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近づきすぎて、ぼやけてぶつかる
第35話
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幸いにも慧さんのマンションは大手スーパーのネット宅配サーヴィス地域内で、僕と慧さんは翌日の早めの夕食までしか空腹を我慢せずに済んだ。
そして、この日からのちの休日は外食せずに僕が食事当番を務める事が多くなった。勿論、慧さんの手はいつまでも怪我したままじゃないので、旧いランクルでスーパーに買い出しにも行った。
ここまでくると流石に高校の生徒に見られることもあり、僕はいい気分じゃなかったけれど、少し経つともう、面倒臭いしいいか、くらいに思えるようになっていた。慧さんが職員会議での吊し上げを突っぱねたのが効いていたのだ。
僕自身にはどうすることも出来なくても、確たる庇護を得るということがどんなに心を(良くも悪くも)太くするのかと自分でも呆れてしまうが、それが事実だった。
まだ僕は自立できないから。だから慧さんともいられる――。
「飯は食えるんですかね?」
「あ、はい。スープを温め直すだけです」
少しボーッとしていた僕はテーブル上の小さな立体カレンダーの今日と明日、明後日の三連休の赤い文字に気を取られながら口先だけで答えた。慧さんは何やら文句を垂れている。
「日本人たる者、たまにゃあ味噌汁くらい味わいたいんですがねえ。刺身で一杯も……」
そのうち簡単な和食の指南雑誌でも買ってくるしかなさそうだ。食事と言えばコンビニか学食か冷凍食品をレンジで解凍するかが本来の僕のルーチンだった。野菜になった母親の彼氏が確実に帰ってこない日、つまり仲間内で地方競馬に行ったりすると、安心してキッチンを使えたので僕は説明を読めば理解可能な程度の食事を不機嫌な母親と摂っていたのだ。
そのレパートリーに和食は殆どなかった。母が好まなかったのである。自分磨きする女性と魚の塩焼きは相性が悪いらしい。ヘルシーだから良さそうだと思って作ったことがあったが、やたらと時間はかかるし母は待ち飽きて殆ど食べなかったし、後片付けは大変で、僕も懲りてしまったのである。
「ふん、スープはワンタンか。その、そそる匂いの物体は何だ、見せろ」
「今、蒸し焼きして……もういいかな。これです」
「おおっ、餃子って透、お前さんの手作りかい?」
「そこまではやりません。でも冷食で一番人気ですよ」
聞いているのか慧さんは既に大型冷蔵庫からビールのロング缶を取り出している。外国の銘柄のレモンの香りがする炭酸水の瓶も。僕は普通にミネラルウォーターか、いっそ水道水だって構いはしないのだけれど、
『俺が気分良く飲むためですよ、付き合いましょうや』
ということらしいので有難く栓を開けた。男二人で洗い物を増やさないのは不文律、瓶も缶も直接口を付ける。盛り付けも上手くいった大皿の餃子はネットで調べ、ちょっとしたコツで『羽付き』のカリカリに焼けている。
ワンタンスープもお手軽なパックで売っていた品で、とき卵とちぎった三つ葉を足した。
「あー、旨いわこれは。透、お前さん天才だぞ」
「餃子ひとくちにビール流し込んで『天才』ですか?」
「ひねくれてばかりじゃ、まともな大人になっちまいますよ」
「入社して初めてのゴールデンウィークが終わるタイミングで退職代行業者に依頼するんですね」
「そういうところなんですよ、俺が言ってるのは。まあ『見過ぎてきたツケ』だろうがな」
「今もその代表格が目の前にいますから」
口先でじゃれながらも男二人での食事は、幾ら簡単に作れたとはいえ消費が早すぎて僕は何だか拍子抜けする。それもいつものことで、美味しそうに食べる慧さんが見られただけでも良しとすることに決めていた。
食事の後は飲んでいるので運転できず慧さんも、街まで遠いので僕も出掛けないのが普通だ。
だからって家族団らんでもないとお互いに何となく線引きし合っているみたいに別の部屋にいる。慧さんは例の窓を割ったリビング。もう窓はちゃんと業者に入れ替えて貰っていた。
そして僕もひとつ開けた、自分の居場所と決めた部屋。
片やウィスキーと煙草、片や音楽かネットか本。
TⅤを視る習慣は僕にはない。のんびり眺めていたら後ろから蹴られること必至だったから。
でも慧さんはウィスキーと煙草だけで何を考えていたら、そんなに暇が潰れるんだろう?
そんな疑問を僕は頭の隅で転がしながら、それでもリビングにまで赴いて口先だけでじゃれ合うことまではしなかった。本当はしたかったけれど慧さんがずっと続けてきた生活を僕という闖入者が崩すことで、慧さんにとって悪い方に何かが変わってしまうのが怖かったのだ。
ガラスを割ったのは三回目と慧さんは言っていた。そのうち一回は僕が来てから。
何もかもを自分のせいにするほど僕は偉くない。――けれど。
慧さんの別人格・父親でもある幽霊の悠さんは、まるで僕に告げ口するかのようだった。そのために出てきたような感じがしたのは僕の木のせいかな。ううん、そうじゃないと思う。
試された気がした。こんな出自の奴なんだぞ、こいつはと。
唐突に笑いがこみ上げてきて僕は声を堪えるのに苦労する。殺された人が殺人未遂者にいったい何を言っているんだろう。そりゃあ急だったし知らなかったから悠さんの出現には恐怖を感じた。明らかに危ない人間と接したときの脳内でアラートが鳴り響いた。
でも、だから何なんだ?
そう思っていたけれど僕はこの後、酷く困る事になる。
悠さんが明らかに僕目当てに頻繁に出現するようになったのだ。
そして、この日からのちの休日は外食せずに僕が食事当番を務める事が多くなった。勿論、慧さんの手はいつまでも怪我したままじゃないので、旧いランクルでスーパーに買い出しにも行った。
ここまでくると流石に高校の生徒に見られることもあり、僕はいい気分じゃなかったけれど、少し経つともう、面倒臭いしいいか、くらいに思えるようになっていた。慧さんが職員会議での吊し上げを突っぱねたのが効いていたのだ。
僕自身にはどうすることも出来なくても、確たる庇護を得るということがどんなに心を(良くも悪くも)太くするのかと自分でも呆れてしまうが、それが事実だった。
まだ僕は自立できないから。だから慧さんともいられる――。
「飯は食えるんですかね?」
「あ、はい。スープを温め直すだけです」
少しボーッとしていた僕はテーブル上の小さな立体カレンダーの今日と明日、明後日の三連休の赤い文字に気を取られながら口先だけで答えた。慧さんは何やら文句を垂れている。
「日本人たる者、たまにゃあ味噌汁くらい味わいたいんですがねえ。刺身で一杯も……」
そのうち簡単な和食の指南雑誌でも買ってくるしかなさそうだ。食事と言えばコンビニか学食か冷凍食品をレンジで解凍するかが本来の僕のルーチンだった。野菜になった母親の彼氏が確実に帰ってこない日、つまり仲間内で地方競馬に行ったりすると、安心してキッチンを使えたので僕は説明を読めば理解可能な程度の食事を不機嫌な母親と摂っていたのだ。
そのレパートリーに和食は殆どなかった。母が好まなかったのである。自分磨きする女性と魚の塩焼きは相性が悪いらしい。ヘルシーだから良さそうだと思って作ったことがあったが、やたらと時間はかかるし母は待ち飽きて殆ど食べなかったし、後片付けは大変で、僕も懲りてしまったのである。
「ふん、スープはワンタンか。その、そそる匂いの物体は何だ、見せろ」
「今、蒸し焼きして……もういいかな。これです」
「おおっ、餃子って透、お前さんの手作りかい?」
「そこまではやりません。でも冷食で一番人気ですよ」
聞いているのか慧さんは既に大型冷蔵庫からビールのロング缶を取り出している。外国の銘柄のレモンの香りがする炭酸水の瓶も。僕は普通にミネラルウォーターか、いっそ水道水だって構いはしないのだけれど、
『俺が気分良く飲むためですよ、付き合いましょうや』
ということらしいので有難く栓を開けた。男二人で洗い物を増やさないのは不文律、瓶も缶も直接口を付ける。盛り付けも上手くいった大皿の餃子はネットで調べ、ちょっとしたコツで『羽付き』のカリカリに焼けている。
ワンタンスープもお手軽なパックで売っていた品で、とき卵とちぎった三つ葉を足した。
「あー、旨いわこれは。透、お前さん天才だぞ」
「餃子ひとくちにビール流し込んで『天才』ですか?」
「ひねくれてばかりじゃ、まともな大人になっちまいますよ」
「入社して初めてのゴールデンウィークが終わるタイミングで退職代行業者に依頼するんですね」
「そういうところなんですよ、俺が言ってるのは。まあ『見過ぎてきたツケ』だろうがな」
「今もその代表格が目の前にいますから」
口先でじゃれながらも男二人での食事は、幾ら簡単に作れたとはいえ消費が早すぎて僕は何だか拍子抜けする。それもいつものことで、美味しそうに食べる慧さんが見られただけでも良しとすることに決めていた。
食事の後は飲んでいるので運転できず慧さんも、街まで遠いので僕も出掛けないのが普通だ。
だからって家族団らんでもないとお互いに何となく線引きし合っているみたいに別の部屋にいる。慧さんは例の窓を割ったリビング。もう窓はちゃんと業者に入れ替えて貰っていた。
そして僕もひとつ開けた、自分の居場所と決めた部屋。
片やウィスキーと煙草、片や音楽かネットか本。
TⅤを視る習慣は僕にはない。のんびり眺めていたら後ろから蹴られること必至だったから。
でも慧さんはウィスキーと煙草だけで何を考えていたら、そんなに暇が潰れるんだろう?
そんな疑問を僕は頭の隅で転がしながら、それでもリビングにまで赴いて口先だけでじゃれ合うことまではしなかった。本当はしたかったけれど慧さんがずっと続けてきた生活を僕という闖入者が崩すことで、慧さんにとって悪い方に何かが変わってしまうのが怖かったのだ。
ガラスを割ったのは三回目と慧さんは言っていた。そのうち一回は僕が来てから。
何もかもを自分のせいにするほど僕は偉くない。――けれど。
慧さんの別人格・父親でもある幽霊の悠さんは、まるで僕に告げ口するかのようだった。そのために出てきたような感じがしたのは僕の木のせいかな。ううん、そうじゃないと思う。
試された気がした。こんな出自の奴なんだぞ、こいつはと。
唐突に笑いがこみ上げてきて僕は声を堪えるのに苦労する。殺された人が殺人未遂者にいったい何を言っているんだろう。そりゃあ急だったし知らなかったから悠さんの出現には恐怖を感じた。明らかに危ない人間と接したときの脳内でアラートが鳴り響いた。
でも、だから何なんだ?
そう思っていたけれど僕はこの後、酷く困る事になる。
悠さんが明らかに僕目当てに頻繁に出現するようになったのだ。
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