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東夷の巻
馬の睾丸を抜く男
舟に乗って海に出ると、陸とは別の世界が見える。海の船乗りたちが言う東西南北は普通の方位とは少し違っているし、距離の測り方も陸上とは異なる。張政たちが倭地へ往くため弁韓の狗邪国に入ったのは、正始元年の初夏四月の事である。帯方郡から狗邪国までは、海岸に循って行く。この行程は小島が多く、入り組んだ航路で、潮の満干による流れを利用して舟を走らせる事が出来る。ずっと南し、大海に抵ると東へ折れて、しばらく進むと狗邪国に到る。狗邪国は大海の北岸に在り、帯方郡からは七千里余りの距離である。七千里というのは船乗りが使う尺度で、普通の単位なら千里ほどに当たる。
狗邪国のほとりを狗邪水が流れていて、上流からは農産品や鉄材などが運ばれて来る。ここは弁韓随一の港市であり、韓人だけでなく倭・濊・夫余といった人々が多く往来している。張政は、帯方で招集した護衛や役夫などの要員を率いて、難斗米、都市牛利とともに狗邪国に来た。梯儁は別に韓人の水手を連れて、青州に待たせてある賜物を引き取り、追ってここに着いた。梯儁は帯方で張政と別れる前に、慌しく婚礼を済ませた。新婚で勅使としての使命を帯びた建中校尉の梯儁は、晴れがましい表情で狗邪国の津に入った。
大海を渡るための舟は、ここで調達する必要が有る。舟を操る水夫も、当然倭人を雇うのである。倭人がこの海を最もよく知っている。難斗米の顔が利くから、倭人の水夫はすぐに集まった。渡航の時期について船頭らに相談すると、何よりも安全を取るなら風の弱い日が多い七月頃が良かろう、という事であった。帯方から遼東に向かって已来、待つ事の多い旅である。張政たちにはまた暇が出来た。
張政は数々狗邪国の市場を歩いた。張政は馬が買いたかった。今度の任務を考えると、馬は役に立ちそうである。しかしここでは馬はあまり売りに出ない。それはこの市場で一番の買い手である倭人が馬を飼わないからであった。倭人は農耕を知りながら牛馬を飼うという習慣は持っていない。或る日、張政は市場で挹婁人が果下馬を引いているのを見た。果下馬とは、乗ったまま果物の樹の枝をくぐれるという程の小型の馬である。果下馬なら山がちな倭地に適しているし、舟に乗せるのでも都合が良かろう。
「先生、あの馬はどうでしょう」
張政は傍らの背が高い人物に訊いてみた。
「どれ、おれが診て進ぜよう」
と答えたその人は、今度の使節団に随伴する医者で、名は禿骨鋭と称えている。生まれは沙漠、幼くして中国に入って医術を学び、それに飽き足らず西のかた遠く大秦国まで旅して、諸国の医学を博覧し、太陽の沈む穴を見て帰って来たのだと豪語しているが、本当かどうかは誰も知らない。張政とは洛陽で知り合った。洛陽では評判の良くない医者であった。というのは腕が落ちるのではなく、病気を治すには治すが、中国で知られていない薬を使うというので気味悪がられていた。それで楽浪地方には良医が足りないと聞いて、張政たちが還るのに付いて来たのであった。今回の任務にも自ら志願して、
「西のきわから東のはてまで見ることになるのは、どうだ天下広しといえどもおれくらいなものだろう」
と怪気炎を吐いている。旅すがら馬の鑑識も学んで眼は確かだと自賛しているので、張政はこの所この先生を連れて歩いているのである。張政はその挹婁人を呼び止めて売買を持ち掛けた。挹婁人は乗り気である。
「先生、どうです」
「ああ、若い健康な牡だな」
「舟に乗ってくれるでしょうか」
「さあそれは船頭に相談すべきだが、気性はおとなしそうだから悪くなかろう」
という会話をしていると、挹婁人は、なんだ舟に乗せるのか、そんならお誂え向き、おいらはこの馬を連れてそこまで舟で来たのだから、と言う。確かに挹婁人が好く舟を使う事は楽浪地方でも知られている。本当にそうか、と訊けば、本当にそうだ、と答える。張政は俄然この馬が欲しくなった。
「しかし去勢はした方がいいな」
と禿骨先生はその長身を畳んで馬の股を覗き込みながら言う。
「まあ心配ない、おれが切ってやろうから」
「できるんですか」
「なに蛋々なんて人も馬も一緒だよ」
洛陽では百人ばかりちょんぎって宦官として職にありつける体にしてやったのさ、と禿骨先生は語る。おそらく誇張は有るらしい。ともかく張政は旅費に当てる為に持って来た布地を出して、値段の交渉をする。買った後で去勢の手間が掛かるだけは値切って、張政はこの馬を買った。馬には小雷と名を付けた。
宿に戻ると、禿骨鋭は早速、すぐに済むからな、と言って手術に取り掛かる。小雷を庭に引き出し、何かの粉を鼻から吸わせる。小雷は酔った様に足をふらつかせ、座り込むと、眠りに落ちて行く。三人の兵士が小雷を仰向けに返して股を開かせる。禿骨鋭は小さい刃物を使って手際良く両の睾丸を抜き取り、傷口を縫い合わせ、後の簡単な処置は小間使いに言い付ける。こういう手術をするのが楽しいらしく、嬉々とした表情を張政に向けて、
「知っているか? 男でも孩子の内に取ってしまえば、そこらの女より美人になるんだ」
などと話す。こういう所も中国で嫌われた理由なのだと張政は思った。しかし腕が確かである事は看て取れた。小雷の睾丸は、この先生が壜に入れてどこかへ持って行った。
狗邪国のほとりを狗邪水が流れていて、上流からは農産品や鉄材などが運ばれて来る。ここは弁韓随一の港市であり、韓人だけでなく倭・濊・夫余といった人々が多く往来している。張政は、帯方で招集した護衛や役夫などの要員を率いて、難斗米、都市牛利とともに狗邪国に来た。梯儁は別に韓人の水手を連れて、青州に待たせてある賜物を引き取り、追ってここに着いた。梯儁は帯方で張政と別れる前に、慌しく婚礼を済ませた。新婚で勅使としての使命を帯びた建中校尉の梯儁は、晴れがましい表情で狗邪国の津に入った。
大海を渡るための舟は、ここで調達する必要が有る。舟を操る水夫も、当然倭人を雇うのである。倭人がこの海を最もよく知っている。難斗米の顔が利くから、倭人の水夫はすぐに集まった。渡航の時期について船頭らに相談すると、何よりも安全を取るなら風の弱い日が多い七月頃が良かろう、という事であった。帯方から遼東に向かって已来、待つ事の多い旅である。張政たちにはまた暇が出来た。
張政は数々狗邪国の市場を歩いた。張政は馬が買いたかった。今度の任務を考えると、馬は役に立ちそうである。しかしここでは馬はあまり売りに出ない。それはこの市場で一番の買い手である倭人が馬を飼わないからであった。倭人は農耕を知りながら牛馬を飼うという習慣は持っていない。或る日、張政は市場で挹婁人が果下馬を引いているのを見た。果下馬とは、乗ったまま果物の樹の枝をくぐれるという程の小型の馬である。果下馬なら山がちな倭地に適しているし、舟に乗せるのでも都合が良かろう。
「先生、あの馬はどうでしょう」
張政は傍らの背が高い人物に訊いてみた。
「どれ、おれが診て進ぜよう」
と答えたその人は、今度の使節団に随伴する医者で、名は禿骨鋭と称えている。生まれは沙漠、幼くして中国に入って医術を学び、それに飽き足らず西のかた遠く大秦国まで旅して、諸国の医学を博覧し、太陽の沈む穴を見て帰って来たのだと豪語しているが、本当かどうかは誰も知らない。張政とは洛陽で知り合った。洛陽では評判の良くない医者であった。というのは腕が落ちるのではなく、病気を治すには治すが、中国で知られていない薬を使うというので気味悪がられていた。それで楽浪地方には良医が足りないと聞いて、張政たちが還るのに付いて来たのであった。今回の任務にも自ら志願して、
「西のきわから東のはてまで見ることになるのは、どうだ天下広しといえどもおれくらいなものだろう」
と怪気炎を吐いている。旅すがら馬の鑑識も学んで眼は確かだと自賛しているので、張政はこの所この先生を連れて歩いているのである。張政はその挹婁人を呼び止めて売買を持ち掛けた。挹婁人は乗り気である。
「先生、どうです」
「ああ、若い健康な牡だな」
「舟に乗ってくれるでしょうか」
「さあそれは船頭に相談すべきだが、気性はおとなしそうだから悪くなかろう」
という会話をしていると、挹婁人は、なんだ舟に乗せるのか、そんならお誂え向き、おいらはこの馬を連れてそこまで舟で来たのだから、と言う。確かに挹婁人が好く舟を使う事は楽浪地方でも知られている。本当にそうか、と訊けば、本当にそうだ、と答える。張政は俄然この馬が欲しくなった。
「しかし去勢はした方がいいな」
と禿骨先生はその長身を畳んで馬の股を覗き込みながら言う。
「まあ心配ない、おれが切ってやろうから」
「できるんですか」
「なに蛋々なんて人も馬も一緒だよ」
洛陽では百人ばかりちょんぎって宦官として職にありつける体にしてやったのさ、と禿骨先生は語る。おそらく誇張は有るらしい。ともかく張政は旅費に当てる為に持って来た布地を出して、値段の交渉をする。買った後で去勢の手間が掛かるだけは値切って、張政はこの馬を買った。馬には小雷と名を付けた。
宿に戻ると、禿骨鋭は早速、すぐに済むからな、と言って手術に取り掛かる。小雷を庭に引き出し、何かの粉を鼻から吸わせる。小雷は酔った様に足をふらつかせ、座り込むと、眠りに落ちて行く。三人の兵士が小雷を仰向けに返して股を開かせる。禿骨鋭は小さい刃物を使って手際良く両の睾丸を抜き取り、傷口を縫い合わせ、後の簡単な処置は小間使いに言い付ける。こういう手術をするのが楽しいらしく、嬉々とした表情を張政に向けて、
「知っているか? 男でも孩子の内に取ってしまえば、そこらの女より美人になるんだ」
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