夢喫茶ムーンミルク、秘密はラテに溶かして ーー(諜報×バリスタ。利用するつもりが“やさしさ”に振り回される。じれ甘。)

星乃和花

文字の大きさ
7 / 14

第6話 共有ラテ伝承と師匠の影

しおりを挟む
世界でいちばん短い夜の部の、さらに細い隙間。
看板を裏向きにしてから、湯気だけがまだ店に残っている時間だった。

ルルは奥の棚から古い木箱を持ち出した。蓋の内側に、淡い墨で丸い耳が二つ。
――師匠の落書き。月兎。
木箱の中には、擦れた手帳と、刃の欠けた古い月匙が一本。

「……欠けたの、やっぱりここにあったか」

匙の刃の縁は、どこかで強く当たったときのように、三日月に似た欠けを作っていた。
手帳を開くと、墨の字が素っ気なく並ぶ。

共有ラテの注意
一、同時の最初の一口。遅れてはならない。
二、離さない。怖さが来たら、声にして申告。
三、帰る合図を決めておくこと。泡が泣いたら無理をしない。

ルルは指で三行をなぞり、息をひとつ。
背後から、匙の音がこんと落ちた。

「結論から言え。……それは、君の師匠の」
「うん。置いていったままの、帰ってこないもの」
「なぜ、欠けた」
「離しちゃったから。――共有の最中、怖くなって」

言葉にすると、胸の奥の薄い膜がぷつりと鳴る。
ミルが泡から顔を出し、“ぴぴ”。近くにいるよ、の合図。

ネブライは木箱の前に立ち、欠けた月匙を掌で量るように見た。
「帰る合図は?」
「決めてなかった。だから、泡が泣いた音が、ただの失敗の音に聞こえた」

「では、決める」
ネブライは迷いなく、カウンターに小さな紙片を並べた。
【帰る合図】
一、ミルが二回鳴いたら、戻る。
二、どちらかが“怖い”と口にしたら、戻る。
三、梯子が見えたら、上らない。

ルルは目を瞬いて、笑った。
「三番目、あなたのためでしょ」
「過去に、上りすぎた自覚がある」

彼はいつもの調子で言いながら、目だけが短く逸れた。
ほころびの端が見える。そこに触れないやさしさを、ルルは選ぶ。

「……練習、もう一回しよう。ミクロで。泡を厚く、時間を短く。負荷をかけず、癖だけ揃える」

ルルはノイズレスを極薄で落とし、ミルクを月熱で温める。
月匙で“ぬくもり”を均すと、表面に二羽の月兎が自然に浮いた。
ミルが“ぴぴ”。準備完了。

「同時に、一口。離さない。――ね」
「了解した」

ふたりでカップに手を添える。
「いち、に」
舌に触れる温度は低い。泡はぷくと息をし、
――しゅん、と短く泣いた。
けれど、割れきらない。泣いた泡の縁が、すぐに持ち直す。

「今の、持った」
「三秒。前回より二秒、長い」
ネブライは実務的に数え、しかし指先はほのかに震えていた。
ルルは震えを責めない。震えることは、離さないの逆証明だ。

「こわかった?」
「こわい」
「うん。――わたしも、こわい」

ミルが二回、やわらかく鳴く。“ぴぴ”。
約束どおり、二人は同時にカップから唇を離した。

静けさ。
外の路地で、誰かが靴音を落とし、遠い鐘が鉄の息を吐く。
ネブライは木箱の手帳を見て、小さく息を吸った。

「君の師匠は、どこで置き去りになった」
「夢の図書室。――“悲しみの棚”の、いちばん奥。誰かの**『忘れたい日』**の本を開いたとき」
ルルは手帳の別の頁を見せる。そこには乱れた字で、短い記述。

泡、主観の涙に引かれやすし。
“相手の代わりに泣く”禁ず。
置いていくのは、灯りだけ。

「代わりに泣いた?」
「……泣いた。だから、泡が割れた。師匠は向こう側に残って、わたしの手は離れた」

ネブライは欠けた月匙を握った。
「君は戻った。戻って、今ここで人に灯りを置いている」
「置けてる、といいな」

ルルはフィルターの輪を鳴らす。こん。
鈍さはまだ残っている。網は街の屋根に薄くかかり続ける。

「紙の報告は?」
「“耳の検査”として、手順を起こした。――面目は朝に整える」
ネブライは書類の束をカウンターに置いた。箇条が明快で、余白に猫のアイコン。
「誰が描いたの」
「書記官だ。昨夜、会議で寝た若者。猫が気に入ったらしい」

ルルはふっと笑い、すぐ真顔に戻る。
「黒幕、誰だと思う?」
「推測はある。だが、まだ言わない」
「結論から言って」
「君の師匠に、敬意を払うためだ。憶測で泡を割らない」

沈黙が二人の間にやさしく落ちる。
ルルはカップの泡に星座を描く。点と点を繋げ、網の図をあえて見えるようにしてから、
その中に、舟を一艘。
舟は線に触れる前に向きを変え、糸電話の端をくぐって出ていく。

ミルが“ぴぴ”。
「ほどけるね」
「ほどく。切らない。――君のやり方が、王都に合う」

ネブライの声は低く、迷いが少しずつ削れていく。
彼は手帳の空白頁に短く書いた。
・帰る合図 運用開始
・ミクロ共有 成功(3秒)
・次回は“灯りだけ置く”の訓練

「灯り、置けるかな」
「置ける。君は毎晩、カウンターに置いている」

そのとき、扉の外で衣擦れ。
夢務院の監査補が、両手で紙束を抱え、躊躇いながら顔をのぞかせた。
「夜分に失礼します。……手順、拝見したくて」
ルルはカウンターの中へ招いた。
「どうぞ。泡、静かにね。耳で読むから」

監査補は紙の上ではなく、ルルが輪を鳴らす音に合わせて頷く。
「“帰る合図”……。規則にはない項目です」
「規則を守るための項目だよ。守るのは、人だから」
青年は目を伏せてから、深く頷いた。
「――僕、昨夜、眠れたんです」
「よかった」
「朝になって、言いたかった言葉が、普通に口から出た。……“面目は朝に整える”って」
ネブライは咳払いをして、目を逸らした。
ルルは笑い、ミルが“ぴぴ”。

「報告は上げます。猶予は四十八時間。その間に、網の結び目の位置を紙に落としてください」
「紙に落とす前に、泡に落とす。――耳で合わせる地図の方が、正確だから」
「承知しました。……それ、僕の言葉じゃないですね」
「うん。君の朝の言葉」

青年が去り、扉が静かに閉じる。
ルルは木箱をもう一度、手前に引き寄せた。
古い月匙の欠け目に指を重ね、掌の温度で縁を温める。

「ねえ、ネブライ。怖さって、どこから来る?」
「結論から言う。間に合わなかった鐘から」
言葉はいつもより遅く出た。
「昔、鐘楼で。私は情報を上まで運ぶ梯子を、一本、信じすぎた。鐘は鳴らなかった。人が落ちた。……それ以来、眠る時、鐘の裏側に指をかける夢を見続けている」

梯子。鐘楼。昨夜の市場。
点が線で繋がる音がした。ルルは泡に小さな灯りを描く。
丸い点。舟の先。
「じゃあ、今夜の訓練は、“置いていく灯り”。あなたが鐘の裏側から帰る道に、灯りを置く」

彼は頷いた。
「共有は、まだミクロで」
「うん。泡が泣いたら、即帰る」

二人はさっきと同じ段取りで、もう一度だけ短い共有を行った。
一口。泡が、かすかに泣きかけ、持ち直す。
ミルが一回だけ鳴いた。“ぴ”。
――合格。泣き声が“合図の前”に止まった。

「三秒半」
「半、が好き」
「刻むのは仕事だ」

わずかな笑い。
外には、まだ夜の色。
だが、天窓の端に、朝の薄青が一本、差し始めていた。

ルルは木箱に月匙を戻し、手帳の最後の頁に一行書き足す。

灯りを置く訓練、ミクロ成功。
二人で見る夢への準備、進行中。

ネブライは外套を羽織り、禁ラテ札の前で立ち止まった。
「……それは、いつ外れる」
「“怖い”って、ちゃんと言えたら」
彼は一拍置き、正面から頷いた。
「言う。怖い。――だから、離さない」

ミルが“ぴぴ”。
約束が、音になって店に残る。

「いってらっしゃい。仕事に?」
「結び目を地図に」
「帰ってきて。灯り、増やしておくから」

匙の音が最後に一つ。
世界でいちばん短い夜の部は、
泡の上に小さな灯りを点しながら、朝へ寄っていく。
しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

拾った年上侯爵が甘え上手すぎて、よしよししてたら婚約することになりました

星乃和花
恋愛
⭐︎火木土21:00更新ー本編8話・後日談8話⭐︎ 王都の市場で花屋をしているリナは、ある朝―― 路地裏で倒れている“美形の年上男性”を拾ってしまう。 熱で弱っているだけ……のはずが、彼はなぜか距離が近い。 「行かないで」「撫でて」「君がいると回復する」 甘えが上手すぎるうえに、褒め方までずるい。 よしよし看病してあげていたら、いつの間にか毎日市場に現れるようになり、 気づけば花屋は貴族の面会所(?)になっていて―― しかも彼の正体は、王都を支える侯爵家の当主だった!? 「君は国のために必要だ(※僕が倒れるから)」 年上当主の“甘え策略”に、花屋の心臓は今日ももたない。 ほのぼの王都日常コメディ×甘やかし捕獲ラブ、開幕です。

天然だと思ったギルド仲間が、実は策士で独占欲強めでした

星乃和花
恋愛
⭐︎完結済ー本編8話+後日談7話⭐︎ ギルドで働くおっとり回復役リィナは、 自分と似た雰囲気の“天然仲間”カイと出会い、ほっとする。 ……が、彼は実は 天然を演じる策士だった!? 「転ばないで」 「可愛いって言うのは僕の役目」 「固定回復役だから。僕の」 優しいのに過保護。 仲間のはずなのに距離が近い。 しかも噂はいつの間にか——「軍師(彼)が恋してる説」に。 鈍感で頑張り屋なリィナと、 策を捨てるほど恋に負けていくカイの、 コメディ強めの甘々ギルド恋愛、開幕! 「遅いままでいい――置いていかないから。」

冷酷騎士様の「愛さない」は一分も持たなかった件

水月
恋愛
「君を愛するつもりはない」 結婚初夜、帝国最強の冷酷騎士ヴォルフラム・ツヴァルト公爵はそう言い放った。 出来損ないと蔑まれ、姉の代わりの生贄として政略結婚に差し出されたリーリア・ミラベルにとって、それはむしろ救いだった。 愛を期待されないのなら、失望させることもない。 契約妻として静かに役目を果たそうとしたリーリアは、緩んだ軍服のボタンを自らの銀髪と微弱な強化魔法で直す。 ただ「役に立ちたい」という一心だった。 ――その瞬間。 冷酷騎士の情緒が崩壊した。 「君は、自分の価値を分かっていない」 開始一分で愛さない宣言は撤回。 無自覚に自己評価が低い妻に、激重独占欲を発症した最強騎士が爆誕する。 以後、 寝室は強制統合 常時抱っこ移動 一秒ごとに更新される溺愛 妻を傷つける者には容赦なし宣言 甘さ過多、独占欲過剰、愛情暴走中。 さらにはリーリアを取り戻そうとする実家の横槍まで入り――? 自己評価ゼロの健気令嬢と愛が一分も我慢できなかった最強騎士。 溺愛が止まらない、契約結婚から始まる甘すぎる逆転ラブコメ

強面夫の裏の顔は妻以外には見せられません!

ましろ
恋愛
「誰がこんなことをしろと言った?」 それは夫のいる騎士団へ差し入れを届けに行った私への彼からの冷たい言葉。 挙げ句の果てに、 「用が済んだなら早く帰れっ!」 と追い返されてしまいました。 そして夜、屋敷に戻って来た夫は─── ✻ゆるふわ設定です。 気を付けていますが、誤字脱字などがある為、あとからこっそり修正することがあります。

冷徹団長の「ここにいろ」は、騎士団公認の“抱きしめ命令”です

星乃和花
恋愛
⭐︎完結済ー全16話+後日談5話⭐︎ 王都最硬派、規律と責任の塊――騎士団長ヴァルド・アークライトは、夜の見回り中に路地で“落とし物”を拾った。 ……いや、拾ったのは魔物の卵ではなく、道端で寝ていた少女だった。しかも目覚めた彼女は満面の笑みで「落とし物です!拾ってくださってありがとうございます!」と言い張り、団長の屋敷を“保護施設”だと勘違いして、掃除・料理・当番表作りに騎士の悩み相談まで勝手に開始。 追い出せば泣く、士気は落ちる、そして何より――ヴァルド自身の休息が、彼女の存在に依存し始めていく。 無表情のまま「危ないから、ここにいろ」と命令し続ける団長に、周囲はざわつく。「それ、溺愛ですよ」 騎士団内ではついに“団長語翻訳係”まで誕生し、命令が全部“愛の保護”に変換されていく甘々溺愛コメディ!

拝啓、婚約者さま

松本雀
恋愛
――静かな藤棚の令嬢ウィステリア。 婚約破棄を告げられた令嬢は、静かに「そう」と答えるだけだった。その冷静な一言が、後に彼の心を深く抉ることになるとも知らずに。

バッドエンド予定の悪役令嬢が溺愛ルートを選んでみたら、お兄様に愛されすぎて脇役から主役になりました

美咲アリス
恋愛
目が覚めたら公爵令嬢だった!?貴族に生まれ変わったのはいいけれど、美形兄に殺されるバッドエンドの悪役令嬢なんて絶対困る!!死にたくないなら冷酷非道な兄のヴィクトルと仲良くしなきゃいけないのにヴィクトルは氷のように冷たい男で⋯⋯。「どうしたらいいの?」果たして私の運命は?

【短編】淫紋を付けられたただのモブです~なぜか魔王に溺愛されて~

双真満月
恋愛
不憫なメイドと、彼女を溺愛する魔王の話(短編)。 なんちゃってファンタジー、タイトルに反してシリアスです。 ※小説家になろうでも掲載中。 ※一万文字ちょっとの短編、メイド視点と魔王視点両方あり。

処理中です...