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49:嘘
しおりを挟む突然声を荒らげた雛子に誰もが驚き視線を向けてくる。支えるように腰に手を添えていた颯斗でさえこれには「雛子?」と様子を窺ってきた。
全員の視線が己に注がれる。そんな中、雛子は浅い呼吸を繰り返しながらビルの看板と周囲を交互に見やった。
夜になるとまだ涼しさを感じて過ごしやすいはずの季節、それなのに汗が出る。なのに手足が冷えていく。
「ち、違うの……。違うんです。あの、ただ、今日はここに入ってる会社と打ち合わせをしてただけなんです。だから、私、関係なくて……、それで……」
しどろもどろになりながら話す。心の中はもうぐちゃぐちゃで、知られたくないという思いと、そして会社の人達が出てこないでくれという願いが募っていく。
それと……、ふつふつと湧き上がる罪悪感、後ろめたさ。
また意識が靄掛かり始める。息苦しさに浅い呼吸を繰り返せば、察した颯斗が一度こちらを見て目を細め、ジャケットの裾を掴む雛子の手をぎゅっと強く握ってきた。暖かな大きな手。
次いで彼はいまだ話をしている集団へと向き直った。
「申し訳ありませんが、店を予約してるんです。時間が迫ってるので失礼します」
「予約……?」
「あぁ、そろそろ時間だから迎えに来たんだ。行こう、雛子。早くしないと席がキャンセルされる」
だから、と颯斗が急かしてくる。淡々とした口調、さも事実を語っているかのように自然な声色。
次いで彼は話を遮ってしまったことを集団に詫び、別れを告げてくる者達には穏やかに微笑んだ。その柔和な態度に女性達がまたも色めき立つ。
もっともそれを見ても雛子には何かを考える余裕はなく、告げられる別れの言葉に掠れた声で返し、手を引かれながらもその場を後にした。
お店の予約なんてしていない。
適当に歩いて良さそうなお店を見つけよう、そんな漠然とした予定だった。
(颯斗にまで嘘吐かせちゃった……)
何もかもすべてに対して罪悪感が増していき、鼻の奥がツンと痺れるように痛んだ。
◆◆◆
手を引かれるまま入ったのは、飲食店……ではなく、ラブホテル。といってもいかにもな施設ではなく、一見すると只の宿泊目的に思えるようなホテルだ。
今更ラブホテルに入ることに躊躇いはない。むしろ飲食店に入っても食事なんてする気分ではなく、前職の同僚達が偶然店に入ってくるんじゃないかと気が気ではなかっただろう。たまたま店で彼等と再会し、更にそこに今の職場の者達が居合わせて……、なんて事になりかねない。想像するだけで呼吸が苦しくなる。
それに比べれはラブホテルは完全な個室。誰も入ってこないし、ホテルの性質上チェックインやチェックアウトも他人と鉢合わせすることはない。
「一応食事も出来る」という颯斗の言い分に、雛子は力なく笑って返した。
「風呂いれたから入ってこいよ。体すげぇ冷えてるぞ」
「……うん」
「今はエロいこと抜きにして一緒に入りたいな」
溺れるとでも思っているのか心配してくる颯斗に、雛子は「さすがにそれは」と苦笑して返した。
……力ない笑い方だと自分でも分かっているけれど。
そうして入浴を済ませて浴室から出る。
体が温まったからか、それとも誰にも会うことのない個室だと再認識したからか、バスローブを纏って部屋に戻る頃にはだいぶ気分も落ち着いていた。冷えた体も体温を取り戻したのが分かる。
「お待たせ」
声を掛ければ、ソファに座ってテレビを見ていた颯斗がパッとこちらを見て立ち上がった。
「俺も入ってくるから、テレビでも見てゆっくりしてろよ」
「……アダルトチャンネル?」
「普通の地上波も見れる。馬鹿なこと言うな……、って言いたいところだけど、いつもの調子が戻りつつある証か」
「そりゃ入浴中に六回も『大丈夫か?』って聞かれれば調子も戻るわ。ここのお風呂が透けるタイプだったら絶対に監視してたでしょ」
雛子が反論すれば、それが元気な証と取ったのだろう颯斗が苦笑を浮かべる。
穏やかで優しい表情。そんな表情で見つめられれば入浴で温まった体に続いて心まで温かくなってくる。その温かさに促されるように、そっと彼の胸元に手を添えた。
「……颯斗、ありがとう」
「気にするなって。それより、せっかく温まったんだから体冷やすなよ?」
湯冷めの心配ではなく思い悩むなという事なのだろう。
雛子は素直にコクリと頷いて、浴室へと向かう彼を見届けた。
十五分程すると、入浴を終えた颯斗がバスローブを纏って部屋へと戻ってきた。
ソファに座っていた雛子の隣に腰掛け、用意されていた炭酸水を飲む。そんな彼を雛子はどうして良いのか分からず見守っていた。
その視線に気付いたのか、ちらとこちらを見た颯斗が眉尻を下げて笑った。大きな手をそっと伸ばして雛子の頬に触れてくる。包むように優しく。風呂上がりだからか、彼の手は普段にもまして温かい。
「無理に聞き出したりなんてしないから、そんな顔するなよ」
「……でも、私」
無理やりに聞き出されるのは辛い。
だけど話を聞いてもらいたいとも思う。
矛盾している、自分自身どうしていいのか分からない。そうたどたどしく訴えれば、頬に触れていた颯斗の手がゆっくりと撫でてきた。
密事に誘う時の動きとは違う、まるで子供や小動物を撫でるような優しい動き。そのうえ悪戯にむにっと頬を軽く摘まんだりもするのだからより子ども扱いされている気分になる。……だがそれは心地良く、なんて落ち着くのだろうか。
その感覚に促されるまま、雛子は「あのね……」と少しずつ過去を話しだした。
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