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1巻
1-3
彼は服を受け取ると、イサミナの目の前で堂々と腰布を取ろうとする。イサミナは慌てて背を向けた。
衣擦れの音が聞こえて、先ほどちらりと見えたものが脳裏に浮かび、なんだか恥ずかしくなる。ふと、ある考えにいきついて「あっ」と声を上げた。
「そういえば、翼のところに穴を開けないといけないのかしら?」
彼の背中には、立派な黒い翼が生えている。普通の服など着られるはずがない。
隣村の天使の服はどうなっていただろうと考えていると、意外な返事をもらった。
「大丈夫だ。天使も悪魔も、翼は体の一部ではなく、魔力が可視化したものにすぎない。実体がないから服を突き抜けるし、そもそも触れないものだ」
「えっ、そうなの?」
てっきり翼は体の一部なのかと思っていたため、イサミナは驚く。
「着替え終わったぞ」
声をかけられて振り向くと、父の服はヴァーミリオンによく似合っていた。大きさもちょうどである。
白い服なので、腰布姿のときよりも天使らしく見えた。これで翼の色さえ白ければ立派な天使そのものなのに……と思ってしまう。
「この翼って、魔力で白く変えたりできる?」
期待をこめて訊ねたところ、彼は首を横に振った。
「それは絶対に無理だ。翼は悪魔の魔力が可視化したものだから、色は変えられない。見えないようにすることはできるけどな」
そう言った彼の背中から、翼が一瞬で消える。
「隠せても、色は誤魔化せないってことね……」
ヴァーミリオンが再び翼を出し、イサミナはそこへ手を伸ばしてみた。その指先は翼を突き抜ける。目の前にあるのに触ることができなくて、不思議な感覚に陥った。
「天使のふりをするという口車には乗ってやる。だが、作戦を考えるのはお前だ。せいぜい頭を使えよ」
彼はイサミナの額をこつんと指でつつく。
「……頑張るわ」
決心した眼差しでイサミナは頷いた。
翌日、広場に村人が集まる。作戦会議というわけだ。
村人たちは白い服に着替えたヴァーミリオンを見て、驚いた表情をしていた。
「司教服か! 昨日と印象が全然違うぞ」
「天使が司教の服装というのもおかしいが、昨日の腰布姿よりは天使らしく見えるな」
「あとは、翼さえ白ければ完璧なのに……」
村ぐるみで彼を天使と言い張ろうとしているものの、やはり悪魔という存在が怖いのだろう、村人たちは遠巻きにヴァーミリオンのことを見ている。
「ねえ、聞いて。私、昨日よく考えてみたんだけど……」
イサミナが口を開いた途端、無駄話はぴたりと止まり、皆が彼女に注目した。
「悪魔に見える天使だと言っても、簡単に信じてもらえないでしょう? だから、国に申請する前に、天使としての実績を積もうと思って」
「天使としての実績?」
「つまり、彼――ヴァーミリオンに人助けをしてもらいます! 翼を白くはできないけど、消すことはできるんだって。ねえ、やってみて」
イサミナが言うと、彼は素直に翼を消してくれる。「おお!」という声が村人から上がった。
「まずは翼を消して人を助けるの。それから黒い翼を見せて、わざと悪魔の姿をしている天使だと言うのよ。まさか悪魔が人助けをするなんて思わないでしょうし、変わった天使がいるって、すぐに噂になるわ」
村人たちは「なるほど」と呟くが、ヴァーミリオンが難色を示す。
「人助けなんて、俺が素直に協力すると思うか?」
肝心の悪魔が渋っている様子に、村人たちの間に不安が広がる。そんな中、イサミナはわざと明るい声で言った。
「大丈夫、あなたは絶対に人助けしたくなるわ」
「ほう? それは一体、どういうからくりだ? ……楽しみにするとしよう」
興味深そうにヴァーミリオンが頷く。
「あと、誰か演技がうまい人いる? 手伝って欲しいの」
イサミナの問いかけに、男の村人が手を上げた。彼に協力をお願いすることにする。
「じゃあ、人助けに行きましょう! 村長、どこか困っている人がいそうな場所に心当たりはある?」
「困っている人がいそうな場所、か……」
唐突に話を振られてゼプは考えこむ。
「ここから南西に大きな街がある。無法者が支配する街で賭博が有名だ。そこになら、困っている人がいそうだ」
「いいわね! そこまで、どのくらいかかるの?」
「歩いて三日はかかる」
「三日となると、往復一週間は見ておいたほうがいいかしら。準備が大変ね」
水と食料、野営に備えて寝袋代わりの布も用意しなければ……と頭に描いたところで、ヴァーミリオンが口を挟んできた。
「面倒だ、俺が連れていってやる。行くのはイサミナと、そいつか」
彼は右手でイサミナの腰を抱き、左手で演技がうまいという男の服を掴んだ。黒い翼が広がり、次の瞬間、体が宙に浮く。
「……っ、すごい!」
しっかりと腰を抱かれているイサミナは安定感があったが、服を掴まれているだけの男はぶらぶらと体が揺れている。
「安心しろ、落とすようなへまはしない」
ヴァーミリオンはどんどん上昇していく。今まで見たことのない景色にイサミナは目を輝かせた。
「すごい、高い! 遠くまで見えるわ!」
「ひっ……高い、怖い……」
「怖いなら目を閉じていろ。すぐにつく」
意外と面倒見がいいのか、ヴァーミリオンが怯える村人に声をかける。
彼の翼が羽ばたき、南西の方角に進んでいった。風を切って進んでいく感覚にイサミナは目を細める。空気がひんやりとしていて気持ちいい。
実体がないはずの黒い翼は悠然と動いていた。村の近くでよくワシとタカが飛んでいるのを見かけるが、ヴァーミリオンの翼の動きはまるで鳥のようである。
そして、あっという間に目的の街についた。彼は姿を消す術を使っていたらしく、誰にも見られることなく地上に降りる。
そこでイサミナは村の男へ簡単に作戦を耳打ちし、彼と別れた。
「じゃあ、ヴァーミリオン。翼を隠して私についてきて」
「ああ、わかった。だが、お願いされたくらいじゃ人助けなんてしないぞ」
「それは大丈夫よ」
にこりとイサミナが微笑む。
街の中を歩き始めると、賭博で潤っているのかとても賑やかな雰囲気だった。街並みも綺麗で、イサミナの村とは雲泥の差だ。昼間からやっている立ち飲み酒場も多く、酔っ払いが沢山いる。
注意深く周囲を見回していたところ、気の弱そうな男が走ってくるのが見えた。
「待て、このヤロウ!」
「金を返せ!」
逃げる男を恰幅のいい男たちが追いかけている。金を返せと言うからには、借金取りに違いない。
見ていると、男はあっという間に捕まった。
「借りた金を返さないとは、どういうことだ!?」
「だ、だって、あんな利子、返せるはずがないだろう……」
「その条件で契約したのはお前だろう? ああっ?」
借金取りが男を怒鳴りつける。その様子を眺めていた街の人たちが、ぼそぼそと囁き合う。
「うわ……アイツ、あそこから金を借りたのか。悪徳高利貸しだって有名なのになあ……」
「奴隷として売り払われるぞ。ご愁傷様だな」
誰も彼も男に同情はすれど、助けるつもりはないようだ。この状況に、イサミナはこれだと思う。
「ヴァーミリオン。あの人を助けましょう」
「この俺が、かわいそうだからと助けると思うか?」
くだらないと言わんばかりに彼が眉をひそめる。しかし、イサミナは笑った。
「なにを言ってるの。どんな理由であれ、借りたお金を返さないほうが悪いのよ。ここであなたがあの人を助けたら、お金を貸した人は損をするわよね? あなたがするのは善良なる人助けじゃなく、借金を踏み倒すという悪行の手助けよ。それって、悪魔の好きなことでしょう?」
「……なるほど、助けるほうが悪だと言い張るのか」
「そうよ。悪魔らしく振る舞ったのに天使に見えるなんて、面白いわ」
イサミナの言葉に、ヴァーミリオンは鼻で笑う。
「最初だから、この程度でオマケしてやる」
彼はそう言うと、借金取りたちに近づいていった。イサミナはほっと胸を撫で下ろす。
(これから人助けのたびに理由を求められるでしょうけど、その難易度はどんどん高くなっていくはずだわ。だから、最初から全力で説得するわけにはいかない。まずはこのくらいで及第点といったところね。次はもっと別の切り口から攻めないと)
悪魔をそそのかす方法を脳裏に描きながら、動向を見守る。ヴァーミリオンは男たちの前に立ち、借金取りの肩を掴んだ。
「おい、そこまでにしてやれ」
「ああ?」
「なんだお前、部外者はすっこんでろ」
借金取りがヴァーミリオンを睨みつける。次の瞬間、彼らの大きな体は遠くまで飛んでいった。壁にぶつかり、「ぐふっ」と鈍い呻き声が聞こえる。
その光景を見ていた誰もが言葉を失った。なぜなら、それは普通の人間ができるような芸当ではなかったからだ。
「なんだ? なにが起きたんだ?」
ざわざわと騒ぎになり人が集まってくる。イサミナは地面に尻餅をついたままの気弱そうな男に歩み寄り、右手を差し伸べた。
――そう、聖女の痣があるほうの手を。
(さあ、私を見るのよ!)
思惑通り周囲がさらにざわつく。
「聖女?」
「ということは、あの男は天使か?」
気弱そうな男が、イサミナの手を取って立ち上がった。
「あ、ありがとうございます! ……もしかして、聖女様ですか?」
「ええ、そうよ」
イサミナはにこりと微笑みながら手の痣を見せつける。天使は偽物だが、この痣は本物の聖女の証だ。
「では、そちらのかたが天使様? でも、翼がないようですが……」
「ヴァーミリオン、翼を出して」
声をかけるとヴァーミリオンは消していた翼を出した。……漆黒の翼を。
「うわっ!」
「黒い翼だと!?」
「悪魔っ!?」
そこに集まっていた人たちが混乱に陥る。
「いいえ、違うわ。彼は天使よ。わざと悪魔の姿をとることで、自らを逆境に置いて修行をしているの」
イサミナは堂々と言った。だが、まだ周囲はざわついている。助けられた張本人である男も、ヴァーミリオンの黒い翼を見て怯えていた。
そんな中、人混みをかき分けてひとりの男が現れる。彼こそ、村から一緒に来た演技のうまい男だ。
「天使様! 先ほどは助けて頂きありがとうございました! 天使様のおかげで、母親の病気がよくなりました」
大声でそう言うと、彼は両膝を地面についてヴァーミリオンに頭を下げる。
「ありがとうございます! 本当にありがとうございます! なんとお礼を言っていいのか……」
その声は震えていて、彼が泣いているのがわかった。ここまでしてくれるとは思わず、イサミナはびっくりする。
(す、すごいわ! まさか、演技で泣けるなんて……!)
聖女の驚いた顔は、男の言葉へ余計に真実味を持たせた。
「畏まらなくていいわ。私たちにとって、困っている人を助けるのは当たり前のことだもの」
イサミナが優しく声をかける。すると、周囲に集まっていた人たちが呟き出した。
「まさか、本当に天使なのか……?」
「でも、あの痣は間違いなく聖女の証だ」
「悪魔が人助けをするはずがないし、天使なんじゃないか」
「わざと悪魔の格好をするなんて、そんな変わった天使がいるのか……?」
疑惑に満ちた空気から一転、天使だと信じ始めている。借金取りから助けられた男は、村の男と同じように、地面に膝をついて頭を下げた。
「あっ、ありがとうございます、天使様! 疑ってしまってすみません! 助けてくれたのだから、悪魔のはずがないですよね! 天使様のおかげで助かりました!」
ヴァーミリオンを天使だと信じきった声に、周囲の者たちも疑いを捨てた様子だ。
「天使……」
「変わった天使がいるんだな……」
そこに、村から連れてきた男が声を上げた。
「天使様! 母が、どうしても天使様にお礼を言いたいと……! お願いです、どうか一目だけでも母に会って頂けないでしょうか?」
「わかりました。行きましょう、ヴァーミリオン」
ヴァーミリオンはイサミナと男の肩を抱く。そして、先ほど同様に空高く舞い上がった。
「天使様ー!」
「天使様、万歳!」
地上からは天使を讃える声が聞こえる。村に戻る道でヴァーミリオンは言った。
「人間を騙すのは結構面白いじゃないか」
彼は金を貸した側の人間へ一方的に暴力を振るい、借金を踏み倒させたのだ。――これぞまさに、悪魔の所業である。
「でも、あの人をあそこに置いてきて大丈夫だったのか?」
見事な泣き真似を披露した村人が心配そうに訊ねてくる。
「天使が自ら手を出したのよ? 借金取りは諦めるはずよ。いくらなんでも天使の意向に刃向かうような真似はしないと思うわ……多分」
最後に「多分」と付け加えてしまうくらいには確証が持てないけれど、おそらくは大丈夫だろう。
こうして、初めての「悪魔の姿をしているけど本当は天使なんです」作戦は、無事に成功を収めた。
◆ ◆ ◆ ◆
村に帰り一部始終を話すと、わっという歓声が上がった。
「よくやった、イサミナ!」
「この調子でいけば、悪魔の姿をした天使の噂が広まりそうね!」
「お疲れ様! お腹空いてる?」
イサミナたちを労うためか、すでにごちそうが用意されていた。昨日、シーツを染めるのに使った鶏肉の料理もある。
「そ、そういえば、悪魔……いや、ヴァーミリオン様は、人間の食事を食べるのですか……?」
料理を担当した女性が恐る恐る声をかけてきた。ヴァーミリオンに直接聞くのが怖いのだろう、その視線はイサミナに向けられている。
「それは――」
昨日も今朝も、ヴァーミリオンは食事をいらないと言っていた。イサミナが代わりに答えようとするが、それより早く彼が口を開く。
「悪魔と人間は体の構造が違う。俺は食べなくても死なないが、食べることは好きだ。あの肉、旨そうだな。俺にも寄越せ。もたもたしてると殺すぞ」
「ひえっ」
殺すぞと脅された村人が慌てて肉を用意する。一方、イサミナは驚きながらヴァーミリオンを見た。
(今、食べるのが好きって言ったわよね。もしかして、今まではわざと食べなかったの……?)
それから、遠慮されたのだと気付く。
聖女として選ばれたものの、すぐにお金がもらえるわけではない。加えて女のひとり暮らしだ。
だから、イサミナの家にある食材は少なく、粗末なものだった。経済的な余裕がないことは一目でわかっただろう。
「食べることは好きだ」と言った彼は、イサミナの状況を考慮して食べないことを選択したのだ。
(実は優しいのかも……)
悪魔は人を惑わし、不幸をもたらす存在だと教えられていた。
しかし、今目の前にいる悪魔はそうは見えない。些細なきっかけで彼の気遣いを察知したイサミナは、ヴァーミリオンに対する印象が変わってしまった。
悪魔なんて見たことがないため、聖書や噂話の中での悪魔しか知らないけれど、実はそこまで酷い存在ではないのかもしれない。
もっとも、昨日ヴァーミリオンは飽きたら村人を殺すと言っていたし、今だって村人に対して殺すと脅していた。悪魔らしい残酷さは当然持っているだろうから、気を許してはいけない。
(それでも――)
ちらりと横目で見ると、ヴァーミリオンは用意された肉をおいしそうに食べていた。
その所作は、どこか品がある。彼の見目の美しさもあり、村娘が見惚れている様子がわかった。
「あ、あの、ヴァーミリオン様。お酒は飲みますか?」
「強いやつを寄越せ」
人間と同じように食べる彼を見て他の村人が声をかける。ヴァーミリオンは彼らを威圧しながらも、普通に受け答えしていた。時折「殺す」など物騒な言葉を吐くけれど、実際に暴力的な行動は取らない。
「悪魔だけど、そこまで怖くないのかも……!」
遠巻きにしつつも、そんなことを話している村人もいる。イサミナも同じ気持ちで彼を見つめていた。
宴のような食事のあと、イサミナは共同の浴場で体を清めてから自分の家へ帰った。外観はぼろぼろだが、扉を開くと室内は綺麗で、その差に慣れるには時間がかかりそうである。
ヴァーミリオンは魔力で出した立派なソファでくつろいでいた。
彼の黒い髪がしっとりと濡れているから、湯浴みを済ませてきたのだろう。村の共同浴場で入ったのか、それとも村から少し離れたところにある、人気のない温泉まで行ってきたのか。気になるけれど、わざわざ聞く話ではない。
「これ、できたわ。ちゃんと穿いてね」
イサミナはヴァーミリオンに白い布の束を手渡した。それは裁縫が得意な村娘にお願いして作ってもらった男性用の下着である。縫い終わったとのことで、先ほど渡されたのだ。
「めんどくさいな……。まあ、仕方ない」
文句を言いながらもヴァーミリオンは下着を受け取ってくれた。彼が下着をつけていないのが密かに気になっていたので、イサミナはほっとする。
そんな彼の横顔に疲労の色が見えた。
「疲れてる?」
「ああ。今日はそこそこ魔力を使ったからな。魔界ならともかく、地上で魔力を使うのは骨が折れる」
彼は今日、空を飛んだり借金取りを凄まじい力で突き飛ばしたりした。軽々とやってみせたが、実はかなりの労力を伴うのかもしれない。
「お疲れ様。そして、ありがとう。じゃあ、今日は早く寝て体を休めないと……」
素直に感謝の意を伝えると、彼が真剣な顔をしてイサミナを見つめてきた。
「お前に話しておくことがある」
「な、なに……?」
ただならぬ様子に緊張したイサミナはごくりと喉を鳴らす。
「先ほど、俺は食べなくても死なないと言った。お前も聞いていたよな?」
「ええ」
「召喚された悪魔は、人間とは違った食事をしなければ力尽きて死ぬ。俺は今日魔力を使ったが、それは人間の食べものを摂ったり、寝るだけでは回復しない」
「ええっ?」
イサミナは目を丸くした。
「なにが必要なの? それって高いもの? 私にも用意できそう?」
不安になって訊ねる。
彼を天使だと誤魔化す計画はもう始まっていた。今更彼に死なれてしまっては困る。
「心配するな。今のお前が用意できるものだ」
その回答にイサミナはほっと胸を撫で下ろす。
「そうなの……。じゃあ、それってなに? 私はなにを用意すればいいの?」
「生気だ」
「セイキ? ……って、えっ!? まさか性器?」
イサミナは咄嗟に自分の股間を押さえる。実に間抜けな格好になった彼女に、ヴァーミリオンが呆れながら言った。
「その性器ではなく……って、まったく無関係ではないが。とりあえず俺の隣に座れ」
「え? う、うん」
動揺しつつも、イサミナは言われた通り彼の横に腰を下ろす。
「悪魔が地上で生活するには、召喚者から生気をもらわなければならない。今から俺がすることに逆らうな。――これが悪魔にとって、本当の食事だ」
「ええ、わかっ……っ、んんっ!?」
頷いた途端、一気に距離を詰められて唇を重ねられた。イサミナは驚きのあまり硬直する。
薄い桃色の唇が覆われ、彼の肉厚な舌先でぺろりと舐められた。その感触に、ぞくりとしたものが背筋を走り抜けていく。
思わず顔を離そうとすると、頭をぐっと押さえつけられた。
「逃げるな」
低い声でそう言われて、容赦なく舌を口腔の奥までねじこまれる。
「んむっ、んんっ!」
ヴァーミリオンの舌は長く、あっという間に口内を全て探られてしまう。上顎を舐められた瞬間に軽い痺れが走り、ぴくりと肩を震わせると、彼はそこばかりを集中的に攻めてきた。
「はぁ……っ、ん、ぅ……っ」
彼がのしかかってきて、イサミナはソファに押し倒される。
長い舌が執拗に絡みついてくる。舌を擦り合わされると、なんとも言えない感覚が体の奥底からこみ上げてきた。
互いの唾液が混じり合い、くちゅくちゅという水音が耳に届く。頭がおかしくなりそうだ。
「ふぅん、は……んむっ」
イサミナは今まで男性と付き合ったことがない。よって、キスだって未経験だ。
口づけは唇を重ねる行為だという知識はあったものの、舌を絡め合うとは知らなかった。キスがこれほどまでに激しい行為だったなんて、と愕然とする。
息苦しくなったイサミナは無意識に舌を動かした。震える舌先が彼の舌を擦ると、それに応じるように激しく動かされる。
「んっ! んんっ!」
角度を変えながら、口づけは深く荒々しいものになっていった。
うまく呼吸ができなくなったところで、ようやく彼の唇が離れていく。唇から紡がれた糸が、ぷつりと切れた。
「はぁ、はぁ……」
涙目になりつつ、イサミナは新鮮な空気を吸いこむ。
「い、今のって……」
「食事だと言っただろう。こうしてお前の生気をもらっている。なかなか旨かったぞ。ちなみに、お前が気持ちよくなればなるほど味がよくなる」
「そうなのね……」
肩で息をする彼女は濡れた口元を拭った。
「お腹、いっぱいになった?」
「これだけじゃ足りない。もっと、先のこともする」
「え……」
先のことと言われて、ぴんときた。キスの先にあるものなんて、男女の契りしか考えられない。
「こうして触れ合うほど、俺の中に力が流れこんでくる。今日は力を使って疲れていたが、元気になってきた」
そう言って笑った彼は確かに元気そうだ。実体がないという翼も、心なしかつやつやして見える。しかし、イサミナの表情には影が落ちた。
衣擦れの音が聞こえて、先ほどちらりと見えたものが脳裏に浮かび、なんだか恥ずかしくなる。ふと、ある考えにいきついて「あっ」と声を上げた。
「そういえば、翼のところに穴を開けないといけないのかしら?」
彼の背中には、立派な黒い翼が生えている。普通の服など着られるはずがない。
隣村の天使の服はどうなっていただろうと考えていると、意外な返事をもらった。
「大丈夫だ。天使も悪魔も、翼は体の一部ではなく、魔力が可視化したものにすぎない。実体がないから服を突き抜けるし、そもそも触れないものだ」
「えっ、そうなの?」
てっきり翼は体の一部なのかと思っていたため、イサミナは驚く。
「着替え終わったぞ」
声をかけられて振り向くと、父の服はヴァーミリオンによく似合っていた。大きさもちょうどである。
白い服なので、腰布姿のときよりも天使らしく見えた。これで翼の色さえ白ければ立派な天使そのものなのに……と思ってしまう。
「この翼って、魔力で白く変えたりできる?」
期待をこめて訊ねたところ、彼は首を横に振った。
「それは絶対に無理だ。翼は悪魔の魔力が可視化したものだから、色は変えられない。見えないようにすることはできるけどな」
そう言った彼の背中から、翼が一瞬で消える。
「隠せても、色は誤魔化せないってことね……」
ヴァーミリオンが再び翼を出し、イサミナはそこへ手を伸ばしてみた。その指先は翼を突き抜ける。目の前にあるのに触ることができなくて、不思議な感覚に陥った。
「天使のふりをするという口車には乗ってやる。だが、作戦を考えるのはお前だ。せいぜい頭を使えよ」
彼はイサミナの額をこつんと指でつつく。
「……頑張るわ」
決心した眼差しでイサミナは頷いた。
翌日、広場に村人が集まる。作戦会議というわけだ。
村人たちは白い服に着替えたヴァーミリオンを見て、驚いた表情をしていた。
「司教服か! 昨日と印象が全然違うぞ」
「天使が司教の服装というのもおかしいが、昨日の腰布姿よりは天使らしく見えるな」
「あとは、翼さえ白ければ完璧なのに……」
村ぐるみで彼を天使と言い張ろうとしているものの、やはり悪魔という存在が怖いのだろう、村人たちは遠巻きにヴァーミリオンのことを見ている。
「ねえ、聞いて。私、昨日よく考えてみたんだけど……」
イサミナが口を開いた途端、無駄話はぴたりと止まり、皆が彼女に注目した。
「悪魔に見える天使だと言っても、簡単に信じてもらえないでしょう? だから、国に申請する前に、天使としての実績を積もうと思って」
「天使としての実績?」
「つまり、彼――ヴァーミリオンに人助けをしてもらいます! 翼を白くはできないけど、消すことはできるんだって。ねえ、やってみて」
イサミナが言うと、彼は素直に翼を消してくれる。「おお!」という声が村人から上がった。
「まずは翼を消して人を助けるの。それから黒い翼を見せて、わざと悪魔の姿をしている天使だと言うのよ。まさか悪魔が人助けをするなんて思わないでしょうし、変わった天使がいるって、すぐに噂になるわ」
村人たちは「なるほど」と呟くが、ヴァーミリオンが難色を示す。
「人助けなんて、俺が素直に協力すると思うか?」
肝心の悪魔が渋っている様子に、村人たちの間に不安が広がる。そんな中、イサミナはわざと明るい声で言った。
「大丈夫、あなたは絶対に人助けしたくなるわ」
「ほう? それは一体、どういうからくりだ? ……楽しみにするとしよう」
興味深そうにヴァーミリオンが頷く。
「あと、誰か演技がうまい人いる? 手伝って欲しいの」
イサミナの問いかけに、男の村人が手を上げた。彼に協力をお願いすることにする。
「じゃあ、人助けに行きましょう! 村長、どこか困っている人がいそうな場所に心当たりはある?」
「困っている人がいそうな場所、か……」
唐突に話を振られてゼプは考えこむ。
「ここから南西に大きな街がある。無法者が支配する街で賭博が有名だ。そこになら、困っている人がいそうだ」
「いいわね! そこまで、どのくらいかかるの?」
「歩いて三日はかかる」
「三日となると、往復一週間は見ておいたほうがいいかしら。準備が大変ね」
水と食料、野営に備えて寝袋代わりの布も用意しなければ……と頭に描いたところで、ヴァーミリオンが口を挟んできた。
「面倒だ、俺が連れていってやる。行くのはイサミナと、そいつか」
彼は右手でイサミナの腰を抱き、左手で演技がうまいという男の服を掴んだ。黒い翼が広がり、次の瞬間、体が宙に浮く。
「……っ、すごい!」
しっかりと腰を抱かれているイサミナは安定感があったが、服を掴まれているだけの男はぶらぶらと体が揺れている。
「安心しろ、落とすようなへまはしない」
ヴァーミリオンはどんどん上昇していく。今まで見たことのない景色にイサミナは目を輝かせた。
「すごい、高い! 遠くまで見えるわ!」
「ひっ……高い、怖い……」
「怖いなら目を閉じていろ。すぐにつく」
意外と面倒見がいいのか、ヴァーミリオンが怯える村人に声をかける。
彼の翼が羽ばたき、南西の方角に進んでいった。風を切って進んでいく感覚にイサミナは目を細める。空気がひんやりとしていて気持ちいい。
実体がないはずの黒い翼は悠然と動いていた。村の近くでよくワシとタカが飛んでいるのを見かけるが、ヴァーミリオンの翼の動きはまるで鳥のようである。
そして、あっという間に目的の街についた。彼は姿を消す術を使っていたらしく、誰にも見られることなく地上に降りる。
そこでイサミナは村の男へ簡単に作戦を耳打ちし、彼と別れた。
「じゃあ、ヴァーミリオン。翼を隠して私についてきて」
「ああ、わかった。だが、お願いされたくらいじゃ人助けなんてしないぞ」
「それは大丈夫よ」
にこりとイサミナが微笑む。
街の中を歩き始めると、賭博で潤っているのかとても賑やかな雰囲気だった。街並みも綺麗で、イサミナの村とは雲泥の差だ。昼間からやっている立ち飲み酒場も多く、酔っ払いが沢山いる。
注意深く周囲を見回していたところ、気の弱そうな男が走ってくるのが見えた。
「待て、このヤロウ!」
「金を返せ!」
逃げる男を恰幅のいい男たちが追いかけている。金を返せと言うからには、借金取りに違いない。
見ていると、男はあっという間に捕まった。
「借りた金を返さないとは、どういうことだ!?」
「だ、だって、あんな利子、返せるはずがないだろう……」
「その条件で契約したのはお前だろう? ああっ?」
借金取りが男を怒鳴りつける。その様子を眺めていた街の人たちが、ぼそぼそと囁き合う。
「うわ……アイツ、あそこから金を借りたのか。悪徳高利貸しだって有名なのになあ……」
「奴隷として売り払われるぞ。ご愁傷様だな」
誰も彼も男に同情はすれど、助けるつもりはないようだ。この状況に、イサミナはこれだと思う。
「ヴァーミリオン。あの人を助けましょう」
「この俺が、かわいそうだからと助けると思うか?」
くだらないと言わんばかりに彼が眉をひそめる。しかし、イサミナは笑った。
「なにを言ってるの。どんな理由であれ、借りたお金を返さないほうが悪いのよ。ここであなたがあの人を助けたら、お金を貸した人は損をするわよね? あなたがするのは善良なる人助けじゃなく、借金を踏み倒すという悪行の手助けよ。それって、悪魔の好きなことでしょう?」
「……なるほど、助けるほうが悪だと言い張るのか」
「そうよ。悪魔らしく振る舞ったのに天使に見えるなんて、面白いわ」
イサミナの言葉に、ヴァーミリオンは鼻で笑う。
「最初だから、この程度でオマケしてやる」
彼はそう言うと、借金取りたちに近づいていった。イサミナはほっと胸を撫で下ろす。
(これから人助けのたびに理由を求められるでしょうけど、その難易度はどんどん高くなっていくはずだわ。だから、最初から全力で説得するわけにはいかない。まずはこのくらいで及第点といったところね。次はもっと別の切り口から攻めないと)
悪魔をそそのかす方法を脳裏に描きながら、動向を見守る。ヴァーミリオンは男たちの前に立ち、借金取りの肩を掴んだ。
「おい、そこまでにしてやれ」
「ああ?」
「なんだお前、部外者はすっこんでろ」
借金取りがヴァーミリオンを睨みつける。次の瞬間、彼らの大きな体は遠くまで飛んでいった。壁にぶつかり、「ぐふっ」と鈍い呻き声が聞こえる。
その光景を見ていた誰もが言葉を失った。なぜなら、それは普通の人間ができるような芸当ではなかったからだ。
「なんだ? なにが起きたんだ?」
ざわざわと騒ぎになり人が集まってくる。イサミナは地面に尻餅をついたままの気弱そうな男に歩み寄り、右手を差し伸べた。
――そう、聖女の痣があるほうの手を。
(さあ、私を見るのよ!)
思惑通り周囲がさらにざわつく。
「聖女?」
「ということは、あの男は天使か?」
気弱そうな男が、イサミナの手を取って立ち上がった。
「あ、ありがとうございます! ……もしかして、聖女様ですか?」
「ええ、そうよ」
イサミナはにこりと微笑みながら手の痣を見せつける。天使は偽物だが、この痣は本物の聖女の証だ。
「では、そちらのかたが天使様? でも、翼がないようですが……」
「ヴァーミリオン、翼を出して」
声をかけるとヴァーミリオンは消していた翼を出した。……漆黒の翼を。
「うわっ!」
「黒い翼だと!?」
「悪魔っ!?」
そこに集まっていた人たちが混乱に陥る。
「いいえ、違うわ。彼は天使よ。わざと悪魔の姿をとることで、自らを逆境に置いて修行をしているの」
イサミナは堂々と言った。だが、まだ周囲はざわついている。助けられた張本人である男も、ヴァーミリオンの黒い翼を見て怯えていた。
そんな中、人混みをかき分けてひとりの男が現れる。彼こそ、村から一緒に来た演技のうまい男だ。
「天使様! 先ほどは助けて頂きありがとうございました! 天使様のおかげで、母親の病気がよくなりました」
大声でそう言うと、彼は両膝を地面についてヴァーミリオンに頭を下げる。
「ありがとうございます! 本当にありがとうございます! なんとお礼を言っていいのか……」
その声は震えていて、彼が泣いているのがわかった。ここまでしてくれるとは思わず、イサミナはびっくりする。
(す、すごいわ! まさか、演技で泣けるなんて……!)
聖女の驚いた顔は、男の言葉へ余計に真実味を持たせた。
「畏まらなくていいわ。私たちにとって、困っている人を助けるのは当たり前のことだもの」
イサミナが優しく声をかける。すると、周囲に集まっていた人たちが呟き出した。
「まさか、本当に天使なのか……?」
「でも、あの痣は間違いなく聖女の証だ」
「悪魔が人助けをするはずがないし、天使なんじゃないか」
「わざと悪魔の格好をするなんて、そんな変わった天使がいるのか……?」
疑惑に満ちた空気から一転、天使だと信じ始めている。借金取りから助けられた男は、村の男と同じように、地面に膝をついて頭を下げた。
「あっ、ありがとうございます、天使様! 疑ってしまってすみません! 助けてくれたのだから、悪魔のはずがないですよね! 天使様のおかげで助かりました!」
ヴァーミリオンを天使だと信じきった声に、周囲の者たちも疑いを捨てた様子だ。
「天使……」
「変わった天使がいるんだな……」
そこに、村から連れてきた男が声を上げた。
「天使様! 母が、どうしても天使様にお礼を言いたいと……! お願いです、どうか一目だけでも母に会って頂けないでしょうか?」
「わかりました。行きましょう、ヴァーミリオン」
ヴァーミリオンはイサミナと男の肩を抱く。そして、先ほど同様に空高く舞い上がった。
「天使様ー!」
「天使様、万歳!」
地上からは天使を讃える声が聞こえる。村に戻る道でヴァーミリオンは言った。
「人間を騙すのは結構面白いじゃないか」
彼は金を貸した側の人間へ一方的に暴力を振るい、借金を踏み倒させたのだ。――これぞまさに、悪魔の所業である。
「でも、あの人をあそこに置いてきて大丈夫だったのか?」
見事な泣き真似を披露した村人が心配そうに訊ねてくる。
「天使が自ら手を出したのよ? 借金取りは諦めるはずよ。いくらなんでも天使の意向に刃向かうような真似はしないと思うわ……多分」
最後に「多分」と付け加えてしまうくらいには確証が持てないけれど、おそらくは大丈夫だろう。
こうして、初めての「悪魔の姿をしているけど本当は天使なんです」作戦は、無事に成功を収めた。
◆ ◆ ◆ ◆
村に帰り一部始終を話すと、わっという歓声が上がった。
「よくやった、イサミナ!」
「この調子でいけば、悪魔の姿をした天使の噂が広まりそうね!」
「お疲れ様! お腹空いてる?」
イサミナたちを労うためか、すでにごちそうが用意されていた。昨日、シーツを染めるのに使った鶏肉の料理もある。
「そ、そういえば、悪魔……いや、ヴァーミリオン様は、人間の食事を食べるのですか……?」
料理を担当した女性が恐る恐る声をかけてきた。ヴァーミリオンに直接聞くのが怖いのだろう、その視線はイサミナに向けられている。
「それは――」
昨日も今朝も、ヴァーミリオンは食事をいらないと言っていた。イサミナが代わりに答えようとするが、それより早く彼が口を開く。
「悪魔と人間は体の構造が違う。俺は食べなくても死なないが、食べることは好きだ。あの肉、旨そうだな。俺にも寄越せ。もたもたしてると殺すぞ」
「ひえっ」
殺すぞと脅された村人が慌てて肉を用意する。一方、イサミナは驚きながらヴァーミリオンを見た。
(今、食べるのが好きって言ったわよね。もしかして、今まではわざと食べなかったの……?)
それから、遠慮されたのだと気付く。
聖女として選ばれたものの、すぐにお金がもらえるわけではない。加えて女のひとり暮らしだ。
だから、イサミナの家にある食材は少なく、粗末なものだった。経済的な余裕がないことは一目でわかっただろう。
「食べることは好きだ」と言った彼は、イサミナの状況を考慮して食べないことを選択したのだ。
(実は優しいのかも……)
悪魔は人を惑わし、不幸をもたらす存在だと教えられていた。
しかし、今目の前にいる悪魔はそうは見えない。些細なきっかけで彼の気遣いを察知したイサミナは、ヴァーミリオンに対する印象が変わってしまった。
悪魔なんて見たことがないため、聖書や噂話の中での悪魔しか知らないけれど、実はそこまで酷い存在ではないのかもしれない。
もっとも、昨日ヴァーミリオンは飽きたら村人を殺すと言っていたし、今だって村人に対して殺すと脅していた。悪魔らしい残酷さは当然持っているだろうから、気を許してはいけない。
(それでも――)
ちらりと横目で見ると、ヴァーミリオンは用意された肉をおいしそうに食べていた。
その所作は、どこか品がある。彼の見目の美しさもあり、村娘が見惚れている様子がわかった。
「あ、あの、ヴァーミリオン様。お酒は飲みますか?」
「強いやつを寄越せ」
人間と同じように食べる彼を見て他の村人が声をかける。ヴァーミリオンは彼らを威圧しながらも、普通に受け答えしていた。時折「殺す」など物騒な言葉を吐くけれど、実際に暴力的な行動は取らない。
「悪魔だけど、そこまで怖くないのかも……!」
遠巻きにしつつも、そんなことを話している村人もいる。イサミナも同じ気持ちで彼を見つめていた。
宴のような食事のあと、イサミナは共同の浴場で体を清めてから自分の家へ帰った。外観はぼろぼろだが、扉を開くと室内は綺麗で、その差に慣れるには時間がかかりそうである。
ヴァーミリオンは魔力で出した立派なソファでくつろいでいた。
彼の黒い髪がしっとりと濡れているから、湯浴みを済ませてきたのだろう。村の共同浴場で入ったのか、それとも村から少し離れたところにある、人気のない温泉まで行ってきたのか。気になるけれど、わざわざ聞く話ではない。
「これ、できたわ。ちゃんと穿いてね」
イサミナはヴァーミリオンに白い布の束を手渡した。それは裁縫が得意な村娘にお願いして作ってもらった男性用の下着である。縫い終わったとのことで、先ほど渡されたのだ。
「めんどくさいな……。まあ、仕方ない」
文句を言いながらもヴァーミリオンは下着を受け取ってくれた。彼が下着をつけていないのが密かに気になっていたので、イサミナはほっとする。
そんな彼の横顔に疲労の色が見えた。
「疲れてる?」
「ああ。今日はそこそこ魔力を使ったからな。魔界ならともかく、地上で魔力を使うのは骨が折れる」
彼は今日、空を飛んだり借金取りを凄まじい力で突き飛ばしたりした。軽々とやってみせたが、実はかなりの労力を伴うのかもしれない。
「お疲れ様。そして、ありがとう。じゃあ、今日は早く寝て体を休めないと……」
素直に感謝の意を伝えると、彼が真剣な顔をしてイサミナを見つめてきた。
「お前に話しておくことがある」
「な、なに……?」
ただならぬ様子に緊張したイサミナはごくりと喉を鳴らす。
「先ほど、俺は食べなくても死なないと言った。お前も聞いていたよな?」
「ええ」
「召喚された悪魔は、人間とは違った食事をしなければ力尽きて死ぬ。俺は今日魔力を使ったが、それは人間の食べものを摂ったり、寝るだけでは回復しない」
「ええっ?」
イサミナは目を丸くした。
「なにが必要なの? それって高いもの? 私にも用意できそう?」
不安になって訊ねる。
彼を天使だと誤魔化す計画はもう始まっていた。今更彼に死なれてしまっては困る。
「心配するな。今のお前が用意できるものだ」
その回答にイサミナはほっと胸を撫で下ろす。
「そうなの……。じゃあ、それってなに? 私はなにを用意すればいいの?」
「生気だ」
「セイキ? ……って、えっ!? まさか性器?」
イサミナは咄嗟に自分の股間を押さえる。実に間抜けな格好になった彼女に、ヴァーミリオンが呆れながら言った。
「その性器ではなく……って、まったく無関係ではないが。とりあえず俺の隣に座れ」
「え? う、うん」
動揺しつつも、イサミナは言われた通り彼の横に腰を下ろす。
「悪魔が地上で生活するには、召喚者から生気をもらわなければならない。今から俺がすることに逆らうな。――これが悪魔にとって、本当の食事だ」
「ええ、わかっ……っ、んんっ!?」
頷いた途端、一気に距離を詰められて唇を重ねられた。イサミナは驚きのあまり硬直する。
薄い桃色の唇が覆われ、彼の肉厚な舌先でぺろりと舐められた。その感触に、ぞくりとしたものが背筋を走り抜けていく。
思わず顔を離そうとすると、頭をぐっと押さえつけられた。
「逃げるな」
低い声でそう言われて、容赦なく舌を口腔の奥までねじこまれる。
「んむっ、んんっ!」
ヴァーミリオンの舌は長く、あっという間に口内を全て探られてしまう。上顎を舐められた瞬間に軽い痺れが走り、ぴくりと肩を震わせると、彼はそこばかりを集中的に攻めてきた。
「はぁ……っ、ん、ぅ……っ」
彼がのしかかってきて、イサミナはソファに押し倒される。
長い舌が執拗に絡みついてくる。舌を擦り合わされると、なんとも言えない感覚が体の奥底からこみ上げてきた。
互いの唾液が混じり合い、くちゅくちゅという水音が耳に届く。頭がおかしくなりそうだ。
「ふぅん、は……んむっ」
イサミナは今まで男性と付き合ったことがない。よって、キスだって未経験だ。
口づけは唇を重ねる行為だという知識はあったものの、舌を絡め合うとは知らなかった。キスがこれほどまでに激しい行為だったなんて、と愕然とする。
息苦しくなったイサミナは無意識に舌を動かした。震える舌先が彼の舌を擦ると、それに応じるように激しく動かされる。
「んっ! んんっ!」
角度を変えながら、口づけは深く荒々しいものになっていった。
うまく呼吸ができなくなったところで、ようやく彼の唇が離れていく。唇から紡がれた糸が、ぷつりと切れた。
「はぁ、はぁ……」
涙目になりつつ、イサミナは新鮮な空気を吸いこむ。
「い、今のって……」
「食事だと言っただろう。こうしてお前の生気をもらっている。なかなか旨かったぞ。ちなみに、お前が気持ちよくなればなるほど味がよくなる」
「そうなのね……」
肩で息をする彼女は濡れた口元を拭った。
「お腹、いっぱいになった?」
「これだけじゃ足りない。もっと、先のこともする」
「え……」
先のことと言われて、ぴんときた。キスの先にあるものなんて、男女の契りしか考えられない。
「こうして触れ合うほど、俺の中に力が流れこんでくる。今日は力を使って疲れていたが、元気になってきた」
そう言って笑った彼は確かに元気そうだ。実体がないという翼も、心なしかつやつやして見える。しかし、イサミナの表情には影が落ちた。
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