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第四章 二人の皇女編
やすらぎのひととき
しおりを挟む静かな夜の廊下にコツコツとヒールの音が響き渡る。
足取りは軽い。
床面を打ち付ける靴音から足音の主は女性。
それも若く、身軽な存在だと教えてくれる。次にある程度上機嫌だということも。周囲を全方位に、闇と幾千幾億もの光点に取り囲まれたそこは、彼女専用の通路だった。
初めてこの場所にやってきたものはもしかしたら酔ってしまうかもしれない。
距離感がつかめずどちらが上でどちらが下かがわからず、透明な大地の上に不安定感を覚え全ての感覚が迷走してしまうから。
だけど慣れてしまった彼女にとって、ここはやすらぎを覚えることのできる数少ない場所を一つだった。
「アリズン様、お待ち下さいっ」
「遅いわよオットー。いつになったらここに慣れてくれるのかしら、貴方は?」
「いやしかし……」
「言い訳は要らないわ。早くなさい」
「はい、姫様ッ」
そんなご機嫌な彼女の後を追いかけて不細工な足音が一つ。
サラがアリズンに謁見した艦橋もそうだったが、やはりオットーは飛空艇とか飛行船とかそういった空を飛ぶものが苦手だった。これは内緒の話だけど。
足元が不安定で、いやそこきちんとした足場があることは理解している。
あまり遭遇することのない空中戦などが行われない限り、この通路も艦橋の床も、抜けるなんてことはない。
そんなことはわかっていても、ずっと大地の上で暮らしてきた人間だ。
猫耳族や蒼狼族といった、体内に空だの風だのの精霊を宿して自らも浮くことの出来る――そんな、奇跡のような存在が平然と歩ける場所でも、人間には怖い。
人は、自分では空を飛べないからだ。
「でも不便ね」
「はあっ……ようやっと追いつきましたぞ。……何を不便なのですか。帝国のお姫様と言う絶大な権力をその手にしておりながら」
「お前、最近イヤミが過ぎるのではなくて?」
「そのようなつもりはございません。事実を申し上げたのみでございます」
ふうん、と疑わしい。そう言いアリズンは半目になる。
彼女より頭ひとつだけ低い文官は、素知らぬふりをして視線を逸らした。
「事実でもどうでもいいから、そろそろ金竜たちと裏でゴソゴソとするのを止めなさい」
「気づいておられますかやはり」
「それは気付きますよ。だってお姉さまの部下たちがここに挨拶に来るなり、揃いも揃えて部下の扱いがなってないとお叱りを申すのですから」
「……ティナ様の部下たち――?」
そう、とアリズンは歩調を緩めてオットーに言う。
これから帝国本土に戻るということで挨拶に寄った際、色々と辛口な意見をされたらしい。
「下ではクロノアイズ帝国から招かれた関係者を金色の竜がいじめていたりとか」
「あッ」
「卑怯にも酔っ払ったふりをして数人がかりで立ち向かったんだとか」
「それは、その――」
「それで勝つならまだしも、普通の人間。それもうら若いたった一人の女性に返り討ちに遭ったのとか」
「そこまでっ!?」
「そこまでです! 何ですかだらしがない、覇気もない、このアズリンの第一の配下たる金竜の騎士団をそんなつまらないことに使わないで頂戴!」
「はっ……言い訳のしようもなく……」
強い口調だ。
しかし本気で怒っているようではないらしい。
アリズンがとてつもない不機嫌になるときは、あの白い耳が後ろ側に向けて伏せてしまうから。
人間でありながら獣人社会の中で平民から這い上がってきたオットーは、その辺りにとても敏感だった。
「まあ、いいわ。それでどういうことなの。この場所は私の癒されるための場所だって知ってて来たの、お前」
もしかしたら彼が気づいていることを知り、アリズンが演技をしている可能性も否定できないがその時はその時。
アーハンルド藩王国筆頭書記官の一人、フラルダス・オッエィア・ラングリサム伯爵は心を落ち着かせると、夜の徘徊を楽しむアズリンを追いかけてきた理由を口にする。
「お楽しみ中、大変申し訳ございません、姫。御不快になるのも――空港の騎士たちは再度訓練を致します。この件につきましてはそれにてどうかお許しを。あの者たちも、上空に御座する主に恥をかかせたくてやったわけではないのです」
「……それは分かっています。分かっているから、お前にも強く当たらないの……。それにしても、誰しもどうしてそんなに面白くない顔ばかりするのかしら」
「顔、でございますか」
「そうね。私が何かと婚約が決まったとなると、その相手が精霊を宿す獣人でもなく、偉大なる魔導師の家系でもない。単なる同盟国の皇帝家の男子だっていうだけで。人間だというだけで――なんて心の狭い話なのかしら」
「……人間はお嫌いですか?」
「お前が言うのですか? 人間で、地方の単なる一役人から書記官の一人にまで成り上がりお父様の――藩王の信頼も厚いお前が?」
なんか不思議な話を聞いた気がする。
そんな顔をして少女はちょっと首を傾げてみせた。
全人口の六割を人間が占めるエルムド帝国。
しかしその支配層ともなれば、獣人が大半。むしろ人間の数は逆転して少なくなる。
富裕層の割合も同じ。
数世紀前の中興の祖、グレン大帝の時代からすれば考えられないことだ。
「ですから申し上げるのです。国王オルデア陛下は帝国皇帝の意向などよりも、アリズン様が心安らかに暮せることを祈っておられるのですから」
「お父様がなにを祈るかは勝手だけど、おばあ様の意向は無視できない。それも含めて――彼との婚儀がアーハンルド藩王国の為になればいいと――私は考えています」
この十四歳になる皇女はそうは言うが――やはり、種族の違う夫を持つことにはいくぶんか不安らしい。
長く蒼い尾を不安そうに右に左にと動かし、その不安を現していた。
「ではどうでしょう、アリズン様」
「……何が?」
「その未来の夫の心の内、お知りになりたくはありませんか?」
文官がそう言い、胸元から取り出したのはサラに渡されたあの封筒だった。
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