婚約破棄は温情か?

七辻ゆゆ

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後編

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「殿下!」
 不敬なほどに強く咎める声を出し、近づいて来たのは公爵夫妻だった。アーサーは震え、退く。
「どのようなお考えか、聞かせていただけますかな?」

 彼らの目は暗く、そしてアーサーへの怒りに燃えていた。
 信じていたものがすべて恐ろしいものになっていた。この国も、貴族も、メルを嘲っていた友人も。アーサーは震えながらそれでも、自らの正義を信じて言った。
「メルは……何も、悪く、ないではないか……」

「そうでしょうとも! アレひとりで足りるものではない! 隣国の者すべてを皆殺しにしなければ、決して心の平穏は訪れない! でも、アレひとりで我慢していたのです。それを……!」
「王家のために、耐えていたというのに」

 公爵夫妻の目がアーサーを見ている。話が通じず、言葉よりも雄弁な目が訴える。
 彼らだけではない。貴族たちの目、目、目。暗く、憎しみのこもった瞳が、王とアーサーを見ている。

 アーサーは悟った。
 本当に恨まれるべきは、メルではない。メルではなかったのだ。
 戦争は一国ではできない。それを引き起こした王家こそが。

 いや、もはやそのような理屈はどうでもいいのかもしれない。
 贄を失った彼らは飢え、あらたな獲物を必要としている。





「ああ、お父さま、お父さま……っ」
 涙がとめどなくあふれる。喜び、まだ残る不安、長い時を経てようやく、信頼できる相手と触れ合うことができた。
 もうこのときで死んでしまってもいいとメルは思った。それほどに辛かった。

 王子があんなことを言い出さなければ、メルはじき衰弱死するか、死んだものとして永遠に慰み者になっていただろう。

「マリーアメル、顔を見せておくれ。よかった。ああ……よかった!」
 父は強く娘を抱きしめる。
 戦で妻をなくし、多くの子供をなくし、彼にとって家族はもはや彼女ひとりだった。

「すまなかった、おまえにこんな、こんなことを……父を許してくれ……」
「いいえ、私が、私が選んだことです」
 人質としてこの国に贈られることが決まったとき、父は逃げようと言った。しかしメルは首を振った。そうしなければ犠牲が増え続けると知っていたからだ。

「でも……っ……何度も悔やみました……」
 抱きしめるたびに体のあちこちが痛む。足首は変形し、もはや優雅に歩くことなど出来ない。食事も、ほんのわずかずつしか受け付けなくなってしまった。
 それでも生きている。

「見ているだけで何もできなかったのだ、マリーア……!」
「わかっていますっ……」
 メルが不幸に暮らしていることを知らしめるため、父は何度も宴に呼ばれ、そのたびに娘をさらって逃げようと考えた。到底できるわけがない。そんなことをすれば、父も害されただけだろう。

「……さあ、帰ろう。我が家へ」
 ふたりは馬車にいる。御者は必死に馬を走らせ、隣国へと向かっている。国境に連絡が行く前に通ってしまわなければならない。きっと間に合う。

 間に合わなかったとしても、父はもう二度と娘を離すつもりはなかった。メルもまた、二度と父と離れる気はなかった。
 王子の婚約破棄と、国に帰れという発言は、他国の使者も聞いていた。そう簡単に撤回はできないはずだ。

 王子のことを思い出し、メルは不安げに振り返った。

「殿下は……」
「彼は素晴らしい王子だ。未来永劫、私は彼に感謝しよう」
「……ええ、でも」

 メルを助けてくれたのはあの王子だけだった。王子といるときにだけは、メルはひどい目にあわない。
 疎まれていたのを知っていても、彼から離れなかった。それがメルの命綱だったからだ。

「きっと殿下は、責められるでしょうね」
「……それでも」
「それでも、私はお父さまと家に……帰りたい……」
「もちろんだ。帰ろう」

 メルはもう一度振り返った。
 あの優しく、良いものだけを見て育ってきた王子は、耐えられるのだろうか。メルに向けられてきた恨み、憎しみ、苦痛を、受け止めることができるのだろうか。

 メルが人質となったのは自国のためだ。
 しかし、結局のところこの国の王のためでもあった。これだけの犠牲を強いたことを追求されれば、立場は危うかっただろう。人質の扱いが他国に野蛮と言われようとも、それでも、許さざるを得なかったのだ。
 だからこそ輝かしい王子が、人質姫を押し付けられたのだろう。

 メルは震えた。ずっと震えている。
「マリーアメル、もう大丈夫だ」
 父の腕にすがりついて頷く。
「もう、忘れてしまいなさい」

 できればそうしたい。だが、できないだろう。永遠に忘れられないだろう。刻みつけられた痛み、悔しさ、恐怖。
 それでも忘れよう。
 できる限り。
 そうしなければ前を見て歩けない。

 懐かしい祖国が近づいている。
 常に疲弊している体は眠りに落ち、すぐに目を覚ます。平穏な眠りなど許されなかった日々を体が覚えている。
「お父さま、私……しあわせです。生まれてきて、今が1番」
 父はわずかに苦しげな顔をして「そうか」と微笑んだ。
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