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1巻
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ということは、きっとこの剣の持ち主は、今この町に来ている巡回騎士団の一員なのだろう。
この国には、町ごとの常駐の騎士団と国内を巡っている巡回騎士団の二種類が存在する。双方の立場は違えど、互いに騎士であることは同じなので、何かあれば協力し合う。
町の騎士団は、その名の通り町の治安を守り、地域密着型で近所のおじさんやお兄さんといった親しみやすい雰囲気だ。
一方、中央から派遣されている巡回騎士団は、広範囲の犯罪や不正などに目を光らせ取り締まっている。仕事柄危険なことも多いので、必然的に引き締まった雰囲気を醸し出す。最近、若い子達が格好いい騎士達がいると、はしゃいでいたのは彼らのことだろう。凛々しい騎士はいつでもどこでも、女性達の人気が高いものだ。
「分かりました、ではお預かりし――」
その剣を受け取りながら、途中で言葉が途切れる。見た目は、なんの変哲もない剣だ。
でも、それを手に取った感覚には覚えがあった。
――これはアザキオの剣だ。
剣を持つ手が震えそうなのを必死に堪える。魔道具調整師は仕事柄、一度触れた魔力の感覚をだいたい覚えている。当然、彼の魔力も知っていた。
間違えるはずがない。しかし、私の勘違いであってほしいと願ってしまう。
私は動揺を静めるために、それを机の上にそっと置き、懐かしい魔力からさり気なく距離を取る。そしてミン団長に気づかれないように、深呼吸をして平静を装う。
「ミン団長、この剣の持ち主の名前を伺ってもいいですか……」
「うーん、なんだったかな。ちゃんと聞いたんだが、出てこない。ちょっと待ってくれ、今思い出すから……」
魔道具調整師として、剣に関わることを知りたがるのはおかしくない。少しだけ声が震えてしまったけれど、幸いにも思い出すことに集中している団長は、そんな私の様子には気づかない。
「やっと思い出した! 確かアザキオ・ブルーガって名前だったな。伯爵位を持っているくせに、何年も巡回騎士団に入っているから、左遷されたのかと思ったんだが、どうやら違うらしい。自分から志願している変わり者らしいぞ」
「……そうですか。確かに変わっていますね、自ら志願なんて」
巡回騎士団の騎士の給料は良いけれど、その分危険な任務も多く、さらに国中を転々とするため、なりたがる人はそういない。でも適当な者を選ぶわけにもいかないので、それなりに優秀な騎士の中から、運悪く選ばれた者が一年ごとに交代で任務に当たっているのが現状だ。
極稀に志願する者もいるらしいが、個人的な事情を抱えた人が多いと聞いたことがある。前の職場で問題を起こしていづらくなったとか、浮気がばれて妻から家を追い出されたなど、逃げ道として選ばざるを得なかったというところだ。
彼に何があったの……?
私の知っているアザキオは、責任感が強くて真面目で、言うべきことはちゃんと伝える人だ。問題を起こすような性格ではない。口が上手くはないけれど、それでトラブルになるほどでは、もちろんなかった。
しかし、もうあれから十年が経っている。十年という年月は、人を変えるには十分すぎる時間だ。彼は私が知っていた彼とは、もう違うのだろうか。
……いいえ、そんなことはないわ、きっと変わっていないはず。何か特別な事情があるのよ。ちゃんとした理由があるに決まっている。
頭に浮かんだ疑問を自ら打ち消す。それはまるでアザキオのことを庇うかのようで、そんな自分自身に戸惑ってしまう。彼と恋人だったのは、もう過去のことになっているのに、なぜ私はこんな反応をしているのか……
「うん? どうしたんだ、ルシアナ。この剣の調整は難しそうか? それなら俺のほうから断るから無理はしなくていいぞ。ハルサだっているんだ、残業なんてしなくていいからな」
ミン団長は、私の表情の意味を誤解しているようだ。
「大丈夫です、勤務時間内で出来ます。調整が終わり次第、団長のもとに届けます」
「ああ、よろしく頼む」
普段なら調整した剣は、その持ち主に直接届ける。調整に不具合がないか確認しておきたいからだ。でも今回は、団長経由で届けることにした。
団長も巡回騎士団の剣だからだろうと疑問に思うことなく受け入れてくれた。
……良かった。会いたくないとは思っていない、でも私達はもう会わないほうがいい。彼のためにも、何よりハルサのためにも。
さあ、仕事、仕事! ただの剣よ、持ち主は関係ないわ。いつも通りにやればいい。私の仕事は整えることで、残存魔力が誰のだろうと関係ない。
目の前の剣に意識を集中させる。一旦、調整に入ったら雑念などなくなり、いつも通りに作業を進めることが出来た。念入りに仕上げると、その剣を持って席を立つ。
……これで、また明日からいつもの日常に戻れる。
気づけばもう夕方だった。この剣を団長に渡したら、ちょうど終業時刻になる。今日はハルサの好きなメニューにしようと考えながら、執務室に向かった。
――トントンッ。
扉を叩くと中から、おうっ! という団長の声が聞こえ、入室の許可が下りる。
扉を開けると、部屋には団長だけではなく、もうひとりいた。私に背を向ける形で座っているので誰かまでは分からない。
「申し訳ありません、お客様がいらっしゃるとは知らなかったので。出直してきます」
「構わない、むしろちょうど良かった」
ちょうど良いとはどういう意味だろう。厄介な相手だから話を終わらせたかったということだろうか。団長は私が持っている剣に手を伸ばしてくる。どうやら渡してしまって構わないようだ。
「ミン団長、お待たせしました。調整が終わりましたので、剣をお届けに来ました」
「流石、仕事が速いな。ブルーガ副団長、彼女はあなたの剣を調整した、魔道具調整師のルシアナだ。若いが調整の腕は保証する。以前より確実に良くなっているはずだ。ルシアナ、こちらは剣の持ち主で、巡回騎士団の副団長アザキオ・ブルーガだ」
何も知らない団長は、当然のように私のことを紹介する。
振り返って私を見るその人は、アザキオだった。
逃げずに立っているのは、足が動かないからだ。今私はどんな顔をしているのだろう。ちゃんと礼儀正しく微笑んでいるつもりだったけれど、自信はなかった。しかし、この場でお互いの過去を明かす必要はない。
「お初にお目にかかります、魔道具調整師のルシアナです。剣の調整は問題なく終わりました。確認していただいてもよろしいですか?」
「……ああ、初めましてアザキオ・ブルーガだ」
アザキオは私に合わせて初対面として接してくる。剣を手に取ると、自分の魔力を剣に流し入念に確認していく。その視線は剣を見ているようだが実際には違った。
剣越しに私を見ているのを感じる。変わらないその眼差しに、昔に戻ったような錯覚を抱く。
――違う、彼はもう関係ない人だ。彼だってこの状況に驚いているだけで、深い意味などない。
私はその視線に気づかないふりをする。
「ありがとう、完璧な調整で以前よりしっくりくる」
「それは良かったです。では、これで失礼します」
アザキオが確認を終えると、早口で言葉を紡ぎ、ふたりに頭を下げて退出した。急ぎ足で廊下を歩きながら、落ち着けと心の中で何度も何度も唱え、胸の鼓動を鎮める。
大丈夫だ、騎士と魔道具調整師の会話で終わった。何も不自然なところはなかったはず。アザキオは何も気づいていない。団長だって、私の個人的な事情を話すことはありえない。
巡回騎士団がこの町に滞在する期間は長くないはずだから、こちらから関わりを持たなければもう会うことはない。ただの偶然よ、もう二度と会うことはないわ。
そう思っていたのに、翌日、上機嫌なミン団長が予想もしていなかったことを告げた。
「ルシアナ、巡回騎士団の滞在中は、あちらの仕事を引き受けてくれないか。すでに机もあっちに用意してある。準備万端だから心配しなくていいぞ」
お願いのように言っているが、すでにあちらに私の仕事場まで用意してあるということは、完全に決まった話のようだ。
これは特別なことではない。困っている時はお互い様なので、他の騎士団に騎士を貸し出して協力し合うのはよくあることだ。それが今回は魔道具調整師だっただけのこと。
私的な事情を話していなかったのは私だ。だから団長は悪くない。それは十分分かっているけれど……
「あれっ……、嫌だったか? 別に大変なことはないぞ、いつも通りにやればいいんだ。勤務時間内で出来ることだけでいいから! 残業は出来ないとはっきりと伝えてあるから心配ないぞ。あー、えっと……もしかして勝手に決めて怒って……る?」
私が返事を出来ずにいると、こんな反応をすると思っていなかったのだろう、団長は分かりやすく狼狽える。
ミン団長は普段は飄々としているが、いざという時は頼りになる人で、部下からの信頼は厚い。私も十年前からお世話になっている。子供が熱を出したら嫌な顔せずに休ませてくれるし、こんな田舎じゃ緊急事態などそうそうないと子供優先の私を普段から気遣ってくれる。そのお陰で、私は恵まれた環境で仕事が出来ているのだ。そんな団長を困らせたくない。
……でも正直言って受けたくない。受けるということは、アザキオとまた顔を合わせるということだ。
――自信がない。
何が? と問われても困る、何もかもだ。冷静でいられるか、普通に接することが出来るのか、自分でもよく分からない。私はそんなに出来た人間じゃない。
目の前に団長がいなかったら、とっくに頭を抱えて唸っていただろう。
「ほら、あっちはうちと違って魔力を持った騎士が多いから、副団長の剣を見た騎士達が羨ましがっているって聞いてな。つい嬉しくなって自慢したら、あっちの団長にお願いされちまった。本当に他意はなかったんだ! 純粋にルシアナの腕を褒めただけで……」
団長は言い訳するように言葉を続ける。その声はだんだん小さくなり、それと共に団長の大きな体もなぜか縮んでいく様子は、どこか怪しい。
「……うちの優秀な魔道具調整師を貸しますよって酒の勢いで言った気がする……たぶん」
「本当に、たぶんですか? ミン団長」
私は疑いの眼差しを団長に向ける。ミン団長はお酒に強く、酔って記憶をなくしたことは一度もないはずだ。
「……はっきりと言っちゃいました」
団長は正直に白状して、ガバッと頭を下げる。
やはり思った通りだった、もう苦笑いするしかない。これは仕事だと割り切って、引き受けるしかないだろう。そもそもただの仕事なのだから、この状況で引き受けないと、かえって不自然だ。
「分かりました、お引き受けします」
「そうか! ありがとう、じゃあ今日から早速頼む。もしあっちで嫌なことがあったら、すぐに言え。回収しに行くから」
「大丈夫です、子供じゃありませんから。それに回収って、私は荷物扱いでしょうか?」
団長がそう思っていないのは分かっているくせに、ちょっとだけ仕返しをする。我ながら大人気ないが、さっきの団長よりはましだろう。
「……すまん。回収ではなく、迎えに行かせていただきます」
「はい、良く出来ました。これからはよく考えてから発言してくださいね」
「……はい」
やり取りを続けるほど団長の体は小さくなっていく。それを見て、ちょっとだけスッキリしたのは内緒にしておこう。
こうして巡回騎士団に行くことが決まった私は、仕事に使う道具を手早く準備する。
念のために、家から指輪を持ってきておいて正解だった。これはハルサと一緒にお祭りに行った時に、あの子が屋台で買ってくれたおもちゃの指輪だ。
『僕の目の色と同じだよ。お母さん、嬉しい?』
『すごく嬉しいわ! ありがとう、大切にするわね』
硝子の指輪は一見、おもちゃではない。とても大切な宝物で、私にとって唯一の指輪だ。
こんなふうに役に立つ日が来るなんて思ってもいなかった。未婚の私は、いつもは指輪をしていないが、左手の薬指にそっとはめてからその手を掲げる。どこから見ても、結婚指輪にしか見えない。
よしっ! と小さな声で気合を入れてから、巡回騎士団が滞在中に使っている建物に向かう。
町の騎士団の建物から、歩いて十五分。建物の前にはひとりで立っている騎士の姿が見える。
「引き受けてくれてありがとう。仕事場に案内しよう」
それはアザキオだった。どうやら私のことを待っていたようだ。
「これが私の仕事ですから。短い期間ですがよろしくお願いします」
お互いにどう接するのが正解なのか、決めかねているという感じだった。変に丁寧すぎても周りが訝しむだろうし、だからといって以前と同じにはなれない。ぎこちない雰囲気が漂い、引き受けたことをもう後悔し始めていた。
巡回騎士団が使用する建物を案内しながら、アザキオがポツリと呟く。
「魔道具調整師を続けていたんだな。てっきり違う仕事に就いているのかと思っていた。……届け出がなかったから」
「ここで十年前から働いているけれど、臨時という形だから正規ではないの」
魔道具調整師を正式に雇うと、雇い主が届け出を出す決まりになっているが、私は臨時雇用だからその必要はない。
「そうだったのか。だからこの十年間どんなに届け出を確認しても名前がなかったんだな。……元気そうで良かった」
昔と変わらず優しい声音だった。あんな別れ方をしたからこそ、ずっと気にかけていたに違いない。私が絵に描いたような悲惨な人生を送っていたら、寝覚めが悪い。だから、最後の言葉に心がこもっていたのだろう。
「この通り元気よ。この土地は私に合っているみたい。ここに来て良かったと思っているわ」
彼の罪悪感をなくしてあげるために言っているのではない、全部本当のことだ。ここに来てから今まで後悔したことはない。アザキオの視線が私の左手で止まる。
「……その、今は家族がいるんだな」
彼は私が結婚したと思っているのだろう。予想通りの反応に、私も用意していた言葉を返す。
「素敵でしょう。似合うからって買ってくれたの。私にも家族が出来たのよ。あなたも幸せそうで良かったわ」
嘘はついていない。私には素晴らしい息子がいるし、指輪だってあの子が買ってくれた。
彼の視線が指輪に注がれたままなのに気づく。この色が気に食わないとでも言いたいのだろうか。アザキオの瞳と同じ色だが、これはハルサの色で彼のではない。同じ色でも全然意味が違う。文句を言われる筋合いもない。
でも、彼はこの真実を知る必要がないから伝えない。
私が怯むことなく彼に視線を向けると、一瞬気まずそうな表情をして彼はすぐに目を逸らす。勝ったとか負けたとかではないけれど、なんだか勝った気になり気分が良かった。
チラッと彼の左手の薬指を見ると、そこには十年前にはなかった指輪がある。彼は結婚して離縁をしていないということだろう。もう深入りするような関係ではないから、彼が巡回騎士団として今ここにいる事情は聞かなかった。
なんとなく、距離感が掴めてきたような気がする。当たり障りのないことを、こんなふうに話せばいい。
巡回騎士団の滞在期間は、三週間ほどの予定だと聞いているが、なんとかなりそうだ。
あとはハルサが彼と会わないように、気をつければいい。そもそも、巡回騎士と学校に通っている子供が会う確率は高くない。
身構える必要はなかったのかもしれない。表情には出さずに安堵していると、用意された仕事部屋に着く。
「ブルーガ副団長、案内ありがとうございました」
「……っ……いや、キオと……、なんでもない。何か足りないものがあったらすぐに用意するから遠慮なく言ってくれ、ルシアナ」
私は彼を役職で呼び、彼は私をルシアナと呼んだ。副団長と派遣の魔道具調整師なら、立場は彼が上だからお互いにこの呼び方で正しい。……彼が言いかけた言葉は聞かなかったことにする。もしアナと呼ばれたら、私は笑顔を浮かべてごめんなさいと告げて、鞄を投げつけていただろう。
とにかく、お互いの関係性をはっきりさせたことで、私の不安は薄らいでいった。きっと彼も同じ気持ちでいるだろう。今さら過去のことを周囲に知られて良いことなんて、お互いにひとつもないのは分かり切っている。利害が一致しているなら、問題は起こらないはずだ。
その後、アザキオは私のことを魔道具調整師として巡回騎士団の騎士達に紹介してくれた。みな私のことを歓迎してくれて、我先にとそれぞれ剣を差し出してくる。思っていた以上に、魔力を持つ騎士が多いようだ。
「おい、俺が先だ!」
「いいや、俺の剣のほうが調子が悪い! 人間でいったら重症患者だ」
「いやいや、年長者を敬え。つまり俺が先だ」
……やかましいっ! いい年した大人のくせに、押し合いながら言い争いを始める。本当にどうして騎士達はどこでもこうなのだろう。体力があるからか無駄に元気すぎる。
こんな状況には慣れているから動じはしない。パンパンッと手を叩き、みなの注目を自分に集める。
「順番はくじ引きで決めます。文句を言う方は最後です!」
叫んでいた騎士達はピタリと静かになる。
「みなさん、理解が早くて大変助かります」
「「「……」」」
満面の笑みでそう言うと、騎士達は無言のままうんうんと頷いている。
なかなか素直な騎士達だ。これなら職場の人間関係で悩むことはなさそうだとホッとする。こうして巡回騎士団での初日は思ったよりも、良い滑り出しで始まった。
それからあっという間に一週間が経った。仕事も人間関係も順調で、アザキオとの接触も必要最低限で済んでいるからなんの問題もない。ミン団長も様子を気にして、時々顔を出してくれる。
「どうだ? 窮屈な思いはしていないか? もし大変なことがあったら遠慮しないで言ってくれ。ちゃんと対応するからなっ!」
「みなさん、良い人達ばかりですから快適に仕事は出来ていますよ」
「そうか、良かったー。なんかあったら、またルシアナに怒られるところだった」
「……」
最後の一言は余計だ。心の底からホッとした様子のミン団長は、どうやらこの前のことをまだ気にしていたらしい。
「団長、私ってそんなに怖かったですか?」
笑いながらそう尋ねると、団長は必死になって首を横に振る。否定の仕草だが、怖かった!! という心の叫びはしっかりと伝わってきた。その様子を見て、今度からは気をつけようと少しだけ反省をする。
「……ところで、今日は午前中で仕事を上がる予定だろ? いいのか、もう昼過ぎているぞ」
「きりの良いところまで終わらせて帰るつもりです」
今日は午前中でハルサの授業が終わる日だった。そういう時は、私も午前だけ働くことにしている。近所の人はいつでもハルサを預かるよと声をかけてくれるし、本人もお留守番くらいもう出来ると言っている。だから本当は休まなくても大丈夫だろうけれど、なるべくあの子との時間を私は大切にしたい。
それに、ハルサの親は私しかいない。父親の代わりになれなくても、愛情だけは目に見える形でふたり分以上注いでいこうと思っている。
「そうか、なるべく早く帰ってやれよ」
「はい、そうします!」
私は急いで残りの作業を片付けてから、お先に失礼しますと建物を出た。
ハルサはもう学校から帰っているだろう。鍵は持っているけれど、もしかしたら近所の家にお邪魔しているかもしれない。みんな我が子や孫のようにハルサを可愛がってくれていた。私が帰宅していない時は、誰かしら声をかけてくれるのが当たり前になっている。
以前そのことについて私がお礼を言うと、好きでやっていることだからと誰もが笑ってくれたのだった。
いつもの道を急ぎ足で帰っていると、午後の学校がないからか、子供の姿が多かった。この町は治安がよく、明るい時間帯なら子供がひとりで歩いているのは普通だ。
その時、ハルサによく似た髪色が目に飛び込んでくる。あの子の髪色が珍しいわけではないけれど、この土地ではあまり見かけないものだ。後ろ姿もあの子によく似ている、そして服も。
すべてが似て、……いや同じだった。愛しいハルサを見間違えることなんて絶対にない。
「そんなはずない、あの子のはずがない……」
見間違いだと自分に言い聞かせる。そう否定しなければいけない理由があった。
なぜならその子の隣には、騎士服姿のアザキオがいたから。ふたりで話しているように見える。
なんで……、どうしてっ! あと二週間でいつもの日常が戻ってくるはずだったのに。
「あっ、お母さんだ! お帰りなさーい」
ハルサは私に気づいたようで、顔をほころばせる。屈託のない笑顔に元気な声。いつもと変わらない我が子の様子に安堵するが、不安は消えないままだ。
私は不安な顔を見せまいと必死で作り笑顔を浮かべるが、どうしようもなく泣きたくなってしまう。
アザキオもそんな私を見ている。彼の目に映る私は、ちゃんと笑えているだろうか。
ふたりで何を話していたのだろう。
いや、正しくはアザキオは何を知ったのだろう。それとも、何も知らないままなのか……
感情のままにアザキオを問い詰めれば不審に思うかもしれない。最悪、墓穴を掘ることになってしまう。だから慎重にならなくては……
アザキオへの苛立ちを隠し、ハルサと目線を合わせるためにしゃがむ。
「ハル、どうしてここにいるの? 家で待っている約束だったでしょう!」
怒っているわけではないが、焦ってきつい口調になってしまう。
しまったと思ったけれど遅かった。ハルサから笑顔が消え、泣くのを我慢している顔になる。
「お母さんが帰ってこないから迎えに来たの……近道は使わないで、ちゃんと決められた道を通ったよ。この前、迎えに行った時は喜んでくれたから、いいかなって思ったんだ。……ごめんなさい」
ハルサの言う通りだった。今日だって、この子の隣にアザキオの姿さえなければ、優しく抱きしめその頬に口づけをしていたはずだ。この子は何も悪くない。それなのに私ったら何をしているのだろう。ハルサにこんな顔をさせて……
不安に駆られて、それを子供にぶつけるなんて最低だ。しっかりしろ、私っ!
動揺する自分に活を入れる。今まで何があっても乗り越えてきた、これからだってそれは変わらない。守りたいものがある限り強くなれる。
「ごめんね、怖い言い方をして。お母さん、ハルが知らない人と話していると思ったから、ちょっとびっくりしちゃったの。ほら、可愛いから誘拐されたらって急に心配になっちゃって」
「お母さん……」
下手な言い訳をしながら優しく抱き寄せると、ハルサはギュッと抱きついてくる。嗅ぎなれた愛しい我が子の匂いに、ざわついていた心が少しだけ落ち着く。
「もうっ、そんな心配いらないのにー。僕はもう大きいんだから、知らない人についてなんか行かないよっ!」
私が怒っているわけじゃないと分かって、ハルサにいつもの笑顔が戻る。わざと拗ねたような言い方をするところが、まだまだ子供らしくて可愛い。これでいい、やっぱりこの子には笑顔が一番似合う。
「分かっているわ、本当にごめんね」
「いいよ、お母さんだから特別に許してあげる。でも今日のおやつはたくさんがいいなー」
「はいはい、ちょっとだけ多めにするわね」
この国には、町ごとの常駐の騎士団と国内を巡っている巡回騎士団の二種類が存在する。双方の立場は違えど、互いに騎士であることは同じなので、何かあれば協力し合う。
町の騎士団は、その名の通り町の治安を守り、地域密着型で近所のおじさんやお兄さんといった親しみやすい雰囲気だ。
一方、中央から派遣されている巡回騎士団は、広範囲の犯罪や不正などに目を光らせ取り締まっている。仕事柄危険なことも多いので、必然的に引き締まった雰囲気を醸し出す。最近、若い子達が格好いい騎士達がいると、はしゃいでいたのは彼らのことだろう。凛々しい騎士はいつでもどこでも、女性達の人気が高いものだ。
「分かりました、ではお預かりし――」
その剣を受け取りながら、途中で言葉が途切れる。見た目は、なんの変哲もない剣だ。
でも、それを手に取った感覚には覚えがあった。
――これはアザキオの剣だ。
剣を持つ手が震えそうなのを必死に堪える。魔道具調整師は仕事柄、一度触れた魔力の感覚をだいたい覚えている。当然、彼の魔力も知っていた。
間違えるはずがない。しかし、私の勘違いであってほしいと願ってしまう。
私は動揺を静めるために、それを机の上にそっと置き、懐かしい魔力からさり気なく距離を取る。そしてミン団長に気づかれないように、深呼吸をして平静を装う。
「ミン団長、この剣の持ち主の名前を伺ってもいいですか……」
「うーん、なんだったかな。ちゃんと聞いたんだが、出てこない。ちょっと待ってくれ、今思い出すから……」
魔道具調整師として、剣に関わることを知りたがるのはおかしくない。少しだけ声が震えてしまったけれど、幸いにも思い出すことに集中している団長は、そんな私の様子には気づかない。
「やっと思い出した! 確かアザキオ・ブルーガって名前だったな。伯爵位を持っているくせに、何年も巡回騎士団に入っているから、左遷されたのかと思ったんだが、どうやら違うらしい。自分から志願している変わり者らしいぞ」
「……そうですか。確かに変わっていますね、自ら志願なんて」
巡回騎士団の騎士の給料は良いけれど、その分危険な任務も多く、さらに国中を転々とするため、なりたがる人はそういない。でも適当な者を選ぶわけにもいかないので、それなりに優秀な騎士の中から、運悪く選ばれた者が一年ごとに交代で任務に当たっているのが現状だ。
極稀に志願する者もいるらしいが、個人的な事情を抱えた人が多いと聞いたことがある。前の職場で問題を起こしていづらくなったとか、浮気がばれて妻から家を追い出されたなど、逃げ道として選ばざるを得なかったというところだ。
彼に何があったの……?
私の知っているアザキオは、責任感が強くて真面目で、言うべきことはちゃんと伝える人だ。問題を起こすような性格ではない。口が上手くはないけれど、それでトラブルになるほどでは、もちろんなかった。
しかし、もうあれから十年が経っている。十年という年月は、人を変えるには十分すぎる時間だ。彼は私が知っていた彼とは、もう違うのだろうか。
……いいえ、そんなことはないわ、きっと変わっていないはず。何か特別な事情があるのよ。ちゃんとした理由があるに決まっている。
頭に浮かんだ疑問を自ら打ち消す。それはまるでアザキオのことを庇うかのようで、そんな自分自身に戸惑ってしまう。彼と恋人だったのは、もう過去のことになっているのに、なぜ私はこんな反応をしているのか……
「うん? どうしたんだ、ルシアナ。この剣の調整は難しそうか? それなら俺のほうから断るから無理はしなくていいぞ。ハルサだっているんだ、残業なんてしなくていいからな」
ミン団長は、私の表情の意味を誤解しているようだ。
「大丈夫です、勤務時間内で出来ます。調整が終わり次第、団長のもとに届けます」
「ああ、よろしく頼む」
普段なら調整した剣は、その持ち主に直接届ける。調整に不具合がないか確認しておきたいからだ。でも今回は、団長経由で届けることにした。
団長も巡回騎士団の剣だからだろうと疑問に思うことなく受け入れてくれた。
……良かった。会いたくないとは思っていない、でも私達はもう会わないほうがいい。彼のためにも、何よりハルサのためにも。
さあ、仕事、仕事! ただの剣よ、持ち主は関係ないわ。いつも通りにやればいい。私の仕事は整えることで、残存魔力が誰のだろうと関係ない。
目の前の剣に意識を集中させる。一旦、調整に入ったら雑念などなくなり、いつも通りに作業を進めることが出来た。念入りに仕上げると、その剣を持って席を立つ。
……これで、また明日からいつもの日常に戻れる。
気づけばもう夕方だった。この剣を団長に渡したら、ちょうど終業時刻になる。今日はハルサの好きなメニューにしようと考えながら、執務室に向かった。
――トントンッ。
扉を叩くと中から、おうっ! という団長の声が聞こえ、入室の許可が下りる。
扉を開けると、部屋には団長だけではなく、もうひとりいた。私に背を向ける形で座っているので誰かまでは分からない。
「申し訳ありません、お客様がいらっしゃるとは知らなかったので。出直してきます」
「構わない、むしろちょうど良かった」
ちょうど良いとはどういう意味だろう。厄介な相手だから話を終わらせたかったということだろうか。団長は私が持っている剣に手を伸ばしてくる。どうやら渡してしまって構わないようだ。
「ミン団長、お待たせしました。調整が終わりましたので、剣をお届けに来ました」
「流石、仕事が速いな。ブルーガ副団長、彼女はあなたの剣を調整した、魔道具調整師のルシアナだ。若いが調整の腕は保証する。以前より確実に良くなっているはずだ。ルシアナ、こちらは剣の持ち主で、巡回騎士団の副団長アザキオ・ブルーガだ」
何も知らない団長は、当然のように私のことを紹介する。
振り返って私を見るその人は、アザキオだった。
逃げずに立っているのは、足が動かないからだ。今私はどんな顔をしているのだろう。ちゃんと礼儀正しく微笑んでいるつもりだったけれど、自信はなかった。しかし、この場でお互いの過去を明かす必要はない。
「お初にお目にかかります、魔道具調整師のルシアナです。剣の調整は問題なく終わりました。確認していただいてもよろしいですか?」
「……ああ、初めましてアザキオ・ブルーガだ」
アザキオは私に合わせて初対面として接してくる。剣を手に取ると、自分の魔力を剣に流し入念に確認していく。その視線は剣を見ているようだが実際には違った。
剣越しに私を見ているのを感じる。変わらないその眼差しに、昔に戻ったような錯覚を抱く。
――違う、彼はもう関係ない人だ。彼だってこの状況に驚いているだけで、深い意味などない。
私はその視線に気づかないふりをする。
「ありがとう、完璧な調整で以前よりしっくりくる」
「それは良かったです。では、これで失礼します」
アザキオが確認を終えると、早口で言葉を紡ぎ、ふたりに頭を下げて退出した。急ぎ足で廊下を歩きながら、落ち着けと心の中で何度も何度も唱え、胸の鼓動を鎮める。
大丈夫だ、騎士と魔道具調整師の会話で終わった。何も不自然なところはなかったはず。アザキオは何も気づいていない。団長だって、私の個人的な事情を話すことはありえない。
巡回騎士団がこの町に滞在する期間は長くないはずだから、こちらから関わりを持たなければもう会うことはない。ただの偶然よ、もう二度と会うことはないわ。
そう思っていたのに、翌日、上機嫌なミン団長が予想もしていなかったことを告げた。
「ルシアナ、巡回騎士団の滞在中は、あちらの仕事を引き受けてくれないか。すでに机もあっちに用意してある。準備万端だから心配しなくていいぞ」
お願いのように言っているが、すでにあちらに私の仕事場まで用意してあるということは、完全に決まった話のようだ。
これは特別なことではない。困っている時はお互い様なので、他の騎士団に騎士を貸し出して協力し合うのはよくあることだ。それが今回は魔道具調整師だっただけのこと。
私的な事情を話していなかったのは私だ。だから団長は悪くない。それは十分分かっているけれど……
「あれっ……、嫌だったか? 別に大変なことはないぞ、いつも通りにやればいいんだ。勤務時間内で出来ることだけでいいから! 残業は出来ないとはっきりと伝えてあるから心配ないぞ。あー、えっと……もしかして勝手に決めて怒って……る?」
私が返事を出来ずにいると、こんな反応をすると思っていなかったのだろう、団長は分かりやすく狼狽える。
ミン団長は普段は飄々としているが、いざという時は頼りになる人で、部下からの信頼は厚い。私も十年前からお世話になっている。子供が熱を出したら嫌な顔せずに休ませてくれるし、こんな田舎じゃ緊急事態などそうそうないと子供優先の私を普段から気遣ってくれる。そのお陰で、私は恵まれた環境で仕事が出来ているのだ。そんな団長を困らせたくない。
……でも正直言って受けたくない。受けるということは、アザキオとまた顔を合わせるということだ。
――自信がない。
何が? と問われても困る、何もかもだ。冷静でいられるか、普通に接することが出来るのか、自分でもよく分からない。私はそんなに出来た人間じゃない。
目の前に団長がいなかったら、とっくに頭を抱えて唸っていただろう。
「ほら、あっちはうちと違って魔力を持った騎士が多いから、副団長の剣を見た騎士達が羨ましがっているって聞いてな。つい嬉しくなって自慢したら、あっちの団長にお願いされちまった。本当に他意はなかったんだ! 純粋にルシアナの腕を褒めただけで……」
団長は言い訳するように言葉を続ける。その声はだんだん小さくなり、それと共に団長の大きな体もなぜか縮んでいく様子は、どこか怪しい。
「……うちの優秀な魔道具調整師を貸しますよって酒の勢いで言った気がする……たぶん」
「本当に、たぶんですか? ミン団長」
私は疑いの眼差しを団長に向ける。ミン団長はお酒に強く、酔って記憶をなくしたことは一度もないはずだ。
「……はっきりと言っちゃいました」
団長は正直に白状して、ガバッと頭を下げる。
やはり思った通りだった、もう苦笑いするしかない。これは仕事だと割り切って、引き受けるしかないだろう。そもそもただの仕事なのだから、この状況で引き受けないと、かえって不自然だ。
「分かりました、お引き受けします」
「そうか! ありがとう、じゃあ今日から早速頼む。もしあっちで嫌なことがあったら、すぐに言え。回収しに行くから」
「大丈夫です、子供じゃありませんから。それに回収って、私は荷物扱いでしょうか?」
団長がそう思っていないのは分かっているくせに、ちょっとだけ仕返しをする。我ながら大人気ないが、さっきの団長よりはましだろう。
「……すまん。回収ではなく、迎えに行かせていただきます」
「はい、良く出来ました。これからはよく考えてから発言してくださいね」
「……はい」
やり取りを続けるほど団長の体は小さくなっていく。それを見て、ちょっとだけスッキリしたのは内緒にしておこう。
こうして巡回騎士団に行くことが決まった私は、仕事に使う道具を手早く準備する。
念のために、家から指輪を持ってきておいて正解だった。これはハルサと一緒にお祭りに行った時に、あの子が屋台で買ってくれたおもちゃの指輪だ。
『僕の目の色と同じだよ。お母さん、嬉しい?』
『すごく嬉しいわ! ありがとう、大切にするわね』
硝子の指輪は一見、おもちゃではない。とても大切な宝物で、私にとって唯一の指輪だ。
こんなふうに役に立つ日が来るなんて思ってもいなかった。未婚の私は、いつもは指輪をしていないが、左手の薬指にそっとはめてからその手を掲げる。どこから見ても、結婚指輪にしか見えない。
よしっ! と小さな声で気合を入れてから、巡回騎士団が滞在中に使っている建物に向かう。
町の騎士団の建物から、歩いて十五分。建物の前にはひとりで立っている騎士の姿が見える。
「引き受けてくれてありがとう。仕事場に案内しよう」
それはアザキオだった。どうやら私のことを待っていたようだ。
「これが私の仕事ですから。短い期間ですがよろしくお願いします」
お互いにどう接するのが正解なのか、決めかねているという感じだった。変に丁寧すぎても周りが訝しむだろうし、だからといって以前と同じにはなれない。ぎこちない雰囲気が漂い、引き受けたことをもう後悔し始めていた。
巡回騎士団が使用する建物を案内しながら、アザキオがポツリと呟く。
「魔道具調整師を続けていたんだな。てっきり違う仕事に就いているのかと思っていた。……届け出がなかったから」
「ここで十年前から働いているけれど、臨時という形だから正規ではないの」
魔道具調整師を正式に雇うと、雇い主が届け出を出す決まりになっているが、私は臨時雇用だからその必要はない。
「そうだったのか。だからこの十年間どんなに届け出を確認しても名前がなかったんだな。……元気そうで良かった」
昔と変わらず優しい声音だった。あんな別れ方をしたからこそ、ずっと気にかけていたに違いない。私が絵に描いたような悲惨な人生を送っていたら、寝覚めが悪い。だから、最後の言葉に心がこもっていたのだろう。
「この通り元気よ。この土地は私に合っているみたい。ここに来て良かったと思っているわ」
彼の罪悪感をなくしてあげるために言っているのではない、全部本当のことだ。ここに来てから今まで後悔したことはない。アザキオの視線が私の左手で止まる。
「……その、今は家族がいるんだな」
彼は私が結婚したと思っているのだろう。予想通りの反応に、私も用意していた言葉を返す。
「素敵でしょう。似合うからって買ってくれたの。私にも家族が出来たのよ。あなたも幸せそうで良かったわ」
嘘はついていない。私には素晴らしい息子がいるし、指輪だってあの子が買ってくれた。
彼の視線が指輪に注がれたままなのに気づく。この色が気に食わないとでも言いたいのだろうか。アザキオの瞳と同じ色だが、これはハルサの色で彼のではない。同じ色でも全然意味が違う。文句を言われる筋合いもない。
でも、彼はこの真実を知る必要がないから伝えない。
私が怯むことなく彼に視線を向けると、一瞬気まずそうな表情をして彼はすぐに目を逸らす。勝ったとか負けたとかではないけれど、なんだか勝った気になり気分が良かった。
チラッと彼の左手の薬指を見ると、そこには十年前にはなかった指輪がある。彼は結婚して離縁をしていないということだろう。もう深入りするような関係ではないから、彼が巡回騎士団として今ここにいる事情は聞かなかった。
なんとなく、距離感が掴めてきたような気がする。当たり障りのないことを、こんなふうに話せばいい。
巡回騎士団の滞在期間は、三週間ほどの予定だと聞いているが、なんとかなりそうだ。
あとはハルサが彼と会わないように、気をつければいい。そもそも、巡回騎士と学校に通っている子供が会う確率は高くない。
身構える必要はなかったのかもしれない。表情には出さずに安堵していると、用意された仕事部屋に着く。
「ブルーガ副団長、案内ありがとうございました」
「……っ……いや、キオと……、なんでもない。何か足りないものがあったらすぐに用意するから遠慮なく言ってくれ、ルシアナ」
私は彼を役職で呼び、彼は私をルシアナと呼んだ。副団長と派遣の魔道具調整師なら、立場は彼が上だからお互いにこの呼び方で正しい。……彼が言いかけた言葉は聞かなかったことにする。もしアナと呼ばれたら、私は笑顔を浮かべてごめんなさいと告げて、鞄を投げつけていただろう。
とにかく、お互いの関係性をはっきりさせたことで、私の不安は薄らいでいった。きっと彼も同じ気持ちでいるだろう。今さら過去のことを周囲に知られて良いことなんて、お互いにひとつもないのは分かり切っている。利害が一致しているなら、問題は起こらないはずだ。
その後、アザキオは私のことを魔道具調整師として巡回騎士団の騎士達に紹介してくれた。みな私のことを歓迎してくれて、我先にとそれぞれ剣を差し出してくる。思っていた以上に、魔力を持つ騎士が多いようだ。
「おい、俺が先だ!」
「いいや、俺の剣のほうが調子が悪い! 人間でいったら重症患者だ」
「いやいや、年長者を敬え。つまり俺が先だ」
……やかましいっ! いい年した大人のくせに、押し合いながら言い争いを始める。本当にどうして騎士達はどこでもこうなのだろう。体力があるからか無駄に元気すぎる。
こんな状況には慣れているから動じはしない。パンパンッと手を叩き、みなの注目を自分に集める。
「順番はくじ引きで決めます。文句を言う方は最後です!」
叫んでいた騎士達はピタリと静かになる。
「みなさん、理解が早くて大変助かります」
「「「……」」」
満面の笑みでそう言うと、騎士達は無言のままうんうんと頷いている。
なかなか素直な騎士達だ。これなら職場の人間関係で悩むことはなさそうだとホッとする。こうして巡回騎士団での初日は思ったよりも、良い滑り出しで始まった。
それからあっという間に一週間が経った。仕事も人間関係も順調で、アザキオとの接触も必要最低限で済んでいるからなんの問題もない。ミン団長も様子を気にして、時々顔を出してくれる。
「どうだ? 窮屈な思いはしていないか? もし大変なことがあったら遠慮しないで言ってくれ。ちゃんと対応するからなっ!」
「みなさん、良い人達ばかりですから快適に仕事は出来ていますよ」
「そうか、良かったー。なんかあったら、またルシアナに怒られるところだった」
「……」
最後の一言は余計だ。心の底からホッとした様子のミン団長は、どうやらこの前のことをまだ気にしていたらしい。
「団長、私ってそんなに怖かったですか?」
笑いながらそう尋ねると、団長は必死になって首を横に振る。否定の仕草だが、怖かった!! という心の叫びはしっかりと伝わってきた。その様子を見て、今度からは気をつけようと少しだけ反省をする。
「……ところで、今日は午前中で仕事を上がる予定だろ? いいのか、もう昼過ぎているぞ」
「きりの良いところまで終わらせて帰るつもりです」
今日は午前中でハルサの授業が終わる日だった。そういう時は、私も午前だけ働くことにしている。近所の人はいつでもハルサを預かるよと声をかけてくれるし、本人もお留守番くらいもう出来ると言っている。だから本当は休まなくても大丈夫だろうけれど、なるべくあの子との時間を私は大切にしたい。
それに、ハルサの親は私しかいない。父親の代わりになれなくても、愛情だけは目に見える形でふたり分以上注いでいこうと思っている。
「そうか、なるべく早く帰ってやれよ」
「はい、そうします!」
私は急いで残りの作業を片付けてから、お先に失礼しますと建物を出た。
ハルサはもう学校から帰っているだろう。鍵は持っているけれど、もしかしたら近所の家にお邪魔しているかもしれない。みんな我が子や孫のようにハルサを可愛がってくれていた。私が帰宅していない時は、誰かしら声をかけてくれるのが当たり前になっている。
以前そのことについて私がお礼を言うと、好きでやっていることだからと誰もが笑ってくれたのだった。
いつもの道を急ぎ足で帰っていると、午後の学校がないからか、子供の姿が多かった。この町は治安がよく、明るい時間帯なら子供がひとりで歩いているのは普通だ。
その時、ハルサによく似た髪色が目に飛び込んでくる。あの子の髪色が珍しいわけではないけれど、この土地ではあまり見かけないものだ。後ろ姿もあの子によく似ている、そして服も。
すべてが似て、……いや同じだった。愛しいハルサを見間違えることなんて絶対にない。
「そんなはずない、あの子のはずがない……」
見間違いだと自分に言い聞かせる。そう否定しなければいけない理由があった。
なぜならその子の隣には、騎士服姿のアザキオがいたから。ふたりで話しているように見える。
なんで……、どうしてっ! あと二週間でいつもの日常が戻ってくるはずだったのに。
「あっ、お母さんだ! お帰りなさーい」
ハルサは私に気づいたようで、顔をほころばせる。屈託のない笑顔に元気な声。いつもと変わらない我が子の様子に安堵するが、不安は消えないままだ。
私は不安な顔を見せまいと必死で作り笑顔を浮かべるが、どうしようもなく泣きたくなってしまう。
アザキオもそんな私を見ている。彼の目に映る私は、ちゃんと笑えているだろうか。
ふたりで何を話していたのだろう。
いや、正しくはアザキオは何を知ったのだろう。それとも、何も知らないままなのか……
感情のままにアザキオを問い詰めれば不審に思うかもしれない。最悪、墓穴を掘ることになってしまう。だから慎重にならなくては……
アザキオへの苛立ちを隠し、ハルサと目線を合わせるためにしゃがむ。
「ハル、どうしてここにいるの? 家で待っている約束だったでしょう!」
怒っているわけではないが、焦ってきつい口調になってしまう。
しまったと思ったけれど遅かった。ハルサから笑顔が消え、泣くのを我慢している顔になる。
「お母さんが帰ってこないから迎えに来たの……近道は使わないで、ちゃんと決められた道を通ったよ。この前、迎えに行った時は喜んでくれたから、いいかなって思ったんだ。……ごめんなさい」
ハルサの言う通りだった。今日だって、この子の隣にアザキオの姿さえなければ、優しく抱きしめその頬に口づけをしていたはずだ。この子は何も悪くない。それなのに私ったら何をしているのだろう。ハルサにこんな顔をさせて……
不安に駆られて、それを子供にぶつけるなんて最低だ。しっかりしろ、私っ!
動揺する自分に活を入れる。今まで何があっても乗り越えてきた、これからだってそれは変わらない。守りたいものがある限り強くなれる。
「ごめんね、怖い言い方をして。お母さん、ハルが知らない人と話していると思ったから、ちょっとびっくりしちゃったの。ほら、可愛いから誘拐されたらって急に心配になっちゃって」
「お母さん……」
下手な言い訳をしながら優しく抱き寄せると、ハルサはギュッと抱きついてくる。嗅ぎなれた愛しい我が子の匂いに、ざわついていた心が少しだけ落ち着く。
「もうっ、そんな心配いらないのにー。僕はもう大きいんだから、知らない人についてなんか行かないよっ!」
私が怒っているわけじゃないと分かって、ハルサにいつもの笑顔が戻る。わざと拗ねたような言い方をするところが、まだまだ子供らしくて可愛い。これでいい、やっぱりこの子には笑顔が一番似合う。
「分かっているわ、本当にごめんね」
「いいよ、お母さんだから特別に許してあげる。でも今日のおやつはたくさんがいいなー」
「はいはい、ちょっとだけ多めにするわね」
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