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第三章
20 老魔女の見舞い
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潤滑剤を強化する素材が揃い、成分を抽出する下準備に取り掛かり始めた矢先、こんこん、と窓を叩く音がした。
「あら? なんだろ」
扉から訪ねて来ないということは行商人のシトリヴァルではないし、他の魔女が遊びに来たというわけでもない。
レヴィメウスが眉をひそめ、普段は起こらない出来事に警戒感を強める。
その様子を笑顔でなだめつつガラスの音がした窓辺に行き、大きく窓を開け放つ。
窓から身を乗り出して辺りを見回すと、すぐそばの地面の上にカラスが一羽佇んでいた。マージェリィを見上げて『カァ』とひと鳴きする。
「君は……」
カラスはマージェリィが呟くなりバサバサと羽ばたいて窓枠に降り立った。その脚には手紙が巻き付けられている。
「こんな遠い所まで飛んできてくれてありがとね」
頭を撫でるとカラスは嬉しそうに目を閉じた。艶やかな黒羽の手触りが心地よい。
首の下や背中を撫で回したあと、脚の手紙をほどき、丁寧に折り畳まれたそれを慎重に開いた。
予想のついていた文面に、心臓が一度強く脈打つ。
「どうした? 主よ。何か深刻な話か?」
並び立つレヴィメウスが心配そうに尋ねてくる。手紙を読んだ時の心境が顔に出てしまっていたらしい。
マージェリィはカラスに『手紙受け取ったよ、ありがとう』と伝えて飛び立たせると、手紙を折り畳んでからレヴィメウスを見上げて微笑んだ。
「古い知り合いの魔女が会いに来いって。すごく遠くに住んでるんだけど、一緒に来てもらってもいい?」
「ああ、もちろんだ主よ。地の果てだって喜んでお供しよう」
「ふふ。頼もしいね。ありがと、レヴィメウス」
◇◇◇◇
すぐに旅支度を整えて、老婆と使用人に変装して出立する。
行く先はマージェリィの住む森から延々と北上した先、陸の最北端に広がる森。
いくつもの街や村を通り過ぎ、途中で野宿し、馬車を走らせ続ける。
最後に通過した村から丸一日経ち、三度の夜を超えた四日目の朝、古い知り合いの魔女の森に入った。
マージェリィの家よりずっと立派な館の前に馬車を止める。
馬車から降りるより先に、中から人が出てきた。魔女の黒いローブを纏った少女だった。
幼い魔女が客人を見るなり大人びた笑みを浮かべる。
「こんにちは。あなたがマージェリィさん? 初めまして、私は大魔女フリージアの弟子、ブルーベルと申します」
丁寧な挨拶に続けて両手を体の前で重ねてぺこりと頭を下げる。
マージェリィはその子の目の前にしゃがみ込むと、低い位置から顔を見上げてにっこりと笑ってみせた。
「はじめまして。大魔女サルビアの弟子のマージェリィって言います。お手紙ありがとう」
少女の頭を優しく撫でる。するとブルーベルは少し寂し気に口元を微笑ませたのだった。
廊下を進み、家主の部屋へと通される。
そこには古い知り合いの――マージェリィの師匠の親友の――年老いた魔女がベッドに横たわっていた。
マージェリィを見るなり笑顔に変わり、自ら起き上がろうとする。
少女が慌てて介助し、上体を起き上がらせて大きなクッションに寄りかからせた。
「いらっしゃい、マージェリィ。あんなに小っちゃかった子がこんなに大きくなって。綺麗になったもんだ」
「フリージアさん、ご無沙汰してます」
「まあまあ! 大人びた挨拶ができるようになっちゃって。月日が経つのは早いもんだねえ」
久しぶりに聞いた声は、心臓がぎゅっと苦しくなるほどにしわがれていた。
眩しいものを見る風に細められた目は少し焦点がずれている。あまりよく見えていないのかもしれない。
大魔女フリージアはマージェリィを見つめたまま何度も頷いたあと、隣に視線を移した。
「ルージュから聞いたけど、淫魔を呼び出したんだってねえ。頑張ったねえ」
マージェリィと並び立つレヴィメウスの全身を眺めてから、歯を見せて笑う。
「君の主は、君を可愛がってくれてるかい?」
「もちろんだ!」
「そうかいそうかい」
レヴィメウスがまるで少年のように溌剌と返事すれば、温かな眼差しに変わる。
数回頷いた拍子に激しく咳き込み出し、ブルーベルが背中をさすった。
この老魔女フリージアはマージェリィの師匠であるサルビアを数回訪ねてきたことがあり、来る度にマージェリィにたくさん土産をくれて、滞在中とても可愛がってくれたのだった。
フリージアは光魔法に長けていて、かつて旅をした際に見た数々の風景を大きく壁に映し出してくれたり、あるいは風光明媚な街全体を模型のように出現させてくれた。見たことのない土地の景色に心躍らせたマージェリィは、その魔法を見せられる度に感激のあまり飛び跳ねたものだった――懐かしい光景が次々と浮かんできて、心にぬくもりが湧き立つ。
レヴィメウスと並んで椅子に座るマージェリィがひとり思い出に浸っていると、咳が鎮まったフリージアがマージェリィたちを眺めつつしみじみと語り出した。
「マージェリィ。あんたはすこぶる可愛いから、サルビアが『街へ出たときに変な輩に絡まれやしないか心配だ』ってよく口にしてたもんだ。だがこれだけ頼もしい護衛がいれば安心さね」
「あ……だから師匠、私に『街へ出る時は必ず老婆の変装をしなさい』って言ってたんだ……」
今さらながらに師匠の思いやりを知り、目の奥が熱くなった。
まばたきを繰り返して涙を抑え、師匠の親友である大魔女と昔話に花を咲かせる。フリージアは昨日のことのように師匠サルビアとの様々なエピソードを語ってくれて、知らなかった師匠の新たな一面を知り、マージェリィは思いがけず心を弾ませてしまった。
語り口が面白くて、つい大声で笑ってしまう。賑やかに過ごすうちに、そばに佇んでいたフリージアの弟子の少女も少しずつ笑顔を見せ始めたのだった。
部屋が夕焼け色に染まり始めれば、温かい時間は終わりを告げる。
しわしわになった手をぎゅっと握り締めると、そっと握り返された。
「マージェリィ。元気でね」
「はい。フリージアさん。……また、来ますね」
「ああ。ブルーベルと仲良くしてやっておくれよ」
「はい! もちろんです!」
後ろ髪を引かれる思いで部屋を後にすれば、ブルーベルだけが見送りに外に出てくる。
「ブルーベル。必ずまた遊びに来るからね」
「はい、マージェリィさん。今日は師匠に会いに来てくださってありがとうございました。私もいずれ落ち着いたら……きっとマージェリィさんの元へ伺います」
「うん、楽しみにしてるね」
少女の頭を撫でれば、沈鬱な表情がわずかに和らぐ。
マージェリィはたまらず幼い魔女をぎゅっと抱き締めたのだった。
◇◇◇◇
幌馬車が走り始め、館が遠ざかっていく。
建物が完全に見えなくなった途端、それまでこらえていた涙が溢れ出した。
「どうした? 主よ」
幌馬車の向かいの席に座っていたレヴィメウスが隣に移ってくる。
お辞儀をするようにして顔を覗き込んでくる。しかしマージェリィは何も答えず、溢れる涙を何度も拭った。
いつまでも泣いていては魔女の森から出るための変装ができない。泣きじゃくる老婆など、通りすがりの人に怪しまれ、集落を通る度に警戒されてしまう――。
仕方なくマージェリィは森の端で御者くん人形に馬車を止めさせると、レヴィメウスに涙のわけを打ち明けた。
「あの方は……近い内に亡くなるの」
「……」
レヴィメウスは何も答えなかった。察しは付いていたのだろう。だからこそ大魔女に話し掛けられたときに大げさに声を弾ませていたのかも知れない――淫魔の気遣いを思い出せば、沈みゆく心がほんの少しだけ浮上する。
マージェリィは指先で何度も涙を払うと、大きく息を吸い込み話を再開した。
「弟子がいたでしょ? あの子、手紙でもうすぐ十歳になると言っていたから。弟子ができた魔女は、弟子が十歳になるまでしか生きられないんだ。私の師匠が亡くなったときのことを思い出しちゃって、あの子もこれから悲しい思いをするんだなって思ったら……」
再び涙が溢れ出す。今度は頬を濡らしたまま泣き続けていると、レヴィメウスが肩を抱き寄せてくれた。
寄り添ってくれる人が居てくれることの、なんと有難いことか――師匠を亡くす際は、魔女はひとりでその悲しみを乗り越えていくものだから――。
涙が収まってから変装して移動を始め、すっかり日が暮れた頃、街道から外れた林の中で野宿を始めた。
薄く雲の掛かった星空の下、倒木に腰掛けて揺らぐ炎を見つめる。
焚き火の熱は、泣き腫らした目蓋にことさら熱く感じた。
「私も魔女だから、将来あんな風に弟子を育ててから死んでいくんだ」
フクロウの鳴き声と薪の爆ぜる音が静かに響く中、魔女という存在について語り出す。
「若返りの薬が効きにくくなってきて、体調を崩しがちになってきたある日、耳の中に赤子の鳴き声が聞こえてくるんだって。そしたら魔女の森の外れに捨て子が居るから、その赤子と出会ったら、自分の余命が十年って判明するの。寿命が近付いた魔女はね、十年かけてその子を弟子として育て上げていくんだ」
マージェリィは足元から顔を上げると隣を見上げた。レヴィメウスの顔をまともに見るのは随分と久しぶりのことのように感じた。
黄金色の瞳はマージェリィの心境を映し出す鏡のように寂しげだった。まばたきの少ないその目を見据えて、いつかは言おうとしていた事実を口にする。
「私も老いたら魔力がどんどん減っていって、いつしかあなたに魔力供給ができなくなるから、その前にあなたとの契約を解除して魔界に還ってもらうことになるんだ。だからあなたに私の最期を看取ってもらうことはできないけど、その時まで……たくさんたくさん、楽しい思い出を作っていこうね」
「主……!」
押し倒されるかと思う程に強く抱きすくめられた。
腰と背に回した腕に何度も力を籠め直し、髪に頬ずりしてくる。合わせた胸から伝わってくる鼓動が速く、もしかしたらレヴィメウスもいずれ来るであろう別れに寂しさを感じてくれているのかなとマージェリィは密かに思ったのだった。
隣にすっかり体重を預けた状態で揺らぐ焚き火の炎を眺め続けていると、レヴィメウスがぽつりと言った。
「魔女とは……そのような人生を送るのだな。今まで召喚主たる魔女が老いるほどに長く共に過ごした経験がなかったゆえ、その人生を知る由もなかった」
「魔女は人間よりかは長く生きられるけど、悪魔ほどには長命じゃないから私は必ずあなたより先に死んじゃうんだ。呼び出しておいて、勝手でごめんね」
ずっと寄りかかっていたぬくもりから体を離し、レヴィメウスを見上げる。
淫魔の顔は、炎の作り出す影に強調されてその美しさが際立っていた。
「……でも私は簡単には死なないよ。あなたのために長生きする。魔女の長寿記録を塗り替えちゃうんだから! あなたがずーっと淫魔らしいことをできなかった二千年分、私が一生かけて満たしてあげる!」
「……。ああ」
掠れ声の返事と共に、切なげに眉をひそめる。
マージェリィがレヴィメウスの腕に手のひらを滑らせて合図を送ると、ゆっくりと顔が近付いてきて――目蓋にキスされた。
拾い上げられた手に指が絡められる。マージェリィよりずっと大きな手は、焚き火にかざしていたのかと思うほどに熱かった。
二人はこれ以上言葉を交わすことなく寄り添い合い、互いのぬくもりに浸り続けたのだった。
「あら? なんだろ」
扉から訪ねて来ないということは行商人のシトリヴァルではないし、他の魔女が遊びに来たというわけでもない。
レヴィメウスが眉をひそめ、普段は起こらない出来事に警戒感を強める。
その様子を笑顔でなだめつつガラスの音がした窓辺に行き、大きく窓を開け放つ。
窓から身を乗り出して辺りを見回すと、すぐそばの地面の上にカラスが一羽佇んでいた。マージェリィを見上げて『カァ』とひと鳴きする。
「君は……」
カラスはマージェリィが呟くなりバサバサと羽ばたいて窓枠に降り立った。その脚には手紙が巻き付けられている。
「こんな遠い所まで飛んできてくれてありがとね」
頭を撫でるとカラスは嬉しそうに目を閉じた。艶やかな黒羽の手触りが心地よい。
首の下や背中を撫で回したあと、脚の手紙をほどき、丁寧に折り畳まれたそれを慎重に開いた。
予想のついていた文面に、心臓が一度強く脈打つ。
「どうした? 主よ。何か深刻な話か?」
並び立つレヴィメウスが心配そうに尋ねてくる。手紙を読んだ時の心境が顔に出てしまっていたらしい。
マージェリィはカラスに『手紙受け取ったよ、ありがとう』と伝えて飛び立たせると、手紙を折り畳んでからレヴィメウスを見上げて微笑んだ。
「古い知り合いの魔女が会いに来いって。すごく遠くに住んでるんだけど、一緒に来てもらってもいい?」
「ああ、もちろんだ主よ。地の果てだって喜んでお供しよう」
「ふふ。頼もしいね。ありがと、レヴィメウス」
◇◇◇◇
すぐに旅支度を整えて、老婆と使用人に変装して出立する。
行く先はマージェリィの住む森から延々と北上した先、陸の最北端に広がる森。
いくつもの街や村を通り過ぎ、途中で野宿し、馬車を走らせ続ける。
最後に通過した村から丸一日経ち、三度の夜を超えた四日目の朝、古い知り合いの魔女の森に入った。
マージェリィの家よりずっと立派な館の前に馬車を止める。
馬車から降りるより先に、中から人が出てきた。魔女の黒いローブを纏った少女だった。
幼い魔女が客人を見るなり大人びた笑みを浮かべる。
「こんにちは。あなたがマージェリィさん? 初めまして、私は大魔女フリージアの弟子、ブルーベルと申します」
丁寧な挨拶に続けて両手を体の前で重ねてぺこりと頭を下げる。
マージェリィはその子の目の前にしゃがみ込むと、低い位置から顔を見上げてにっこりと笑ってみせた。
「はじめまして。大魔女サルビアの弟子のマージェリィって言います。お手紙ありがとう」
少女の頭を優しく撫でる。するとブルーベルは少し寂し気に口元を微笑ませたのだった。
廊下を進み、家主の部屋へと通される。
そこには古い知り合いの――マージェリィの師匠の親友の――年老いた魔女がベッドに横たわっていた。
マージェリィを見るなり笑顔に変わり、自ら起き上がろうとする。
少女が慌てて介助し、上体を起き上がらせて大きなクッションに寄りかからせた。
「いらっしゃい、マージェリィ。あんなに小っちゃかった子がこんなに大きくなって。綺麗になったもんだ」
「フリージアさん、ご無沙汰してます」
「まあまあ! 大人びた挨拶ができるようになっちゃって。月日が経つのは早いもんだねえ」
久しぶりに聞いた声は、心臓がぎゅっと苦しくなるほどにしわがれていた。
眩しいものを見る風に細められた目は少し焦点がずれている。あまりよく見えていないのかもしれない。
大魔女フリージアはマージェリィを見つめたまま何度も頷いたあと、隣に視線を移した。
「ルージュから聞いたけど、淫魔を呼び出したんだってねえ。頑張ったねえ」
マージェリィと並び立つレヴィメウスの全身を眺めてから、歯を見せて笑う。
「君の主は、君を可愛がってくれてるかい?」
「もちろんだ!」
「そうかいそうかい」
レヴィメウスがまるで少年のように溌剌と返事すれば、温かな眼差しに変わる。
数回頷いた拍子に激しく咳き込み出し、ブルーベルが背中をさすった。
この老魔女フリージアはマージェリィの師匠であるサルビアを数回訪ねてきたことがあり、来る度にマージェリィにたくさん土産をくれて、滞在中とても可愛がってくれたのだった。
フリージアは光魔法に長けていて、かつて旅をした際に見た数々の風景を大きく壁に映し出してくれたり、あるいは風光明媚な街全体を模型のように出現させてくれた。見たことのない土地の景色に心躍らせたマージェリィは、その魔法を見せられる度に感激のあまり飛び跳ねたものだった――懐かしい光景が次々と浮かんできて、心にぬくもりが湧き立つ。
レヴィメウスと並んで椅子に座るマージェリィがひとり思い出に浸っていると、咳が鎮まったフリージアがマージェリィたちを眺めつつしみじみと語り出した。
「マージェリィ。あんたはすこぶる可愛いから、サルビアが『街へ出たときに変な輩に絡まれやしないか心配だ』ってよく口にしてたもんだ。だがこれだけ頼もしい護衛がいれば安心さね」
「あ……だから師匠、私に『街へ出る時は必ず老婆の変装をしなさい』って言ってたんだ……」
今さらながらに師匠の思いやりを知り、目の奥が熱くなった。
まばたきを繰り返して涙を抑え、師匠の親友である大魔女と昔話に花を咲かせる。フリージアは昨日のことのように師匠サルビアとの様々なエピソードを語ってくれて、知らなかった師匠の新たな一面を知り、マージェリィは思いがけず心を弾ませてしまった。
語り口が面白くて、つい大声で笑ってしまう。賑やかに過ごすうちに、そばに佇んでいたフリージアの弟子の少女も少しずつ笑顔を見せ始めたのだった。
部屋が夕焼け色に染まり始めれば、温かい時間は終わりを告げる。
しわしわになった手をぎゅっと握り締めると、そっと握り返された。
「マージェリィ。元気でね」
「はい。フリージアさん。……また、来ますね」
「ああ。ブルーベルと仲良くしてやっておくれよ」
「はい! もちろんです!」
後ろ髪を引かれる思いで部屋を後にすれば、ブルーベルだけが見送りに外に出てくる。
「ブルーベル。必ずまた遊びに来るからね」
「はい、マージェリィさん。今日は師匠に会いに来てくださってありがとうございました。私もいずれ落ち着いたら……きっとマージェリィさんの元へ伺います」
「うん、楽しみにしてるね」
少女の頭を撫でれば、沈鬱な表情がわずかに和らぐ。
マージェリィはたまらず幼い魔女をぎゅっと抱き締めたのだった。
◇◇◇◇
幌馬車が走り始め、館が遠ざかっていく。
建物が完全に見えなくなった途端、それまでこらえていた涙が溢れ出した。
「どうした? 主よ」
幌馬車の向かいの席に座っていたレヴィメウスが隣に移ってくる。
お辞儀をするようにして顔を覗き込んでくる。しかしマージェリィは何も答えず、溢れる涙を何度も拭った。
いつまでも泣いていては魔女の森から出るための変装ができない。泣きじゃくる老婆など、通りすがりの人に怪しまれ、集落を通る度に警戒されてしまう――。
仕方なくマージェリィは森の端で御者くん人形に馬車を止めさせると、レヴィメウスに涙のわけを打ち明けた。
「あの方は……近い内に亡くなるの」
「……」
レヴィメウスは何も答えなかった。察しは付いていたのだろう。だからこそ大魔女に話し掛けられたときに大げさに声を弾ませていたのかも知れない――淫魔の気遣いを思い出せば、沈みゆく心がほんの少しだけ浮上する。
マージェリィは指先で何度も涙を払うと、大きく息を吸い込み話を再開した。
「弟子がいたでしょ? あの子、手紙でもうすぐ十歳になると言っていたから。弟子ができた魔女は、弟子が十歳になるまでしか生きられないんだ。私の師匠が亡くなったときのことを思い出しちゃって、あの子もこれから悲しい思いをするんだなって思ったら……」
再び涙が溢れ出す。今度は頬を濡らしたまま泣き続けていると、レヴィメウスが肩を抱き寄せてくれた。
寄り添ってくれる人が居てくれることの、なんと有難いことか――師匠を亡くす際は、魔女はひとりでその悲しみを乗り越えていくものだから――。
涙が収まってから変装して移動を始め、すっかり日が暮れた頃、街道から外れた林の中で野宿を始めた。
薄く雲の掛かった星空の下、倒木に腰掛けて揺らぐ炎を見つめる。
焚き火の熱は、泣き腫らした目蓋にことさら熱く感じた。
「私も魔女だから、将来あんな風に弟子を育ててから死んでいくんだ」
フクロウの鳴き声と薪の爆ぜる音が静かに響く中、魔女という存在について語り出す。
「若返りの薬が効きにくくなってきて、体調を崩しがちになってきたある日、耳の中に赤子の鳴き声が聞こえてくるんだって。そしたら魔女の森の外れに捨て子が居るから、その赤子と出会ったら、自分の余命が十年って判明するの。寿命が近付いた魔女はね、十年かけてその子を弟子として育て上げていくんだ」
マージェリィは足元から顔を上げると隣を見上げた。レヴィメウスの顔をまともに見るのは随分と久しぶりのことのように感じた。
黄金色の瞳はマージェリィの心境を映し出す鏡のように寂しげだった。まばたきの少ないその目を見据えて、いつかは言おうとしていた事実を口にする。
「私も老いたら魔力がどんどん減っていって、いつしかあなたに魔力供給ができなくなるから、その前にあなたとの契約を解除して魔界に還ってもらうことになるんだ。だからあなたに私の最期を看取ってもらうことはできないけど、その時まで……たくさんたくさん、楽しい思い出を作っていこうね」
「主……!」
押し倒されるかと思う程に強く抱きすくめられた。
腰と背に回した腕に何度も力を籠め直し、髪に頬ずりしてくる。合わせた胸から伝わってくる鼓動が速く、もしかしたらレヴィメウスもいずれ来るであろう別れに寂しさを感じてくれているのかなとマージェリィは密かに思ったのだった。
隣にすっかり体重を預けた状態で揺らぐ焚き火の炎を眺め続けていると、レヴィメウスがぽつりと言った。
「魔女とは……そのような人生を送るのだな。今まで召喚主たる魔女が老いるほどに長く共に過ごした経験がなかったゆえ、その人生を知る由もなかった」
「魔女は人間よりかは長く生きられるけど、悪魔ほどには長命じゃないから私は必ずあなたより先に死んじゃうんだ。呼び出しておいて、勝手でごめんね」
ずっと寄りかかっていたぬくもりから体を離し、レヴィメウスを見上げる。
淫魔の顔は、炎の作り出す影に強調されてその美しさが際立っていた。
「……でも私は簡単には死なないよ。あなたのために長生きする。魔女の長寿記録を塗り替えちゃうんだから! あなたがずーっと淫魔らしいことをできなかった二千年分、私が一生かけて満たしてあげる!」
「……。ああ」
掠れ声の返事と共に、切なげに眉をひそめる。
マージェリィがレヴィメウスの腕に手のひらを滑らせて合図を送ると、ゆっくりと顔が近付いてきて――目蓋にキスされた。
拾い上げられた手に指が絡められる。マージェリィよりずっと大きな手は、焚き火にかざしていたのかと思うほどに熱かった。
二人はこれ以上言葉を交わすことなく寄り添い合い、互いのぬくもりに浸り続けたのだった。
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