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自由
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訪ねてきてくれたルールーさんの服装に驚いた。
いつもの道化師の衣装も化粧もしていない。披露宴のときに着ていた天族の衣装でもない。
まるで街を歩く若者みたいな恰好をしているのが新鮮だ。
そうしていると彼の美しさが稀有であることがよくわかる。
ここに来るまでにも、きっと色々なところで注目を集め、声をかけられたに違いない。
そのせいか心なしかくたびれた顔をしているが、それがまた色気を醸し出していた。
「シャラが来るものだとばかり思っていました……」
驚きを隠せずにそう言ったわたしに、ルールーさんは渋い顔をして見せた。
「なんでよ。いつの間にシャラとそんなに仲良くなったのよ。あたしじゃ不満なの?」
まるで拗ねるような物言いに、わたしは慌てて否定する。
「いえ、そうではなくて! ルールーさんもお忙しいでしょうから、わたしのお迎えには来られないと思ったのです」
「まあ、確かに天族関係で忙しくはなったけどね。今までみたいに権力に隠れて生きていけなくなったから、その説明や調整なんかで大騒ぎよ。だけど、あなた以上に優先するものなんてないわよ」
にっこり笑った笑顔を向けられて、勘違いしそうになる。
好意を向けてもらっているのだ、と思いたくなる。
調子に乗ってはいけない、と両手で逸る心臓を抑え込んで、
「……ありがとうございます。だけど、そんなに気にかけていただかなくても大丈夫ですよ? わたしの荷物は少ないので、一人でも運べます」
「鈍いわねえ、一緒に過ごしたいって言ってるんだけど?」
その言葉は、まるで恋人に囁きかけるような響きを伴ってわたしの耳に届いた。
――それは、どういう。意図で、言ってるんですか。
調子に乗るまいとしているのに、ルールーさんはたやすくこちらの心を揺さぶってくる。
たちまち混乱に陥った脳でわたしは懸命に考える。
ルールーさんはなんで、わたしと一緒に過ごしたいなんて言うんだろう。
わたしが化粧を覚えた時点で、もう訓練は終わったはずなのだ。
わたしが天領に行くことを選んだ時点で、もう古の聖女への義理も果たされたはずなのだ。
だから、ルールーさんがシェンブルクの娘であるわたしを気に掛ける理由は、もう無い。
そのはずである。
「なに、顔を白黒させてるの? せっかくのお化粧が崩れそうだわ」
「えっ」
「冗談よ、それくらいじゃあ崩れない。ちゃんと下地から作ってあるからね。上手になったわ、ほんと」
優しく頭を撫でられて、微笑みを向けられて。
そのしぐさに、もしかして、と感じた。
もしかして、一通りの化粧を教えたはいいものの、出来の悪い弟子だと思われているのかもしれない。
だから、責任感の強いルールーさんはわたしを無下に扱えないのかもしれない。
もしそうなら、わたしは彼を安心させなければならない。
もう手を離しても大丈夫なのだ、と。
庇護しなければ一人で立つこともできなかったあの頃とは違うのだ、と。
それがせめてもの、わたしの恩返しだ。
「ねえ、また何かネガティブなことを考えてない?」
「そんなことはありません」
顔をしかめてわたしを見つめるルールーさんを安心させるように微笑んで、わたしは告げた。
屋敷の片づけをしながら、わたしはずっと、自分の感情も整理していた。
それでやっと、考えがまとまったのだ。
「……ルールーさん、今までのご厚意にどれだけ感謝しても足りません。
あなたのおかげで、わたしは変わりました」
「なによ、改まって」
ルールーさんは戸惑いながらわたしから手を離す。
空っぽになってしまった屋敷を出て、庭に一組だけ残されたテーブルセットの椅子を彼に勧め、わたしは彼の向かいの椅子に座った。
「一度、お伝えしておきたいと思っていたのです。聞いていただけますか?」
「なんだか、嫌な予感がするわね……」
ぼやくようにそう言って座ったルールーさんは、長い足を組み、右手を顎に沿えて唇を隠して黙る。
はちみつ色の瞳が昼下がりの光を受けて輝き、まっすぐにわたしを見て、話の続きを待っている。
「ルールーさんに会うまで、わたしはずっと、できることならムールカになりたいと思っていました」
ルールーさんは眉根を寄せて、何か言おうとした。
彼をそっと制して、わたしは言葉を続ける。
「妹のように、美しく、優秀で、社交的で、皆に愛され、誰の期待も裏切らない。
そんな完璧な令嬢になりたかった。
けれど、そのムールカが何より嫌ったのがわたしでした」
ムールカは、わたしが何かするたびに、同じ言葉を繰り返しわたしに言い聞かせた。
『見苦しいですよ、お姉さま。出しゃばらずに控えていたらどうです?』
わたしたちを知らない人なら、こんな言葉は妹のちょっとした皮肉だと思うのかもしれない。
しかしわたしにとって、あの言葉は呪いだった。
何をしても見苦しい。そう言われるごとに、何もできなくなっていった。
あの言葉を聞かされるたびに、わたしの心は少しずつ凝り固まっていったのだと思う。
「ムールカは、ずっとわたしのことを見苦しいと言い続けていました。
最初は反抗しようとしたこともありましたが、わたしはすぐに、ムールカの言葉が正しいと思いました。
あの子の価値観を信じることで、あの子に近づきたかったのかもしれません。
次第にわたしは、わたしの醜さと見苦しさが、家族がうまくいかない原因なのだと考えるようになりました」
だから化粧を始めた。少しでも美しくなれば、ムールカも、両親も、リドさまも、わたしを認めてくれる。
そんな甘い考えがあったことは確かだ。
けれどひたすらおしろいを塗り重ねた化粧は、ただ『壁顔令嬢』を産みだしただけだった。
「顔をおしろいで塗り固め、鎧をまとって強くなったつもりでいました。
化粧が汚いと言われたところで、素顔の自分はもっと醜くて見苦しいから『しょうがない』のだと諦めれば、もう何も努力しなくていい。
それに気づいてからは、楽な方、楽な方に逃げていきました」
化粧を厚く塗り固め、わたし自身を覆い隠す。
隠れて、隠れ続けて、誰にも見つけてもらわないままで一生を過ごそうと思っていた。
それでいいと思っていた。
「けれどあなたがわたしを見つけてくれた。
甘えた考えですべてを諦めていたわたしを叱り飛ばし、だけど見捨てずに導いてくれた。
そのおかげでわたしは化粧を覚え、自分を美しく装うことができるようになりました」
今でも、鏡を見るのはまだ苦手だ。
どんなに化粧したところで、自分の顔を美しいと思えるわけでもない。
それでも化粧をし、装うことで、周囲のまなざしは驚くほど変化することを知った。
「披露宴での作戦なんて、うまくいきっこないと思っていたことを謝ります。
あの日の外見を揶揄されないという体験は、わたしにとって初めてで、特別なものとなりました」
ルールーさんに教わった化粧の効果は劇的だった。
周囲のまなざしが変わったことだけじゃない。
化粧を通してわたしは、理想に向かって一歩前に進むことの楽しさを知った。
化粧をして『きれい』を目指すことで、わたしは少しだけ、ムールカが否定しつづけたわたし自分のことを好きになれた気がするのだ。
「あなたがくれたのは、わたしを守る新しい鎧です。
この鎧を手に入れて、わたしはようやく、ムールカと自分を切り分けて考えることができるようになった。
あの子の価値観から解放されて、自分自身と向き合うことができるようになった。
だから――」
ルールーさんの瞳。その金色で見つめられるのが好きだった。
今までわたしに向けられていたまなざしとは違う、あたたかなものであふれていることに気づいていたから。
だけどその正体はシェンブルクの娘に対する敬意であって、わたし個人への愛情ではないとわかってる。
「だから、わたしはもう、ひとりで大丈夫です」
この人を、わたしから解放しなければならない。わたし一人のもとに留めていい人ではないから。
彼はわたしに自由をくれた。
だから、わたしも彼に自由を返したい。
いつもの道化師の衣装も化粧もしていない。披露宴のときに着ていた天族の衣装でもない。
まるで街を歩く若者みたいな恰好をしているのが新鮮だ。
そうしていると彼の美しさが稀有であることがよくわかる。
ここに来るまでにも、きっと色々なところで注目を集め、声をかけられたに違いない。
そのせいか心なしかくたびれた顔をしているが、それがまた色気を醸し出していた。
「シャラが来るものだとばかり思っていました……」
驚きを隠せずにそう言ったわたしに、ルールーさんは渋い顔をして見せた。
「なんでよ。いつの間にシャラとそんなに仲良くなったのよ。あたしじゃ不満なの?」
まるで拗ねるような物言いに、わたしは慌てて否定する。
「いえ、そうではなくて! ルールーさんもお忙しいでしょうから、わたしのお迎えには来られないと思ったのです」
「まあ、確かに天族関係で忙しくはなったけどね。今までみたいに権力に隠れて生きていけなくなったから、その説明や調整なんかで大騒ぎよ。だけど、あなた以上に優先するものなんてないわよ」
にっこり笑った笑顔を向けられて、勘違いしそうになる。
好意を向けてもらっているのだ、と思いたくなる。
調子に乗ってはいけない、と両手で逸る心臓を抑え込んで、
「……ありがとうございます。だけど、そんなに気にかけていただかなくても大丈夫ですよ? わたしの荷物は少ないので、一人でも運べます」
「鈍いわねえ、一緒に過ごしたいって言ってるんだけど?」
その言葉は、まるで恋人に囁きかけるような響きを伴ってわたしの耳に届いた。
――それは、どういう。意図で、言ってるんですか。
調子に乗るまいとしているのに、ルールーさんはたやすくこちらの心を揺さぶってくる。
たちまち混乱に陥った脳でわたしは懸命に考える。
ルールーさんはなんで、わたしと一緒に過ごしたいなんて言うんだろう。
わたしが化粧を覚えた時点で、もう訓練は終わったはずなのだ。
わたしが天領に行くことを選んだ時点で、もう古の聖女への義理も果たされたはずなのだ。
だから、ルールーさんがシェンブルクの娘であるわたしを気に掛ける理由は、もう無い。
そのはずである。
「なに、顔を白黒させてるの? せっかくのお化粧が崩れそうだわ」
「えっ」
「冗談よ、それくらいじゃあ崩れない。ちゃんと下地から作ってあるからね。上手になったわ、ほんと」
優しく頭を撫でられて、微笑みを向けられて。
そのしぐさに、もしかして、と感じた。
もしかして、一通りの化粧を教えたはいいものの、出来の悪い弟子だと思われているのかもしれない。
だから、責任感の強いルールーさんはわたしを無下に扱えないのかもしれない。
もしそうなら、わたしは彼を安心させなければならない。
もう手を離しても大丈夫なのだ、と。
庇護しなければ一人で立つこともできなかったあの頃とは違うのだ、と。
それがせめてもの、わたしの恩返しだ。
「ねえ、また何かネガティブなことを考えてない?」
「そんなことはありません」
顔をしかめてわたしを見つめるルールーさんを安心させるように微笑んで、わたしは告げた。
屋敷の片づけをしながら、わたしはずっと、自分の感情も整理していた。
それでやっと、考えがまとまったのだ。
「……ルールーさん、今までのご厚意にどれだけ感謝しても足りません。
あなたのおかげで、わたしは変わりました」
「なによ、改まって」
ルールーさんは戸惑いながらわたしから手を離す。
空っぽになってしまった屋敷を出て、庭に一組だけ残されたテーブルセットの椅子を彼に勧め、わたしは彼の向かいの椅子に座った。
「一度、お伝えしておきたいと思っていたのです。聞いていただけますか?」
「なんだか、嫌な予感がするわね……」
ぼやくようにそう言って座ったルールーさんは、長い足を組み、右手を顎に沿えて唇を隠して黙る。
はちみつ色の瞳が昼下がりの光を受けて輝き、まっすぐにわたしを見て、話の続きを待っている。
「ルールーさんに会うまで、わたしはずっと、できることならムールカになりたいと思っていました」
ルールーさんは眉根を寄せて、何か言おうとした。
彼をそっと制して、わたしは言葉を続ける。
「妹のように、美しく、優秀で、社交的で、皆に愛され、誰の期待も裏切らない。
そんな完璧な令嬢になりたかった。
けれど、そのムールカが何より嫌ったのがわたしでした」
ムールカは、わたしが何かするたびに、同じ言葉を繰り返しわたしに言い聞かせた。
『見苦しいですよ、お姉さま。出しゃばらずに控えていたらどうです?』
わたしたちを知らない人なら、こんな言葉は妹のちょっとした皮肉だと思うのかもしれない。
しかしわたしにとって、あの言葉は呪いだった。
何をしても見苦しい。そう言われるごとに、何もできなくなっていった。
あの言葉を聞かされるたびに、わたしの心は少しずつ凝り固まっていったのだと思う。
「ムールカは、ずっとわたしのことを見苦しいと言い続けていました。
最初は反抗しようとしたこともありましたが、わたしはすぐに、ムールカの言葉が正しいと思いました。
あの子の価値観を信じることで、あの子に近づきたかったのかもしれません。
次第にわたしは、わたしの醜さと見苦しさが、家族がうまくいかない原因なのだと考えるようになりました」
だから化粧を始めた。少しでも美しくなれば、ムールカも、両親も、リドさまも、わたしを認めてくれる。
そんな甘い考えがあったことは確かだ。
けれどひたすらおしろいを塗り重ねた化粧は、ただ『壁顔令嬢』を産みだしただけだった。
「顔をおしろいで塗り固め、鎧をまとって強くなったつもりでいました。
化粧が汚いと言われたところで、素顔の自分はもっと醜くて見苦しいから『しょうがない』のだと諦めれば、もう何も努力しなくていい。
それに気づいてからは、楽な方、楽な方に逃げていきました」
化粧を厚く塗り固め、わたし自身を覆い隠す。
隠れて、隠れ続けて、誰にも見つけてもらわないままで一生を過ごそうと思っていた。
それでいいと思っていた。
「けれどあなたがわたしを見つけてくれた。
甘えた考えですべてを諦めていたわたしを叱り飛ばし、だけど見捨てずに導いてくれた。
そのおかげでわたしは化粧を覚え、自分を美しく装うことができるようになりました」
今でも、鏡を見るのはまだ苦手だ。
どんなに化粧したところで、自分の顔を美しいと思えるわけでもない。
それでも化粧をし、装うことで、周囲のまなざしは驚くほど変化することを知った。
「披露宴での作戦なんて、うまくいきっこないと思っていたことを謝ります。
あの日の外見を揶揄されないという体験は、わたしにとって初めてで、特別なものとなりました」
ルールーさんに教わった化粧の効果は劇的だった。
周囲のまなざしが変わったことだけじゃない。
化粧を通してわたしは、理想に向かって一歩前に進むことの楽しさを知った。
化粧をして『きれい』を目指すことで、わたしは少しだけ、ムールカが否定しつづけたわたし自分のことを好きになれた気がするのだ。
「あなたがくれたのは、わたしを守る新しい鎧です。
この鎧を手に入れて、わたしはようやく、ムールカと自分を切り分けて考えることができるようになった。
あの子の価値観から解放されて、自分自身と向き合うことができるようになった。
だから――」
ルールーさんの瞳。その金色で見つめられるのが好きだった。
今までわたしに向けられていたまなざしとは違う、あたたかなものであふれていることに気づいていたから。
だけどその正体はシェンブルクの娘に対する敬意であって、わたし個人への愛情ではないとわかってる。
「だから、わたしはもう、ひとりで大丈夫です」
この人を、わたしから解放しなければならない。わたし一人のもとに留めていい人ではないから。
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