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番外編 ウルゲンチ戦ーーモンゴル崩し
第1話 アルプ・エル・カン
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サマルカンドが古のソグドの栄華を伝える大都とすれば、ここニーシャープールはやはりゾロアスターの教えを導きとしたササン朝をしのばせる都城である。
何せ、この都はその創建をシャープール1世(在位241~272)――ササン朝の最盛期を築いたところの皇帝――に帰せられ、また、その名を冠するゆえに。
これは、日本では卑弥呼が魏に朝貢した年月(239年)に近い。
ただ、古い歴史を誇るペルシアにしては
――その前史をひもとけば、ダレイオス1世のペルシア帝国の繁栄もあれば、アレクサンドロス大王の輝きもあり、とまばゆいばかりである
――少し創建が遅いようにも感じられる。
しかし、ゆえなきことではない。
ここは地味は肥沃ではあれ、河川に恵まれていた訳ではなかった。この地の水は、飲用であれ農業用であれ、山より地下の横井戸を通した水路――いわゆるカナート――に依存せざるを得ぬゆえに。
そう、ここは人工の都だったのである。
そうして一度水が引かれたならば、交通の要衡であったこの地は、ホラーサーン(アム・ダリヤ南岸側の広大肥沃な地)の4大都城の1つに数えられるほどに繁栄したのであった。
ブジルの激しい追撃をかわしたティムール・マリクとジャラール・ウッディーンがここを通過したのは、ヒジュラ暦617年ズル・ヒッジャ月(第12月、巡礼月とも)の15日、即ち満月の夜と伝えられる。(1221年2月10日頃)
ところで話は9ヶ月ばかりさかのぼる。未だ前スルターンのムハンマドが存命の時、617年のラビー1月(第3月)の8日に。(1220年の5月13日頃)
呆然自失するアルプ・エル・カンの目の先にあるは、晴れた青空であった。その美しさは、これまでどこにいても己を魅了した。この近郊に産するトルコ石はその美しき空色で評判であったが、それであれ、そのまがい物に過ぎぬとしか想えなかった。しかし、今日ばかりは、いつもの美しさを保つを得ぬようであった。
大の大人にかかわらず、また、まさに、そのスルターンより授かった勇者を意味する称号にいくらふさわしくなかろうとも、更にいえば、鬼の如きとからかわれる己のいかつき顔にそぐわぬとしても、どうしても涙がこぼれて来て、にじんでしまうゆえであった。
サマルカンドを放棄すると決めた時でさえ、また、アム・ダリヤを渡る際に多くの部下を失ってでさえ、これほどの落胆と失意はなかった。
何であれ、この後、再びスルターンにまみえ、仕えるを得るならば、いかなる犠牲にも喪失にも耐えられると想っておった。
しかし、そのスルターンにかような仕打ちを受けるとは。頼りにされるとまでは行かなくとも、お役にたてるのではと想っておった。
スルターンは、昨日、王子たちと少数の側近のみを連れ、ニーシャープールを去ったのだった。しかも猟に赴くとの明らかな嘘をついてであった。
よほど我らが付き従うのを望まなかったのだろう。親とも慕うスルターンである。にわかには信じられぬ。それもあり、やむにやまれぬ事情があってと想いたいが、すぐには浮かばぬ。
己が逃げ来たったとき、スルターンはまったく嬉しげな表情を見せず、困った如くの顔をしておった。むしろ、そんなことばかりが想い出された。
といって、スルターンが言い残したとされる――これでさえ、直接告げられた訳ではなかった――置き手紙の如くが残されておったと聞く、
『モンゴル軍と戦うほど愚かなことはない。ひたすら命をまっとうせよ。降伏してであれ、逃げてであれ。ダール・アル・イスラームたるこの国にはふさわしくない者ども、あの地獄に落ちるべき異教の者どもはいずれ去る。ただその時のために』
この命に従う気力さえ己の内には見出せなかった。
また、主人に捨てられた奴隷軍人に行く当てなど、頼る当てなどあろうはずがない。
こうなってみれば、自らの失ったものを痛感せざるを得ぬ。
そして想い出されるのは、サマルカンドの軍議にてのカンクリ勢の発言であった。ウルゲンチで集結を図るとの。己はスルターンにこそ恩義はあれ、カンクリ勢には全くない。
ただスルターンの言葉に従わぬとなればそれは戦うということである。そして強大なモンゴル軍相手となれば、共に戦うに足るは、カンクリ勢しかおらぬ。
同時にアルプ・エル・カン自身、半ば気付いておった。己は誰かに必要とされたがっておると。
この両方の希望をかなえようとするならば、我も、またウルゲンチへ。これこそが、己を保ち得る、そしてそれゆえにすがるべき一筋の光明とさえ想えた。
かつてアム・ダリヤ岸にて、敵モンゴル部隊の追撃を逃れ、馳せた先に夕日が見えた。それは己にとって希望の光――我を誘う予言者ムハンマドの現れたる光とさえ想えたが。
近しき想いを持つ者たち――その多くは自身と同じマムルークであった――そもそもの自らの部下も含めて、希望する者およそ総勢2百数十を連れて、アルプ・エル・カンはニーシャープールを経った。
そして今カラ・クム砂漠の入口にあるファラーワ(トルクメニスタンにある現セルダル旧名キジル・アルバト)の砦のかつての名残を見ておった。
これは、かつてのムスリム勢の最前線の砦(注:いわゆるリバート。その部隊は宗教的な情熱に駆られた志願兵が多くを占める)であると。そしてその時のホラズムの支配者は、その教えの正しさも、自らが治める地の将来も見通すことができなかったのであろう。イスラームを受け入れるにおいて、尋常でないほどにあらがったのである。それが誤りであったことは歴史が証明しておる。どのようにすれば、そのように愚かしく、また頑迷になりえるのか、我には想像がつかぬと。
スルターンはそう言って笑っておられた。
そう年配のマムルークが先ほど教えてくれた。
それを今日の残照が照らしておった。
後書きです。
アルプ・エル・カンのアム・ダリヤ岸にての戦いは第3部『78:サマルカンド戦8:アルプ・エル・カン』にあります。
また、番外編は(ストックが切れた段階で)のんびり更新となります。皆さんも気楽に楽しんでいただければと想います。
何せ、この都はその創建をシャープール1世(在位241~272)――ササン朝の最盛期を築いたところの皇帝――に帰せられ、また、その名を冠するゆえに。
これは、日本では卑弥呼が魏に朝貢した年月(239年)に近い。
ただ、古い歴史を誇るペルシアにしては
――その前史をひもとけば、ダレイオス1世のペルシア帝国の繁栄もあれば、アレクサンドロス大王の輝きもあり、とまばゆいばかりである
――少し創建が遅いようにも感じられる。
しかし、ゆえなきことではない。
ここは地味は肥沃ではあれ、河川に恵まれていた訳ではなかった。この地の水は、飲用であれ農業用であれ、山より地下の横井戸を通した水路――いわゆるカナート――に依存せざるを得ぬゆえに。
そう、ここは人工の都だったのである。
そうして一度水が引かれたならば、交通の要衡であったこの地は、ホラーサーン(アム・ダリヤ南岸側の広大肥沃な地)の4大都城の1つに数えられるほどに繁栄したのであった。
ブジルの激しい追撃をかわしたティムール・マリクとジャラール・ウッディーンがここを通過したのは、ヒジュラ暦617年ズル・ヒッジャ月(第12月、巡礼月とも)の15日、即ち満月の夜と伝えられる。(1221年2月10日頃)
ところで話は9ヶ月ばかりさかのぼる。未だ前スルターンのムハンマドが存命の時、617年のラビー1月(第3月)の8日に。(1220年の5月13日頃)
呆然自失するアルプ・エル・カンの目の先にあるは、晴れた青空であった。その美しさは、これまでどこにいても己を魅了した。この近郊に産するトルコ石はその美しき空色で評判であったが、それであれ、そのまがい物に過ぎぬとしか想えなかった。しかし、今日ばかりは、いつもの美しさを保つを得ぬようであった。
大の大人にかかわらず、また、まさに、そのスルターンより授かった勇者を意味する称号にいくらふさわしくなかろうとも、更にいえば、鬼の如きとからかわれる己のいかつき顔にそぐわぬとしても、どうしても涙がこぼれて来て、にじんでしまうゆえであった。
サマルカンドを放棄すると決めた時でさえ、また、アム・ダリヤを渡る際に多くの部下を失ってでさえ、これほどの落胆と失意はなかった。
何であれ、この後、再びスルターンにまみえ、仕えるを得るならば、いかなる犠牲にも喪失にも耐えられると想っておった。
しかし、そのスルターンにかような仕打ちを受けるとは。頼りにされるとまでは行かなくとも、お役にたてるのではと想っておった。
スルターンは、昨日、王子たちと少数の側近のみを連れ、ニーシャープールを去ったのだった。しかも猟に赴くとの明らかな嘘をついてであった。
よほど我らが付き従うのを望まなかったのだろう。親とも慕うスルターンである。にわかには信じられぬ。それもあり、やむにやまれぬ事情があってと想いたいが、すぐには浮かばぬ。
己が逃げ来たったとき、スルターンはまったく嬉しげな表情を見せず、困った如くの顔をしておった。むしろ、そんなことばかりが想い出された。
といって、スルターンが言い残したとされる――これでさえ、直接告げられた訳ではなかった――置き手紙の如くが残されておったと聞く、
『モンゴル軍と戦うほど愚かなことはない。ひたすら命をまっとうせよ。降伏してであれ、逃げてであれ。ダール・アル・イスラームたるこの国にはふさわしくない者ども、あの地獄に落ちるべき異教の者どもはいずれ去る。ただその時のために』
この命に従う気力さえ己の内には見出せなかった。
また、主人に捨てられた奴隷軍人に行く当てなど、頼る当てなどあろうはずがない。
こうなってみれば、自らの失ったものを痛感せざるを得ぬ。
そして想い出されるのは、サマルカンドの軍議にてのカンクリ勢の発言であった。ウルゲンチで集結を図るとの。己はスルターンにこそ恩義はあれ、カンクリ勢には全くない。
ただスルターンの言葉に従わぬとなればそれは戦うということである。そして強大なモンゴル軍相手となれば、共に戦うに足るは、カンクリ勢しかおらぬ。
同時にアルプ・エル・カン自身、半ば気付いておった。己は誰かに必要とされたがっておると。
この両方の希望をかなえようとするならば、我も、またウルゲンチへ。これこそが、己を保ち得る、そしてそれゆえにすがるべき一筋の光明とさえ想えた。
かつてアム・ダリヤ岸にて、敵モンゴル部隊の追撃を逃れ、馳せた先に夕日が見えた。それは己にとって希望の光――我を誘う予言者ムハンマドの現れたる光とさえ想えたが。
近しき想いを持つ者たち――その多くは自身と同じマムルークであった――そもそもの自らの部下も含めて、希望する者およそ総勢2百数十を連れて、アルプ・エル・カンはニーシャープールを経った。
そして今カラ・クム砂漠の入口にあるファラーワ(トルクメニスタンにある現セルダル旧名キジル・アルバト)の砦のかつての名残を見ておった。
これは、かつてのムスリム勢の最前線の砦(注:いわゆるリバート。その部隊は宗教的な情熱に駆られた志願兵が多くを占める)であると。そしてその時のホラズムの支配者は、その教えの正しさも、自らが治める地の将来も見通すことができなかったのであろう。イスラームを受け入れるにおいて、尋常でないほどにあらがったのである。それが誤りであったことは歴史が証明しておる。どのようにすれば、そのように愚かしく、また頑迷になりえるのか、我には想像がつかぬと。
スルターンはそう言って笑っておられた。
そう年配のマムルークが先ほど教えてくれた。
それを今日の残照が照らしておった。
後書きです。
アルプ・エル・カンのアム・ダリヤ岸にての戦いは第3部『78:サマルカンド戦8:アルプ・エル・カン』にあります。
また、番外編は(ストックが切れた段階で)のんびり更新となります。皆さんも気楽に楽しんでいただければと想います。
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