ」
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