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一章『大神屋敷』
(一)
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農耕と狩猟が息づく、厳寒の『北国島』。
華やかな西洋文化が広がる新都、『東国島』。
古来の風雅な文化が根付く古都、『西国島』。
国内でも飛び抜けて外交が盛んな港、『南国島』。
照日ノ国は、東西南北に浮かぶ四つの島で成り立っている。島はそれぞれ『大神』、『烏神』、『狐神』、『蛇神』という守護神と呼ばれる神たちによって守られ、その庇護の下、人間とあやかしが領域を分けて生活していた。
さて、北国島の霊峰・鉈切山は、照日ノ国でも有数の豪雪地帯と言われている。
雲より高い鉈切山の中腹より上には『大神屋敷』と呼ばれる茅葺き屋根の屋敷があった。決して豪華絢爛とは言えない質素な見た目だったが、吹雪程度ではビクともしない頑丈な作りで、あやかしたちにとっては厳しい冬を乗り越えるための仮の宿だった。
「おかおのいろ、もどった?」「ううん、まっしろ」「もしかして、もともとまっしろ?」「ありえる」
そんな大神屋敷の一室では、幼い子供の声が囁きあっている。
しかし、ここには一人たりとも子供はいない。いるのは、鮮やかな緋色の炎をまとった生き物たちだ。ちょうど大福餅のような形状の体からは、小さな手足がちょこんと生えていて、まるで丸々と太った蛙のようである。
「ゆきんこかな」「でもにんげんのにおい」「かわいいねえ」「おもちみたい」「ねんねんころりん」
くすくす笑いながら囁き合うのは、鬼火と呼ばれるあやかしだ。
彼らが覗き込んでいるのは、本来ここに存在しえない、人間の少女――すずだった。彼女は今、鹿や熊などの毛皮に包まって、穏やかに寝息を立てている。
鬼火たちがすずを見ながらきゃっきゃと話していると、そこへ部屋の襖が開く音が割り込んだ。
「こら、お前ら。病人が寝てるんだから、静かにしな」
鴨居をくぐって部屋に入ってきた大男は、鬼火たちに向かって人差し指を立てながら注意すると、すずの傍らに腰を下ろした。
彼はふもとの神社に閉じ込められていたすずをここへ連れ帰ってきた張本人である。
――否、『張本人』ではなく、『張本神』というべきか。
彼は、人間の体に狼の頭をのせたような、奇妙な姿をしていた。
頭頂部にはピンと尖った三角の耳が生えており、たっぷりの毛に覆われた尻尾はくるんと巻いている。目は稲穂の海を思わせる黄金色だ。がっしりとした筋肉質の体を、ふかふかの濃紺の獣毛が覆っており、その上からさらに着物をまとっているので、着ぶくれ具合が凄まじかった。
なにより奇妙なのは、眼帯で隠れた右目だ。上瞼と下瞼の肉同士がくっつくほど焼き潰れていて、もはや開くことができない有様だった。
「おやかたさま」「このこ、へいき?」「しなない? だいじょうぶ?」
すずの首筋や腕の中、脇の下や膝の上に潜っていた鬼火たちが、続々にひょこひょこ顔を出す。
男はすずの額に手をやる。
「うん、大丈夫。魂の火は消えてないし、体温も戻ってきてる。なんとか間に合ったみたいだな」
お疲れさん、と男が言うと、鬼火たちは安堵の表情を浮かべ、互いに微笑み合った。
「おんなのこ、たすかった」「よかったねえ、よかったねえ」「いいこ、いいこ」
彼らが必死に温めていた少女は、つい先刻まで凍え死ぬ一歩手前だった。総出で温めた甲斐あって、彼女の回復を喜ぶ鬼火たち。
男はふと、すずの前髪を払い、その下の額をまじまじと見た。
「ひえ、いたそう」「おっきいあざ」「やなかんじ」「おやかたさま、これなあに?」
鬼火たちはすずの生々しい痣を見ながら、男に尋ねる。
「呪いの痕跡だよ。女の子の顔にこんなモンつけるなんて、ろくなことしやがらねえ」
少女の額にある痣は、およそ人間にできるものとは思えないほど禍々しい見た目だった。干ばつでひび割れた地面のような形をしていて、よどんだ赤黒い色彩がなんとも不気味だ。
明らかに尋常ではないすずの痣に、男は指先をあてがい、目を閉じて意識を集中させる。
感じたのは、不吉な見た目に違わぬ、不吉な邪気の気配。指先を通して男の中へ流れ込んでくる邪気が一体誰のものなのか、男は探りを入れてみる。
(……だめだ。全然正体が割り出せねえ。誰がこんな痣をつけやがったんだ)
特定は困難だった。例えるなら、様々な色の絵の具を混ぜて、一色にしてしまったようなものだ。濁りきった泥のような状態の絵の具が、混ぜる前は果たして何色と何色だったのか分からなくなってしまったのと同じように――彼女に呪いをかけた存在もまた、杳として知れない。
男にわかったことはただ一つ――この呪いは、こんなか弱そうな少女が背負うには、あまりに重すぎる代物だということだった。
「酷いな。皮膚を通り越して、視機能まで完全に侵されちまってる」
こんな目では、確かに光を見ることも叶うまい。先刻、すずが嘆いていたとおりだ。
男はすずを慰めるようにそっと額を撫でてやる。すると、すずは「むうう……」とうめきながら身じろいだ。
「んふ、ふあふあだあ……」
起こしてしまったかと思い、男は慌てて手を引っ込めようとするが、すずの手がそれよりも先に絡みついてくる。柔らかな獣毛に覆われた手が心地いいらしく、すずは捉えた手にすりすり頬を寄せていた。
「お、おい、すず? あんまりされるとくすぐったいんだが……」
寝ぼけているすずの肩を叩くと、すずは目を閉じたまま唸りながら、ぐりぐりと首を回していた。状況を把握しかねているようにも見える。
「ここは……?」
「大丈夫か? お前は――」
「!?」
男が冷静に話しかけようとすると、次の瞬間、すずは目の前にいる男の顔面に頭突きを食らわせる勢いで、がばっと身を起こした。
「もこもこの動物が喋ったあああ!?」
少女が叫んだまさかの内容に、男もぎょっと目を丸くする。
彼女の肩や脇などにいた鬼火たちは、いきなり起き上がった弾みで「きゃー」と転がり落ちる。団子のように弾力性がある彼らの体は、あちこちの床をぽいんぽいんと跳ね回った。
「お、落ち着け! 今、状況を――わふっ?」
「すげえ、すげえ! 浄土では動物も喋るんだなあ!」
初めて隠世に来て混乱しているであろう彼女に対し、男は色々と事情を説明しなければと慌てたのだが――想定外なことに、すずは喋る獣を恐れるどころか、その頬を両手で包んでもにゅもにゅと揉み始めた。
「お、おい、お前……」
「おら、こんげおっきな動物を抱っこしてみたかったんだあ! 村のわんこにはみーんな嫌われてたっけなあ……今まで頑張ってきてよかったあ! 神様がおらに冥土のお土産くだすったんだあ~!」
「冥土の土産、っておい! 話を聞いて――」
「それにしても、おっきい子だなあ。熊か? よしよし、いいこいいこ~」
いや、熊だったら呑気に撫で回している場合ではないだろう。
男はそう言いたかったが、すずの手が首や顎、額や耳などをふわふわ撫でてくるので、大人しく黙るしかなかった。
すずはその辺で犬や猫に遭遇したときのように、大喜びで毛並みをもみくちゃにしてくる。それが意外にも心地よくて、男も次第にとろりと目を細めた。
「ふ、ふへ、すずぅ、そこは、ふへへっ、んふへへへぇ」
しまいに、男はなんとも腑抜けた笑顔を浮かべて、陥落してしまう。仰向けに転がり、腹を見せるその格好は、まさしく腹を撫でろと催促する飼い犬であった。
「あはは、いい子だなあ! おめさん、わんこだったがか? こんげ撫でさせてくれる子だっけ、きっと飼い主に大事にされてたんろうなあ」
すずは男が倒れたのに調子をよくして、ますます彼を撫で回す。開いた衿から溢れんばかりに飛び出ているもこもこの毛並みを揉むように撫でると、男はきゃふんきゃふんと嬉しそうな声を上げた。
「おやかたさま、たのしそう?」「ごまんえつ」「わおーん」「こっちもなでてー」「あつくない、あつくない」
なにやら楽しそうに盛り上がる二人を見て、転がっていた鬼火たちも興味津々とばかりに周辺に集まってくる。中にはすずの背中に飛び乗り、自分も撫でろと催促する者もいた。
部屋の空気が一気に賑やかになってきたところで、
「いや、違う違う違う!」
と、すずを引き剥がし、正気に戻る男。
「すず、状況を説明させてくれ! 俺は犬じゃない!」
「えっ?」
すずはぽかんと口を開け、ようやく手を止めた。止めたというか、固まった。
「あれ? その声、もしかして……大神、様?」
特徴的なびりびりと響く低い声から、目の前の喋る獣が『大神様』だと気づいた瞬間――すずの顔は一気に青ざめた。
「う、うわああああああああああ!? お、おお、おおお大神様あ!?」
「おお、いい叫び声だなあ。思ったより元気そうだ」
「な、なななな、なんでえ!? お、大神様、ええええ!?」
目の前に大神様がいるという事実に、すずはすっかり動転していた。しかも、すずはつい先ほどまでこの大神様を犬扱いし、めちゃくちゃに撫で回してしまっている。
不敬にもほどがある自身の行為を思い出し、すずはぺこぺこと頭を下げた。
「すみませんすみませんすみません!! おらは大神様に対してなんて失礼なことを~っ!」
「んはは、全然気にしてないぜ。むしろ気持ちよかったぞ」
ずいぶん景気よくもふもふしてったなあ、と男――もとい大神は、声を立てて笑う。
ようやく我に返ったすずは、大神に謝り倒した後、
「お、おら、死んだんじゃないんですか……?」
と、おそるおそる尋ねた。
自分の頬をつねったり、床や毛皮などの感触を念入りに確かめたりしているのを見るに、混乱はおさまっていないようだ。
「現世では死んだも当然だろうな。まあ、実際はこの隠世でこっそり生き延びてるんだが」
大神はどこから説明したものか、と腕組みしながら思案する。
ほんの数秒間だけ宙にやっていた視線を、再びすずのほうへ戻して、大神はゆっくりと語り始めた。
「んーと、ここは『隠世』って呼ばれる世界でな。すずたち人間が住む『現世』とは別の世界なんだ」
「かくりよ?」
「そう。人間の世界からは隠れて見えないから、『隠り世』。ようは神様やあやかしが住む異界のことだな。普通、人間は隠世には入って来られないんだが、すずは俺が特別に招いて連れてきたんだ」
「おら、神様の世界に招待されたんですか?」
「そういうこった。神隠しって言ってもいいかもな」
大神はすずの解釈を肯定しつつ言う。
神隠しとは、人間が人里から忽然と消える現象のことだ。現世では、神やあやかしが気に入った人間を連れて行ってしまうのだと恐れられていた。
「ありゃ、たまげたぜ。ふもとの神社の近くをたまたま通りかかったら、中から人間のにおいがしてくるじゃん。んで、拝殿を覗いてみたら、人間の女の子が縛られて転がされてるときたもんだ」
大神は光景を目にしたとき、この時代にまだ人身御供なんてことをする人間がいたのか――と、辟易した。他の島では文明開化だの、新時代だのと声高に謳っているのに対して、自分が管轄するこの北国島の、なんとまあ古くさいこと。
もっとも、北国島は厳しい気候のせいで、外国船どころか国内の船でもなかなか近づけないので、他の島よりも文明発達が遅れがちな傾向にある。が、こんな誰も得をしない因習がまだ残っているのかと思うと、情けなくて涙が出てきそうだ。
「まだそんな前時代的なことしてるのな。お前の村」
「はあ。昔から人間はそうして心を鎮めてきたもんですから、なかなか風習が抜けないんでしょうかね」
その風習の犠牲となった当のすずは、もはや他人事だとばかりに、けろりと言う。
「ところで大神様。おらは生贄になることは構わないんですが……その、おらのお願いは叶えてもらえるんでしょうか?」
不安そうに聞いてくるすずの瞼は、伏せられたままだ──彼女の願いは、来世で明るい目をもらうこと。生贄として死んでも構わないから、というその願いからは、すずの切々たる思いが感じ取れる。
「できるよ。なんなら、お前は死ぬ必要なんてない。ちょっくら俺を手伝ってくれるなら、大雪を止めるついでに、明るい目を取り戻す手伝いもしてやるよ」
「本当ですか!」
曇天のような表情から一転、雲ひとつない快晴の空のように、すずの顔は明るく輝いた。
「お前が盲目になった原因は、おそらくその額の痣だ。さっき調べさせてもらったが、物の怪が何らかの目的でかけた呪いだと思う」
「もののけ?」
「平たく言えば、怨霊や悪霊のことだ。人の情念から生まれた怪物だと思えばいい」
「その物の怪というのが、おらに呪いをかけたと? なんのために……」
「それはこれから詳しく探っていかないと分からない。けど、これだけきつい呪いがかかっているのを見ると、すずが物の怪を引き寄せやすい体質だってのは間違いないな」
すずは、苦虫を噛み潰したような顔をする。当たり前だ。自分が悪霊や怨霊を引き寄せやすい体質だと聞いて、少しも気分を悪くしない人間などいない。寒気のようなものを感じて無意識に自分の腕をさすっていた。
しかし大神は口角を吊り上げ、牙を見せながら、大胆不敵に笑う。
「安心しな。俺の傍にいれば、大抵の物の怪は近寄って来れねえよ」
「なしてです?」
「俺は神様だからな。神様を前にしちゃ、物の怪もそうそう悪さはできねえよ。それに、万が一物の怪がすずを襲ってきたとしても、俺だったらそいつらをぶっ飛ばせる。これ以上呪いが酷くなることはないはずだ」
「おお、さすが大神様!」
大神はぴすぴすと自慢げに鼻を鳴らす。
純粋な褒め言葉に舞い上がる彼の尻尾は、ぶんぶん左右に揺れていた。
「つーわけで、俺から一つ提案。お前、ここで俺の世話人として働かないか?」
「ほへっ?」
思わぬ提案に、間抜けな声を出してしまうすず。
「だ、だども、おらは盲目ですし、なんの取り柄もありませんよ?」
すずにできることは、非常に限られている。自分自身のことはある程度できるように訓練してきたものの、他者の世話となれば話は別だ。大神様のお世話役が自分に務まるとは、すずにはとても思えない。
「大丈夫だ、とりあえずすずにお願いしたいのは、俺の毛づくろいだから」
「毛づくろい??」
「おう。あんなに撫でるのが上手い奴は初めてだったなあ。あれを毎日してもらえたら、疲れも吹っ飛びそうだ」
先ほど撫でられた感覚を思い出しながら、大神はうっとりしていた。
「そんげお好きなんですか? 毛づくろい」
「なんだよ、そのちょっとおかしなものを見るような、生温かい表情は! 大事なことだぞ! 毛づくろいが嫌いな獣なんていないし、毛づくろいで翌日の調子が決まると言っても過言じゃない。神様の仕事は大変だからな、神様を労って調子を整えることはそりゃー大事な役目ってわけだ。毛づくろいが上手い奴ってのはそれくらい貴重な人材なんだぜ。ついでに俺個人としては、毛づくろいが上手い女を嫁にしたいと思ってるくらいだ」
「はあ……」
拳を握りしめて熱弁する大神に、少し引き気味のすず。
この人、まだ結婚してないんだ……と思ったのは内緒だ。
「俺はふもとに降り続けてる雪を止めて、お前の目にかかった呪いを解く手伝いもする。代わりにお前は毎日俺の毛づくろいをして、調子を整える手伝いをする。どうだ?」
「わかりました。それで大神様に恩返しができるのなら、精一杯やらせて頂きます」
「本当か! やりい、念願の毛づくろい役を確保し――ッだあッ!?」
喜び勇んで跳び上がった大神は、次の瞬間、ドゴォン!! と建物の梁に勢いよく頭突きをしていた。
同時に、建物全体が軽く揺れるほどの衝撃が起こり、すずの体もぽんっと軽く浮き上がる。
「いッッてえぇぇ……」
「だ、大丈夫ですか、大神様!?」
たんこぶのできた頭を押さえて、大神は撃沈していた。
(この人、意外と調子こきなんだなあ……)
とすずが思ったのもまた、内緒である。
華やかな西洋文化が広がる新都、『東国島』。
古来の風雅な文化が根付く古都、『西国島』。
国内でも飛び抜けて外交が盛んな港、『南国島』。
照日ノ国は、東西南北に浮かぶ四つの島で成り立っている。島はそれぞれ『大神』、『烏神』、『狐神』、『蛇神』という守護神と呼ばれる神たちによって守られ、その庇護の下、人間とあやかしが領域を分けて生活していた。
さて、北国島の霊峰・鉈切山は、照日ノ国でも有数の豪雪地帯と言われている。
雲より高い鉈切山の中腹より上には『大神屋敷』と呼ばれる茅葺き屋根の屋敷があった。決して豪華絢爛とは言えない質素な見た目だったが、吹雪程度ではビクともしない頑丈な作りで、あやかしたちにとっては厳しい冬を乗り越えるための仮の宿だった。
「おかおのいろ、もどった?」「ううん、まっしろ」「もしかして、もともとまっしろ?」「ありえる」
そんな大神屋敷の一室では、幼い子供の声が囁きあっている。
しかし、ここには一人たりとも子供はいない。いるのは、鮮やかな緋色の炎をまとった生き物たちだ。ちょうど大福餅のような形状の体からは、小さな手足がちょこんと生えていて、まるで丸々と太った蛙のようである。
「ゆきんこかな」「でもにんげんのにおい」「かわいいねえ」「おもちみたい」「ねんねんころりん」
くすくす笑いながら囁き合うのは、鬼火と呼ばれるあやかしだ。
彼らが覗き込んでいるのは、本来ここに存在しえない、人間の少女――すずだった。彼女は今、鹿や熊などの毛皮に包まって、穏やかに寝息を立てている。
鬼火たちがすずを見ながらきゃっきゃと話していると、そこへ部屋の襖が開く音が割り込んだ。
「こら、お前ら。病人が寝てるんだから、静かにしな」
鴨居をくぐって部屋に入ってきた大男は、鬼火たちに向かって人差し指を立てながら注意すると、すずの傍らに腰を下ろした。
彼はふもとの神社に閉じ込められていたすずをここへ連れ帰ってきた張本人である。
――否、『張本人』ではなく、『張本神』というべきか。
彼は、人間の体に狼の頭をのせたような、奇妙な姿をしていた。
頭頂部にはピンと尖った三角の耳が生えており、たっぷりの毛に覆われた尻尾はくるんと巻いている。目は稲穂の海を思わせる黄金色だ。がっしりとした筋肉質の体を、ふかふかの濃紺の獣毛が覆っており、その上からさらに着物をまとっているので、着ぶくれ具合が凄まじかった。
なにより奇妙なのは、眼帯で隠れた右目だ。上瞼と下瞼の肉同士がくっつくほど焼き潰れていて、もはや開くことができない有様だった。
「おやかたさま」「このこ、へいき?」「しなない? だいじょうぶ?」
すずの首筋や腕の中、脇の下や膝の上に潜っていた鬼火たちが、続々にひょこひょこ顔を出す。
男はすずの額に手をやる。
「うん、大丈夫。魂の火は消えてないし、体温も戻ってきてる。なんとか間に合ったみたいだな」
お疲れさん、と男が言うと、鬼火たちは安堵の表情を浮かべ、互いに微笑み合った。
「おんなのこ、たすかった」「よかったねえ、よかったねえ」「いいこ、いいこ」
彼らが必死に温めていた少女は、つい先刻まで凍え死ぬ一歩手前だった。総出で温めた甲斐あって、彼女の回復を喜ぶ鬼火たち。
男はふと、すずの前髪を払い、その下の額をまじまじと見た。
「ひえ、いたそう」「おっきいあざ」「やなかんじ」「おやかたさま、これなあに?」
鬼火たちはすずの生々しい痣を見ながら、男に尋ねる。
「呪いの痕跡だよ。女の子の顔にこんなモンつけるなんて、ろくなことしやがらねえ」
少女の額にある痣は、およそ人間にできるものとは思えないほど禍々しい見た目だった。干ばつでひび割れた地面のような形をしていて、よどんだ赤黒い色彩がなんとも不気味だ。
明らかに尋常ではないすずの痣に、男は指先をあてがい、目を閉じて意識を集中させる。
感じたのは、不吉な見た目に違わぬ、不吉な邪気の気配。指先を通して男の中へ流れ込んでくる邪気が一体誰のものなのか、男は探りを入れてみる。
(……だめだ。全然正体が割り出せねえ。誰がこんな痣をつけやがったんだ)
特定は困難だった。例えるなら、様々な色の絵の具を混ぜて、一色にしてしまったようなものだ。濁りきった泥のような状態の絵の具が、混ぜる前は果たして何色と何色だったのか分からなくなってしまったのと同じように――彼女に呪いをかけた存在もまた、杳として知れない。
男にわかったことはただ一つ――この呪いは、こんなか弱そうな少女が背負うには、あまりに重すぎる代物だということだった。
「酷いな。皮膚を通り越して、視機能まで完全に侵されちまってる」
こんな目では、確かに光を見ることも叶うまい。先刻、すずが嘆いていたとおりだ。
男はすずを慰めるようにそっと額を撫でてやる。すると、すずは「むうう……」とうめきながら身じろいだ。
「んふ、ふあふあだあ……」
起こしてしまったかと思い、男は慌てて手を引っ込めようとするが、すずの手がそれよりも先に絡みついてくる。柔らかな獣毛に覆われた手が心地いいらしく、すずは捉えた手にすりすり頬を寄せていた。
「お、おい、すず? あんまりされるとくすぐったいんだが……」
寝ぼけているすずの肩を叩くと、すずは目を閉じたまま唸りながら、ぐりぐりと首を回していた。状況を把握しかねているようにも見える。
「ここは……?」
「大丈夫か? お前は――」
「!?」
男が冷静に話しかけようとすると、次の瞬間、すずは目の前にいる男の顔面に頭突きを食らわせる勢いで、がばっと身を起こした。
「もこもこの動物が喋ったあああ!?」
少女が叫んだまさかの内容に、男もぎょっと目を丸くする。
彼女の肩や脇などにいた鬼火たちは、いきなり起き上がった弾みで「きゃー」と転がり落ちる。団子のように弾力性がある彼らの体は、あちこちの床をぽいんぽいんと跳ね回った。
「お、落ち着け! 今、状況を――わふっ?」
「すげえ、すげえ! 浄土では動物も喋るんだなあ!」
初めて隠世に来て混乱しているであろう彼女に対し、男は色々と事情を説明しなければと慌てたのだが――想定外なことに、すずは喋る獣を恐れるどころか、その頬を両手で包んでもにゅもにゅと揉み始めた。
「お、おい、お前……」
「おら、こんげおっきな動物を抱っこしてみたかったんだあ! 村のわんこにはみーんな嫌われてたっけなあ……今まで頑張ってきてよかったあ! 神様がおらに冥土のお土産くだすったんだあ~!」
「冥土の土産、っておい! 話を聞いて――」
「それにしても、おっきい子だなあ。熊か? よしよし、いいこいいこ~」
いや、熊だったら呑気に撫で回している場合ではないだろう。
男はそう言いたかったが、すずの手が首や顎、額や耳などをふわふわ撫でてくるので、大人しく黙るしかなかった。
すずはその辺で犬や猫に遭遇したときのように、大喜びで毛並みをもみくちゃにしてくる。それが意外にも心地よくて、男も次第にとろりと目を細めた。
「ふ、ふへ、すずぅ、そこは、ふへへっ、んふへへへぇ」
しまいに、男はなんとも腑抜けた笑顔を浮かべて、陥落してしまう。仰向けに転がり、腹を見せるその格好は、まさしく腹を撫でろと催促する飼い犬であった。
「あはは、いい子だなあ! おめさん、わんこだったがか? こんげ撫でさせてくれる子だっけ、きっと飼い主に大事にされてたんろうなあ」
すずは男が倒れたのに調子をよくして、ますます彼を撫で回す。開いた衿から溢れんばかりに飛び出ているもこもこの毛並みを揉むように撫でると、男はきゃふんきゃふんと嬉しそうな声を上げた。
「おやかたさま、たのしそう?」「ごまんえつ」「わおーん」「こっちもなでてー」「あつくない、あつくない」
なにやら楽しそうに盛り上がる二人を見て、転がっていた鬼火たちも興味津々とばかりに周辺に集まってくる。中にはすずの背中に飛び乗り、自分も撫でろと催促する者もいた。
部屋の空気が一気に賑やかになってきたところで、
「いや、違う違う違う!」
と、すずを引き剥がし、正気に戻る男。
「すず、状況を説明させてくれ! 俺は犬じゃない!」
「えっ?」
すずはぽかんと口を開け、ようやく手を止めた。止めたというか、固まった。
「あれ? その声、もしかして……大神、様?」
特徴的なびりびりと響く低い声から、目の前の喋る獣が『大神様』だと気づいた瞬間――すずの顔は一気に青ざめた。
「う、うわああああああああああ!? お、おお、おおお大神様あ!?」
「おお、いい叫び声だなあ。思ったより元気そうだ」
「な、なななな、なんでえ!? お、大神様、ええええ!?」
目の前に大神様がいるという事実に、すずはすっかり動転していた。しかも、すずはつい先ほどまでこの大神様を犬扱いし、めちゃくちゃに撫で回してしまっている。
不敬にもほどがある自身の行為を思い出し、すずはぺこぺこと頭を下げた。
「すみませんすみませんすみません!! おらは大神様に対してなんて失礼なことを~っ!」
「んはは、全然気にしてないぜ。むしろ気持ちよかったぞ」
ずいぶん景気よくもふもふしてったなあ、と男――もとい大神は、声を立てて笑う。
ようやく我に返ったすずは、大神に謝り倒した後、
「お、おら、死んだんじゃないんですか……?」
と、おそるおそる尋ねた。
自分の頬をつねったり、床や毛皮などの感触を念入りに確かめたりしているのを見るに、混乱はおさまっていないようだ。
「現世では死んだも当然だろうな。まあ、実際はこの隠世でこっそり生き延びてるんだが」
大神はどこから説明したものか、と腕組みしながら思案する。
ほんの数秒間だけ宙にやっていた視線を、再びすずのほうへ戻して、大神はゆっくりと語り始めた。
「んーと、ここは『隠世』って呼ばれる世界でな。すずたち人間が住む『現世』とは別の世界なんだ」
「かくりよ?」
「そう。人間の世界からは隠れて見えないから、『隠り世』。ようは神様やあやかしが住む異界のことだな。普通、人間は隠世には入って来られないんだが、すずは俺が特別に招いて連れてきたんだ」
「おら、神様の世界に招待されたんですか?」
「そういうこった。神隠しって言ってもいいかもな」
大神はすずの解釈を肯定しつつ言う。
神隠しとは、人間が人里から忽然と消える現象のことだ。現世では、神やあやかしが気に入った人間を連れて行ってしまうのだと恐れられていた。
「ありゃ、たまげたぜ。ふもとの神社の近くをたまたま通りかかったら、中から人間のにおいがしてくるじゃん。んで、拝殿を覗いてみたら、人間の女の子が縛られて転がされてるときたもんだ」
大神は光景を目にしたとき、この時代にまだ人身御供なんてことをする人間がいたのか――と、辟易した。他の島では文明開化だの、新時代だのと声高に謳っているのに対して、自分が管轄するこの北国島の、なんとまあ古くさいこと。
もっとも、北国島は厳しい気候のせいで、外国船どころか国内の船でもなかなか近づけないので、他の島よりも文明発達が遅れがちな傾向にある。が、こんな誰も得をしない因習がまだ残っているのかと思うと、情けなくて涙が出てきそうだ。
「まだそんな前時代的なことしてるのな。お前の村」
「はあ。昔から人間はそうして心を鎮めてきたもんですから、なかなか風習が抜けないんでしょうかね」
その風習の犠牲となった当のすずは、もはや他人事だとばかりに、けろりと言う。
「ところで大神様。おらは生贄になることは構わないんですが……その、おらのお願いは叶えてもらえるんでしょうか?」
不安そうに聞いてくるすずの瞼は、伏せられたままだ──彼女の願いは、来世で明るい目をもらうこと。生贄として死んでも構わないから、というその願いからは、すずの切々たる思いが感じ取れる。
「できるよ。なんなら、お前は死ぬ必要なんてない。ちょっくら俺を手伝ってくれるなら、大雪を止めるついでに、明るい目を取り戻す手伝いもしてやるよ」
「本当ですか!」
曇天のような表情から一転、雲ひとつない快晴の空のように、すずの顔は明るく輝いた。
「お前が盲目になった原因は、おそらくその額の痣だ。さっき調べさせてもらったが、物の怪が何らかの目的でかけた呪いだと思う」
「もののけ?」
「平たく言えば、怨霊や悪霊のことだ。人の情念から生まれた怪物だと思えばいい」
「その物の怪というのが、おらに呪いをかけたと? なんのために……」
「それはこれから詳しく探っていかないと分からない。けど、これだけきつい呪いがかかっているのを見ると、すずが物の怪を引き寄せやすい体質だってのは間違いないな」
すずは、苦虫を噛み潰したような顔をする。当たり前だ。自分が悪霊や怨霊を引き寄せやすい体質だと聞いて、少しも気分を悪くしない人間などいない。寒気のようなものを感じて無意識に自分の腕をさすっていた。
しかし大神は口角を吊り上げ、牙を見せながら、大胆不敵に笑う。
「安心しな。俺の傍にいれば、大抵の物の怪は近寄って来れねえよ」
「なしてです?」
「俺は神様だからな。神様を前にしちゃ、物の怪もそうそう悪さはできねえよ。それに、万が一物の怪がすずを襲ってきたとしても、俺だったらそいつらをぶっ飛ばせる。これ以上呪いが酷くなることはないはずだ」
「おお、さすが大神様!」
大神はぴすぴすと自慢げに鼻を鳴らす。
純粋な褒め言葉に舞い上がる彼の尻尾は、ぶんぶん左右に揺れていた。
「つーわけで、俺から一つ提案。お前、ここで俺の世話人として働かないか?」
「ほへっ?」
思わぬ提案に、間抜けな声を出してしまうすず。
「だ、だども、おらは盲目ですし、なんの取り柄もありませんよ?」
すずにできることは、非常に限られている。自分自身のことはある程度できるように訓練してきたものの、他者の世話となれば話は別だ。大神様のお世話役が自分に務まるとは、すずにはとても思えない。
「大丈夫だ、とりあえずすずにお願いしたいのは、俺の毛づくろいだから」
「毛づくろい??」
「おう。あんなに撫でるのが上手い奴は初めてだったなあ。あれを毎日してもらえたら、疲れも吹っ飛びそうだ」
先ほど撫でられた感覚を思い出しながら、大神はうっとりしていた。
「そんげお好きなんですか? 毛づくろい」
「なんだよ、そのちょっとおかしなものを見るような、生温かい表情は! 大事なことだぞ! 毛づくろいが嫌いな獣なんていないし、毛づくろいで翌日の調子が決まると言っても過言じゃない。神様の仕事は大変だからな、神様を労って調子を整えることはそりゃー大事な役目ってわけだ。毛づくろいが上手い奴ってのはそれくらい貴重な人材なんだぜ。ついでに俺個人としては、毛づくろいが上手い女を嫁にしたいと思ってるくらいだ」
「はあ……」
拳を握りしめて熱弁する大神に、少し引き気味のすず。
この人、まだ結婚してないんだ……と思ったのは内緒だ。
「俺はふもとに降り続けてる雪を止めて、お前の目にかかった呪いを解く手伝いもする。代わりにお前は毎日俺の毛づくろいをして、調子を整える手伝いをする。どうだ?」
「わかりました。それで大神様に恩返しができるのなら、精一杯やらせて頂きます」
「本当か! やりい、念願の毛づくろい役を確保し――ッだあッ!?」
喜び勇んで跳び上がった大神は、次の瞬間、ドゴォン!! と建物の梁に勢いよく頭突きをしていた。
同時に、建物全体が軽く揺れるほどの衝撃が起こり、すずの体もぽんっと軽く浮き上がる。
「いッッてえぇぇ……」
「だ、大丈夫ですか、大神様!?」
たんこぶのできた頭を押さえて、大神は撃沈していた。
(この人、意外と調子こきなんだなあ……)
とすずが思ったのもまた、内緒である。
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