運命の落とし穴

恩田璃星

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 「奏音?」

 誰もいなくなった二課のフロアで足立さんの残した書類と一人格闘していると、矢吹が現れた。

 「あ、海斗…」

 昼間のことを思い出し、無意識に身体が強ばる。

 「さっきはごめん。何か感情的になっちゃって」

 謝る矢吹は気さくで優しいいつもの彼だ。

 「あ、ううん。ちょっとびっくりしたけど」

 「あれ、一人?足立さんは?」 

 「それがー」

 足立さんが早退した経緯を説明すると、矢吹は私の隣の席に座り、自分のPCを鞄から出して、手つかずの書類を半分引き取って笑った。

 「本っ当、全然変わらないよな、奏音」

 しばらくの間、教室が会社のフロアに、ホッチキスを留める音がキーボードを叩く音に変わっただけの、高校時代にタイムスリップしたような時間が続いた。

 一番苦戦していた足立さんの読解不能な字も、矢吹は同じものを営業しているだけあって推測が可能らしく、これまでの倍の速さで進んだ。

 最後の一枚の入力を終え、プリントアウトしたものを足立さんの机に叩き付ける頃には、私の頭からはあんなに恐れていた昼間の矢吹の姿がすっかり消えてしまっていた。

 強敵を攻略した達成感と高揚感は、矢吹が掲げた両手に「お疲れーっ!!」と、何のためらいもなくハイタッチをさせた。

 次の瞬間、矢吹はそのまま私の手首を掴んで身体を強く引き寄せた。

 「…俺、やっぱり奏音が好きだ。羽立あんなヤツなんかに絶対渡せない」

 熱っぽい告白と、それに続く羽立くんへの冷たい非難の温度差が、一層激しく私を動揺させた。

 「ちょっ、海斗!?何言って…私、もう婚約してるのよ!?」

 どうして矢吹がここまで羽立くんを嫌うのか分からないけれど、この状況はマズい。

 そう思って力いっぱい藻掻いてみても、海斗の腕は解けるどころか、より強く私の身体を抱きしめた。

 「分かってるよ!けど…奏音、実家のために結婚するんだろう?」

 「な…何で海斗がそれを?」

 「榎本部長から聞いた。…俺と奏音の見合話が持ち上がってて、そのときにお前の実家のこと調べたって」

 そうだった。

 水面下で私と矢吹のお見合話が進められてたんだっけ。

 完全に忘れていた。

 というより、そもそも半分寝てる状態で円香と羽立くんの話が耳に入ったくらいだったので、夢か現実かも怪しいレベルだったし。

 「結局、俺と見合いする前に婚約したから流れたって聞いて、つくづく俺は奏音と縁がないんだって言われたみたいで、ショックだった。…それでも、家のために結婚するなんて、奏音らしいな、変わってないなって。俺の知らない誰かと幸せになるならそれでいいって自分に言い聞かせてた。けど、まさか…相手がよりによって羽立アイツだなんて」

 矢吹の声に、どんどん軽蔑に近い怒りの色が増していく。

 「海斗…なんでそんなに羽立くんのことを」

 「アレは、やっぱり羽立昴で間違いないんだな?」

 「…」

 返事を躊躇うほどの、プレッシャー。

 黙ったままで矢吹の腕の中で息を殺していると、労るように頭を撫でられた。

 「…奏音、お前、アイツに騙されてるんだよ」

 「え?」

 「あいつは…羽立昴はゲイだ。奏音は、愛さない」
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