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11.女の思惑
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何考えてるんだ、あのクソガキは。
やはりここから逃げ出すつもりか。
自分の置かれた状況に何とか従おうとする?
それは些か買い被りすぎだったか。
廊下に出てスタスタと歩きながら、女が大学の成績がどうとか言っていたのをふと思い出した。
命より大学が大事か。
本当に変わっている。
しかし廊下にもトイレにも、平屋造りの離れ内にはどこにも気配すら見当たらない。
どこへ行った?!
仕方なしに離れの縁側から庭に出た。
黒い革靴が、くしゃりと湿った芝生の上を歩く。
庭は白く高い塀で囲まれていて、簡単には逃げ出せない。
庭にある物干し竿か何かで、正にアニメのような走り高跳びさながらの所業を成し遂げでもしない限り、突破は不可能である。
それに五条院家の庭は本家と離れの間に高い柊の木が何本も植えられていて、安易に行き来はできない。
従って正門には辿り着くことすら困難であるし、第一屋敷の者に見つからずに正門から出ることなどできるはずもない。
女に出来うる様々な手段を頭に浮かべながら立ち竦んでいると、不意に後ろからちゃぽんっと水音が聞こえて振り返った。
庭の中央には人一人が何とか立てる程の噴水がある。
その中で月光に照らされた長い艶掛かった黒髪が、静かに輝いていた。
思わずその姿に吸い込まれるように魅入った。
確かに元々整った綺麗で清楚な顔立ちではあったが、その時の女の姿は、そうではなくもっと儚げで脆い本当にそこに在るのかさえも分からない、そんな今にも消え入りそうな美しさ。
それはまるで真昼の朧月のような。
びしょ濡れになった薄く白い浴衣が、滑らかな肌にぺったりと張り付き、その特別大きいとも言えない膨らみの淡いピンク色の尖端が透けていた。
つんと上を向いたその形も、下のその薄い茂みまでもが分かる程、全身が濡れているのが分かる。
イヤらしさや、そんな安い邪な感情など込み上げてはこない。
ただ純粋に美しい、生まれて初めてそう素直に思った。
ここには俺以外にも男がうろうろしているというのに、何を考えているんだと無意識に言ってしまいそうになって、はたと我に返った。
別にこの女は俺の所有物でも獲物でもない。
この女がどんな醜態を晒そうが、他の男に変な目で見られようが知ったことではない。
風俗に売り飛ばされようが構わない。
しかし…
今確かに一瞬この女の美しさに、動くことさえままならなかった。
「何をしている」
歩み寄りその細い肩をぐいと掴んだ。
振り返った女の大きな瞳からは大量の涙が溢れ、流れ出している。
その目にジッと見つめられて、ギクリと激しく胸が鳴った。
泣いていた…?
思わず女から手を離して、ぐっと握り締めた拳を下に下ろした。
タフなんかではない。
中身はやはり普通のどこにでもいる女子大生。
辛くないわけなどないのだ。
ポタポタと少女の濡れた髪から雫が落ちては、既に湿ってしまっている浴衣に染み込んでゆく。
「…少しなら庭も散歩していいかと思っただけで…ダメ…?」
俯きかげんで女が静かに呟いた。
「いいわけないだろう、本当に殺されたいのか?そもそも散歩していて何で噴水になんか入る?!」
女がぐったりと項垂れた。
「水面に月が映ってて、それがとても綺麗だったから…つい私も入りたくなって…」
つい言葉を失ってしまう。
それはつまりその身を清めたかったと、捉えるべきなのだろうか。
そこまで卑下されても、女を責める気になれないのは、やはりどこかこの心の隅に潜む女に対する後ろめたさが関係しているのかもしれない。
それに皮肉だが、その気持ちが分からないではない。
俺も初めて人を殺めた瞬間から、この穢れた手を幾度も洗い流してしまいたいと思ってきた。
しかし、この女の中の“穢れ”は俺なのだ。
「死にたければ部屋で死んでくれ」
「死にたいわけじゃない…」
俯いたまま女がまたぽつりと呟いた。
とりあえずスーツの上着を女にバサリと掛けてやってから抱き上げると、離れの浴室に放り込んだ。
「とにかく着替えてから部屋に戻れ」
脱衣所に新しい浴衣を用意してから、先に部屋へと戻る。
よく分からない動悸を抱えたままシャツを脱ぎ捨て、ベルトを緩めるとバタっと仰向けにベッドに倒れ込んだ。
自分の感情がまるで理解できない。
理屈のない想いなど、これまで抱いたことがなかった。
俺は、さっきまであの女を憂さ晴らしの道具にでもできれば、好都合だとしか思っていなかったはずである。
しばらくして女が部屋に戻って来ると、俺は女とは反対側を向いて布団に入り横になった。
「ごめんなさい。もうこんなことしません」
女がベッドの脇に立ってしょぼんと俯き、無言の背中にぼそりと謝った。
答える言葉が見つからない。
「もう寝ろ」
そう言われておずおずとベッドに入り込み、背中を向けた俺の方に女が顔を向け布団に納まる。
さすがに背中の視線が痛い。
「何だ」
溜め息混じりにそう聞くと、女が信じられない言葉を吐いた。
「…今日は…しないんですか…?」
たった今その身を清めて死にたいとすら思っていたんじゃないのか。
と口まで出掛かったが何とかそれは留めた。
「昨日今日と、昼間一人でひたすら勉強していていろんなことを考えてしまって。でも考えれば考えるほど段々私の生きてる理由がよく分からなくなってきて…」
女の指が、そっと目の前の広い背中に触れる。
細く冷たい女の指の感触に、人知れずびくんと肩が跳ねた。
「警察官も大学もサークルさえも奪われて、私は何のために生きているんだろうって。是匡って人のことも知らないし、彼と結婚するのは私の意志じゃない。それで安らぎや幸せを得られるのかなって思う。ねえ、その先には何があると思う…?」
女の声が震えた。
「でも私にもう選択肢は他にないんでしょ?」
「そうだ」
ただそう口にするしかできなかった。
「恐い…。会ったこともない未来の夫に気に入られるためだけに、あなたに身体を曝け出す、今私が“ここ”にいるその理由さえも失くしてしまったら、本当に私という人間すら消えてなくなってしまいそうで…恐くなってきてる…」
自分が“ここ”に存在する理由ー。
その言葉に思わず女を振り返った。
この女は同じなのかもしれない。
どうやっても埋まらない孤独と不安に、今押し潰されそうになっている。
ふと寝返りを打つと、女に覆い被さって見つめた。
怯えるような濡れた瞳が真っ直ぐにこちらを見据えた。
好きでもない女を抱いて、醜い憂さを晴らせるのは男だけに与えられた狡い逃げ道なのかもしれない。
この女にはそんな汚い逃げ道など、どこにもないのだ。
その女がまるで誘うかのように仰向けになり、そのまま自然に自ら脚を開いた。
「もう怒られるようなことはしないって約束するから、だから…いつもみたいに私を抱いて。早く慣れるから…それが私の今すべきことで、できることなんでしょ?」
消え入りそうな声でそう囁かれ、誘い込まれてしまうと、また無意識にぞくりと背筋が疼いた。
さっき庭で見た美しい女の姿が脳裏を過ぎる。
もう完全に狂ってしまっているな。
そう思った。
こんなはずではないのに、この女には心を動かされそうになる瞬間がある。
ふとのめり込みそうになる。
誘われるがまま女の羽織っている浴衣に手を這わせ、そのまま身体をぐぐっと進めると女はそのままいつものように拒絶することもなく、少し苦しげに顔を歪めながら俺を受け入れた。
「…っあ………」
言葉はない。
苦しげな喘ぎと荒い呼吸、そして熱い吐息だけが二人の間を交錯する。
「あっ…っん…んっ…」
その喘ぎを遮るように、まだ拙い唇を捉えて舌を絡ませた。
自分から誘ったものの慣れない腟内の苦しさと切なさが快楽と相まって、静かに腰を落としてはいられないのだろう。
その身を突き上げる度にその細い腰が浮き、足の爪先がベッドに沈み込む。
「はっ…っ……ぁ…っあァ…んっ…んぅ」
女が首に腕を回して、もう一度キスをねだった。
ただ互いを求めるがまま、それぞれに抱えた孤独と絶望と底のない不安を溶かすように抱き合う。
深い深淵に快楽とともに堕ちていく。
短期間にもう幾度も抱いてきたが、初めてこの女を抱くのに理由などいらない気がした。
しかしその女のこの瞳を安易に信用し、その胸の本心をその時見抜けなかったのは、慣れない他人との共同生活からくる疲れと狂ってしまったこの精神のせいだろう。
はたまた女にアテられた妖艶さの力なのか。
翌日、この飼い女に情けと、ほんの少しの愛しささえ抱いてしまったことを、俺は深く後悔することとなった。
この女に同情やそれ以外の甘い感情は、一切必要なかったのかもしれない。
やっぱり女とは図々しくてこの世で最も強かな生き物に違いない。
綿密に仕組まれていた運命の歯車が、少しずつ静かに狂い始めた。
やはりここから逃げ出すつもりか。
自分の置かれた状況に何とか従おうとする?
それは些か買い被りすぎだったか。
廊下に出てスタスタと歩きながら、女が大学の成績がどうとか言っていたのをふと思い出した。
命より大学が大事か。
本当に変わっている。
しかし廊下にもトイレにも、平屋造りの離れ内にはどこにも気配すら見当たらない。
どこへ行った?!
仕方なしに離れの縁側から庭に出た。
黒い革靴が、くしゃりと湿った芝生の上を歩く。
庭は白く高い塀で囲まれていて、簡単には逃げ出せない。
庭にある物干し竿か何かで、正にアニメのような走り高跳びさながらの所業を成し遂げでもしない限り、突破は不可能である。
それに五条院家の庭は本家と離れの間に高い柊の木が何本も植えられていて、安易に行き来はできない。
従って正門には辿り着くことすら困難であるし、第一屋敷の者に見つからずに正門から出ることなどできるはずもない。
女に出来うる様々な手段を頭に浮かべながら立ち竦んでいると、不意に後ろからちゃぽんっと水音が聞こえて振り返った。
庭の中央には人一人が何とか立てる程の噴水がある。
その中で月光に照らされた長い艶掛かった黒髪が、静かに輝いていた。
思わずその姿に吸い込まれるように魅入った。
確かに元々整った綺麗で清楚な顔立ちではあったが、その時の女の姿は、そうではなくもっと儚げで脆い本当にそこに在るのかさえも分からない、そんな今にも消え入りそうな美しさ。
それはまるで真昼の朧月のような。
びしょ濡れになった薄く白い浴衣が、滑らかな肌にぺったりと張り付き、その特別大きいとも言えない膨らみの淡いピンク色の尖端が透けていた。
つんと上を向いたその形も、下のその薄い茂みまでもが分かる程、全身が濡れているのが分かる。
イヤらしさや、そんな安い邪な感情など込み上げてはこない。
ただ純粋に美しい、生まれて初めてそう素直に思った。
ここには俺以外にも男がうろうろしているというのに、何を考えているんだと無意識に言ってしまいそうになって、はたと我に返った。
別にこの女は俺の所有物でも獲物でもない。
この女がどんな醜態を晒そうが、他の男に変な目で見られようが知ったことではない。
風俗に売り飛ばされようが構わない。
しかし…
今確かに一瞬この女の美しさに、動くことさえままならなかった。
「何をしている」
歩み寄りその細い肩をぐいと掴んだ。
振り返った女の大きな瞳からは大量の涙が溢れ、流れ出している。
その目にジッと見つめられて、ギクリと激しく胸が鳴った。
泣いていた…?
思わず女から手を離して、ぐっと握り締めた拳を下に下ろした。
タフなんかではない。
中身はやはり普通のどこにでもいる女子大生。
辛くないわけなどないのだ。
ポタポタと少女の濡れた髪から雫が落ちては、既に湿ってしまっている浴衣に染み込んでゆく。
「…少しなら庭も散歩していいかと思っただけで…ダメ…?」
俯きかげんで女が静かに呟いた。
「いいわけないだろう、本当に殺されたいのか?そもそも散歩していて何で噴水になんか入る?!」
女がぐったりと項垂れた。
「水面に月が映ってて、それがとても綺麗だったから…つい私も入りたくなって…」
つい言葉を失ってしまう。
それはつまりその身を清めたかったと、捉えるべきなのだろうか。
そこまで卑下されても、女を責める気になれないのは、やはりどこかこの心の隅に潜む女に対する後ろめたさが関係しているのかもしれない。
それに皮肉だが、その気持ちが分からないではない。
俺も初めて人を殺めた瞬間から、この穢れた手を幾度も洗い流してしまいたいと思ってきた。
しかし、この女の中の“穢れ”は俺なのだ。
「死にたければ部屋で死んでくれ」
「死にたいわけじゃない…」
俯いたまま女がまたぽつりと呟いた。
とりあえずスーツの上着を女にバサリと掛けてやってから抱き上げると、離れの浴室に放り込んだ。
「とにかく着替えてから部屋に戻れ」
脱衣所に新しい浴衣を用意してから、先に部屋へと戻る。
よく分からない動悸を抱えたままシャツを脱ぎ捨て、ベルトを緩めるとバタっと仰向けにベッドに倒れ込んだ。
自分の感情がまるで理解できない。
理屈のない想いなど、これまで抱いたことがなかった。
俺は、さっきまであの女を憂さ晴らしの道具にでもできれば、好都合だとしか思っていなかったはずである。
しばらくして女が部屋に戻って来ると、俺は女とは反対側を向いて布団に入り横になった。
「ごめんなさい。もうこんなことしません」
女がベッドの脇に立ってしょぼんと俯き、無言の背中にぼそりと謝った。
答える言葉が見つからない。
「もう寝ろ」
そう言われておずおずとベッドに入り込み、背中を向けた俺の方に女が顔を向け布団に納まる。
さすがに背中の視線が痛い。
「何だ」
溜め息混じりにそう聞くと、女が信じられない言葉を吐いた。
「…今日は…しないんですか…?」
たった今その身を清めて死にたいとすら思っていたんじゃないのか。
と口まで出掛かったが何とかそれは留めた。
「昨日今日と、昼間一人でひたすら勉強していていろんなことを考えてしまって。でも考えれば考えるほど段々私の生きてる理由がよく分からなくなってきて…」
女の指が、そっと目の前の広い背中に触れる。
細く冷たい女の指の感触に、人知れずびくんと肩が跳ねた。
「警察官も大学もサークルさえも奪われて、私は何のために生きているんだろうって。是匡って人のことも知らないし、彼と結婚するのは私の意志じゃない。それで安らぎや幸せを得られるのかなって思う。ねえ、その先には何があると思う…?」
女の声が震えた。
「でも私にもう選択肢は他にないんでしょ?」
「そうだ」
ただそう口にするしかできなかった。
「恐い…。会ったこともない未来の夫に気に入られるためだけに、あなたに身体を曝け出す、今私が“ここ”にいるその理由さえも失くしてしまったら、本当に私という人間すら消えてなくなってしまいそうで…恐くなってきてる…」
自分が“ここ”に存在する理由ー。
その言葉に思わず女を振り返った。
この女は同じなのかもしれない。
どうやっても埋まらない孤独と不安に、今押し潰されそうになっている。
ふと寝返りを打つと、女に覆い被さって見つめた。
怯えるような濡れた瞳が真っ直ぐにこちらを見据えた。
好きでもない女を抱いて、醜い憂さを晴らせるのは男だけに与えられた狡い逃げ道なのかもしれない。
この女にはそんな汚い逃げ道など、どこにもないのだ。
その女がまるで誘うかのように仰向けになり、そのまま自然に自ら脚を開いた。
「もう怒られるようなことはしないって約束するから、だから…いつもみたいに私を抱いて。早く慣れるから…それが私の今すべきことで、できることなんでしょ?」
消え入りそうな声でそう囁かれ、誘い込まれてしまうと、また無意識にぞくりと背筋が疼いた。
さっき庭で見た美しい女の姿が脳裏を過ぎる。
もう完全に狂ってしまっているな。
そう思った。
こんなはずではないのに、この女には心を動かされそうになる瞬間がある。
ふとのめり込みそうになる。
誘われるがまま女の羽織っている浴衣に手を這わせ、そのまま身体をぐぐっと進めると女はそのままいつものように拒絶することもなく、少し苦しげに顔を歪めながら俺を受け入れた。
「…っあ………」
言葉はない。
苦しげな喘ぎと荒い呼吸、そして熱い吐息だけが二人の間を交錯する。
「あっ…っん…んっ…」
その喘ぎを遮るように、まだ拙い唇を捉えて舌を絡ませた。
自分から誘ったものの慣れない腟内の苦しさと切なさが快楽と相まって、静かに腰を落としてはいられないのだろう。
その身を突き上げる度にその細い腰が浮き、足の爪先がベッドに沈み込む。
「はっ…っ……ぁ…っあァ…んっ…んぅ」
女が首に腕を回して、もう一度キスをねだった。
ただ互いを求めるがまま、それぞれに抱えた孤独と絶望と底のない不安を溶かすように抱き合う。
深い深淵に快楽とともに堕ちていく。
短期間にもう幾度も抱いてきたが、初めてこの女を抱くのに理由などいらない気がした。
しかしその女のこの瞳を安易に信用し、その胸の本心をその時見抜けなかったのは、慣れない他人との共同生活からくる疲れと狂ってしまったこの精神のせいだろう。
はたまた女にアテられた妖艶さの力なのか。
翌日、この飼い女に情けと、ほんの少しの愛しささえ抱いてしまったことを、俺は深く後悔することとなった。
この女に同情やそれ以外の甘い感情は、一切必要なかったのかもしれない。
やっぱり女とは図々しくてこの世で最も強かな生き物に違いない。
綿密に仕組まれていた運命の歯車が、少しずつ静かに狂い始めた。
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