オレのいる暗闇の世界

ハルカ

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「アシルが言っていた、昔あの小屋に住んでいた人。あの人はオレの父親です」

一息に言ってから、ヒューゴはこちらの反応を伺うように黙った。観察される居心地の悪さを感じながら、俺はなんと言うべきか迷っていた。
もちろん驚きはあった。しかし、それが記憶喪失を装っていたこととどうつながるのか読めなかった。

「・・・父」
「はい。父は変わった人でした。街で借りていた家にはほとんど戻って来ずに、あそこで植物の研究をしていました」
「・・・じゃあ、あそこにいた子どもは」
「オレです」
「・・・」

俺と一緒に、あの人に森のことや生き物のことを教わっていた子ども。あれはヒューゴだったのか。ずっと、傍にいたのは兄だと思い込んでいた。しかし言われてみれば、あの人の顔はよく覚えているのに、一緒にいた子どもの顔は記憶の中にない。あんなに一緒に遊んでいたのに。今改めて思い出そうとしても、霧がかかったようにぼんやりとしていて輪郭を結ばなかった。

「その頃、街ではある事件が立て続けに起こっていました。アシルは覚えていないかもしれませんが、街の住人が突然見知らぬ男に襲われて、何人か怪我を負ってるんです。今も、似たような事件が起こっていますよね」
「・・・」

覚えていない。あの人に会っていた頃なら、記憶できないほど幼かったはずはないのに。
それに、今回の事件では襲われた当事者だ。そのことと関連付けて思い出しても良さそうなものだったのに。

「街の人たちは怯えていました。被害者たちに共通点はなく、いつ誰が襲われてもおかしくない状況でしたから。犯人探しが行われて、その疑われた中に父もいました」
「あの人が?」
「人里離れた森の中で、怪しい研究をしているという男。確かに、息子のオレから見ても、父は変わっていましたから。知らない人から見たら、さぞや怪しく映ったんでしょう」
「・・・」
「でもね、父は研究者であると同時に、優れた魔法使いでもあったんです。森を抜けて小屋に近づこうとする者達の方向感覚を狂わせて、たどり着けないようにするとか、そういうことができたんですよ」

ヒューゴの声は静かで、そこに憤りや怒りは感じられなかった。それなのに、話が進むにつれ呼吸は困難になった。体が、それ以上聞きたくないと訴えている。

「そうなるとますます怪しく見えたんでしょうね。躍起になった街の人々は、そこに出入りしていた子どもに目をつけました」

ヒューゴはそこで少し黙った。でも俺には続きが分かった。覚えていないのに、初めから知っていたかのように。

「オレと、アシルですよ」

吸った息を、まるで異物であったかのように喉が拒んだ。
少量の酸素しか取りこめず、俺はヒューヒューと鳴る細い息を吸っては吐いた。
宥めるように、ヒューゴの手が頬に触れる。汗で湿って、渇いて、また湿った後のような手で。

「ああ、違うんです。アシルを責めようと思ってこんな話をしたわけじゃないんです。だから、そんな顔をしないでください」
「・・・あの人は?」
「父は掴まりそうになり、逃げて谷に落ちて亡くなりました」

やはりこれも覚えていなかった。きっと、その当時は知っていたはずなのに。

「その後真犯人は掴まりました。他所から来た旅人で、各地で問題を起こしていた人物らしいです。どうでもいいことですが」

投げやり、になっているのだろうか。そんな形で父親を亡くして、傷つかなかったわけはない。しかしヒューゴの声は落ち着いていた。

「オレもアシルも家に帰され、会うことがないように配慮されて育ちました。実際、最後に会った時、アシルはもう父が死んだことを忘れていました。アシルは傷ついていて、父が死んだことを思い出させる原因になるオレが傍にいるとまずいと、大人たちが判断したんでしょう」
「・・・すまない」

自然と謝罪が口をついていた。
多分俺は、忘れることを選んだのだろう。大人たちに利用されて、慕っていた人を死なせたという事実を受け入れられずに。
今それを聞いても、うまく思い出すことはできなかった。しかし、それが事実であると訴えるかのように心が軋んでいる。

「オレも、ずっと忘れたフリをしていました。でも、忘れなかった。そうして、いつかアシルに会うと決めていました」
「どうして、記憶を失ったふりなんかしていたんだ」
「・・・冷静になりたかったんです」

問うた俺に、ヒューゴは少し苦笑するような声音になった。

「自分の中でも、アシルの存在が相当美化されているっていう自覚はあったんです。あの頃のアシルは女の子みたいにかわいくて、父の一言一句に目をキラキラさせていました。オレにとっては、理想の少年だったから」
「それなら、がっかりしただろう」
「いいえ。アシルはあの頃と何も変わっていませんでした。今も、父の教えを守って生きている」

反対側の頬にも手が触れる。
それを拒むべきなのか。判断がつかないでいる内に、すり と撫でた指に違和感を覚えた。

傷がある。
これは、左手の人差し指か。

「アシルが好きです」

熱のこもったヒューゴの声。
しかし俺は、思い至ったその可能性に声を出せずにいた。
侵入者Xの指を挟んだ罠に付いた血。それは決して少量ではなかった。少なくとも、刃先をぬめらせるくらいには出血していた。
俺の意図を、侵入者Xは正確に理解しただろう。ならば、俺が次に取る行動は、指に傷があるか否かを確かめることしかない。
オレの口に指を突っ込むことで傷を認識させ、そっと拭き取る。それから別の指を自分の唾液で濡らし、その指で体を触る。
右手の人差し指に傷をつけたとオレに誤認識させた。
本当に傷ついたのは左手の人差し指だったとしたら?
しかし今その傷のついた手で俺に触れてしまうとは、あまりにも間抜けじゃないか?
それとも、もう隠す気がなくなったのか。ヒューゴは、俺を街へ連れて行く気などさらさらないのかもしれない。俺はこのまま、どこか知らない場所へ連れて行かれていこうとしているのか。
分からない。
なぜ今、ヒューゴの父だというあの人の話をするのかも。なぜ、指に傷があるのかも。好きとは、どういう意味なのかも。結局、侵入者Xはヒューゴなのかどうかということも。
何もかも。

頭の中がぐるぐると回る。

「・・・もう一つ」

ヒューゴがポツリと言い、俺は俯けていた顔を上げた。暗闇の中に、確かなヒューゴの温度を感じる。

「あなたのお兄さんのことで、話があります」
「・・・」

やはりヒューゴは、兄が来ていたことを知っている。
緊張したヒューゴの声音に、俺はそれを確信した。

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