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二章 ムーダン王国編
33 罪と罰の重さ
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大神殿の白い廊下をひたすら歩く。
まるで迷宮のようだ、と称するよりも、最早迷宮でいいんじゃないかと、フィリアナは思う。
階段も登ったり降りたりで、元々方向感覚に長けている方ではないので、既に海が何方にあるかなんて分からない。
随所に見える聖騎士の中には、フィリアナが誘惑しようとした者もいて、厳しい視線を送られる。
あんな面倒な事はもうしない、と思うが自分のしたことを考えれば、警戒されるのは当たり前かと自嘲する。
以前のフィリアナなら間違いなく、ここから出る為に性懲りもなく仕掛けただろうが、そんな気も起きない。
欲望と言う名の、パンパンに膨らんでいた風船が、目に見えない小さな穴を開けられて割れる事なく萎んでいく。
ーーーーそれでも助けてくれたのはフィリアナ様だ!
フィリアナにとって、ただの小汚い少年の言葉が、刺さって抜けない棘のようだ。
棘の場所から溶け流れ出て行く、ドロドロの感情。
胸を押さえれば、チクリと痛む。
痛い。あんなに欲しかったモノが、手に入れたかったモノが、いらなくなった。
欲しいと思えない。
少年の、泣きながらの訴えが耳の中で木霊する。
時間の感覚もなくなった頃、漸く一つの扉の前に立たされた。
「入れ」
聖騎士の言葉は余計なものが無く、ただ短く命じられる。
牢獄にしては綺麗な部屋だ。
一歩足を踏み入れれば、簡素だが清潔な場所である事もわかった。
フィリアナが完全に部屋に入った事を確かめると、案内役の神官と聖騎士は、フィリアナを一人残して扉を閉めた。
ふぅ、と息を吐き出して、ベッドに腰を掛ける。やっと一人になれた。
カチャリと手枷が金属の擦れる音をさせる。フィリアナは赤い線の走った白い手の甲を見た。
焼鏝で押された様に、くっきりとした印は爪で引っ掻いても取れず、フィリアナの手に激しい主張を晒す。
護送されている途中で、これが「許されざる者の刻印」と言うらしい事は、ディオンストムに聞いた。
神が許さないと、刻む印。そのじんわりと染み込む痛みは、火傷に似ている。
ーーーーフィリアナ様、ありがとう!
幻聴みたいに繰り返される、少年の声に、耳を塞ぐ。鎖が重たく鳴いた。
聞こえる度に、胸が詰まって痛むのに、うるさく煩わしい声を、忘れたく無いと思ってしまう。
繰り返されるのは、フィリアナが思い出しているからだ。
耳を塞ぐのは、閉じ込めて置きたかったのかも知れない。
その事に気付いた時、フィリアナは泣いた。
少年の言葉の何が、フィリアナの琴線に触れたのか。語彙の少ない、飾り気も無い、心のままに、叫んだだけのものなのに。
痛い筈の胸が、温かかった。
意外な事に、食事も質素だがキチンとしていて、着替えも毎日清潔な物が用意され、シャワーも浴びれる。
訳を聞けば、フィリアナに対する配慮ではなく、取り調べる側に対しての配慮だそうだ。
不潔な環境は病を呼ぶ。こちらに移されでもしたら大変だからだと、素っ気なく言われた。
いつから始まるのかを聞けば、もう直ぐだとしか教えられない。
そんなやり取りを数回繰り返した時、フィリアナは意外すぎる人物のーーーーいや、人ではない、訪問を受けた。
艷やかな黒髪を、髪紐で無造作に束ねた女神。背後には、フィリアナが執着していた男神がいた。女神を後ろから抱き締めて、旋毛の辺りにキスを落としている。
一体何を見せられているのだろと、フィリアナは疲れを感じて脱力した。
「久しぶり、とでも言いましょうか?」
良く通る、メゾソプラノの響きは、どこか皮肉に色づいている。
「なんの用?あたしを嗤いに来たの?神って奴も暇なのね」
手に嵌められた枷と、伸びる鎖を見せてやる。
そのフィリアナの前に居る、女神メイフィアは、無礼な言葉にもただ美しく微笑んだ。
フィリアナが恋い焦がれた存在は、チラとも見ようともしなかったが、心は不思議と凪いでいた。あんなにも欲しかったのに。
「欲しいものが手に入ったからじゃないの?」
フィリアナの心を見透かした様に言う女神は、やっぱり気に入らない。はっきり言えば、嫌いだ。
「何よ、あたしの欲しいものを全部持っているアンタに、言われたくないんだけど?」
女神は軽く首を振ると、溜息をついた。
「本当は、分かっている癖に」
「やっぱりアンタの事、大嫌いよ」
ビリっと殺気がフィリアナに飛んでくる。
女神の背後からだ。そのあまりの恐ろしさに、思わず身を竦めた時、とんでも無いことを聞かされた。
「もう、ラインハルト。駄目だって言ったでしょ?フィリアナのお腹に宿っている命に何かあったらどうするの?」
「ーーーーはぁ!?」
とんでもない意味を持つ事を言い放った女神に、ついさっき感じた恐怖など吹き飛んでしまった。
お腹にいる命。女神は確かにそう言ったし、フィリアナにもそう聞こえた。
寝耳に水どころの衝撃じゃない。
「もしや、と思ってたんだけどね。うん、やっぱり」
「なんの冗談?いい加減にして」
「嘘を言ってどうするのよ。あるでしょ、心当たり。あなたは部屋を移動してもらうわ。お腹の子の為に」
「心、当たりってーーーーサジル、とのしかーーーー」
サジルが、教団と言っていた集団の世話役達とはそれなりに遊んだが、子が出来る行為まで及んだのはサジルだけだ。
「私達はこの後サジルの所へ行くけど、どうする?言う?言わない?」
「言わなくていいわよ」
半ば強引に、事態を呑み込んだフィリアナは、産む前提で進む話を不思議と否定しようとは思わなかった。
また女神に見透かされているようで、腹が立つ。
サジルが処刑されるのは、目に見えている。死にゆく人間に言って、どうするのか。フィリアナとの間に出来た子など、サジルに興味は無いだろう。
「そうーーーーその子が産まれるまでは、フィリアナ、貴女の命の保証はしてあげる。その後は分からないわ。人の裁きを受けるのだから」
フィリアナはそっと腹部に手を当てた。
それは無意識の行動だった。
当然だが、膨らみは全くない。
それなのに、いるのだと、ここに宿っていると、自覚症状は無いのに、ロウソクに灯されたばかりの頼りない火を守る様に。
「産まれた子は、神殿が預かるわ」
子が取り上げられる。この手に抱く事無く。
神殿に預けられると言う事は、そういうことなのだと、フィリアナでも気が付く。
立ち上がり掛け、膝から崩れて、床に蹲る。
身篭るなんて、想像すらしてなかった。
ましてやフィリアナは、子供が好きでは無い。
それでも、突き付けられた事実に悲しくなるのは何故なのか。
きっと、ひと目見る事すら叶わぬのだろう。
一方で、見なくても良いじゃないかと突き放す自分もいて、フィリアナは混乱する。
育てるなんて、冗談じゃないことを神殿がやってくれるんだから、と。
だが、胸に刺さる棘の温もりが、そんなフィリアナを責めるのだ。
涙が止まらなかった。
背負う罪の深さとーーーー罰に。
女神の合図で、老齢の尼僧が入ってきた。フィリアナの背中を擦りながら、穏やかに笑うから、徐々に落ち着きを取り戻す。
この尼僧ーーーー村に居た、老婆?
口の聞けない老婆が、手を仕切りに動かして、フィリアナに何かを伝えようと必死になっている。
「助けてくれて、ありがとう、だそうよ。この尼僧が、あなたの世話をしてくれるのですって。困らせるんじゃないわよ?じゃ、もう行くわ。さようなら、フィリアナ」
「待って。サジルの所にいくんでしょ?伝言お願いーーーーアンタも馬鹿ねって」
頷いた女神は次の瞬間、煙の様に消えていた。
「あなたの名前は?それから、その手話?え、違うの?あたしの言っている事は分かるの?」
老婆は首を振ったり、頷いたりしている。
「はぁ、筆談は文字が書けないし。そうね、二人で手話を習っても良いわね」
折角、産まれるまでの命は、保証してくれるのだから。
手話の真似事で手首を動かせば、重い手枷が擦る皮膚。白い手の甲からはいつの間にか、刻印が消えていた。
「ーーーーだからアンタは嫌いなのよ、女神メイフィア」
老婆の瞳に写るフィリアナの顔は、穏やかだった。
まるで迷宮のようだ、と称するよりも、最早迷宮でいいんじゃないかと、フィリアナは思う。
階段も登ったり降りたりで、元々方向感覚に長けている方ではないので、既に海が何方にあるかなんて分からない。
随所に見える聖騎士の中には、フィリアナが誘惑しようとした者もいて、厳しい視線を送られる。
あんな面倒な事はもうしない、と思うが自分のしたことを考えれば、警戒されるのは当たり前かと自嘲する。
以前のフィリアナなら間違いなく、ここから出る為に性懲りもなく仕掛けただろうが、そんな気も起きない。
欲望と言う名の、パンパンに膨らんでいた風船が、目に見えない小さな穴を開けられて割れる事なく萎んでいく。
ーーーーそれでも助けてくれたのはフィリアナ様だ!
フィリアナにとって、ただの小汚い少年の言葉が、刺さって抜けない棘のようだ。
棘の場所から溶け流れ出て行く、ドロドロの感情。
胸を押さえれば、チクリと痛む。
痛い。あんなに欲しかったモノが、手に入れたかったモノが、いらなくなった。
欲しいと思えない。
少年の、泣きながらの訴えが耳の中で木霊する。
時間の感覚もなくなった頃、漸く一つの扉の前に立たされた。
「入れ」
聖騎士の言葉は余計なものが無く、ただ短く命じられる。
牢獄にしては綺麗な部屋だ。
一歩足を踏み入れれば、簡素だが清潔な場所である事もわかった。
フィリアナが完全に部屋に入った事を確かめると、案内役の神官と聖騎士は、フィリアナを一人残して扉を閉めた。
ふぅ、と息を吐き出して、ベッドに腰を掛ける。やっと一人になれた。
カチャリと手枷が金属の擦れる音をさせる。フィリアナは赤い線の走った白い手の甲を見た。
焼鏝で押された様に、くっきりとした印は爪で引っ掻いても取れず、フィリアナの手に激しい主張を晒す。
護送されている途中で、これが「許されざる者の刻印」と言うらしい事は、ディオンストムに聞いた。
神が許さないと、刻む印。そのじんわりと染み込む痛みは、火傷に似ている。
ーーーーフィリアナ様、ありがとう!
幻聴みたいに繰り返される、少年の声に、耳を塞ぐ。鎖が重たく鳴いた。
聞こえる度に、胸が詰まって痛むのに、うるさく煩わしい声を、忘れたく無いと思ってしまう。
繰り返されるのは、フィリアナが思い出しているからだ。
耳を塞ぐのは、閉じ込めて置きたかったのかも知れない。
その事に気付いた時、フィリアナは泣いた。
少年の言葉の何が、フィリアナの琴線に触れたのか。語彙の少ない、飾り気も無い、心のままに、叫んだだけのものなのに。
痛い筈の胸が、温かかった。
意外な事に、食事も質素だがキチンとしていて、着替えも毎日清潔な物が用意され、シャワーも浴びれる。
訳を聞けば、フィリアナに対する配慮ではなく、取り調べる側に対しての配慮だそうだ。
不潔な環境は病を呼ぶ。こちらに移されでもしたら大変だからだと、素っ気なく言われた。
いつから始まるのかを聞けば、もう直ぐだとしか教えられない。
そんなやり取りを数回繰り返した時、フィリアナは意外すぎる人物のーーーーいや、人ではない、訪問を受けた。
艷やかな黒髪を、髪紐で無造作に束ねた女神。背後には、フィリアナが執着していた男神がいた。女神を後ろから抱き締めて、旋毛の辺りにキスを落としている。
一体何を見せられているのだろと、フィリアナは疲れを感じて脱力した。
「久しぶり、とでも言いましょうか?」
良く通る、メゾソプラノの響きは、どこか皮肉に色づいている。
「なんの用?あたしを嗤いに来たの?神って奴も暇なのね」
手に嵌められた枷と、伸びる鎖を見せてやる。
そのフィリアナの前に居る、女神メイフィアは、無礼な言葉にもただ美しく微笑んだ。
フィリアナが恋い焦がれた存在は、チラとも見ようともしなかったが、心は不思議と凪いでいた。あんなにも欲しかったのに。
「欲しいものが手に入ったからじゃないの?」
フィリアナの心を見透かした様に言う女神は、やっぱり気に入らない。はっきり言えば、嫌いだ。
「何よ、あたしの欲しいものを全部持っているアンタに、言われたくないんだけど?」
女神は軽く首を振ると、溜息をついた。
「本当は、分かっている癖に」
「やっぱりアンタの事、大嫌いよ」
ビリっと殺気がフィリアナに飛んでくる。
女神の背後からだ。そのあまりの恐ろしさに、思わず身を竦めた時、とんでも無いことを聞かされた。
「もう、ラインハルト。駄目だって言ったでしょ?フィリアナのお腹に宿っている命に何かあったらどうするの?」
「ーーーーはぁ!?」
とんでもない意味を持つ事を言い放った女神に、ついさっき感じた恐怖など吹き飛んでしまった。
お腹にいる命。女神は確かにそう言ったし、フィリアナにもそう聞こえた。
寝耳に水どころの衝撃じゃない。
「もしや、と思ってたんだけどね。うん、やっぱり」
「なんの冗談?いい加減にして」
「嘘を言ってどうするのよ。あるでしょ、心当たり。あなたは部屋を移動してもらうわ。お腹の子の為に」
「心、当たりってーーーーサジル、とのしかーーーー」
サジルが、教団と言っていた集団の世話役達とはそれなりに遊んだが、子が出来る行為まで及んだのはサジルだけだ。
「私達はこの後サジルの所へ行くけど、どうする?言う?言わない?」
「言わなくていいわよ」
半ば強引に、事態を呑み込んだフィリアナは、産む前提で進む話を不思議と否定しようとは思わなかった。
また女神に見透かされているようで、腹が立つ。
サジルが処刑されるのは、目に見えている。死にゆく人間に言って、どうするのか。フィリアナとの間に出来た子など、サジルに興味は無いだろう。
「そうーーーーその子が産まれるまでは、フィリアナ、貴女の命の保証はしてあげる。その後は分からないわ。人の裁きを受けるのだから」
フィリアナはそっと腹部に手を当てた。
それは無意識の行動だった。
当然だが、膨らみは全くない。
それなのに、いるのだと、ここに宿っていると、自覚症状は無いのに、ロウソクに灯されたばかりの頼りない火を守る様に。
「産まれた子は、神殿が預かるわ」
子が取り上げられる。この手に抱く事無く。
神殿に預けられると言う事は、そういうことなのだと、フィリアナでも気が付く。
立ち上がり掛け、膝から崩れて、床に蹲る。
身篭るなんて、想像すらしてなかった。
ましてやフィリアナは、子供が好きでは無い。
それでも、突き付けられた事実に悲しくなるのは何故なのか。
きっと、ひと目見る事すら叶わぬのだろう。
一方で、見なくても良いじゃないかと突き放す自分もいて、フィリアナは混乱する。
育てるなんて、冗談じゃないことを神殿がやってくれるんだから、と。
だが、胸に刺さる棘の温もりが、そんなフィリアナを責めるのだ。
涙が止まらなかった。
背負う罪の深さとーーーー罰に。
女神の合図で、老齢の尼僧が入ってきた。フィリアナの背中を擦りながら、穏やかに笑うから、徐々に落ち着きを取り戻す。
この尼僧ーーーー村に居た、老婆?
口の聞けない老婆が、手を仕切りに動かして、フィリアナに何かを伝えようと必死になっている。
「助けてくれて、ありがとう、だそうよ。この尼僧が、あなたの世話をしてくれるのですって。困らせるんじゃないわよ?じゃ、もう行くわ。さようなら、フィリアナ」
「待って。サジルの所にいくんでしょ?伝言お願いーーーーアンタも馬鹿ねって」
頷いた女神は次の瞬間、煙の様に消えていた。
「あなたの名前は?それから、その手話?え、違うの?あたしの言っている事は分かるの?」
老婆は首を振ったり、頷いたりしている。
「はぁ、筆談は文字が書けないし。そうね、二人で手話を習っても良いわね」
折角、産まれるまでの命は、保証してくれるのだから。
手話の真似事で手首を動かせば、重い手枷が擦る皮膚。白い手の甲からはいつの間にか、刻印が消えていた。
「ーーーーだからアンタは嫌いなのよ、女神メイフィア」
老婆の瞳に写るフィリアナの顔は、穏やかだった。
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