婚約破棄は温情か?

七辻ゆゆ

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中編

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「アーサー様!」
 悲鳴をあげたのはローゼリアだった。
「このような勝手が、許されると……」

「お父さま!」
「マリーアメル!」

 震えるローゼリアの声を遮り、メルが大声をあげて父に抱きついた。そのような声が出せたのだとアーサーは驚く。
 父もまた彼女を強く抱きしめ、そして走り出した。
「ああ殿下、ご温情に感謝します! 心から!」
 王弟であり、今は隣国の大使である彼はそう言い残し、娘の手を引いて逃げるように会場を出ていった。

「人質姫が逃げるぞ!」
「……は?」
 誰かの叫びが、アーサーは理解できなかった。

「なんてことだ……!」
「そんなこと許せやしないわ!」
「あの女が幸せになるなんて!」
 和やかな会場は今や騒然とし、貴族たちが品をかなぐり捨てて罵声をあげている。

「逃げる……?」
 人質姫。
 それはいつまでも暗い顔をしたメルを揶揄した呼び名だ。事実ではない。この大国に、美しい人々の国に、なんの罪もないのに囚われた姫など存在しない。
 そのはずだと王子は信じていた。

 だが今、目の前の光景はどうだ。
 姿を消した親子を追え、逃がすなと、貴族が、他でもないメルの義両親が命じている。

「おお、アーサーや……」
「父上」
 よろよろと、まるで老人のような足取りでやってきたのは王たる父だ。
「なんということをしてしまったのだ。いや……これも、わしがおまえに真実を伝えなかったせいか。ああ……」

「ち、父上! どういうことなのです、真実とは……!」
 顔を覆ってしまった父に問えば、深い闇を抱えた目がアーサーを見、そらされた。
「父上!」
「……公爵夫妻は先の戦で、幼い娘と息子を亡くした」
「は……?」
「他の貴族の家もそうだ。追い詰められた隣国は最後の一手として、この国の貴族へ暗殺者を送ったのだ。犠牲はあまりに多く……誰もが和平を望まなかった。隣国の者を最後のひとりまで殺し尽くせと言った」

「……」
 アーサーは喉を鳴らした。
 激しい戦であり、多くの死者が出たことは知っている。けれどそれは、

「しかしこの国とて疲弊していた。そのような力はなかった。妥協として与えられたのがメル……マリーアメル姫だ」
「マリーアメル……」
 王子は彼女の名を、メルとしか知らなかった。庶民のような簡易な名だ。

 彼女は正式な名を奪われていたのだ。

「姫はただしく人質であり、不幸でなければならなかった。……アーサー、婚約破棄などせずとも、彼女がおまえの妻になることはなかっただろう」
「そ……そんな……」
 アーサーは、信じていた地面が失われる心地を味わう。まさか。
 まさかそんな。
 この、愛おしむべき国で、否、自分の目の前でそんなことが。

「馬鹿な……彼女は大事にされていたではありませんか」
「本当にそう思うのか?」
「……」
 アーサーはメルの暗い瞳を思い出す。公の場では、いつも笑顔を浮かべた公爵夫妻の真ん中にいた。もう幼いわけでもないというのに、しっかりと手を繋がれ、下を向いていた。
 挨拶に向かう人々は笑顔でメルをけなした。公爵夫妻もまた、笑顔で応じていた。

「死んではそれ以上苦しめることができぬ。粗末な食事で生かされ、おまえの婚約者として多くの場に連れ出され、罵倒され、最下層のものとして扱われるのが彼女の仕事であった」
 よく不作法をし、転んだり、何かにぶつかったりしていたメルは、いつもどこかに怪我を負っていた。
 アーサーは血の気が引いた。

「こ、この国が……そんな、悪しきことを……そんな……」
「おまえに伝えることができなかった。おまえの代では……何のわだかまりもなく……美しい国であると……許してくれ、アーサー」

「そう……アーサー様はご存じなかったのですね」
 言ったのはローゼリアだった。優雅な微笑みを崩さず、悲しげに目を伏せる。それだけで誰でも彼女の前にひざまずいてしまいそうだ。
「ええ、王家に犠牲者はなかったのですものね」
 美しいドレスの裾が揺れる。

 アーサーは歯が震え、かちりと音を鳴らしたのを聞いた。
 優雅で美しい、淑女の中の淑女。しかし彼女もまた、メルの境遇を知っていたはずなのだ。

「私は今でも覚えておりますわ。あの子達の悲鳴を、死に顔を……。絶対に許せるものではありません」
「も、もう七年前の……っこと、では、ないか!」
 信じられなかった。過去のこと、今は平和に、禍根なくやっているはずだった。上辺だけだった。上辺だけ、そうなっているのだ。
 メルひとりの犠牲で!

 父王の表情はひたすらに暗い。いつものメルの顔を思い出し、アーサーは理解した。
 メルに優しくしてやりなさい、とかつて王は言った。それはそういうことなのだ。アーサーしか、メルに優しくすることはできなかったのだ。

「まだ七年前なのだ、息子よ……」
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