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ハルベル・フォレメクという男

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 この世界がリセットされるには、リシェス様が死ぬ必要があった。
 つまり、必然的にリシェス様が婚約破棄されれば世界が巻き戻る。最初は吐き気や怒りも無論あった。何故リシェス様が死ななければならないのかと。
 それでも、逆に考えればリシェス様が一分一秒足りとも無駄に苦しむことがないよう安らかに眠ってもらうことも可能になるのだ。

 ――学園内、普段人気のない通路の奥。

 目の前で気絶したリシェス様を見下ろしたまま僕は時間が巻き戻るのを待った。
 真っ白な肢体が赤く濡れるさまはあまりにも痛々しく、それでいて美しい。リシェス様
の傍らに座り込んだまま時間が切り替わるのを待った。
 けれど、時間が巻き戻るときのあの不快な感覚は一向にやってこない。

 ――何故、何故まだ僕はここにいる?

 時間が経過するにつれ焦りは大きくなっていく。そして、リシェス様の首筋と胸から流れ出す血液の量も増していった。
 気が遠くなっていく。本来ならばとっくに切り替わっている時間帯。まさか、と血だまりの中に沈むリシェス様に目を向けたとき。前髪の下、二つの目がこちらを見詰めていた。
 その目と視線がぶつかった瞬間、ドクンと心臓が一層大きく跳ね上がった。そして、考えるよりも先に僕は手にしていたナイフの柄を掴みなおし、そして再びリシェス様の上に跨る。脈はない。もう事切れているはずなのに、と念の為その胸に手を当て、そのままナイフを振りおろそうとした矢先だった。

「――見つけた、君がバグだったのか」

 どこからともなく聞こえてくる声に、誰かいるのかと咄嗟に辺りを振り返るが、声の主を見つけることはできなかった。

「……っ、誰だ、どこに――」

 いる、と言いかけたその声は言葉にすることはできなかった。
 強制的に意識が遮断される。体と意識が分離したみたいに、肉体は糸が切れた操り人形のように床の上に落ちた。けれど、意識は辛うじて残っていた。

「ハルベル・フォレメク、――リシェス君の従者か。お陰でシステムの穴を見つけることはできたけど、僕は君のこと好きじゃないんだよね。――なんというか、同族嫌悪っていうか、目障りというか。リシェス君の役に立ってくれるならいいけど、ここまで暴走されると手に余るよなぁ……」

 床の上、背後から足音が近付いてくるのだけは分かった。名前を呼ぶその声は聞いたことのない声だった。柔らかく、少しだけ高くて耳障りのいい声。一般的には優しげに分類されるであろうその声とは裏腹に口にするその内容は理解し難いものだった。

 何者だ。リシェス様の死体を前にしても動じず、僕をこうして眠らせるような刺客がいるのか。そう頭を回転させるが答えは出ない。

 かつり、かつりと響く足音は僕の目の前で止まった。リシェス様の側に見慣れない形の、履き潰された靴が映し出される。眼球さえ動けない今、男の足元しか分からなかった。

 リシェス様を見下ろしたまま、男は「随分と派手にやっちゃったね」と呟いた。


「……けど、もう大丈夫だよ。リシェス君はもう、二度と同じ不幸の轍を踏ませるようなことはさせないから」

 ――何者なのだ、この男は。
 ――何を言ってるのだ。

 靴先がゆっくりとこちらを向いた。そして次の瞬間視界が黒くなる。

「ハルベル君、君には僕の一部になってもらうよ。……リシェス君のためだもん、無論男に二言はないよね?」

 意識の幕が落ちていく。微睡む意識の中、辛うじて残っていた自我が泡沫のようにどんどんと小さくなっていくのを感じた。

 駄目だ、ここで目を閉じては。眠ってしまってはいけない――そう思いながらも、とうとう抗うことができぬまま僕は強制的に意識を断たれるのだ。




「――ッ!!」

 飛び起きる。酷い夢を見た。悪夢のような夢だ。
 リシェス様を手にかけてしまう夢――そして、名前も顔も知らない赤の他人が頭の中に入り込んでくるという不愉快極まりない内容だった。

 気付けば僕は部屋のベッドの上にいた。何故僕はベッドの上にいたのか、直前までなにをしていたのかという記憶はない。ただ、『そろそろリシェス様の部屋に行って朝の支度を手伝わなければ』という意識だけがあった。

 ――日常が始まる。




「リシェス様、おはようございます。今日もお麗しいですね」
「ああ、ありがとう」
「アンフェール様がお呼びでしたよ。昨日リシェス様が早退されたことを心配されているみたいでした」

 ――寮舎・リシェス様の部屋。
 いつものようにリシェス様の髪を梳く。少し癖っ毛混じりなブロンドの髪をセットしながら「お熱いですね」と頬を抑えれば、リシェス様は奇妙な顔をしてこちらを見るのだ。
 その二つの眼に見上げられた瞬間、どくんと心臓が大きく脈打った。

「リシェス様?」
「……なんでもない。アンフェールのところに行ってくるよ」

 ふい、と外れるリシェス様の視線にホッとしている自分がいた。
「はい、わかりました」と答え、目を伏せた。

 首輪の巻かれた細い首筋を見ていると強い目眩を覚える。それをリシェス様には悟られないように、首輪を隠すように僕は襟を整えて首筋を隠した。

 リシェス様を相手に変な気を起こそうなどと有り得ない。有り得ないはずなのに。
 自分のものではないように脈打つ心臓に戸惑いながら、僕はリシェス様に気付かれないように心臓を押さえた。

 まるで、体と心が噛み合っていないようだ。
 寝不足からの疲労だろうか、睡眠には気遣っているつもりだったが。そんなことを考えながら、僕は部屋を出ていくリシェス様を見送った。
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