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しおりを挟む第一章 残酷な別れ
私――ルシアナは、恋人であるアザキオ・ブルーガに呼び出されて、待ち合わせ場所へ向かう。最近忙しかった彼と会うのは久しぶりで、私の心は弾んでいた。彼が選んだ、初めて行く町のはずれのお店には、知り合いは誰もおらず、私と彼は奥の席に座る。
「なかなか素敵なお店だわ。ありがとう、キオ。連れてきてくれて」
「あぁ……」
彼はそう言ったきりなぜか口を閉じてしまい、向かい合って座る私と目を合わせない。
私を見ていない、そんな気がした。恋人のそんな態度に、言いしれぬ不安を抱く。
……キオらしくないな。
彼と付き合ってから二年が経とうとしているけれども、こんな彼を見るのは初めてだった。
私達の出会いは、魔力持ちの騎士であるキオの剣の調整を任されたのが始まりだ。
そもそも、この国には魔力を持っている人が一割ほどいる。
魔力とは、おとぎ話に出てくる魔法のように便利なものではない。あくまでも、その人の特性でしかなく、磨かなければ意味がないうえ、活かせる仕事も騎士や魔道具調整師などに限られる。それに騎士になるのに魔力は絶対に必要というわけではなく、魔力を持たない騎士のほうが圧倒的に多い。
ただ、魔力持ちの騎士は、剣の強度や速さを増幅させることが出来る。
そして、魔道具調整師は、彼らが扱う剣などの武器を調整する。武器の内にある、魔力の通り道を整えるのだ。その作業はとても繊細で難しく、便宜上通り道と言っているが、もちろん目に見えるものではない。当然、遺伝するものではないうえ、魔力があれば誰でも出来るというものでもない。
幸いなことに私には適性があった。両親を早くに亡くし、頼るべき親戚もいないので、手に職をつけることが出来たのは本当に幸運だったと思う。
キオと私は、騎士と魔道具調整師として会話を重ねるうちに、自然と惹かれ合い、彼が告白してきたことをきっかけに、恋人としてのお付き合いが始まった。
両親を幼い頃に亡くしたキオは叔父に育てられ、法律で継承が認められる十歳の時、後見人を叔父として正式にブルーガ伯爵位を継いでいた。
彼は貴族で、私は平民という身分の差。今でこそ法律で貴族と平民の結婚も可能となったが、実際には身近な人に反対されることが多い。しかし、私達は反対されることはなかった。
キオの後見人である叔父が、私を受け入れてくれたからだ。以前会った時に、叔父は好きな人と結婚するのを諦めたことがあると寂しそうに話していた。その過去が大きく関係しているのだろう。さらに、キオが騎士を務められるのも、今でもブルーガ伯爵家の実質的な仕事を叔父が支えているからだと聞いている。
そうして、ふたりの間に芽生えた淡い恋を、二年という月日が確かな愛へと変えた。お互いにはっきりと言葉にはしていないけれど、生涯を一緒に歩んでいくだろう。もちろん、アザキオも同じ気持ちだと思っている。それを疑う理由なんて、私達の間にはない。
「キオ、どうしたの……?」
心配になり尋ねたが、彼は黙ったまま。
もともと口数が多いほうではないけど、ここまで黙りこむことなんてなかったのに。
いつもと違う様子に心配になり、もう一度問いかける。
「キオ、大丈夫?」
「……大丈夫だ」
私から目を逸らして俯く彼を覗き込む。
どうしてそんな顔をしているの……キオ。
言葉少なに呟く彼の表情は、悲しそうだとか苦しそうだとかそんな単純な言葉で言い表せない。彼は視線を下に向けたまま顔を上げ、声を絞り出すようにして話した。
「すまない……別れて欲しい。アナ」
「……っ……どうして……?」
言葉を詰まらせながらそう呟く。なぜ彼が突然そんなことを言うのか分からない。
ただ、最近の彼が以前とは少し違うことには気づいていた。それは彼が変わったのではなく、彼の周りに変化があったのだ。
一ヶ月ほど前の任務でキオが慕っている先輩騎士――レオンが仲間を庇って命を落としたと聞いた。その騎士と結婚間近だった婚約者――サーシャは、愛する人の突然の死を受け入れられず憔悴してしまい、騎士団の人達がそんな彼女を親身になって支えていた。
そんな中でもキオは、少しでも時間があれば彼女のもとに通っている。彼は先輩騎士の死に特に責任を感じているように見えたから、もしかしたら庇った仲間とはキオのことなのかもしれないと思った。でも彼に直接そのことを尋ねてはいない。
言ったら楽になるのなら、彼から話すはずだ。言わないということは、心の整理が出来ていない、または触れられたくないということなのだろう。
彼のしたいようにさせてあげたい。それで少しでも楽になるのなら……
悲しみや心に負った傷をどう消化するかはその人によって違う。彼にとって、この時間は必要なものなのだろう。
精神的にまいっている彼女を助けようとする彼の行動を疑わなかった。
しかし時間が経ってもサーシャのそばから、キオが離れることはない。
彼女もそんな彼を頼りにしているのだろう。援助を断る様子はない。「もう大丈夫だから」と彼女が言ってくれればと、心の中で何度となく願ったけれど、それを私が言葉にすることはなかった。
……言えないわ。傷ついている人にそんな残酷なことは……
もし私が彼女だったら、同じようになっていたかもしれない。
ふたりの距離に不安を感じないといえば嘘になる。彼のことを信じていても、やはり気分のいいものではない。
心の中では、もうサーシャの面倒を見るのはやめてと叫んでいたけど、そんな思いは彼には隠していた。私は自分の不安を和らげるのではなく、キオの心に寄り添いたかった。
だからこそ、私は理解のある恋人でいた。
それはサーシャのためではなく、愛するキオのためだった。それなのに……
「亡くなった先輩の婚約者を知っているだろう? ……これからは俺が、サーシャを守っていくつもりだ。お腹の子には父親が必要だから」
キオは、目線を合わせないまま私に告げてくる。
サーシャのお腹に亡くなった騎士の子がいるのは、周知の事実だった。
先輩騎士は貴族で、彼女は平民だったので、彼の家族は結婚を反対していたらしく、ふたりは結婚するために既成事実を作ったと聞いている。でも、もう彼女はお腹の子の父親と結婚出来ない。
キオがお腹の子の父親になるということは、つまり彼女と結婚するということ。
「キオは責任を感じているからそんなことを言うの? ひとりで背負おうとしないで! どうすれば彼女を助けられるか一緒に考えましょう。あなたが犠牲になるのではなく、もっと他に良い方法があるはずよっ」
こんな方法を選ばせたかったから見守っていたわけじゃない。キオに寄り添いたかったから、彼の気持ちを大切にしたかったから、口を出さなかっただけ。
キオ、キオ……お願い、私を見て!
「……これしかないんだ」
苦しそうな表情を浮かべ、そう言うキオ。
そんなはずはない、サーシャは亡くなった婚約者を今も愛しているはず。だからこそ落ち込んでいるのだろう。こんな形はきっと望んでいない。
そう信じていたからこそ、否定の言葉を叫ぼうとした。
「そんなことな――」
「アザキオ様……」
私の言葉に被せるように儚げな声で彼の名を呼ぶ、サーシャがいた。
私の目にはキオしか映っておらず、彼女がそばに来ていたことに全く気づかなかった。いつから近くにいたのだろうか。
いいえ、それよりも今はもっと気になることがある。
彼女はブルーガ様ではなく、アザキオ様と名字ではなく名を呼んだ。
いつから呼び名が変わったのだろうか。私が知っている限り、彼女はキオのことをブルーガ様と呼んでいた。それは、親戚や友人でもない婚約者の同僚という立場にふさわしい呼び方だった。それが今は名を呼んでいる。まるで当然のように……
――とても嫌な感じだった。
「どうしてここに来たんだ……」
「だってアザキオ様だけの問題ではないもの。これは私達ふたりの問題でしょう? だから来てしまいました」
ここに来たのはサーシャの独断のようだが、この場所を知っているということは、キオが私と今日ここで会うことを彼女に教えたのだろう。
彼女は私とキオの関係を知っているはずだ。そのうえでこの場に乗り込んできて、自分とキオを指し『私達ふたりの問題』と発言したことに明らかな悪意を感じる。
爪が食い込むくらい強く手を握りしめた私とサーシャの視線がぶつかる。
次の瞬間、彼女は、まだ膨らんでいないお腹に手を当てながら、立っているのは少し辛くてと言い、そこに座るのが当たり前だと言わんばかりに、キオの隣にすっと腰を下ろした。
唖然とする私を前に、彼女は微かに笑みすら浮かべている。
何回か挨拶を交わした程度で、彼女と直接話したことはない。だからキオから聞いたこと以上のことは知らない。
――婚約者を失って、悲嘆に暮れている可哀想な人。
彼女の境遇に同情していたし、出来ることがあれば力になりたいとも思っていた。
でも、今はとてもじゃないけれど、そんなふうには思えない。彼はこんな人を好きになったというのだろうか。やはりそうは思えない。とにかくキオとふたりでちゃんと話し合いたい。話せばきっと……
「キオ、私はあなたとふたりだけで話したい。さっきの言葉だけで納得するなんて到底無理だわ。もっとちゃんと話しましょう。これまでだって、いろんなことを乗り越えてきたわ。今回もふたりで乗り越えましょう。彼女は関係ない。……ここにいて欲しくないわ」
キオだけを見てそう告げたが、この場から立ち去ってと遠回しにサーシャに伝えたつもりだった。だが彼女は立ち去る素振りを見せない。
そんな様子を見かねてキオがサーシャに告げる。
「……アナとふたりだけで話したいんだ。だから席を外してくれないか」
だが彼女は彼の言葉を聞き入れず、私にとって聞き流せない嫌な言い方を重ねる。
「でもアザキオ様との関係を私が伝えたほうが、分かってもらえると思うの――」
「ふざけないでっ! これは私とキオの問題だわ。あなたが大変なのは理解している。でもだからって彼が、あなたとお腹の子の面倒をこんな形でみるのは間違っている!」
気づけばサーシャの言葉を遮って叫んでいた。彼女の境遇が困難なのは間違いないけれど、責任を感じているキオに、自分とお腹の子を背負わせるのは違う。そんなのは誰も幸せになれない。
「何も間違っていないわ。アザキオ様は、すべてを承知の上で、私のそばにいたいと望んでくれたのよ。あなたとの関係を終わらせて、私との未来を選んだの! ……あなたには悪いと思っているわ、でも人の気持ちを縛ることなんて出来ないのよ。彼の気持ちを尊重してあげて」
まるでキオが、私からサーシャに心変わりをしたような言い方だった。
でもそれは、彼女の言葉。彼はきっと違うはず。愛ではなく、先輩の死に対する負い目から彼女の側にいようとしている。彼を信じているから、彼女の言葉になんて惑わされない。そうよね……、キオ。
「キオ、私は――」
「彼女の言う通りだ、俺は君との未来ではなく彼女を選んだ。本当にすまない。別れてくれ、君とはもう一緒にいられない。ルシアナ」
彼は私に話をさせなかった。もう私を愛称で呼ぶこともしない。ただのルシアナと呼ぶ声にもう温かさはない。彼の決断が揺るがないことだけが、はっきりと感じられた。それがどんな想いからだとしても、もう結果は変わらない。彼の目は、決めたことを覆さないと言っている。
――そのことが分かってしまった。
二年も彼の隣で、その眼差しを見続けてきたのは、他の誰でもなく私なのだ。
それでも彼に言葉を紡ごうとする。縋っているのではない。彼のことを心から愛しているから、そうせずにはいられない。
「キオ、あなたの選択は自己満足だわ。いつの日かきっと後悔する。この選択は、あなたを苦しめることになるわ。本当にそれでいいの……? 私はあなたに苦しんでほしくない」
「今はこの選択しか出来ない」
すぐさま彼はそう言い返す。でもその顔は幸せとはほど遠い。
「……もう……私を愛していないの?」
もしも愛していると言ってくれれば、私は……あなたを待ち続ける。たとえ、今は彼女を選んだとしても。
私はキオを愛しているから。
彼がまだ私との未来を少しでも望んでくれるのなら、私はどんな状況も受け入れる。だから言って、愛していると。
「……すまない」
彼は言わなかった。そんな彼の隣で、サーシャは安堵の表情を浮かべながら、まるで彼に選ばれてごめんなさいというように頭を下げてくる。
……終わりなのね。彼の隣にいるのはもう私ではない。
「……さようなら、アザキオ」
――カタンッ。
私は立ち上がり、震える声で別れの言葉を告げる。それ以上口を開けば、泣いてしまいそうだから、歯を食いしばって、必死で堪えてふたりの前から去った。
気づいたら家に着いていたが、自分がどうやって帰ってきたか覚えていない。
私は今日、愛する人を失った。
その現実に、心が悲鳴を上げ続けている。慰めの言葉も、何もかもいらない。今はただ、放っておいて欲しいだけ。とにかく胸が苦しくて、何も受け入れられそうになかった。
彼らの邪魔をするつもりはないが、祝福など出来ない。寄り添うふたりを見たくないから、ここから離れたい。
だから、私はこの住み慣れた街から出ていくことを決めた。私を引き留める家族は、もうこの世にはいないから迷うこともない。明日にでも「遠くに住む親戚が病気だから、しばらく手伝いに行かなければならない」という理由を告げて仕事も辞めよう。親しい友人達は、みなアザキオの知り合いでもあるから、誰にも行き先を告げずに、十七年間住んだ街から去ることにする。
いいえ、違う。行き先なんてない。だから、告げる場所なんて私にはなかった。
そして、私はひっそりと姿を消す。それが今の私に出来る唯一の選択だった。
生まれ育った街を出た私は行くあてもなく、ただただ遠く離れた辺鄙な土地を目指した。給料のほとんどを生活に充てていて、蓄えは雀の涙ほどしかなく、快適とはほど遠い旅。何度も心が折れそうになったけれど、死にたいとは思わなかった。
私のこの命は、愛情を注いでくれた両親が授けてくれたもの。だから、どんなに辛いことがあっても、命を粗末にするなど考えられない。
生きていると、どんな状況でもお腹は減る。倒れて誰かに迷惑をかけたくなければ、働かなければならない。私は道すがら旅の商人に雇われている護衛などに、魔道具の調整の必要はないかと声をかけ、僅かばかりの賃金を得て旅を続ける。
肉体的にも精神的にも余裕なんてない状況が、かえって良かった。今を生きることに必死だからこそ、それ以外のことを考えなくてすむ。
だから最後まで旅を続けられたのだろう。
たどり着いた土地は、地図に記されていないほどの田舎だったが、それなりに人が住んでいるところだった。
最初は縁もゆかりもないこの土地に来た私に、周囲の人は警戒心を露わにした。田舎だから余所者は珍しいらしく、そのうえ若い女性がひとりでなんて訳ありに決まっていると噂された。新参者が厄介事を持ち込まない人物か、人々は遠巻きに見定めようとする。
でも、それくらいは覚悟していた。そんなことは、どの土地でも大なり小なりあるものだ。私はここで暮らしていくと決めたから、後戻りする気はない。嘆いていても仕方がないから、とにかく自分が出来ることから始めた。
「こんにちは、ルシアナと言います。これからよろしくお願いします!」
誰に対してもにこやかに挨拶し、積極的に話しかけていく。そうするうちに周囲の人達は、だんだん私のことを受け入れてくれた。
警戒心が解けると、この土地の人達はみなとても親切だった。
「ルシアナ、ここで良かったら住みなよ」
「ありがとうございます! でも家賃はおいくらですか……」
「心配しなくても大丈夫。若いんだから金はないだろう?」
そう言って顔馴染みになった八百屋のお婆さんは、古い空き家をタダ同然で私に貸してくれた。そして、仕事の斡旋所に行き魔道具調整師の仕事を探していたら、この町を守る騎士団を紹介してくれた。
「すまないが、正規では雇えない。調整の仕事がある時に、こちらに来て仕事をする形でお願いしたい。だが、その頻度も多くはない。それでも構わないか?」
申し訳なさそうに条件を告げてきたのは、面談をしてくれたミン団長だった。
「はい、大丈夫です。これからよろしくお願いします!」
「こちらこそよろしく頼む」
自分ひとりが生活していければ十分なのだから、多くは望まない。専属にはなれなかったけれど、それでも仕事につけるのがありがたかった。
新しい土地に慣れて生活の見通しが立ってホッとした頃。
私は体調の変化に気づいた。突然起こる吐き気とだるさ……そして月のものがしばらく来ていない。いつもなら周期が狂っていることに気づいていたに違いない。
でもこんな状況だったから気づくのが遅れたのだ。それに、多少具合が悪くても、心労から来るものだと思い込んでいた。
えっ、いつから……? まさか、そんなことって……
慌てて近くの診療所で診てもらうと「ご懐妊ですね、おめでとうございます」と医者が祝福してくれた。
……私はアザキオとの子を身籠っていた。
驚きはあったけれど、戸惑いはない。まだなんの変化もない自分のお腹にそっと優しく手を当て、その中に芽吹いた命を感じようとする。
「ありがと……う、私のもとに来てくれて。何も心配はいらないからね、安心して生まれてきて……待っているからね」
自然と涙が溢れる。それは悲しいからではなく純粋な喜びからだ。愛する人を失ったけれど、大切なものが宿ってくれていた。今、私の心を占めているのは愛しいという想いだけ。
「……本当に……ありがと……う……」
何度も何度もお腹の子に言葉を紡ぐ。自分の気持ちをちゃんと伝えておきたい。この命の芽生えを心から嬉しく思った。これからの不安など、それに勝る喜びが打ち消してくれた。
このことを、アザキオに知らせるつもりはない。私の中から彼への想いが消えたわけではないし、意地を張ってもいない。彼と育んだ歳月は私にとってかけがえのないもので、それは決して消えないだろう。
しかし彼は私ではない人を選んで、サーシャとお腹の子とともに新しい人生を始めている。今さら私が身籠ったことを知らせても、その事実は覆らない。
それに私はこの子の存在を否定されるのが怖かった。告げれば責任を取らせて欲しいと、アザキオは金銭的な援助を申し出てくれると思う。……無責任な人ではないから。
でも彼の言葉の奥に、困惑や負の感情を感じてしまうかもしれない。そんな人ではないと思っているけれど、彼にはもう守るべき者――サーシャとお腹の子がいるのだから、その可能性を完全に否定は出来ない。
人は守りたいものを前にして、どう変わるか分からない。それは誰しも同じ。
私だってこの子のためなら、なんだって出来る。
アザキオに告げないという判断だって、彼の気持ちは考えなかった。
負の感情なんて、この子には感じてほしくない! 愛だけでいい、それだけを感じてほしいの。愛しい我が子の誕生を喜びだけで包んであげたい。
たとえ母だけだとしても、惜しみない愛情を注いで大切に育てると決心して、私はお腹の子をひとりで育てることに決めたのだった。
しかし、実際には私はひとりではなかった。大きくなるお腹に周りの人達も気づき、手を差し伸べてくれたのだ。最初こそは父親について聞かれたが、私だけの子ですと明るく言い切ると、それ以上、詮索してこなかった。
それから数ヶ月後、私は元気な男の子を産んだ。
「あらまぁ~、ルシアナにそっくりな子だねー」
誰もがそう言うほど、茶色がかった淡い赤毛も鼻や口元も母である私に似ている。
でも、目だけは吸い込まれそうな黒曜石の色だった。
――それは父親と同じ。しかし、彼に似ているのは瞳だけだった。
良かったと思った。アザキオに似て欲しくなかったわけではないが、母である私に似ているほうが誰かに余計なことを言われてこの子が傷つかずにすむだろう。
「愛しているわ、生まれてきてくれてありがとう」
そう言いながら、私は腕に抱く我が子に『ハルサ』と優しく呼びかけ、小さな額にそっと口づけを落としたのだった。
第二章 十年ぶりの再会
生まれ育ったあの街を離れてから、早いものでもう十年が過ぎた。
本当にあっという間だった。仕事と子育てを両立させる日々が忙しかったのもあるけれど、それ以上に周りの人達に助けられ充実した毎日を送っていたからだろう。
過去を忘れてはいないけれど、思い出す暇はなく、きっとそれは私にとって良かったのだと思う。
――たぶん、もう私の中では過去になっている。
いつものように台所に立って朝食の用意をしながら、寝間着を脱いで服に着替えている息子に声をかける。
「ハル、目玉焼きは半熟でいい? それとも今日はしっかり焼く?」
「うーん、どっちにしようかな。よしっ、決めた! お母さん、半熟にして」
朝から元気いっぱいのハルサは、もう九歳になった。見た目はまだ幼いけれど、しっかりしていると褒められることが多い。
でも、私にはまだまだ甘えてくる。以前甘えん坊さんねと何気なく言ったら、いじけてしまったことがあった。それからは、背伸びをしたい年頃である男の子の気持ちを傷つけないように気をつけている。
それに、子供が親から巣立ってしまう日は、いつか必ずやってくる。だから母としてはまだ当分の間はこの可愛い息子を堪能したい。
ふたりで朝食を食べ終えると、手早く戸締まりをして一緒に家を出る。
「ハルサ、いってらっしゃい。気をつけてね」
「はーい。お母さんもお仕事がんばって、ばいばーい」
ハルサは学校へ、私は魔道具の調整をしに騎士団へ行く。
この町には、七歳から十五歳までの子供が通う学校がひとつだけある。身分に関係なく通うことが出来るが、学ぶ内容が一般的な教養だけなので、高位貴族の子供のほとんどは大きな町にある貴族専用の学校に入学している。だから生徒の大部分は、平民や低位貴族の子供達で、のびのびとしていて、ハルサも毎日楽しく通っている。
そして私は、なるべくハルサに寂しい思いをさせないように、学校がある日を出勤日にしてもらっていた。
仕事場である騎士団に着き周囲に挨拶をしてから、早速仕事に取り掛かる。
この騎士団の中に魔力のある騎士は、数人しかおらず、調整のために預かっている剣は二本だけ。
そのうちの一本を手に取り、魔力の通り道を捉える。調整師の仕事は、刃を研ぐような力仕事ではないが、集中力をかなり必要とするため非常に疲れる。それでも私は、この仕事が気に入っていた。
入念に確認しながら微調整をしていると、騎士団のミン団長が声をかけてきた。
「仕事中にすまない。ルシアナ、ちょっといいか? これを先にやって欲しいんだ。うちの騎士のは、後回しでいいから」
作業の手を止めて振り返ると、団長は見覚えのない剣を握っている。どうやら急を要する剣の整備が入ったようだ。
「ええ、大丈夫ですよ。期限はいつまででしょうか?」
「しばらくこちらに滞在するようだから、いつも通りにやってくれれば大丈夫だ。でも、うちのよりは優先してくれ」
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