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一章
②
しおりを挟む鼻を掠めた何かに、腹の奥が疼いて「キュウ」と可愛らしい音を立てた。ゆっくりと眼を開ければ、木張りの天井が映る。
重たい動作で瞬きを繰り返して視界を明瞭にしていく。
「ここ、どこ……」
喉から絞られた声は掠れていた。随分と長く眠っていたのか、渇いた喉は張り付き、無理に音を載せたせいで咳き込む。
「ゴホ、ッハぁ、ガハ」
咄嗟に喉を手で覆いながら体を起こす。舌の付け根でじんわりと血の味がした。
「ほら、飲みな」
視界に入り込んだ水の注がれたグラスを反射的に受けとって仰ぐ。ゴクゴクと音を立てながら流れていく冷水が心地よく、グラスが空になるまで夢中で飲み干した。
和らいだ痛みにホッと肩を落とす。そういえばこれはどこから現れたのか。
(あれ、今……)
さっき自分ではない誰かの声がしなかっただろうか?
「落ち着いたかい?」
「あっ、はい……」
顔を向ければ、横たわっているベッドの横に年配の女性が一人立っていた。白髪を後頭部で一つに丸め、皺が多い目元はジッとこちらを見ている。
(このおばあさん、誰だろう……)
はて、自分の知り合いにこんな人はいただろうか。記憶を探ろうと思案して「えっ」と声が零れた。
(あれ、どうして……)
目の前の女性に助けを求めて声を上げようとしたがそれよりも早く女性が、
「起きたならとりあえず食事にしよう。こっちだよ」
「え、あの、」
向けられた背中に手を伸ばそうとして、自身の腹が音を立てたので恥じるように肩を竦める。再び視線を戻した時には、もう女性は部屋から姿を消していた。
(ど、どうしよう……)
このまま見知らぬ家で食事を頂いてもいいものか。いや、知り合いと言う可能性もあるか。
悩む思考を後押しするかの如く、また腹から「キュウ」と音が鳴る。
とりあえず女性に話を聞かないと始まらないと理由を付け、ベッドから抜け出して廊下に顔を出す。向かいには二つ扉がある。右手の奥に見えるのはキッチンだろう。スンと鼻を鳴らせばいい匂いがした。
誰に言われたわけではないが足音を忍ばせて近寄る。部屋の中央に置かれた四人掛けのテーブルとその向こうには背を向ける女性の姿。曲がった腰を支えるように手を後ろに回したそれは、さっきの女性のものだ。
「遅いよ」
「あ、すみません」
つい、謝ってしまった。いや、この場合は自分が悪いのだろうか。入り口で立ち尽くしたままでいれば、テーブルに食器を並べ終わった女性が「早くしな」とせっつく。
もう一度「すみません」と口に出しながら少し迷いつつも女性の向かいに座った。
テーブルに置かれた料理達が空腹の視界には毒だ。現にまた腹が食事を求めて鳴いている。
「食べな。話はそれからだ」
「い、いただきます……」
こちらに眼もくれず女性は食事を始めてしまった。
とりあえず素直にご馳走になろうと手を合わせてから口に運ぶ。
口の中に広がる旨味に、気づけば夢中になって腹に詰め込んでいた。
食後に出された紅茶は、口に広がる仄かな苦みとは違って後味は爽やかだ。
(はあ……落ち着く……)
暖かなものが喉を通ると自然と肩から力が抜けた。
「あんたどこから来たんだい?守護石を持っていないから関所は通ってないだろうけど……知ってる通りリオリス国はほぼ鎖国状態だ。不法侵入なんてバレたらひどい目にあうよ」
「え?あ、あの」
紅茶片手に淡々と告げる女性に待ったをかける。
しゅごせき?リオリス?
知らない単語が耳の奥でグルグルと回る。
(え、なに?何を言われたんだ、いま……?)
不法侵入などといった物騒な言葉も聞こえたが、それよりも知らない言葉ばかりで状況が把握できない。いや、聞き覚えがあるかどうかすら、今の自分にはわからない。
律儀に女性は自分の言葉を待っている。しかし、どう伝えたらいいのだろうか。口ぶりを見れば、自分とこの女性に面識はないのだろう。そんな人に言って、どうする?いや、今はこの人しか頼れる人がいないのだから言うべきなのか。
「どうしたんだい」
今だって、こちらの様子を見て気にかけてくれている。不法侵入だと当たりを付けている人物に食事を恵んでくれる人だ。
きっと悪いようにはしない。そうであって欲しい。
希望的な観測も含めつつ、意を決してゴクリと息を呑む。
ハッと微かに空気を吸って重たい口をどうにか開いた。
「じ、実はここに来るまでの記憶がないんです」
女性の眉がピクリと上がった。それに心臓をビクつかせながらも「本当なんです」と切実な思いを込めて何とか声を続ける。
「自分の名前も、どこから来たのかも。ここがどこなのかも、何も……何もわからないんです……」
そう、起きた時からそれ以前の記憶が一切ないのだ。
何もわからない、何も知らない。いくら考えても何も出てこない。
自分の中が空っぽになったようだ。ここにいるはずなのに本当に存在しているのか疑ってしまうほど、自分の中に何の情報も持ち得ていない。
今までどうやって生きて来たのか。自分がどういう人間なのか……。
膝の上で握り拳を作る。俯けばハラリと黒い髪が落ちて真っ直ぐな線を引いた。この髪色も姿も正しく自分の物なのかわからない。なぜ、男であるはずの自分が女性のように丈の長いワンピースを身に纏っているのかも。何も、わからないのだ。
頭上でカタリと食器の音がした。女性がカップを置いたのだろう。次いで長く息を吐く音。沈黙が痛く、身を丸めて女性の枯れた声を待つ。
「アタシはソニー。アンタとはこれが初対面だから教えてあげられることはない」
「え、」
「恐らく、アンタは迷いの森を抜けてきたはずなんだ。本来守護石を持たなきゃ出て来られないそこからあんたは手ぶらで現れた」
ソニーと名乗った女性は考えるように口を閉ざしこちらを見た。薄い色素の瞳に呆然とした自分の姿が映っている。
「もしかしたら記憶が迷子になっちまったのかもね……もしくは妖精たちとそういう取引でもしたのか……」
森を歩いていた記憶はある。おぼろげだが高い木々がそびえる風景を覚えている。しかし、妖精と言うものに心当たりはない。自身の周りを飛ぶ小さな光の粒ならば覚えているけれど。
「本当なら警備隊に言って軍を通して身元を確認した方がいいんだろうけどねえ……他国の人間だった場合が困るしね……」
「まずいんですか?」
「この国―リオリスはいくつもの山に囲まれていて絶壁に面した孤立した空間にある。唯一他国と陸続きのこのネバスも迷いの森を抜けなきゃ国からは出られないし、その先には関所があって容易に出入りは出来ない。実質鎖国状態なんだよ」
「はあ……」
段々と低く絞る様に募るソニーの言葉に気圧されながら何とか相槌を返す。「つまり」とソニーが続ける。
ビクビクと怯えながら次の言葉を待つ。
「アンタは関所を通った証である守護石もないし、正式な訪問者であることも、この国の住人かどうかも証明できない」
本来、迷いの森とやらを抜けるには特別な加護を受けた魔石を持たなければならないらしい。そうしなければ森を出てくることが出来ないと言う。
そのため、森を通る者は入国出国問わず、事前に申請をして守護石を借り受けて森に入らなければならないのだ。
そして、出国者であれば必ずこの家の前を通るので気づかないはずがないとソニーは言った。ここ数日、人は通っていないため、高い確率で自分は入国してきた者ではないかとも。
(つまり、バレたらやばいんじゃ……)
少しずつ理解し始めた頭で冷や汗をかく。身体が冷えていくのが分かった。
「バレたらとりあえず牢屋かなんかで捕まって身元がはっきりしたら解放。他国の人間だった場合には最悪不法侵入で罪に問われるか、外に放り出されるね」
「そ、そんな……」
身元が判明するならいい。すぐにでも警備隊に連絡を取るべきだ。しかし、もし他国の者だったら?そうなったら自分の覚えていないことで罰を貰うことになるのか?
―――嫌だ……
不法侵入が事実だとしたらしっかり断罪されるべきなのだろうが、覚えていない状況で罪に問われるのは嫌だ。どうしたらいいのだろう。
今の自分には記憶がなく、どちらに転ぶかわからない。
身元を判断できるような物も持っていないため、一体どうしたらいいのかわからない。
先が真っ暗とはこのことか。空腹を満たされた先ほどまでの幸福感はどこかに吹き飛び、今は崖の上で立ち尽くしている気分だ。
「とりあえず、ここにいな」
「え?」
聞き間違いかとキョトリと眼をしばたたかせた。だってあまりにも自分にとって都合のいい言葉が発せられた気がしたのだ。
「だから、ここにいなって言ったんだよ」
「ここに?いてもいいんですか?」
「さっきからそう言ってるだろ?記憶もないのに放り出してそこら辺で死なれても困るからね」
ソニーは芝居がかった動作で首を振りながら息を長く吐いた。「やれやれ」とでも言いたげだ。
「ほ、本当にいいんですか?俺、何も覚えてないし……お金とかだって何も持っていなくて……」
自分で言っていてどうかとも思うが、あまりにも不審過ぎるだろう。例え世話になったとしても対価を支払うことも出来ないのに。
「いいって言ったんだから子供は甘えときな。あんまりしつこいと外に放り出すよ」
重たい腰を上げながら席から立ち、ソニーは鬱陶しそうに手を払う。話は終わりだとでも言いたいのか背中を向けて食器の片づけを始めてしまった。
慌てて自分の使った皿を持って後を追う。
「あ、あの皿洗いぐらいなら俺でも出来るので……」
「そうかい、まあタダで置く気はないからね。しっかり働くんだよ、クロ」
「クロ……?」
袖をまくりながら耳についた単語を繰り返す。キョトリと瞬く瞳を見上げながらソニーはニッと口の端を上げて笑った。
「アンタの名前さ。呼ぶのに困るだろう?」
ひょいと上げた片眉と共にそんな声が届く。「クロ……」ともう一度呟いた言葉には今度は反応せずにソニーは小さな歩幅でキッチンを出る。「終わったらさっきの部屋で今日は寝な」との言葉も忘れずに置いて。
廊下に消えた曲がった背中を見送り、水を勢いよく流す。肌に水がかかり、その冷たさに少しずつ冷静な思考が帰ってきた。
自分はいったい何者なのか。家族などはいないのか。
(もしいたら心配かけてるよなぁ……)
しかし、自分自身はそこまで悲観してはいなかった。もしかしたらよっぽど楽観的な性格なのかもしれない。
「くろ、くろ……クロかぁ……」
しみじみと体に馴染ませるように何度も口につく。髪の色だなんて安直だなと思いつつ、それが嫌ではなかった。
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