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第7章 平穏は遥か遠く

247話 マザー・リコリス 其の1

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 連合標準時刻 火の節88日 夜――

「ようこそいらっしゃいました」

 水辺に揺蕩う小舟がクロノレガリア大聖堂前の発着場に着くや、まるで我が家の様に歓迎する女が2人を出迎えた。観光客でもなければ修道女でもない、明らかに異質な女を一言で表現すれば煽情的。

 肌を露出した際どい黒のドレスは己の魅力への絶対的な自信に満ちる。事実、並のプロポーションでは着こなせないドレスを見事に着こなす女の美しく瑞々しいボディラインは魔性、あるいは蠱惑と表現するに相応しかった。一方、顔はこれ見よがしに見せつける身体とは対照的に黒いアイマスクで目元を隠している。素顔は分からないが、そのせいで真白い肌に浮かぶ口紅がより一層引き立つ。

「どうされました?」

 女の妖艶な口紅が質問を紡いだ。

「観光地だろ?なのにまるで自分の家みたいに言われちゃあ警戒するさ」

「あらそうなんですね?私、てっきり入信希望者なのかと思いまして」

 不信を露にする声に女は入信と、そう返した。大聖堂を前にすればごく普通の言葉だが、煽情的を通り越した身形とは全く噛み合わず、違和感と不信は更に募る。

「入信?」

「実は私の父と守護者総代のアイアース様が親しい間柄でして。それでコチラでの活動拠点を探していた私にこの場所を提供して頂いたのですよ」

「もう観光地じゃないと?」

「はい。でも、折角お越し頂いたのですから中をご覧になっていかれますか?」

「遠慮しておく」

 暗に泊れと誘う女の甘い囁きを伊佐凪竜一は即断で否定した。いや、誰であってもそうするだろう。絡め捕られたら破滅するような、そんな予感が映像越しに伝わる。

「フフッ、そうは言ってもかなりお疲れのご様子。一日中逃げればそうなりますよね、伊佐凪竜一さん?」

 不信を折り重ねる女の言動に伊佐凪竜一の感情がざわつく。この女は彼の顔を知っている。いや、知っているだけならば何も問題は無い。問題は目の前の相手が伊佐凪竜一と知りながら欠片の恐怖すら抱かず中に引き入れようとしている事、次いでアイアースと顔見知りであるという点。

 そもそも凶悪犯として指名手配された伊佐凪竜一と守護者は敵同士で、ならなこの女に匿う理由は無く、また万が一にでも匿った事実が露見すれば両者の関係性が破綻するのは必至。無論、指名手配犯の蔵匿ぞうとくも重罪。

 故に、何をどうしようが女側に一切の利が無い。が、この女はそんな一切合切を承知している。無知とは無縁。不敵にほほ笑む女の紅が夜の闇に妖しく、艶やかに弧を描く。

「何を考えている?」

「フフッ、そうやって意固地になるのも結構ですが……でも人の好意は素直に受け入れるべきですよ?私はただ、我が神に祈りを捧げて欲しいだけです」

「断る。ソレに、祈るのは余り好きじゃない」

 当然、断る。女の提案を受け入れる利は伊佐凪竜一側にも存在しない。

「フフッ、アハハハ。仕方ありませんね。では、休憩がてらお話しする位ならばどうです?」

 女は何故か上機嫌に笑うと、矢継ぎ早に次の提案を切り出した。何が楽しいのか、何故そこまでして彼と話したいのか。しかし女は一切の感情を官能的な笑みとアイマスクの裏側に隠す。

「だから断ると」

「私は貴方が知りたい情報を知ってますよ。例えば、明日執り行われる婚姻の儀。後は、そうですね。フォルトゥナ=デウス・マキナに関する情報も少しばかり」

 やはり油断ならない。どうあっても断るであろう伊佐凪竜一に女はこれ以上ない魅力的な餌をぶら下げた。婚姻の儀。フォルトゥナ姫。女の言葉に伊佐凪竜一は見事に心を揺さぶられる。先程までの睨み付ける様な表情は、混乱と驚愕が入り混じった顔色へと一変した。

「嘘では無い保証は?いや、何故知っている?」

「先程も説明した通り、私の父とアイアース総代が親しいからですよ。フフッ、どうされます?とは言ってもその顔を見れば興味津々ですね。では、一先ず中へどうぞ。罠などありませんし、そもそも貴方に効果はない事も知っています。それにお話ししたいと言うのは偽りない本音ですから大丈夫ですよ?」

 女はそう言うとひらりと身を翻し、無防備な背中を晒すと教会に向けゆっくり歩き始めた。

「名前は?」

 覚悟を決めた伊佐凪竜一は、女の背中に向けそう叫んだ。

「リコリス、リコリス=ラジアータ」

 女は、まるで堪らないと言った様子で振り返る。満面の笑み。女は何がそんなに嬉しいのか、笑顔で名乗った女は船着き場に立つ伊佐凪竜一の元に駆け寄ると、腕を絡め、まるで恋人の様に聖堂へと引っ張っていった。何ら抵抗せず素直に従う彼は、ただ茫然とリコリスと名乗った女をジッと見つめる。絡めた腕に光る腕輪を、ただジッと。

 ※※※

 クロノレガリア大聖堂内

 不可思議な宗教画で彩られたアーチ状の拝廊はいろう(※教会への入り口)から教会内部へと足を踏み入れた伊佐凪竜一が目撃した光景は、閑散期とは思えぬ程に極めて清潔で美しい状態が維持された荘厳な施設と、その端に小さく映る観光地整備用の式守の姿。

 入口から遥か奥に見える祭壇へと向かう身廊しんろうと、ソレに対し直角に造られた翼廊よくろうが中央で交差し十の字を作る荘厳な佇まい。上を見上げれば高さは10メートルは有ろうかと言う高さであり 交差路の上からは蝋燭の炎が全体を淡く照らす。側廊そくろうは夜の闇から降り注ぐ星の光により美しい光沢を放つステンドグラスで彩られ、綺麗に整備された床は天井からの光を鈍く反射し輝く。

 一方、外から持ち込まれた物は特に見当たらず。リコリスの言葉通り、何かの目的でこの場所を間借りしているという言に間違いはないらしい。

「あの……この人達は?」

 荘厳で美しい身廊の中央を最奥に向けて歩く伊佐凪竜一は、隣を歩くリコリスに現状を尋ねる。

「御覧の通り、我が信者ですよ?」

 信者と、回答を得た彼は身廊の中央を二分する左右の椅子に目視線を移せば、(女の言を信じるならば)何十人もの信者が一定間隔毎に並び奥の祭壇に祈りを捧げる光景。無言のまま、手を組み何かを呟きながら、祈り方に差異はあるが誰もが一心不乱に祈るその顔は無表情で、生気を感じず、何とも薄気味悪かった。

 現にリコリスの横を歩く伊佐凪竜一、両者の数歩後ろを歩くガブリエルに何らの反応も示さない。大聖堂と言う神聖な場所には余りにも相応しくない信者の様子に伊佐凪竜一の顔は殊更に険しさを増す。

「どうされました?」

「随分と熱心だな、と」

「嘘はいけませんね、本当はもっと失礼な事を考えておられるのでは?」

 リコリスはそう言うと足を止め、伊佐凪竜一の方向を振り向くと上目遣いに彼を見つめた。少し背の低い女が艶めかしい動作で近よれば、彼は驚き引き下がる。

 が、コツ、と床を叩く小さな靴音は一度しか響かず。女の細腕が何時の間にか彼の後頭部に手を回していた。その仕草はさながら恋人の如く、もしこの光景がフィクションならば直ぐにでも唇を重ねただろうと想像させる程の熱を帯びている。

 両者の心境は兎も角、少なくとも女の行動はそうとしか思えない程度には情熱的に思えたし、唇に引かれた真っ赤な紅にもその行動を引き起こすだけの魅力に満ち溢れる。一方、まるで"私を見て"と言わんばかりの行動に伊佐凪竜一は驚きもせず、無言で応えた。

「フフッ……その目、嘘が付けない目」

「苦手だ」

「貶している訳ではありません、寧ろとても素敵ですわ。人が時に馬鹿正直と嘲笑うその性格、でもそれって本当は羨ましいんですよ」

「羨ましい?」

「そう。誰だって正直に生きたい、でもそれが許されない事を知っている。だから、矛盾に耐えかねた人は苦しんだ末に他者を傷つけ、見下す事で溜飲を下げる。正直者は馬鹿を見ると、そうやって蔑まないと生きていけないの。でも上辺を取り繕っても自分の心は騙せない。本当は心の底では正直に生きられる人間を羨ましいと思っている」

「話しが飛躍し過ぎている」

「そうでしょうか?人は弱い、脆い。己が道を、決断を、1人で進む事など出来ない。矛盾を許容できず、己を否定し、苦しみ、受けた傷を、溜めた怨嗟を、誰かにぶつける。貴方を傷つけた有象無象がそう」

 女は一呼吸置き……

「そして、もっと弱い人間はこうなる」

 名残惜しそうに伊佐凪竜一から離れると周囲を見回し、言うに事を欠いて信者を弱いと唾棄した。

「群れ、集い、祈る。さぁ、どうぞお座りになって下さい」

 伊佐凪竜一の言葉を女は笑いながらいなし、最前列の椅子に腰かけた。終始、女のペースだ。

「あぁ、でも後ろの方は駄目。ココの備品は値が張るので」

「畏まりました」

「フフッ、素直って良いですね。さぁ、どうぞ」

 女は無表情を崩さないガブリエルを冷笑し、未だ見下ろす彼には熱情を注ぐ。

「さて、話の続き。人の弱さ、貴方は良くご存知では?ココに来るまでの間にどれだけの悪意が貴方を傷つけたのか、考えるだけで胸が痛みます」

「どうでも良い。俺は俺の価値で生きて、その人達はその人達の価値で生きてるだけだ」

「素敵ですね、その言葉。でも、何時まで言えますか?あぁ、ではそうですね……質問しても良いかしら?宗教と賭博に共通するモノが何かお分かり?気軽に考えて下さって結構ですけど、でも分からないなぁんてつまらない事は言わないで下さいね?」

 突拍子もない質問に伊佐凪竜一は面食らった。這う這うの体で教会まで逃げてきたと思えば、今度は見知らぬ女から謎かけと来た。元より頭を使うのが苦手な彼には、突き付けられた質問に答える事も、ましてや女の意図を汲み取る事も困難に違いない。それが証拠にリコリスと饒舌に会話していた彼の口がピタリと止まった。その顔は先ほどよりも一層険しく、質問の意図を正しく理解しようと努める内面を正しく反映している。

 対する女は笑みを零す。伊佐凪竜一が真剣に考えるその姿がとても楽しい……いや、嬉しそうに見えた。彼は真剣に考えるが故にその行動を目にする事は無かったが、私はその仕草に酷い不快感を覚えた。
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