いつかはまだ遠い青

宇土為名

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 今朝、起き抜けの立夏は、欠伸を噛み殺しながら俊臣にこう言った。
「おれさあ、今日バイトないの」
 立夏は週に五日バイトを入れている。土日のどちらかはもちろん、平日も殆ど遅く帰ってくる。
「新しい子が入って来たからあ、今日はシフト組み直す関係で休みんなってさあ」
 眠気の残る舌ったらずな声に、俊臣は朝食を食べる手を止めた。
 立夏がちゃんと食べて行けと早起きして作ってくれたハムエッグとトーストだ。それと甘いものが苦手な俊臣のために淹れてくれたインスタントのコーヒー。
「早く帰れるからさあ、久しぶりに夕飯一緒に食う?」
 眠そうに何度も欠伸を繰り返しながら、立夏は湯気の立つマグカップを手に俊臣の向かいに座った。
 ココアの甘い匂いが鼻をくすぐる。立夏もあまり甘いものは好まないが、朝だけは糖分を取らないと目が覚めないようで、昔からずっと同じものを飲んでいる。
 香りに誘われるように目を向けると、緩く伸びきったスウェットの首元が大きく開いていた。そこからすらりと伸びる首筋から俊臣はそれとなく視線を逸らした。
 マグカップを傾けて、立夏はこくりとひと口飲んだ。男にしては控えめな喉仏が上下に動く。
「あー…、どっか寄って帰ってくんならあれだけど」
 うん、と俊臣は頷いた。
「俺も用事ないよ」
「そう?」
「うん」
 立夏は俊臣の返事に首を縦に振りながら目を擦った。噛み殺した欠伸のせいか目尻にうっすらと涙が滲んでいる。窓から差し込む朝の陽に立夏の輪郭が淡く縁取られている。
「じゃあ、何か食いたいのあったらさあ、連絡して」
 そう言って眠そうな目で、立夏は少し冷めたトーストを齧った。
 それから立夏よりも先に俊臣はアパートを出て登校した。昼休みになるのを待ち、本庄に今日は行けないとメッセージを送った。返事を待たずに携帯を仕舞うのは、彼が今通っている高校が、前の学校と通信機器に関する校則が同じだからだ。放課後になるまで、つまり学校にいる間は待っていても連絡が来ることはない。
 本庄はもともと同じ高校に通っていたクラスメイトだった。親しくしていたが、彼の方が2ヶ月ほど早く今の高校に転校したのだ。
 毎日友人と塾の自習室に寄っているという俊臣の話を立夏は信じている。間違いではないけれど──嘘も言ってはいないけれど、それは事実の半分程だけで、俊臣は立夏にかすかな後ろめたさを感じていた。出来るなら立夏には話したほうがいいのだろう。でも、俊臣は彼には知って欲しくなかった。
 知らない方がいいことだってあるはずだ。
 授業が終わり終礼のチャイムが鳴ると同時に、俊臣は席を立った。すれ違うクラスメイトと挨拶を交わし、教室を出て廊下をいつもより早足で歩く。
 校門を抜けたとき、携帯が鳴った。
 本庄からだろうか。
 それとも立夏?
 何が食べたいかを連絡しろと言われていたのを思い出した。
 けれど表示されていたのは別の名前だった。
「……」
 俊臣は眉を顰めて画面を見つめる。
 このタイミングで?
『少し会えるかな?』
 早く帰りたい。でも面倒なのは、自分が今やっていることに彼女が必要ということだった。
 まだ、三沢遠亜と連絡を断つわけにはいかない。
「………」
 俊臣はため息をつきたいのを堪えて、返事を返した。
 そうして仕方なく会いに行った待ち合わせ場所で、俊臣は不意打ちのように彼女に抱きつかれてしまった。すぐに離れたが、彼女の香りが移ってしまったような気がして、俊臣は嫌だった。

***

 腕の中の立夏の体からは外の匂いがした。
 今帰ってきたばかりの清々しい空気を纏う。
 冷たくて、どこか優しい香りがする。
 肩口に顔を押し付けて深く俊臣は息を吸った。
 立夏の匂いだ。
「ちょっ…、なに、なっ…」
 ぴたりと密着した体から、立夏の鼓動が伝わってくる。
 驚いて身じろぐ体を、ぎゅっと俊臣は抱き寄せた。
 りつ、と呼びかける。
「俺変な匂いしない?」
「はあ?!」
 自分の髪から滴り落ちた水が、立夏の項にぽたりと落ちる。水滴は肌を辿り、服の間からすうっと背中に流れて行った。
 真っ赤な立夏の耳を食べてしまいたいと思う。
 このまま、その薄い皮膚をゆっくりと舐めて、歯を立てたい。
 本当は毎日早く帰っていたい。
 あんな女なんか、事情がなければ会いたくもない。
 好きなのは。
 俺が──好きなのは。
「もう、何言ってんだよ…っ」
 驚きと戸惑いが入り混じり、怒ったような顔で立夏は肩越しに俊臣を睨みつけた。
「…体冷えてる」
 はあ? と立夏は声を上げた。
「そりゃ今帰ったばっかだし…!」
「じゃあ、立夏も風呂入れば」
 なんでえ? と大声に変わる。
「おっ、おれは、──あとでいいのっ」
 離せよ、と俊臣の腕の中で立夏がもがいた。離れがたい欲求をどうにか押さえつけて、俊臣はゆっくりと立夏の体に回した腕から力を抜いた。
「あーもうっ、びしょびしょじゃんか…っ!」
 立夏の着ている服は俊臣が抱きついたために背中一面がぐっしょりと湿っていた。立夏は色の変わってしまったブルーグレーのトレーナーを素早く脱ぐと、俊臣の顔面目掛けて投げつけた。
「このバカっ! 今度やったらもう一緒に住まねえぞ!」
 真っ赤な顔で怒鳴り、Tシャツ一枚で立夏は脱衣所を出て行った。怒りに任せてバン、と激しく閉められたドアがその余韻に震えた。
「……」
 俊臣は片手で受け止めたトレーナーに目を落とした。
「…それは困るな」
 傍にいられなくなったら、何もかもが無駄になってしまう。
 呟いた俊臣は、ぐしゃぐしゃに丸まった立夏の服に──まだ温もりの残るそれに顔を埋めた。

***

 信じられない。
 あああ、もおおおおお…っ
 静まれ心臓。
 リビングに戻り、クローゼットから部屋着を引っ張り出して着た。服が肌に触れた瞬間、俊臣の体の感触を思い出してしまい、ぞく、と背中が震えた。
「あああ…」
 ぐしゃぐしゃと髪を掻きまわしてキッチンに向かった。とりあえず何かしないと落ち着かない。何かしてないと思い出してしまいそうだ。
 忘れろ、忘れろ。あれはただの悪ふざけだ。
 俊臣がふざけただけだから。
 火にかけたフライパンがパチ、と音を立てた。水気が残っていたのか、弾けた油がおれの手の甲に当たった。
「あっつ!」
 急いで水をかけて冷やす。冷たい水の中に手を入れていると、ざわついていた胸の奥が少し落ち着いてきた。
 これくらいで動揺してたらあと一年なんて持たない。
 しっかりしろ。
「ああもう…」
 俊臣と仮とはいえ家族になり、同居を始めてからもう六年になる。六年間同じ屋根の下で暮らしてきた。気持ちを自覚してからも、何事もなく暮らせていた。離れたいと思ったのは、ただ、おれが俊臣が誰かといるのを見ているのが辛いと思ったから。そして自分を、同じように好きになって欲しいと願うようになってしまったからだ。
 その気持ちさえ抑え込めれば、多分大丈夫だ。
 あいつが何考えてるか時々分からないけど。
「どうにかなる、大丈夫」
 頭を振って纏わりつく考えを追い出した。
 そう、きっと大丈夫だ。
 冷やした手をタオルで拭き、おれは買い物袋から食材を取り出した。夕飯を作ろう。俊臣が好きな鶏肉が安かったから、とりあえずこれを焼こう。
 熱いフライパンに皮から入れると、じゅう、といい音がした。
 油が跳ねないように急いで蓋をする。
「あ」
 蓋を取るときに傍にあった郵便物がばさっと床に落ちた。慌てて火を弱めにして拾い上げた。それは数日前に届いていた差出人のない封筒だった。
 そうだ。なんかばたばたしてて、開けるの忘れてたんだっけ。
 おれはフライパンの方を気にしながら、封を破った。
 逆さまにしてキッチンの作業台の上で振る。
「……え?」
 ぱさっと軽い音を立ててそこに落ちたのは、ぐちゃぐちゃに丸まったネクタイだった。
 その色には見覚えがある。
 濃い緑と紫の縞──おれの通っていた高校の制服と同じ柄だ。持ち上げると、それは真っ二つに切られていた。ちょうど半分のところで。
 なんで、こんなものが。
「な…、──」
 落ちている片方を空いている手で拾った。皺だらけのそれをそっと裏返す。
「──」
 制服なんてどこにだってある。
 どこもも似たようなものだ。
 ついこの間バスに乗り合わせた女の子たちのように。
 手に入れようと思えば、それこそ誰にだって手に入れられる。
 でも。
「…これ…」
 これは、おれのだ。
 裏返したそこにある刺繍は、おれの名前だ。
 機械ではなく手縫いだから、間違えるはずがない。
 K・R。本当ならR・Kと記さなければならないのを、英里さんが間違えてしまった。
『ごめーん! 出来上がってから気づいちゃった。朝までにやり直すから!』
『ええっ? いいよ英里さん、そんなのどっちだって』
 高校の入学式の前日の夜、そうやってふたりで笑った。
 これはおれのネクタイだ。
 卒業式のあとに、後輩に渡した──
「…りつ?」
 はっ、として振り返ると俊臣が部屋の入り口に立っていた。
 どく、どく、と心臓が大きく跳ねる。
 おれは咄嗟にネクタイを丸めて両手に握り込んだ。
「な、なに」
「焦げてる」
「え?」
「それ」
 俊臣がおれの横を指差した。
「えっ、わ、っ、うわっ!」
 フライパンに被せた蓋の隙間からもうもうと煙が上がっていた。
 まずい。
 おれは慌てて丸め込んだネクタイを無理矢理ズボンのポケットに押し込んで蓋を取った。
「あーもうっ! うそおおおっ」
 焼きつけた鶏肉の皮が真っ黒に焦げていた。
「うわ、どうしよ…」
 こんな失敗久しぶりだ。
 夕飯どうしよう。
 せっかく好きなもの食べさせようと思ったのに。
「…ごめん、なんか、おれ買ってくるわ…」
「りつ」
 ため息をつきながら箸で裏返していると、俊臣の声が後ろからした。振り返るよりも早く伸びてきた手が、おれの持っていた箸を取り上げた。
「──」
 強張ったおれの耳元で、大丈夫、と俊臣が言った。
「皮取れば食べられる」
「え…っ、と、でも」
 不意打ちに上手く言葉が出て来ない。
「味付ければ分からないから」
「こ…っ、焦げ臭い、かも」
「大丈夫」
 おれ越しに、俊臣はフライパンの中で器用に黒焦げになった皮を箸で取り除いていく。
「りつが作るのなら何でも美味いから」
「そ──」
 そういうことを、どうしてそんな顔で言うんだ。
 なんで。
 そんな何でもない顔で言えるんだよ。
「そんなの、分かんねえじゃん」
 俊臣から箸を奪い返して、腕の中から抜け出た。どうして今日はこうも距離が近いのか。狭い空間にふたりきりで、出来るだけ離れていたいのに、俊臣は気がつけばいつもそこに立っている。
 それが当たり前なんだろうけど──でも、おれには当たり前じゃなくて胸の中がざわざわする。
 もっと多くを望みそうで怖い。
 もっと、近くにいて欲しいと思ってしまいそうで怖い。
「いいからっ、もうあっち行って座ってろよ、邪魔!」
 シンクの下から調味料を取り出して言えば、俊臣はまだ半分濡れている前髪の隙間から、かすかに笑っていた。
「そこ片付けとけよ」
 俊臣がキッチンから離れるのを確認して、おれは声を掛ける。俊臣が見ていない隙を狙い、ポケットの中のものをキッチンの物入れに突っ込んだ。
 ここなら見つからない。
 俊臣は料理をしないし、用がなければキッチンに入らないし、大丈夫だ。
「……」
 誰が、これをここに送ったんだろう。
 分からないけれど、多分、後輩じゃないと思った。おれの後輩がこんなことをするとは思えない。
 だったら、誰が──
 二葉がペンを折られた中学のあの日、おれもまたペンを失くしていた。あのペンは結局見つからないまま、今も誰かが持っている。
 あのころの、あの纏わりつくような視線を思い出す。
「……また?」
 気づかれないように深くため息をついた。
 そうだとしても、俊臣には知られたくない。知られては駄目だ。
 余計な心配をさせるだけ。
 これまでと同じようにおれに何もしないなら、きっと大丈夫だと、おれは自分で自分の波打つ心に言い聞かせていた。
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