いつかはまだ遠い青

宇土為名

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 日曜日、いよいよ引っ越しの日が来週に迫ってきた。おれはアパートの中を片付けながら、とりあえず今使わない物から順番に広げた段ボールの中に荷物を詰めていく。
「ええと…? あー、これはもう要らないか…」
 独り言がBGM代わりにつけたテレビの音に紛れ込む。俊臣は昨日から荷造りのために一旦実家に戻っていた。今日の夕方また戻ってくるはずだ。
 まだ一年も住んでいないのに、部屋の中には自分の荷物が溢れかえっている。買った本に服、使わなくなった電化製品、ケーブルの切れたイヤホン、履きつぶした靴。要るものと要らないものに分け、さらにそれをごみ袋に入れていったら、殆ど残らないんじゃないだろうか。
 掃除はしてたはずなんだけどなあ。
「よいしょ」
 詰め込んだ箱を閉じて部屋の隅に積む。俊臣が使っている布団の横に置くと狭かった部屋がますます狭くなった。
 あと一週間、この狭い中にふたりでいるのか。
「……大丈夫なの、おれ」
 何の自信もない。俊臣はなぜかやたらとくっついてくるし──狭い上に図体がでかいからそれは仕方ないけれども、最近妙に距離が近いと感じるのはおれの願望がそう感じさせているだけなのか。
 どうしようもないな、おれ。
 ため息をついて散らかったリビングを見回した。こことクローゼットは大体終わった。あとは、キッチンか。
 一週間、なくても困らないようなものだけでも詰めておくかと、おれは畳んでいた段ボールを組み立てた。
『…の午後からは天気が崩れ、一時雨となるでしょう』
 雨?
 いつの間にかテレビ番組はニュースに変わっていた。女性アナウンサーが天気予報を告げている。
 外を見ると青空が広がっていた。
 雲ひとつない。
 こんなに天気がいいのに?
 夕方からバイトなんだけどな。
 シンクの下を開けて鍋を取り出した。とりあえず毎日使うものさえあればいいんだから、でかい鍋とかは要らない。こっちに来るとき家から持って来た鍋は結局ひとり分を作るには大きすぎて、今日まで一度も使うことがなかった。
「捨てるわけにもいかないしな」
 段ボールに鍋を入れ、梱包材で巻いた皿やコップをその中に詰めた。ひとりなのになんでこんなにものがあるんだか、自分で自分を呪いたくなる。食器類ももう纏めておこうと、おれは引き出しを開けた。足りなかったら、溜まっている割り箸を使えばいいんだし──
「──あ」
 勢い良く開けた途端、思わず声が出た。
 そうだった。
 ここに入れたんだった。
 普段あまり開けないそこには、おれが突っ込んだあのネクタイが入っていた。
「うわ、そっか、どうしよ…」
 おれは辺りを見回してどこかないかと探した。そのへんに捨てるわけにもいかない。俊臣の目に付かないところ──あいつが触らないところと言えば…
 おれはネクタイを取り出して、段ボールの鍋の中に押し込んだ。その上から纏めた食器類を入れる。これなら見つからないだろう。
「はあ…」
 …やっぱり二葉に聞くか。
 多分あいつは何か知ってる。
 だからこの間、あんなよく分からない時間に電話してきたんだろうし。
 携帯を手に取った。日曜日か。二葉は出るだろうか。
『…さて、明日からの一週間は日差しも暖かく、最高気温は一〇度と、比較的過ごしやすい日が続きそうです。今日は傘をお忘れなく。それではみなさん、良い一日を』
 テレビの中のアナウンサーがそう言って、にこやかな笑みを浮かべた。
『はい? 立夏あ?』
 何の用? と起きたばかりの声で二葉が言った。

***

 母親の英里が階段を上がってくる音がする。ドアをノックするのを数えて待つと、ちょうどそれに合わせるかのようにノックの音が響いた。
 としおみー、と間延びした声で呼ばれる。
「りっくんのところに戻るとき、これも持って行ける?」
「何?」
 振り返ると、英里は手に紙袋を持っていた。
「卒業アルバムだけど」
 先日高校から送られてきたものだと英里は言った。立夏がアルバムの送付先にと申請した住所は、実家のものだったのだろう。
「いいけど。でもそれ、別に置いておいてもよくない?」
「え、だってりっくんあんまり帰って来ないんだもん。それに、こういうのは手元にあったほうがいいんじゃない?」
「…分かった」
 受け取ると、開いたドアの向こうからテレビの声が漏れ聞こえてきた。階下のリビングで、立夏の父親の頼博がたまの休日をのんびりとしているのだろう。彼はワーカホリックと言うか、仕事熱心な人で休日でもあまり家にいたためしがない。だから幼いときの立夏は休日になるといつも英里に預けられていた。
 優しい人で愛情もあるが、それを表に出して表現するのが不器用な人だ。
「お茶淹れるから下りて来れば」
「ああ」
「頼博さんがねえ、昨日どら焼き買って来たから、戻る前に食べてって」
「うん」
 頷くと英里は嬉しそうに笑った。頼博のことをお義父さんと言わないのは、同居を始めた時からの決まり事だ。
 俊臣が籍を入れることを拒んだから。
「じゃあ早くね」
 英里はそう言ってドアを閉めた。
 俊臣は頼博が嫌いではない。むしろとても好きだし、仲も良い。籍を入れることを拒んだのは、もっと別の理由があったからだ。その理由を、俊臣ははじめにきちんと母親と頼博には伝えておいた。
 今となっては、彼らにどこまで本気にされたかは正直疑わしいものだ。
 片付けの手を止めて、俊臣は立ち上がった。部屋の中はすっかりものがなくなっている。あとは新しく住む家に送ってもらうだけだ。予定通り夕方には戻れるだろう。
 階段を下り、リビングに入ると、気づいた頼博がソファの上から笑顔を向けた。
「俊くん、これ面白いよ」
 テレビの画面には、お昼のバラエティー番組が映っている。普段テレビを見ることもない人だから、たまに家にいるとこういうものを見たがって可笑しい。
 俊臣はソファの背に手をついて軽く身を乗り出した。
「ほんとだ。何してるの、この人たち」
「追いかけっこしてるんだけど、入れ替わってバレないか試してるんだって。ほら、似てるよね」
 確かに画面に出ている二人はよく似ていた。
 頼博が今までの経緯を面白く解説してくれる。頷いていると、英里がキッチンから俊臣を呼んだ。
「そうそう、これもりっくんに持ってってね」
 ハガキを手渡される。それは往復ハガキで、宛名は立夏になっていた。何気なく裏返すとプリントされた文字が目に入った。
「中学の同窓会があるんだって。昨日届いたから、りっくんに渡しておいてね」
 お茶が入ったよ、と英里が言って頼博が立ち上がった。
 俊臣はもう一度ハガキに目を落とした。
 中学の同窓会。それはクラスではなく、立夏がいた学年全体のものだ。
 来月末の開催日。
 ハガキに記された締め切りは十日後になっていた。

***

 天気予報はしっかり当たってくれた。
「なんだよもう…」
 こんなときばっかり。
 しかも出掛けに降っていなかったせいで、おれはすっかり傘を持って来るのを忘れていた。
 二葉との電話が思いのほか長引いたのもその原因のひとつだ。
 会話を思い出して、はあ、とため息をついた。
 何なんだか…
「おい、結構降ってるぞ」
 外の廃棄物倉庫にゴミを捨てに行っていた吉沢が戻ってきた。ダウンジャケットの肩についた雨を払うが、すでに色が変わるほど濡れている。
 おれも吉沢も、もう私服に着替えていた。上がるまえにゴミ捨てに行くのがここの決まりだ。
 この行為に時給が発生しないのが変な感じだった。ゴミ捨ても立派な仕事なんじゃねえの?
「送ってこうか?」
 吉沢は友人に車で迎えに来てもらうようだった。帰り道は真逆だが頼めば大丈夫と言われて、おれは首を振った。
「いい。そこのコンビニで傘買うわ」
「遠慮しなくてもいいのに」
「…気持ちだけ貰っとく」
「はいはい」
 吉沢は苦笑して頷いた。おれがその迎えに来る吉沢の友人をちょっとばかり苦手としているのを知っているからだ。
「じゃあまたな」
「お疲れ」
 連絡が来るまで更衣室にいるという吉沢を残しておれは店の裏手から外に出た。ざあ、と降る雨の音に体中が包まれる。
「うわ、…」
 見えているコンビニの明かりを目指して走り出した。
 すぐそこだ。
「あ──神崎くん」
 視界の端に人影があった。
 振り向くと、橋本咲が傘を差して立っていた。
「橋本さん?」
 目を丸くしたおれに、たっ、と橋本咲は駆け寄ってきて持っていた傘を差しかけた。
「先に上がったんじゃなかったっけ?」
 彼女はおれよりも一時間早く入っていたので、上がる時間もそれに伴う。
「そうなんだけど。忘れ物して戻って来たから」
「そうなんだ」
「神崎くん、傘は?」
「忘れたからそこのコンビニで買おうと思って」
「…ああ」
 そっか、と気がついたように頷いた。
「神崎くん、よかったら近くまで一緒に入っていく?」
「え」
「傘家にあるんでしょう? 買うのもったいないんじゃない?」
「まあ、それはそうだけど」
 ね、そうしよう、と言われ断りづらくなっていると、不意に携帯が鳴った。
 気がつくともう、コンビニの前を通り過ぎていた。


「……」
 戻ってきたアパートの玄関先には立夏の傘があった。俊臣は濡れた傘をその横に立て掛けながら、鍵を開けて入った。
「ただいま」
 やっぱり立夏はいない。バイトだと言っていた。
 リビングは片付けられ、がらんとしていた。端の方に積まれた段ボール箱の中に、立夏が入れてしまったのだろう。
 俊臣は持っていた荷物を置き、冷え切った部屋を暖めようとエアコンのスイッチを押した。
 カーテンを開け放したままの窓の外では雨がひっきりなしに降っている。
 時計を見れば、そろそろバイトが終わる時間だった。
 きっと立夏は傘を持って行っていないだろう。出掛けに降っていなかったとしたら、忘れたに違いない。
 迎えに行こう。
 バイト先は聞いてある。
 俊臣は携帯を取り出して、立夏にメッセージを送った。


「迎えに来てくれるなんて、弟さん優しいね」
「ああ、うん」
 まあ、と曖昧に返すと、橋本咲はにこりと笑った。
 彼女から受け取った傘を、出来るだけそちらに傾ける。
 橋本咲が提案したように、おれは近くまで一緒に行くことにした。聞けば、彼女の住んでいるところは、おれのアパートからそう遠くない場所だった。
『私の家、**町だから』
 近いんじゃない? と言われて、おれは頷いた。たしかにとても近い。
 近いけれど、もしも全然違う方向だったら、彼女はどうするつもりだったんだろう?
「明日はやむといいね」
「うん」
 雨の中を、ふたりで淡々と会話を交わしながら歩いた。口数のそう多くない彼女との会話が出来るだけ途切れないように、おれは話し続けた。
 少し先に見えてきた信号をおれは指差した。
「あ──、そこの交差点」
 黄色の点滅信号がちかちかと瞬いている。俊臣が迎えに行くと送って来たメッセージに、おれはこの場所を指定していた。あまり土地勘のない俊臣でも分かりやすい場所だったし、この道が橋本咲の家との別れ道だった。彼女の言った住所は、この辺りだ。
「ねえ神崎くん」
 と、橋本咲が言った。
「遠亜ちゃんと最近会ってる?」
「え?」
 交差点の手前で彼女が立ち止まり、おれも足を止めた。
「最近は会ってないよ。連絡もないし」
 あれほど頻繁にあった電話やメッセージも全くなくなってしまった。
 そっか、と橋本咲は呟いた。
「遠亜ちゃん、最近他の人好きになったって言ってたけど」
 柴崎の言葉を思い出して、おれは苦笑した。
「かもね」
「その人、年下なんだって」
 そうなのか。
 それを聞いても何も感じない自分に、やっぱり遠亜を好きになれなかったのだと実感した。
 年下か。
 でもあの子は甘えたがりだから、年上とかのほうが似合ってる気がするけど。
「名前は、たしか──トシくん、だって」
 橋本咲が傘の下でゆっくりとおれを見上げた。
「誰かの弟らしいよ」
「…え?」
 交差点を車が通り過ぎた。
 立夏、と呼ばれて、おれは顔を上げた。交差点の向こうに俊臣が立っていた。
 誰かの弟?
「立夏…!」
 目が合った途端、俊臣が交差点を駆けて来ようとしたが、車の流れは途絶えなかった。
「あれ、弟さん?」
「……」
 よかったね、とにこりと笑う。
「じゃあまた、神崎くん」
 おれの手から傘を取って、橋本咲は走って行った。
 え?
 今の何?
 今の──
「立夏!」 
 我に返ると、真っ青な顔をした俊臣がおれの前に立っていた。
 きつく手首を掴まれて引き寄せられる。
 俊臣の手から落ちた傘が足下に転がった。







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