オーリの純心

シオ

文字の大きさ
上 下
16 / 35

16

しおりを挟む
「まっしろを、テオドールの屋敷へ……?」

 ジグムントは戸惑いながらその言葉を口にしたが、戸惑っていたのは私も同じだった。あまりにも突然の発言に、開いた口が塞がらないほどに驚いている。

「そんなテオ、あまりにも急すぎる。まだジグムントに恩返しも何も出来ていないんだ」
「いやぁ、まっしろ。恩返しとかそういうのはいいよ。俺だって、生活が色々綺麗になって助かってたし。でも……そっかぁ。まぁ、テオドールのとこ行った方が安全だよなぁ」

 顎に手を当て目を伏せる。そんな姿で思案するジグムントを、私は見つめた。アルフレドが己の主人と私の顔を交互に見ては、不安そうに小刻みに尾を揺らしている。

「……私は、邪魔だっただろうか」

 ジグムントのそばにいても、私が出来ることなど片手で数えられるほどしかない。洗濯と、簡単な料理と、繕い物と、速度の遅い写本。あとは何だろう。それくらいしかない。ジグムントにとって、私は荷物であったはずだ。彼は、私などいなくても一人で生きていた。敢えて、厄介者を背負い込む必要はないのだ。

「なんでそういう風に考えるんだよ。邪魔なんかじゃ全然ないって」

 乱暴な手が、わしわしと私の頭を撫でる。如何に乱暴な手であっても、暴漢の手とは違う。この乱暴さには、慈しむ思いが込められていた。この手は怖くない。

「でもさ、まっしろ。人には、離れられない“よすが”ってのがあるんだよ。よすがが、人なのか場所なのかは色々あると思うけどさ」

 ぽんぽんと私の頭を軽く叩いてジグムントは笑っていた。アルフレドは彼の足元にお座りをして、しっぽがゆらゆらと揺れている。真っ黒な瞳のアルフレドも、私を見上げていた。

「俺にとってのよすがは、この村だ。この村の人たちと、アルフレド。そんで、この家。これが俺のよすが。だから俺はここから離れない。出て行っても必ず戻ってくる」

 ジグムントがこの村と、村人と、アルフレドをとても大切に想っていることは一緒にいた日々に、ひしひしと感じた。彼は彼らとこの場所が大切だから、絶対にここから離れたりはしない。彼らのために何が出来るかを常に考え、行動している。この場所こそが、彼のよすが。

「まっしろにとってのよすがは、テオドールなんだ。だから、そいつんとこに戻る時が来たっていうだけの話だろ」

 屈託なく笑う彼を見ていたら、何故だか涙が溢れ出来た。嬉しいのか、悲しいのかは分からない。泣き濡れた頬を、ジグムントの指がちょんちょんと触る。くすぐったくて笑ってしまった。

「泣くなよ。別に今生の別れって訳でもないんだから」
「オーリ様、私の屋敷からここまでは馬で半日走らせれば着く距離ですよ」
「……そうなのか?」
「なんだよ、めちゃくちゃ近いじゃねーか。泣いて損したな、まっしろ」

 頭をぐしゃぐしゃに乱されて、笑い飛ばすジグムントにつられて私も笑ってしまった。泣きながら笑うのは、なんとも不思議な感じがする。こんなに笑える日が来るなんて、あの地獄の日々では思いもしなかった。ここまで来れたのも、ジグムントが私を拾ってくれたおかげだ。彼の救済から全てが変わった。

「本当にジグムントには世話になりっぱなしだった。……ジグムントに助けてもらえなければ、私は死んでいたと思う」
「大袈裟だなぁ」
「大袈裟なんかじゃない。私は、地獄にいたんだ。そこから、ジグムントが私を救い出してくれた。……心から感謝を」

 胸に手を当て、上体を傾ける。かつて、王子だった私が兄や両親といった身分が上の存在にしか見せなかった最高敬意の姿勢。それを見たテオドールは少し驚いた顔をして、微笑んで私を見届けた。

「俺は、まっしろのことお姫様だって言ってたけど、あながち間違いじゃなかったな。王子様だったってわけだ」

 声を上げて笑うジグムントを見ていると、再び目頭が熱くなった。彼の、この底抜けの明るさと、素性の追及をしてこなかったその寛容さに私は心の底から助けられていた。

 思わず、勢いだけで彼に抱き着いた。カラン、と音を立てて杖が倒れる。抱き着いた私の体を、ジグムントが支えてくれた。

「おいおい、よせよ。湿っぽくなるだろ。いつでもここに来てくれればいい。俺だって、好きに会いに行く」
「……洗濯が溜まったら持ってきて。私が洗ってあげる」
「それは助かる。……っておい、睨むなよテオドール」

 背後のテオドールがどうやらジグムントを睨んでいたらしいが、私が振り返り見た時には微笑みになっていた。器の小さいやつ、と小さくジグムントが漏らしていたが、テオドールが睨む理由も、器が小さいと評された理由も私にはよく分からなかった。

「あの杖は、ジグムントが持っていて。必要な時に使ってほしい」
「分かった」
「あの杖……とは?」
「これだよ」

 私に木の杖を手渡し、支えてくれていた手を放したジグムントが、ベッドの下に手を入れて、無数の宝石たちが施された杖を取り出した。思わず目を反らす。この杖には、思い出したくない過去が詰まっていた。

「私がジグムントに助けられる前、アントンという名の男に監禁されていた。その時に与えられたのがその杖なんだ」
「……オーリ様に相応しくない下品な杖ですね」
「品はないけれど、価値はあるようなのでジグムントに託そうと思って」
「それが宜しいかと」

 杖というより、ただの装飾品だった。杖の高さも、私の体に合わせて作られたわけではない。宝石が所狭しと埋め込まれ、機能性など度外視されていた。

「やはり、オーリ様はあの屋敷にいらっしゃったのですね」
「知っていたのか?」
「いくつか候補があり、その中でもあの屋敷ではないかと思っておりました。お救い出来ず、申し訳ありません」
「……もういいんだよ、テオ」

 テオドールは、眉を顰め苦しそうに顔を歪めた。救ってほしかった、というのが一番の本音ではある。けれど、それを今言っても仕方のないこと。アントンは神経質で、慎重だった。油断がなく、私の監禁は徹底していた。あの状況で、私を救い出せる者などいなかったのだ。

「ジグムント。その杖の代わりに、この杖は貰っていってもいい?」
「そんな棒切れでいいのか?」
「私はジグムントと、この杖に支えられてきたんだよ。……この杖は、とても私の体に馴染んだ」

 手触りの良い木の杖を撫でる。私が使いやすいように微調整を繰り返してくれた。私の体の一部であるといっても過言ではない。失った足の代わりに、この木の杖は私の体を支え、歩む手助けをしてくれている。

「ああ、使ってやってくれ。折れたら、また新しいの作ってやるよ」
「ありがとう」

 そんな言葉を交わして、本当にここを去っていくのだという実感が沸いてきた。王城から連れ去られ、悪辣な環境で生き延びた。そして、この温もりに満ちた家で穏やかな時間を過ごしたのだ。ここでの時間は決して長くはない。けれど、それでも私の人生において非常に大切な時間だった。

「アルフレド。ずっとそばにいてくれてありがとう。また会いに来るね」

 黒い頭にそっと触れて何度か撫でる。ぴんと尖った耳が僅かに垂れて、額の面積が広くなった。別離を感じているのか、いつもよりアルフレドは私に強くすり寄ってくる。もっと撫でろと訴えているようだ。固い毛質と、がっしりした体。ジグムントがいない時でも、アルフレドがいてくれたから心細くはなかった。

「オーリ様、行きましょうか」

 随分と性急ではあったが、私はこの家を立ち去ることになった。けれど、今の私はこの勢いに身を任せるしか選択肢がない。ジグムントの庇護下から、テオドールの庇護下へ。己を守る力もない私は、差し出された手に縋るしかないのだ。

 私の荷物は、少なかった。己で繕った衣類と、ジグムントが与えてくれた杖のみ。それらを持ってテオドールと共に家の外に出る。彼が乗ってきた馬に、テオドールが跨った。私は、ジグムントに抱えられ馬上のテオドールに受け取られ、そうして馬の上に乗る。

「本当に、本当に、たくさんありがとう」
「俺も、まっしろと過ごせて楽しかった。こちらこそ、ありがとな」

 ジグムントが、私に向かって手を差し出した。それが、握手のための手であることを数秒掛けて理解する。私はその手を握り返し、手の皮の厚い彼の手を感じた。

「ひとまず、さよならだ」

 地獄は終わらず、夜は明けず、命が尽きるまで煉獄の炎で焼かれ続けるのだと思っていた。そこから逃げ出すために、禁忌とされた自死を選んだのだ。だが、そんな私をジグムントが救い出してくれた。私の救世主。神よりも尊い人。そんな彼の手を、ぎゅうっと握り返した。

「ひとまず」

 テオドールが手綱を振るった。私とジグムントの手が、離れる。掌から抜け落ちた温もりを惜しく思った。馬は駆け出し、私たちのあとをアルフレドが追いかけてくる。愛しい小さな家が遠ざかる。ジグムントはずっと、手を振っていた。見えなくなるまで。おそらく、見えなくなっても。

「さようなら」


しおりを挟む
1 / 5

この作品を読んでいる人はこんな作品も読んでいます!

今更魅了と言われても

恋愛 / 連載中 24h.ポイント:28,592pt お気に入り:512

悪役令嬢になったようなので、婚約者の為に身を引きます!!!

恋愛 / 連載中 24h.ポイント:1,164pt お気に入り:3,277

ある公爵令嬢の生涯

恋愛 / 連載中 24h.ポイント:5,594pt お気に入り:16,126

悪魔皇子達のイケニエ

BL / 連載中 24h.ポイント:2,698pt お気に入り:1,915

一目惚れ婚~美人すぎる御曹司に溺愛されてます~

恋愛 / 完結 24h.ポイント:1,301pt お気に入り:1,126

女の子がひたすら気持ちよくさせられる短編集

恋愛 / 連載中 24h.ポイント:5,601pt お気に入り:470

処理中です...