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10 手違い

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「じゃあ愛花、また昼休みにね」
「――うん」

 和樹は軽く手を挙げて、愛花と廊下で別れた。自分の教室に入り、友人たちと挨拶を交わして席に着く。

 この頃は、まるで世界が変わったかのように何もかもが順調だ。

 和樹の存在はこれまで空気のように扱われていたが、愛花と交際しているという事実が広まることによって、クラスメイトたちからの視線も随分と変わった。

 あの愛花のハートを射止めた男――というまばゆい勲章が、和樹の『格』を押し上げてくれたようだ。

 ――もっとも。
 交際の事実を積極的に広めたのは、和樹自身なのだが。

 2人でいるところはよく目撃されていたので、そのような噂は立っていたのだが――
 クラスメイトから尋ねられた際に和樹は、隠し立てすることなく、そして一応は慎ましやかに、交際事実を認めてきた。

 本当は、自慢したい気持ちで一杯だったが、そんなそぶりをおおっぴらに見せては、せっかく認められ始めていた自分の地位を下げることにも繋がりかねない。

 匂わせる程度の発言で愛花との交際を周囲に認知させ、それでいて謙遜することで、控えめな自分を演出する。

 そのおかげもあって、今ではクラスの『上位グループ』の連中からも一目置かれる存在になった。クラスの中心的な男子からも、派手めな女子からも認められている――
 と、和樹は思っている。

 唯一というか、そのグループでも中心人物的な師藤涼介とはあまり接触がない。
 彼と目を合わせても、涼介はどこか遠くを見ているような――和樹のことを見ていないような、そんな不思議な距離感を保たれている。

 特段、避けられているふうではないので、和樹は気にしないことにしているが。

 

 なお、交流の幅が広がったことで、和樹は思いもよらない情報を耳にした。

 例の、他クラスの男子による和樹への嫌がらせについてだ。
 その首謀者はキリエだと聞いていたのだが、どうやらそれは欺瞞だという情報だった。

「霧崎に叱られた腹いせに、あいつらが噂を流したらしいぜ」

 仲良くなったクラスの男子が、そう教えてくれた。

「つーか、俺たちも気づけなくてごめんな」
「いや、仕方ないよ」

 白々しいやり取りの最中に、和樹はキリエのことを考えていた。

 まず、罪悪感が芽生えた。
 キリエに心ない言葉を投げつけたことを、今になって顧みたのだ。

 だが同時に、キリエの行動を思い返して、ある結論にもたどり着いた。
 なぜいじめを止めるべく、彼女が行動したのか。なぜ和樹に問い詰められても真実を主張せず、ただ言われるがままに傷ついていたのか。

(……そうか。キリエは、僕のことが好きだったんだな)

 得心がいった。
 これまで和樹に対してきつく当たっていたのも、彼女なりの照れ隠しだったのだ。さらには惚れた弱みがあって、和樹に冷たくあしらわれても、反抗できなかったのだ、と。

(なんだ、それならそうと、言ってくれれば良かったのに)

 和樹は、キリエのことを憐れむような気持ちになった。
 いま、教室ではキリエは隣の席だ。
 授業中、その横顔をチラリと見て――幼馴染の不器用な横顔をあらためて吟味する。

 ――愛花ほどではないが、整った顔だ。

(愛花より先に言ってくれてたら、付き合ってあげられたかもしれないのに……)

 ふぅ、と、誰にも気づかれないほどのささやかなため息を漏らして、和樹は窓の外へと視線を移した。


 ■ ■ ■


 それは、終業式の行われた日の夜だった。

 キリエは家族そろって外食に出かけた。
 本当は乗り気では無かった。

 もっとも、家族での外食に異議はないし、行き先が焼き肉店というのも、キリエにとっては喜ばしいことだった。

 だが問題は、和樹の家族と合同の夕食会である、ということだった。

 この日は、和樹の妹の誕生日だった。
 そこで和樹たち幸野一家は、妹のリクエストに応えて焼き肉に繰り出そうということになったのだが、4人だけではなく、せっかくだから久しぶりにご近所さん――つまり、霧崎家も誘ってみよう、という話の流れになったらしい。

 新興の住宅地に同時期に越してきた縁もあって、霧崎家と幸野家は交流が多く、キリエが小さい頃には、こういった夕食会も年に数回、催されていた。
 そして、今夜向かう焼き肉店は、そんなかつての『いつものお店』の一つだった。

 味もさることながら、店内は清潔で、そのお店での思い出には良いイメージしかない。

(はあ……)

 しかし、出発直前になってもキリエは憂鬱だった。
 
 和樹の妹――果穂(かほ)の誕生日を祝うことには、まったく抵抗はない。
 最近はあまり会うことはないが、以前、和樹を目当てに彼の家に上がり込んでいた時期には、果穂ともよく遊んであげていた。

 だからやっぱりキリエの気分を重くするのは――和樹の存在だ。

 少し前までのキリエなら、好意を隠しつつも喜んで参加していただろう。

 しかし、今は和樹と対面するのが億劫になっている。

(でも……)

 果穂の誕生祝いというのだから、無下に断るのも気分が悪い。

 ――それに。
 今週に入って、和樹の態度がわずかに変わった気がする。

 これまでは、隣の席にいても言葉を交わすことはなかった。
 それが、朝、キリエが着席すると、和樹のほうから「おはよう」と声をかけてくるようになったのだ。

 なにか、心境の変化でもあったのだろうか?

 最近の和樹は、他のクラスメイトたちとの交流が目に見えて増えている。
 和樹が嬉しそうにしているのは良いことなのだろうが、会話の節々に恋人の――愛花の話題が登るのは気になった。

 デートで愛花はどんなふうに振る舞っていたか、とか。どれだけ自分たちは想い合っているのか、だとか。

 直接的な表現ではないものの、和樹はついのろけて、必要以上のことまで喋っているようだ。
 ――想い人の恋話をすぐ近くで聞かされる苦痛もあったが、同時に、愛花本人のいないところでそこまで話してもいいものなのかと、咎める気持ちも胸に沸いた。

(和樹……)

 複雑な思いを抱えつつの、今夜の食事会だった。


 ■ ■ ■


 焼き肉店へは、霧崎家のワンボックスカーに7人が相乗りして向かった。運転手は、飲酒習慣のないキリエの母だ。
 
 車内では、和樹の隣になってしまわないよう、キリエは先回りして果穂の横に座り、当たり障りのない会話で到着までの時間を過ごした。

 だが店内では、キリエはうまく立ち回れず、テーブルの端で、和樹と向かい合う席に着くハメになってしまった。

「キリエ、これもう食べられるよ」
「え、うん」

 なぜかここでも、和樹は妙に優しかった。
 一時期は目すら合わせてくれなかったのに、本当に、どんな心境の変化なのだろうか。

「ほら、ぼけっとしてたら僕や果穂に食べられちゃうよ」

 ただ、細やかな気遣いが出来るほど器用な人間でもないのだ、彼は。
 金網から取った肉をキリエの皿に置いてくれるのはいいのだが……

「あ、ありがと。でも私、火が通りきってないの苦手だから――」
「あれ、そうだっけ?」

 一緒に焼き肉のテーブルを囲むのなんて数年ぶりだから仕方がないのだが、キリエの好みは以前から変わっておらず、「焼けた、焼けてない」の議論で騒いだかつての食事会のことを、和樹はすっかり忘れてしまっているらしい。

 彼らしいと言えば、彼らしいのだが――。



 そんな調子で、どこかモヤッとした気持ちのままで食事を終えた。

 両親たちが会計をしているあいだ、キリエは一足先に駐車場へ出ていた。

 すると不意に、背後から和樹に声をかけられた。

「キリエ」
「な、なに?」

 まだこの和樹に対してどう接していいか分からずに、キリエは困惑した。
 だが、和樹はそんなキリエの態度をどう勘違いしたのか、

「そんなに緊張しなくてもいいよ」

 と、微笑んで言った。

「実はさ、友達に聞いたんだけど」

 彼の言う『友達』とは、最近接近している、クラスメイトのことらしい。

 そうやって切り出された和樹の話に、キリエは驚いた。
 くだんの、いじめの話だった。
 キリエが諫めたことが徒(あだ)となり、あらぬ噂を流されたこと。

 その真実を、和樹は聞かされたというのだ。

「なんか、ごめんね。気づいてあげられなくて」
「へ? あ、うん……」

 自分のあずかり知らないところで誤解が解けたのは、本来であれば喜ばしいところなのだろうが、なんだか拍子抜けしたような気分もする。
 和樹の言動が、あまりにも軽いことも、キリエを戸惑わせているのかもしれない。

「そしてありがとう、キリエ」

 言って、和樹は唐突に――本当に唐突に距離を詰めて、キリエの頭をポンポンと撫でた。

「えっ……?」

 何が起きているのか理解できずに固まっているキリエを前に、これもまた何を思ったのか、和樹は目を細めて、微笑ましいものでも見るかのような表情で笑った。



 ■ ■ ■


 その夜も、キリエはベッドに潜って自慰に耽った。

 あの自慰行為を覚えた日以来、キリエは毎夜これだ。

 もうやめよう――と心の中で唱えつつも、ベッドに入ると、いつもの『手』に体をまさぐられて、快楽に溺れてしまう。

 キリエは、和樹のことを考えていた。

 誤解が解けて、彼との関係は変わるだろうか。キリエの行為に感謝した和樹とのあいだでなら、また別の展開もあり得るかもしれない――。

 帰り際、頭を撫でられたことも思い出す。

 和樹の手が、キリエの髪に触れた。その感触。

 ――本来なら、喜ぶべきことかもしれない。
 ずっと想ってきた相手から、好意らしきものを向けられて、触れてもらえて。

「んっ――」

 だが、いまキリエの身体に触れるのは、彼の手ではなかった。

(同じ男の人でも……違うんだ……)

 和樹の手の感触は、確かに男性のものではあったのだろうが、キリエの身体が鮮明に覚えているのは、今夜の彼の感触ではなかった。

「――――ッ」

 もっと大きく、優しい手のひらがキリエの頭を撫でる。そうされると、身体が芯から火照ってくる。

「…………、あッ」

 頭を撫でられるだけで気持ちが良かった。ずっとずっと甘えていたくなるほど愛おしかった。
 その手で、顔に、腕に、胸に、腰に触れられると――キリエはもう、平常ではいられなかった。

 毎夜のことだ。
 この手に焦らされて、灼かれて、可愛がってもらえる。
 その感覚に、心では罪悪感を抱きつつも、肉体はどうしようもなく求め、欲していた。
 
 ――もしも。
 もしも今日の食事会の場に、『彼』がいたなら。
 向かいの席に座って、他愛のない会話に興じて、あの楽しそうな笑顔と、少し怖い瞳で見つめられたら。

「あっ、や、――だめ」

 去り際に、頭を撫でてもらえたら。そしてもしも、自分の手を引いて、どこか知らない場所まで連れ去ってくれたら――
 
「あっ、ぁ、……ッ」

 和樹と会話できたのが嬉しいはずなのに。誤解が解けて、関係が修復されて、これからもっと仲良くなれるかもしれないのに――。

 幼い片想い。恋慕の情。
 そんな淡い感情が、体の芯から塗りつぶされていく。

 淫らに揺らめく炎に灼かれて、キリエの肉はじぐじぐと甘美に疼く。溢れるものを止められない。止めて欲しくない――。

 もう、幼馴染のことを考えている余裕は、キリエにはなかった。

 欲情に身を任せ、『彼』の指にそそのかされるまま、快楽の坂道を一気に駆けのぼっていく。

「――――ッ、んく、ぁあッ……!!」

 シーツを噛んで押し殺したあえぎ声。
 一方で頭の中では、『彼』の名を叫んでいた。何度も何度も、請うような声ですがりついていた。
 けっして声に出してはいけない。そうしたら、今度こそ流されてしまうから――。

「……っ、はぁっ、はあっ」

 淫らな日課に火照りきった身体を、キリエはまだ持て余す。

 そしてこれも条件反射のように、かたわらに置いていたスマートフォンへと目だけを向ける。

「…………」

 当然、鳴るはずもない。
 声を聞くことはできない。
 あれから彼は、連絡をくれない――。

 明日はもう夏休み。
 会えなくなる。
 会えるとしたら――

(告白の答えを……)

 キリエはスマートフォンを手にしてメッセージを送った。

 涼介に会って伝えなければ。
 肝心の答えは定まっていない。
 だが、もう、彼に会う口実はこれしかなかった――。


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