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それからさらに数年の月日が経った頃。
ルークは、もはや少年から青年と呼ぶのにふさわしい年齢となっていた。
「天使様。今日も参りました」
ルークはそう言って、ゆったりと進み祭壇の前で立ち止まる。
祭壇の前に佇んでいた僕は、ルークと目が合ったような気がして、一瞬ドキリとしてしまう。
青年になったルークは、程良く筋肉の付いた身体に端正な顔立ちが相まって、彫刻のように完成された美しさがあった。
僕がその姿に見蕩れていると、ルークはその場で両膝をつき、自らの手を重ねる。
そして僕はその時に初めて、彼の左手に包帯が巻かれていることに気付く。包帯から大きく滲んだ血が、そのケガの痛みを物語っていた。
――ルークは、ある時期から本格的に剣の鍛錬をし始めた。
彼が言うには、国一番の剣士の弟子になったのだという。
それから教会に訪れるのは夜中になり、よほど厳しい鍛錬をしているのか、こうしてケガをしている姿を見るのも珍しいことではなかった。
僕はルークと同じように両膝をつき、包帯が巻かれた手をそっと撫でる。実際には触れられなくても、勝手に身体が動いていた。
『ルーク。毎日こんなに辛い鍛錬をしてるのに……どうして今でも来てくれるの?』
美しい容姿に加えて勉学や剣術を極めたルークは、今では多くの人々から称賛を浴びているはずだ。もう僕という存在に縋る必要なんてない。
『お願いだから、僕のことなんて忘れてよ』
僕は懇願するように呟く。
――限界だった。ルークを見るたびに、僕の中で抱いてはいけない感情が、段々と膨れ上がっていくのを感じていたから。
願わくば、ルークのことをいつまでも見ていたいという気持ち。これ以上大きくなれば、取り返しのつかないことになるという感覚があった。
だからこそ、まだ引き返せるうちに僕を忘れてほしい。そして、天使という存在に縛り付けられた彼を、解放してあげたいのだ。
じっと見つめる僕に応えるように、ルークはゆっくりと話し始める。
「天使様。俺、ようやく自分の成すべきことがわかったんです。
そのために、もっと強くて、国の誰もが認めるような存在になってみせますから。
だからこれからもずーっと、この教会に居て、俺のこと見ててくださいね。
……今も、きっと側で聞いてくれているんでしょう?」
ルークは、甘く蕩けるような笑みを浮かべてみせた。その声色には悲壮感はなく、どこか晴れやかさを感じさせる。
僕が目の前にいることを心の底から信じている……いや、盲信しているともいえる様子に、ぞくりとする。
それはもはや純粋に会いたいという気持ちではなく、絡みつくような執着に見えた。
『ルーク……』
まさかルークは、一生このままなんじゃないか。
そんな考えが脳裏をよぎり、絞り出した声は掠れていた。
――しかし、僕の予想を裏切るように……ルークとの別離は、存外あっけなく訪れるのだった。
それは出会った時のように、身震いするほど冷たい雨の日。
ちょうど空が白み始めた頃に、ルークは教会へやってきた。
「今日に限って雨だなんて……俺もついてないな」
ルークは中に入ると、髪についた水滴を軽く払いながら呟いた。
僕はそんな彼の姿に、思わず目を疑う。普段は夜中に足を運ぶルークが、こんな時間帯に来るなんて初めてのことだった。
彼の出で立ちも普段とは異なっており、黒いブーツにマントを羽織り、腰には長剣を携えている。
ルークは祭壇の前に進むと、今日は祈ることはせず、僕に向かってはっきりとした口調で告げた。
「こんな朝早くにごめんなさい、天使様。実は、ご報告があって来ました」
『……報告?』
「――実は俺、魔王討伐の旅に出ることになったんです」
ほんの一瞬、息が止まる。
魔王討伐? ルークが鍛錬に明け暮れているのは知っていたが、まさかそんなことを……?
魔王討伐なんて、人間が本気でやっていたのは、魔王が誕生してすぐの話だ。
その時に何人もの勇者が派遣されたが、あえなく返り討ちにされ、人間は魔王に叶わないことを身をもって体感していた。
まさかルークがそれを知らないはずがない。信じられず呆然とする僕をよそに、ルークは話を続ける。
「天使様、まさか俺がって驚いてますか? 意外かもしれませんけど、自分から志願したんですよ。
剣術の腕が認められて、国から正式に勇者として行くことになりました。今日の昼から王都を出発する予定なんです。だから行く前に……あなたに伝えたくて」
ルークはさわやかな笑顔で言う。その表情には魔王への恐怖や怯えは一切感じられなかった。
――僕は、ルークから告げられた言葉を思い返していた。
「ようやく自分の成すべきことがわかった」と言っていたのは、もしかしたらこのことだったのか。
誰よりも強くなって、魔王を討伐し、人々を救いたい。
ルークはいつからか、そう考えるようになっていたのかもしれない。
少し前までのルークに、計り知れない執着を感じてしまった自分が、途端に恥ずかしくなった。
きっとそれは、僕の思い違いだったんだろう。
「魔王を討伐したら、またここに来て、あなたに会いに行きます。
時間はかかってしまうかもしれないけど……絶対に待っててくださいね」
その圧倒的な自信は、彼の培ってきた努力から生まれたものなのだろうか。
正直言って心配で仕方なかった。もしかしたら、命を落としてしまうかもしれないのだから。
……できることなら、ここで平和に過ごしていてほしい。
英雄にならなくても、脅かされることのない、ささやかな幸せを掴んでほしかった。
僕は涙を堪えながら、ルークをじっと見つめ、そして気が付く。
ルークの瞳の奥に、以前見た暗く沈んだ色合いではなく、輝きが宿っていることを。
――きっと魔王を打ち倒し人々を救うことが、ルークの新しい「生きる意味」なのだ。
そう確信して、どこか胸のつかえがとれたような気がした。
僕と再び会うことではなく、たとえ困難だったとしても、実現の可能性がある未来を選んでくれたのだ。
『ルーク。君なら必ず出来るよ』
もう僕には、加護を与える力はない。それでも、いつもルークがしてくれたように――両手を組み、出来る限りの祈りを捧げる。
僕の祈りが届いたのだろうか。
ルークはどこか幸せそうに笑って、明るく告げた。
「天使様。それでは、行ってきます」
――そしてルークはその言葉を残し、雨の降りしきる中、旅へ出た。
それからさらに数年の月日が経った頃。
ルークは、もはや少年から青年と呼ぶのにふさわしい年齢となっていた。
「天使様。今日も参りました」
ルークはそう言って、ゆったりと進み祭壇の前で立ち止まる。
祭壇の前に佇んでいた僕は、ルークと目が合ったような気がして、一瞬ドキリとしてしまう。
青年になったルークは、程良く筋肉の付いた身体に端正な顔立ちが相まって、彫刻のように完成された美しさがあった。
僕がその姿に見蕩れていると、ルークはその場で両膝をつき、自らの手を重ねる。
そして僕はその時に初めて、彼の左手に包帯が巻かれていることに気付く。包帯から大きく滲んだ血が、そのケガの痛みを物語っていた。
――ルークは、ある時期から本格的に剣の鍛錬をし始めた。
彼が言うには、国一番の剣士の弟子になったのだという。
それから教会に訪れるのは夜中になり、よほど厳しい鍛錬をしているのか、こうしてケガをしている姿を見るのも珍しいことではなかった。
僕はルークと同じように両膝をつき、包帯が巻かれた手をそっと撫でる。実際には触れられなくても、勝手に身体が動いていた。
『ルーク。毎日こんなに辛い鍛錬をしてるのに……どうして今でも来てくれるの?』
美しい容姿に加えて勉学や剣術を極めたルークは、今では多くの人々から称賛を浴びているはずだ。もう僕という存在に縋る必要なんてない。
『お願いだから、僕のことなんて忘れてよ』
僕は懇願するように呟く。
――限界だった。ルークを見るたびに、僕の中で抱いてはいけない感情が、段々と膨れ上がっていくのを感じていたから。
願わくば、ルークのことをいつまでも見ていたいという気持ち。これ以上大きくなれば、取り返しのつかないことになるという感覚があった。
だからこそ、まだ引き返せるうちに僕を忘れてほしい。そして、天使という存在に縛り付けられた彼を、解放してあげたいのだ。
じっと見つめる僕に応えるように、ルークはゆっくりと話し始める。
「天使様。俺、ようやく自分の成すべきことがわかったんです。
そのために、もっと強くて、国の誰もが認めるような存在になってみせますから。
だからこれからもずーっと、この教会に居て、俺のこと見ててくださいね。
……今も、きっと側で聞いてくれているんでしょう?」
ルークは、甘く蕩けるような笑みを浮かべてみせた。その声色には悲壮感はなく、どこか晴れやかさを感じさせる。
僕が目の前にいることを心の底から信じている……いや、盲信しているともいえる様子に、ぞくりとする。
それはもはや純粋に会いたいという気持ちではなく、絡みつくような執着に見えた。
『ルーク……』
まさかルークは、一生このままなんじゃないか。
そんな考えが脳裏をよぎり、絞り出した声は掠れていた。
――しかし、僕の予想を裏切るように……ルークとの別離は、存外あっけなく訪れるのだった。
それは出会った時のように、身震いするほど冷たい雨の日。
ちょうど空が白み始めた頃に、ルークは教会へやってきた。
「今日に限って雨だなんて……俺もついてないな」
ルークは中に入ると、髪についた水滴を軽く払いながら呟いた。
僕はそんな彼の姿に、思わず目を疑う。普段は夜中に足を運ぶルークが、こんな時間帯に来るなんて初めてのことだった。
彼の出で立ちも普段とは異なっており、黒いブーツにマントを羽織り、腰には長剣を携えている。
ルークは祭壇の前に進むと、今日は祈ることはせず、僕に向かってはっきりとした口調で告げた。
「こんな朝早くにごめんなさい、天使様。実は、ご報告があって来ました」
『……報告?』
「――実は俺、魔王討伐の旅に出ることになったんです」
ほんの一瞬、息が止まる。
魔王討伐? ルークが鍛錬に明け暮れているのは知っていたが、まさかそんなことを……?
魔王討伐なんて、人間が本気でやっていたのは、魔王が誕生してすぐの話だ。
その時に何人もの勇者が派遣されたが、あえなく返り討ちにされ、人間は魔王に叶わないことを身をもって体感していた。
まさかルークがそれを知らないはずがない。信じられず呆然とする僕をよそに、ルークは話を続ける。
「天使様、まさか俺がって驚いてますか? 意外かもしれませんけど、自分から志願したんですよ。
剣術の腕が認められて、国から正式に勇者として行くことになりました。今日の昼から王都を出発する予定なんです。だから行く前に……あなたに伝えたくて」
ルークはさわやかな笑顔で言う。その表情には魔王への恐怖や怯えは一切感じられなかった。
――僕は、ルークから告げられた言葉を思い返していた。
「ようやく自分の成すべきことがわかった」と言っていたのは、もしかしたらこのことだったのか。
誰よりも強くなって、魔王を討伐し、人々を救いたい。
ルークはいつからか、そう考えるようになっていたのかもしれない。
少し前までのルークに、計り知れない執着を感じてしまった自分が、途端に恥ずかしくなった。
きっとそれは、僕の思い違いだったんだろう。
「魔王を討伐したら、またここに来て、あなたに会いに行きます。
時間はかかってしまうかもしれないけど……絶対に待っててくださいね」
その圧倒的な自信は、彼の培ってきた努力から生まれたものなのだろうか。
正直言って心配で仕方なかった。もしかしたら、命を落としてしまうかもしれないのだから。
……できることなら、ここで平和に過ごしていてほしい。
英雄にならなくても、脅かされることのない、ささやかな幸せを掴んでほしかった。
僕は涙を堪えながら、ルークをじっと見つめ、そして気が付く。
ルークの瞳の奥に、以前見た暗く沈んだ色合いではなく、輝きが宿っていることを。
――きっと魔王を打ち倒し人々を救うことが、ルークの新しい「生きる意味」なのだ。
そう確信して、どこか胸のつかえがとれたような気がした。
僕と再び会うことではなく、たとえ困難だったとしても、実現の可能性がある未来を選んでくれたのだ。
『ルーク。君なら必ず出来るよ』
もう僕には、加護を与える力はない。それでも、いつもルークがしてくれたように――両手を組み、出来る限りの祈りを捧げる。
僕の祈りが届いたのだろうか。
ルークはどこか幸せそうに笑って、明るく告げた。
「天使様。それでは、行ってきます」
――そしてルークはその言葉を残し、雨の降りしきる中、旅へ出た。
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