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side Ω

後編

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 「まったく。身の程に会わない事をするから天罰が下るという事は、子供でもわかるだろうに」

 僕は口の中で小さく呟いた。彼の後宮に身を置いてからというもの、最小限以外は動かず何も言わない僕が独り言をつぶやいたことで、侍女がそっと意識を傾けてきたのが分かった。僕はそのままカップの中に視線を落としたままだった。揺らめく水面をぼんやり見つめ、息をついた。

――――――――――

 僕がこのくだらない人生で、英断だったと胸を張れることが二つある。

 一つは運命であることを隠す為の薬を日ごろから欠かさず飲み続けている事。変異した僕のフェロモンは、彼を必要以上に誘う事が無かった。

 優しい彼は、嵌められたことに気付いているのかいないのか、僕にやさしくしてくれた。贈り物をして、体を気遣い、一緒に居てくれた。しかし、その瞳に宿る色は、労わりと悔恨だけである事にすぐに気づいた。意識を失う前に見た彼の熱のこもった瞳を見ていたからこそだった。彼は僕に対して恋情を抱いてはいない。

 当然だ、と思う一方で、恋情にならない事に傷付き、同時にほっとしていた。この先、事が露見して罰が下る時、彼は僕に未練なく切り捨てて次に進めるだろう。運命の強い楔に、彼を巻き込まずに済んだことが、僕にとって唯一の希望だった。

 そして、二つ目。彼を五体満足で逃がす事が出来た事だ。番に成って数年。薄氷を踏む様な、それでいて穏やかな時間を過ごし、成長した僕らの前についに時が来た。愚かな父王が、彼の国に宣戦布告して挙兵したのだ。

 青ざめる彼の傍で、僕は恥ずかしさに居てもたってもいられなかった。彼の話に出てくる彼の国は、とても僕の国とは似ても似つかなかった。二国を比較して、彼がこの国の現状を憂うくらいであった。子供でも分る力量の差を、愚か者たちは理解できなかったのだ。すぐに反撃を受けたかと思えば劣勢となり、僕の国では右往左往の大騒ぎとなった。

 再三にわたる彼を人質としている宣言は、結局彼の国を怯ませることは出来なかった。彼の国の王族は、どこまでも誇り高き王であった。彼も含めて。

 死を覚悟した面持ちで過ごす彼。僕はその側でその横顔を見つめる事しか出来なかった。そして、僕は決定的な噂話を耳にした。この時程噂話を集め続けた事を感謝したことはない。ついに、愚かな王たちは彼を殺して首を彼の国に送ると言い出したのだ。

 僕は決意した。焦りつつも、慎重に。情報を集め、資金をかすめ取り。彼の側近に強引に協力を取り付け策を練った。実行の時まで彼には伝えなかった。優しい彼は僕を連れて行くといいかねない、と甘い夢を見た。それくらいの褒美はあってもいいだろう、と僕は開き直ったのだ。

 そして、決行の夜。衛兵の目を盗み、彼を逃がした。彼は、僕も一緒にと言ってくれた。胸が熱く震えた。今にも泣きそうになって焦った。差し出された手は、いつの間にかとても大きくなっていた。見上げた先の瞳は、初めて会った時と同じように煌き、それよりももっと成長した強い光を宿していた。嬉しかった。十分だ、と思った。

 「行くわけないでしょ。僕は自分の番が殺されるなんて気分が悪いこと目の前で見たくなかっただけ。どうせ逃げられないだろうし、死ぬなら僕の目の前じゃなくて、野垂れ死んで」

 冷ややかな声で吐き捨てて。僕は扉を閉めた。僕に出来る精一杯の罵倒だった。涙が一筋流れ落ちるのを感じた。扉越しに振動と声が伝わって来て、すぐに聞こえなくなった。側近たちが彼を連れて逃げたのだろう。何があってもすぐに逃げてくれ、と懇願しておいてよかった。

 僕は声も出さずに泣きじゃくった。それから僕は彼に与えられた部屋へと籠った。中が伺えないようにし、声を掛けられれば彼が居るように返答した。精一杯偽装した。最も、愚か者たちが勝手に決めていた処刑日直前だったこともあり、すぐにばれた。

 僕は引きずり出され、激怒した王族連中に罵倒され折檻された。拷問と言っても差し支えなかったかもしれない。冷たい地下牢に繋がれ、僕はすぐに衰弱していった。体にも、心にも傷は残った。それでも、あの時の選択を後悔していないし、寧ろ誇ってすらいる。僕はかすむ意識の中で、生まれて初めて満足感と共に笑った。

――――――――――

 僕はそっと背凭れに背を預けた。部屋にいる数名の侍女が、僕の一挙一動を見逃すまいとさり気なく凝視している。僕は、カップを手のひらで包み込んだまま膝の上に降ろし、窓の外を見つめた。雲一つない青空だった。こんな空を見上げると、必ず思いだす。僕が助け出された日の事を。

――――――――――

 日にちの感覚もなくなり、今にも事切れそうな僕を救ってくれたのは、やはり彼であった。冷たい地下牢に繋がれた僕の元に駆け付けた彼は、息をのみ、青ざめた顔で鉄格子を切りつけていた。

 半狂乱で地下牢を破ろうとする彼を止め、側近たちが持ってきた鍵で牢が開けられて漸く僕は状況を察し始めた。盆やり霞む視界で、貴方のキラキラした髪が見えて目を細めると、震える暖かい指が僕の頬にそっと触れた。心地よくてそっとすり寄ると、強い力でその胸に抱え込まれた。全身に付けられた傷が傷みを訴えたが、それ以上に彼の体温と匂いが僕の意識を支配し、泣き喚きたくなった。震える大きな体を宥めるように、そっとその背に手のひらを這わせることが精一杯だった。

 意識を失って行く僕の顔を覗き込んだ彼が酷く焦った顔をしている気がして。大丈夫だよ、という意味を込めて僕は微かに微笑んで目を閉じた。

 次に気が付いた時。僕は知らない場所に寝かされていた。暖かな部屋に、清潔なベッド。丁寧に手当てがされた傷は、鈍く痛みを訴えてきている。呻かなくてすんでいるのは、確実に痛み止めのお陰だろう。僕は何がどうなっているのか、と困惑していた。

 暫くして僕が意識を取り戻した事に気付いた侍女の一人がすぐに出て行った。次に戻ってきた時には、白衣を着た優しそうな青年と、彼と一緒に僕の国で過ごしていた彼の側近が一緒だった。白衣の青年は僕に幾つか質問をしつつ怪我の具合を見て、良くなってきたね安心した、と微笑んだ。側近の青年は、険しい面持ちであったが、それを聞いて嘆息した。

 思わず身を縮めると、白衣の青年が側近の青年を叱り始めた。何やら舌戦を始めたものの、全く状況が飲み込めない僕には全く頭に入ってこなかった。すぐにその事に気付いた白衣の青年が、申し訳なさそうに微笑んで説明してくれた。

 白衣の青年は、彼の侍医を務めている医師らしい。むっつりしたまま口を噤んでしまった側近の青年を冷ややかに睨み据えると謝罪してきた。

 「すまないね。彼はどうにも君に対する接し方がわからない様で」
 「……いえ、お気になさらず」

 側近からすれば、主人を危険に巻き込んだ国が無理に用意した番など、認められないのだろう。そう考えてあっさり返答すると、白衣の青年が険しい顔で何事か呟いていたが、状況の説明を要求すると、何事かを飲み込んだ様子でため息をついた。

 「分りやすく言えば、戦争はわが国の勝ち。特に、皇太子殿下が戻られたことで、快進撃だったよ。あの方は頭が良いし、ずっと努力も続けられていたらしい。あの方が戻られたお陰で、士気も上がった。すぐに決着はついて、君の国は陥落。その際に助け出したって感じかな」
 「そうですか。お手数をおかけしました。あの方にもお礼と謝罪を申し上げておいてください」
 「……恨まないのかい?」
 「何をでしょう。愚かな振舞いを先にしたのはこちらです。どうなろうと自業自得ですし、むしろ温情を掛けて頂いている身で恨むも何も」

 探るような瞳で聞いてくる医師に、心底不思議そうに返すと、医師は微妙な顔で黙り込んだ。側近の彼と視線を交わし何事かを考えているようだ。ややあって、やんわりした笑みを浮かべると、そっと僕にかけられた布団を直してくれた。

 「詳しい話は後にしよう。今は体を直す事に専念して。ああ、それからそんな他人行儀な言葉を使っていたら、殿下が悲しむよ」
 「……はぁ」

 悪戯っぽく微笑まれるが、それに対する僕の返答は煮え切らないもので。再び側近の彼と視線を交わした医師は、若干強張った顔のまま、退出していった。それからというものの、僕の元に訪れるのは、医師の青年だけだった。

 色々と話しかけてくれるものの、僕にはうすぼんやりした膜を通しているように感じていた。助け出されてから、彼の姿を一度も見かける事が無かったから。すでに、僕の心は限界だったのだ。

――――――――――

 僕はそっと視線をカップに戻した。そのカップを支える白い手、そしてその先の腕などには傷跡が残っている。しかし、献身的な看病によってかなり傷は薄くなった。わずかに見える傷跡に目を細め、僕は小さく礼を述べた。彼に対して。
 そして、僕はゆっくりゆっくりカップを持ちあげ、淵を口に付けた。視界の端で、一人の侍女が緊張した面持ちをしたのが見えた。僕はそっとカップを傾けた。

――――――――――

 僕が回復してから、暫くしてのこと。僕はそれまではぐらかされていた居場所をしり、驚愕していた。僕が居るのは、彼の後宮の一室だった。彼の後宮には何人もの美しい姫やΩが居た。その一室に居る自分は、というと全身に醜い傷が残り、容姿の平凡かその下程度。酷く恥ずかしく、羞恥に身が燃える思いがした。

 元の王宮で生き延びる為に習慣化していた噂集めは、癖として僕の耳に染み付いていた。そっと部屋を抜け出してはあちこち歩き回り、人々の話を盗み聞いた。そして、僕の立ち位置を知った。

 メイドたちは噂していた。僕が発情誘発剤を使って貴方を嵌めたのだというまことしやかな噂があるのだ、と。姫たちがコソコソと話をしていた。彼に強引に迫って番関係を結んだ、と。騎士たちが顔を突き合わせていた。命を助けられたからその恩を返したに過ぎない、皇太子殿下は慈悲深い、と。

 ほぼ真実の噂達を知り、僕は漸く納得が行ったのだ。どうして僕が助けられたのか。僕以外は処刑されたらしいのに。どうしてあれ以来彼に会えていないのか。彼は何度も後宮に足を運んでいるらしいのに。

 ああ、僕の役目は終わったのだ。ストン、とその事が胸に落ちてきた。悲しくもなければ、苦しくも無かった。ただただ、虚無な満足感に支配された。

――――――――――

 そして、今。僕の傾けているカップには、毒の混ざった紅茶が淹れられている。これでも悪意の中で生きてきたのだ。毒を面白半分に含まされたことも少なくない。すぐに侍女の一人がこっそり毒を盛っている事に気付いた。後宮の姫の一人か、その背後の者か、自国の恨みを抱いたものか、この国を憂いた者か。はたまた――彼か。ぼんやりそんな事を考えて。目の前に運ばれた繊細なカップを見つめた。

 手に取る事に迷いはなかった。ただ、それまでの不幸で、僅かに幸せの混じった空虚な人生を思い返した。そして、ためらいなく飲み干す事を選んだ。そっと微笑み、胸の内で呟いた。

 「お慕いしています。貴方を誰よりも愛しています。だからこそ、幸せになってください。痛みに満ちた通過点に過ぎない僕のことなど、一片も残さず忘れ去ってください」

 それだけ願って、口を開くと、トロリと紅茶が流れ込んできた。若干の雑味が混じっている事を嘆きながら、それでも高貴な風味を楽しみながら飲み干すと、すぐに異変が起きた。灼熱が腹の中に生じて、一気に喉を駆けあがってきた。

 「かっは」

 ぱっとカップを机に戻し、口元を押さえて崩れ落ちる。ゴボリ、という音を立て、指先から真っ赤な液体が零れ落ちる。悲鳴を上げた侍女たちが一斉に動き出した。すぐそばで甲斐甲斐しく世話を焼いて切れていた侍女が、青ざめた顔で膝をつき肩を揺らしてくるのがわかった。そんな顔をしなくていい、と微笑むと彼女は驚いたように目を瞠った。それを最後に、僕の意識は闇に沈んでいった。


 そして、最後の最後に。僕の耳が彼の声を拾った気がした。悲鳴にも似た声で、僕の名を呼んでいる彼の声が。そんなはずはない、と思いつつも。そうだったらいいな、と僕はちょっと期待した。これまで、数えるくらいしか呼ばれなかった僕の名前。その僕の名前を呼ぶ人が、ここに居た。僕の名前を憶えていてくれたのだと、歓喜が込み上げる。そのまま、僕は柔らかく微笑んで。最後の力を振り絞って幻影に囁きかける。

 「今までありがとう。さようなら」

**********
リクエストを頂きまして。
書けるかどうかにもよりますが、いずれ「彼」視点をアップ出来ればいいな、と思っています。
よろしければ、少々お待ちくださいませ。
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