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大学生のおけいこ

33 父の温もり

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 サーキットは快晴。

 赤い馬をスポンサーのロゴマークだらけのライオンに乗り換えた。

 2リッターのレギュレーションで、最初は国産の車をあてがわれたが、スミレが「左ハンドルの車がいい」と駄々をこね、これになった。

「お前の車よりはるかに馬力が小さいが、もちろんチューンナップしてある。WRCに何年か出た車だ。ちょっと癖があるけどな」

 ピットでのブリーフィングで、ソノダさんはそう言った。

 イワイに紹介されたレーシングチームの監督は三十代の後半ほどの男だった。

 二年前にスーパーフォーミュラのドライバーを降りた人だ。ワールドでの総合成績は最高8位。国内では2回総合優勝を経験しているという。国内の自動車メーカー各社と繋がりがあり、自分個人のチームを率いるオーナー監督だ。

「なんだ、眠そうだな。緊張して寝られなかったのか」

 寝られなかったのは当たっている。緊張したのではなく、嫉妬のせいで狂いかけてしまったせいだなどとは、もちろん言えない。

「・・・大丈夫です」

 一度運転席に着きシートと6点ベルトを合わせてもらう。それにせっかく作ってもらったチャンスだ。今台無しにしてしまうわけにはいかない。


 

「略してダートラっていうけどな。ダートトラックで完走すればB級がもらえる。それでオンロードのレースの参加資格ができる」

 ソノダさんとは彼の事務所にあいさつに行った日に寝た。

「一発やらせろよ」

 彼は社交辞令でそう言っただけだったろう。それに乗ったのは自分だ。ちょっとセックスアピールがあったし、何よりもレースのことを熱く語るのに惹かれた。

「F1に参戦するのが最終の目標なんだ」

 それで一晩肌を合わせたのだが、スミレはイケなかった。ソノダは思いっきり、ハズレだった。それなのにピロートークで、

「俺と寝たからって、レースに出れると思うなよ」

 はあ?

 あんた何様?

 あのセックスとも言えないような児戯に等しいエッチとも呼べないエッチモドキにそんな価値があると思ってるの?

 そう言いたかったが、ぐっと堪えた。

 もう大学生なのだ。高校時代のようにあちこちぶつかりすぎて自滅する愚は繰り返したくなかった。

「一度テストしてやる。それで車を与えるかどうか、判断する。でもな、」

 枕もとでタバコの煙を吐き出しながら、彼は言った。

「そんなにレースやりたいなら、お前の親父に強請ればいいじゃないか? そうだよ。お前の親父がカネくれるなら、テストなしでのせてやるのに」

 イワイが余計なことを言ったせいで、ソノダに父のことを知られてしまっていた。

 弱小チームにとっては、それが現実なのである。

 チーム運営の上で資金源であるスポンサーの存在は神のようなものだ。金付きで来てくれるドライバーなら誰でも乗れる。シロート同然のTVタレントが良く著名なレースに出ていたりするが、そのカネはTV局や広告代理店から出ているのだ。しかし、そんな奴では勝てないし、勝てないチームはスポンサーがつかず、生き残ってゆけない。それがチーム運営のジレンマでもある。

「・・・ごめんなさい。父には頼りたくないんです」

「なんだ。カネ無ェのか。じゃあ、速くなるしか、ないな。まあ女だといえば多少はマスコミも注目してくれる。雑誌に記事にしてもらえるからロゴが露出する。スポンサーも多少は喜ぶ。それがお前のアドバンテージだな」


 

 女を使ったり、まして父に頼るなど死んでもしたくない。それだけは絶対に嫌だ。

 ソノダを紹介してくれたイワイに訴えた。彼はこう言った。

「それがプロとアマの違いやねん。プロフェッショナル言うんはな。どんな手段でも使うねん。女でもオヤジでもなんでも使こたらええやんか。それで結果さえ出れば、レースに出れて、レースで優勝したら、だれも何も言わへんよ。キビしこと言うようやけど、スミレちゃんのそれは、アマチュアの甘えやな」


 

 シートの調整は終わった。

「10分後に出るぞ。2周が慣熟走行。そのままもう2周する。それでタイム取る。計4周で決めるからな。スポンサーも来てる。うるさいからスタンドに置いてきたけど。いいとこ見せろよ」

 スミレは頷きながら耐火マスクをかぶった。

 いよいよコースに出る時刻が来た。ヘルメットを被りグラブをはめ、ロールケージしたコクピットに収まる。

「お前の車と違って限界までぶん回せる。ぶん回さないとタイムは出ないぞ。出るときは他の車に気をつけろ。行けっ!」

 ブウォン、ブウォン、ブウォン、ブワーン!

 ピットレーンで目いっぱい吹かす。出た途端に左をかすめていったヤツがいる。

 あの野郎。ぶっちぎってやる!

 もう何度も赤い馬で走ったコース。今日は少し非力な、もう生産中止になったおじいちゃんのライオンだが、それでもチューンナップという精力剤を飲み、人間の若い娘に駆られて昂奮したのか、第一コーナー目掛けて疾駆してくれる。

 おじいちゃんだけにコーナーからの立ち上がりが弱い。そこを鞭を入れてブン回す。

 土曜だからかプライベート、つまりアマチュアが多い。

 前をトロトロ走っているさっきコース入りを邪魔したプライベートのR32を躱し、最初の高速コーナーで前を走るやはり遅すぎるプライベートスープラがなかなか抜けずイラついてしまう。アンダーパス下の直線でスープラを躱しヘアピン。

 やはりどうしても立ち上がりが弱い。いままで赤い馬の馬力に頼って走っていたから、この立ち上がりの遅さがとてももどかしく感じてしまう。

 ブレーキングをぎりぎりまで遅らせてしっかりギアを落としコーナーでパワーを維持できるかどうかだな・・・。

 一周目でだいたいの構想が立つと2周目はよりスムーズにアグレッシヴに攻めることが出来た。

 直線と高速コーナーで限界までぶん回してもトップスピードが遅い。ポイントはコーナーの立ち上がり方だ。ヘアピンでテールをスライド気味にさせたりして回転を維持してやる。すると立ち上がりがよくなる。ようやくこのおじいちゃんライオンの扱いに慣れる。なるべく早く立ち上がってトップスピードにもってゆく。これしかない。

 覚悟を決めて3周目に入り、計測のあるメインスタンド前をプライベートたちをかすめて全開で疾駆した。

 ピットに帰るとさっきまでいなかったジーンズ姿のおっさんが2人いた。車を降りてヘルメットとマスクを取るといきなりフラッシュを焚かれた。

「スミレ。こちらモリサキさんとヒグチさん。こちらの会社の」

 ソノダさんはボンネットに大きく描かれたロゴを指した。オーエスゴムと読める。スポンサー様というわけだ。

「どうも」

 一応、頭を下げた。

 そしてソノダに、

「・・・どうでした?」

 と、訊いた。スポンサーよりもタイムの方が気になる。当たり前だ。

「いいよ。3分切れば御の字だと思ってた。この車で2分40秒台なら文句ない。あとは・・・」

 するとモリサキという、2年前に父のパーティーで会ったあのナメクジを彷彿とさせる男がこう言った。

「そうだよ。いいタイムじゃないの。さっきソノダさんとも話していたんだ。これならイケるよ。スミレちゃん、ちょっと写真撮ろう。会社に報告するのに必要なんだよね」

 そう言ってスミレをライオンの前に立たせたりボンネットに座らせたりと様々なポーズを取らせ、しまいにはツーショットでと肩を組まされたりした。

「スミレちゃん、このあと食事でもしない?

 わかるだろ? あとはスミレちゃん次第だよ・・・」

 腰に回した手を尻に。そこを撫でまわし始めたとき、

「そういえば、スミレの親父さんて、タチバナホールディングスの会長だっけなあ・・・」

 ソノダが何気なく口にした一言で、モリサキの手がスッと引いた。

「へえ・・・、そうなんだ・・・」

「前にご挨拶させてほしいって言ったら断られたんスよね」

 下を向いてボヤくようにソノダは言った。

「あ、そう・・・」

 と、そのモリサキというスケベは言った。

「じゃあさ、今電話してみてよ、今すぐ。もし本当ならご挨拶しなきゃ。ウチの会社の親会社はあそこの子会社。だからウチは孫会社になるわけだ。キミがあのタチバナ会長の娘さんなら是非とも一言はご挨拶しとかないと、失礼だしねえ・・・」

 スミレが嘘をついていると思っているのは明白だった。

 彼らにとっては雲の上のような存在。その娘がこのような弱小レースチームのドライバーに志願するなど、絶対にありえない、と。

 そうした縁故を使うのは、この世界ではごくありふれたことだ。テレビ局や大手広告代理店のクリエイティヴ部門にはそうしたスポンサー企業の重役の「縁故」社員で溢れている。それが当たり前の世界からすれば、スミレのような存在は、ありえないのだ。

 しかし、彼はスミレと父との確執を知らない。スミレも、父に頭を下げるなど言語道断、論外だと思っている。死んでも電話などしたくはない。

 だとするなら、どうしてもドライバーズシートが欲しいなら、このナメクジ男と寝なければならないのか。ソノダはまだいい。だが、この気持ちの悪い匂いのするナメクジとなんて・・・。こんなことまでしなければならないとは・・・。

「さあ、どうするの? まさか番号忘れたなんて言うんじゃないだろうね。・・・正直に『ウソでした』って言ってくれれば、いいんだよ。現にいいタイム、出したんだしねえ・・・」

 薄笑いを浮かべるモリサキに、ついにスミレの忍耐力が、切れた。

 ロッカーからスマートフォンを取り出しきて、番号をタップした。メモリーはしていなかったが、秘書室の番号は暗記していた。スピーカーモードに切り替える。

「タチバナホールディングス秘書室でございます」

 スミレの掌の上から落ち着いた女性の声が流れてくる。

「もしもし。ヒラタさんいらっしゃいますか?・・・スミレです」

「少々お待ちください」

 弦楽四重奏の短い保留音の後に、しっかりした男性の声が出た。

「ヒラタでございます」

 彼は父の第一秘書だ。この人にもずいぶん手間と迷惑をかけたなあ・・・。恥ずかしさで消え入りたくなってしまうが、昼間は彼を通さないと父につながらないのだ。

「・・・スミレです」

 絞り出すように名乗った。

「お嬢様。お久しぶりでございます。お元気そうで・・・」

「その節は、・・・どうも。あの、・・・父と、繋がりますか?」

「・・・すぐおつなぎします。そのままお待ちください」

 モリサキはもう、気の毒なほど真っ青な顔をしていた。その傍らでソノダさんは涼しげに口笛を吹く仕草をしてディレクターズチェアに寝そべるように座っている。

「タチバナです・・・」

 2年ぶりに聞く父の声。少し、老いたような感じがする。

 3度目の高校退学をなじられるか、一度も顔を見せないことを責められるか、そんなことばかりを予想していたが、父の言葉は望外に優しいものだった。

「スミレか・・・」

「・・・はい。・・・」

「元気にしているか? ちゃんと食事はしているのか。・・・大学入学おめでとう。あんなに嫌がっていたのに、法学部を選んだんだな。・・・うれしかったぞ・・・」

「あ、あの・・・実はお父様にご挨拶したいという人がいます」

「挨拶?」

「今、サーキットにいます。あるレーシングチームのテスト中なんです。わたし、レースに出たいんです。お父様にご挨拶したいというのはそのスポンサーの方なんです。よろしいですか?」

「・・・代わりなさい」

「モリサキさん、どうぞお話しください」

 とスミレは言った。

「・・・あ、わ、わた、わた、わたくし、オーエスゴム広報部の、モ、モ、モリサキ・・・」

 いまにも失神してしまうんじゃないかと心配になってしまうほど、彼は吃り、震えた。

「あー・・・。オーエスゴム。マキノ常務は元気ですか? あ、専務に昇格したのだったかな、彼は」

「ハ、ハイ。マキノ専務は、専務でいらっしゃいますデス、はい!」

 これにはスミレも失笑した。

「彼にもしばらく会ってない。もうそろそろこっちに戻ってもらおうかと思ってる。よろしく伝えておいてください。それから・・・」

「は、ハイッ!」

「娘が何をしようとしているのかよくわかりませんが、昔からやれと言ったことはせず、やるなということばかりする、困った娘です。私への忖度など一切無用です。ダメなら切り捨て、あなたが使えると思うならビシビシ鍛えてやってください。・・・これでよろしいかな。では、娘に代わっていただけますか」

「・・・はい」

 とスミレは返事をした。

「たまには帰ってこい。ミサコも心配している。・・・どうせ、やるなと言ってもお前は聞くまい。レースのことはミサコには内緒にしておく。余計に心配させてしまうからな。・・・何かは知らないが、やりたいことがあるのなら、後悔のないように存分にやりなさい。繰り返すが、体に気を付けるんだぞ」

「・・・はい」

 電話は、切れた。
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