文字の大きさ
大
中
小
21 / 41
東夷の巻
王者の眼神
奴国や不弥国が有る地域から川を遡って南して行くと、左右から山系が迫った狭い平地に入る。そこが投馬国で、そこからさらに南すると、倭地では最も広いと云われる平野に出る。東は三方を山塊に囲まれた袋状の地形で、西は扇状に広がって海に開けている。かつてはここに二十余りの小国が有り、互いに平等の攻守同盟を結んでいたが、その中からやがて力を伸ばして盟主となったのが邪馬臺国であった。宗主国と附庸という関係が続く内に、各々は全く国としての体裁を失って、今や邪馬臺国に帰属する邑々に過ぎなくなった。この広い水田地帯から上がる米穀が、邪馬臺の王権を支える原資となっている。
西から東を望むと、樹々に彩られた美しい山並みに抱かれる様にして、姫氏王の都する所である邪馬臺の本国が、その姿を現す。岩肌を露わにした禿山などは見当たらず、流れ出す川は清らかである。邪馬臺の邑は、土塁と壕に囲まれ、矛や剣を持った兵士が人の出入りを見張っている。王宮はさらにまた柵と壕に囲まれている。この王宮は南向きではなく、西向きに建っている。より精確に言えば、夏至の日の出の方角から、冬至の日の入りの方角に向かって建っている。宮殿の建物は床を上げた形式だが、平屋で、屋根は余り高くない。これが姫氏王が政治を行う所である。張政たちはこの日の夕方にここに着いた。案内の役を終えた伊声耆は、静かに控えの間に退がる。
「張政か。久しいな」
それが、姫氏王が張政に掛けた第一声であった。張政は、姫氏王が自分の事を憶えているとは思っていなかった。四年程前、張政が公務で初めて伊都国を訪れた時、この女王は偶々親ら巡察をしてそこにお出ましであった。姫氏王は、郡使の末席に加わった小身に過ぎなかった張政を、ただ一顧しただけであった。張政自身はそう記憶している。姫氏王はその時と同じく、長い布で頭を包んで鼻の前で縫い合わせ、両端を胸に垂らすという形をした、独特の頭巾を被り、虎を想わせる鋭い、人を畏れさせるその目だけを見せている。着物はさすがに庶民とは明らかに違う物で、中国の水準から見れば粗目の絹に過ぎないとはいえ、豪奢な光彩を放っている。背は張政と余り変わらないから、女性としては、と言うより、倭人としては大きい方である。
張政たちが通されたのは宮殿ではなく、その傍に在る大型の室である。ここは姫氏王と近親の者たちが寝起きをする生活の場であった。
「臺与、おいで」
と女王が声を掛けると、そう呼ばれた子どもは侍女たちの後ろから顔を出し、
「おたあさま」
とか細い声で姫氏王を呼ぶ。年頃は五六歳程と見え、髪は男の子の様に額で束ねてはいない。禿骨鋭が目をぎょろりとさせてその顔を覗くと、臺与は姫氏王の後ろに隠れてしまう。
「昼頃までは寝込んでおったが、いささか良くなったようでな」
「体内の陰陽の気の調和が少し乱れただけでございましょう。もう良くなってきているなら、よく食べてぐっすり眠れば朝にはすっかり治ります」
と禿骨先生が臺与の顔色を見ただけで診断を下せば、
「そうであろう」
と姫氏王は、判り切った事だ、という風に言う。
「道を急いで疲れたであろう。醴でも取らせよう」
姫氏王が先に立って、張政と禿骨鋭は宮殿の方に通される。雨が多い土地柄なので、吹き込みを避ける為に軒が長く覆い被さっている。装飾の無い質素な建築だが、木材がしっかりとしていて上がる人を安心させる。
「臺与ぎみの事でございますが」
と禿骨鋭は座るなり切り出す。
「体の中に何か気を乱す原因が潜んでいるやに見受けられますな。しょっちゅう熱でも出しておいででしょう」
「それだ。それを訊きたい」
と姫氏王は応える。
「生まれつき体の弱い男児は、女児の如くにして育てると強くなるとか。そう年寄りどもが煩さく勧めるので、ああしておるのだ」
馬鹿な事だが、という風に言う。
「ではやはり男児でございましたな」
張政は全く女の子だと思ったのに、さすがこの医者はよく見抜いていた。
「臺与の体を健やかにしてやる薬は無いか」
という姫氏王の問いに、禿骨鋭は直には答えず、
「臺与ぎみの母親は誰でございます」
と問い返す。
「予が臺与の母だ」
「王は産みの母ではございますまい」
「産んだ母親は死んだ。父親は予の弟だ。それで予が引き取った」
「後継者としてお考えだそうですが、ご自分で子を産もうとはお考えになりませんかな」
随分と遠慮せずに質問をして、王を怒らせはしないかと、張政は心配しながら、禿骨先生の顔を黙って見る。先生はそんな心配など知らぬ素振りである。女王もさるもの、はははと笑って問いに答える。
「女は子を産めば十に一、二はその痛みで死んでしまうものだ。王として国を捨てて子を産むわけにはいくまいが」
禿骨先生は尚も問いを続ける。
「それでその母親はどうして死んだのでございますか」
「なぜそれを知りたいのだ」
「それが臺与ぎみの不調の原因と関係が無いとも限りませぬので」
姫氏王は、ふむ、と遠くに目を遣り、
「女が子を産んで死んだとて、誰も怪しみはすまい」
と落ち着き払った声で述べながら、張政と禿骨鋭の方に向き直して、
「女の身で権力を執り続けるには、跡継ぎの母であるということが強みになるのだ」
と付け加えた。眼神は亦り虎の如く耀きを放っている。
西から東を望むと、樹々に彩られた美しい山並みに抱かれる様にして、姫氏王の都する所である邪馬臺の本国が、その姿を現す。岩肌を露わにした禿山などは見当たらず、流れ出す川は清らかである。邪馬臺の邑は、土塁と壕に囲まれ、矛や剣を持った兵士が人の出入りを見張っている。王宮はさらにまた柵と壕に囲まれている。この王宮は南向きではなく、西向きに建っている。より精確に言えば、夏至の日の出の方角から、冬至の日の入りの方角に向かって建っている。宮殿の建物は床を上げた形式だが、平屋で、屋根は余り高くない。これが姫氏王が政治を行う所である。張政たちはこの日の夕方にここに着いた。案内の役を終えた伊声耆は、静かに控えの間に退がる。
「張政か。久しいな」
それが、姫氏王が張政に掛けた第一声であった。張政は、姫氏王が自分の事を憶えているとは思っていなかった。四年程前、張政が公務で初めて伊都国を訪れた時、この女王は偶々親ら巡察をしてそこにお出ましであった。姫氏王は、郡使の末席に加わった小身に過ぎなかった張政を、ただ一顧しただけであった。張政自身はそう記憶している。姫氏王はその時と同じく、長い布で頭を包んで鼻の前で縫い合わせ、両端を胸に垂らすという形をした、独特の頭巾を被り、虎を想わせる鋭い、人を畏れさせるその目だけを見せている。着物はさすがに庶民とは明らかに違う物で、中国の水準から見れば粗目の絹に過ぎないとはいえ、豪奢な光彩を放っている。背は張政と余り変わらないから、女性としては、と言うより、倭人としては大きい方である。
張政たちが通されたのは宮殿ではなく、その傍に在る大型の室である。ここは姫氏王と近親の者たちが寝起きをする生活の場であった。
「臺与、おいで」
と女王が声を掛けると、そう呼ばれた子どもは侍女たちの後ろから顔を出し、
「おたあさま」
とか細い声で姫氏王を呼ぶ。年頃は五六歳程と見え、髪は男の子の様に額で束ねてはいない。禿骨鋭が目をぎょろりとさせてその顔を覗くと、臺与は姫氏王の後ろに隠れてしまう。
「昼頃までは寝込んでおったが、いささか良くなったようでな」
「体内の陰陽の気の調和が少し乱れただけでございましょう。もう良くなってきているなら、よく食べてぐっすり眠れば朝にはすっかり治ります」
と禿骨先生が臺与の顔色を見ただけで診断を下せば、
「そうであろう」
と姫氏王は、判り切った事だ、という風に言う。
「道を急いで疲れたであろう。醴でも取らせよう」
姫氏王が先に立って、張政と禿骨鋭は宮殿の方に通される。雨が多い土地柄なので、吹き込みを避ける為に軒が長く覆い被さっている。装飾の無い質素な建築だが、木材がしっかりとしていて上がる人を安心させる。
「臺与ぎみの事でございますが」
と禿骨鋭は座るなり切り出す。
「体の中に何か気を乱す原因が潜んでいるやに見受けられますな。しょっちゅう熱でも出しておいででしょう」
「それだ。それを訊きたい」
と姫氏王は応える。
「生まれつき体の弱い男児は、女児の如くにして育てると強くなるとか。そう年寄りどもが煩さく勧めるので、ああしておるのだ」
馬鹿な事だが、という風に言う。
「ではやはり男児でございましたな」
張政は全く女の子だと思ったのに、さすがこの医者はよく見抜いていた。
「臺与の体を健やかにしてやる薬は無いか」
という姫氏王の問いに、禿骨鋭は直には答えず、
「臺与ぎみの母親は誰でございます」
と問い返す。
「予が臺与の母だ」
「王は産みの母ではございますまい」
「産んだ母親は死んだ。父親は予の弟だ。それで予が引き取った」
「後継者としてお考えだそうですが、ご自分で子を産もうとはお考えになりませんかな」
随分と遠慮せずに質問をして、王を怒らせはしないかと、張政は心配しながら、禿骨先生の顔を黙って見る。先生はそんな心配など知らぬ素振りである。女王もさるもの、はははと笑って問いに答える。
「女は子を産めば十に一、二はその痛みで死んでしまうものだ。王として国を捨てて子を産むわけにはいくまいが」
禿骨先生は尚も問いを続ける。
「それでその母親はどうして死んだのでございますか」
「なぜそれを知りたいのだ」
「それが臺与ぎみの不調の原因と関係が無いとも限りませぬので」
姫氏王は、ふむ、と遠くに目を遣り、
「女が子を産んで死んだとて、誰も怪しみはすまい」
と落ち着き払った声で述べながら、張政と禿骨鋭の方に向き直して、
「女の身で権力を執り続けるには、跡継ぎの母であるということが強みになるのだ」
と付け加えた。眼神は亦り虎の如く耀きを放っている。
感想 0
あなたにおすすめの小説
【完結】上海新選組 原田左之助 山崎烝 明治冒険譚 ──Shanghai samurai dad&son──
小海倫明治。死んだはずの新選組十番隊長・原田左之助は、大陸の租界・上海にいた。
その傍らには、京都新選組時代の諜報に利用し、奇怪な家伝の秘薬の副作用で幼い子供の姿となってしまった元新選組監察・山崎烝。
二人は偽りの「実業家 松山誠親子」として暮らしながら、大陸の租界を彷徨い、謎を追う──
洋装で槍を振るいつつ【坂本龍馬殺害】の濡れ衣に追われる原田。
大人の意識を保ち、手には武器の毒針、推理に鋭い頭脳を働かながら、肉体が少しずつ幼くなっていく恐怖に怯える山崎。
租界都市・上海からサイゴン、漢口。
そして天津での「ラスボス対決」へ。
果たして彼等2人を追うラスボスとはいったい誰なのか?
過去の史実エピソードやアクション、ミステリー要素を含めた新選組の生き残りたちが辿る、歴史伝奇冒険譚!
永倉新八、土方歳三も登場。
完結済。
黄金の艦隊 マネー・パワーで歴史を変える男
俊也「平和を金で買えるなら、それに越したことはない。
戦争が避けられないなら、せめて日本が負けない力を金で買おう」
1930年代より世界経済の混乱に乗じて自らの海運会社を急成長、新興財閥を立ち上げた男の、重課金架空戦記!??
姉妹作
「零戦戦記」
「総統戦記」
も、よろしくお願いします。
どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~
さいとう みさき「ま、まさか!?」
あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。
弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。
弟とは凄く仲が良いの!
それはそれはものすごく‥‥‥
「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」
そんな関係のあたしたち。
でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥
「うそっ! お腹が出て来てる!?」
お姉ちゃんの秘密の悩みです。
織田信長IF… 天下統一再び!!
華瑠羅日本の歴史上最も有名な『本能寺の変』の当日から物語は足早に流れて行く展開です。
この作品は「もし」という概念で物語が進行していきます。
主人公【織田信長】が死んで、若返って蘇り再び活躍するという作品です。
※この物語はフィクションです。
妻に不倫され間男にクビ宣告された俺、宝くじ10億円当たって防音タワマンでバ美肉VTuberデビューしたら人生爆逆転
小林一咲不倫妻に捨てられ、会社もクビ。
人生の底に落ちたアラフォー社畜・恩塚聖士は、偶然買った宝くじで“非課税10億円”を当ててしまう。
防音タワマン、最強機材、そしてバ美肉VTuber「姫宮みこと」として新たな人生が始まる。
どん底からの逆転劇は、やがて裏切った者たちの運命も巻き込んでいく――。
母の下着 タンスと洗濯籠の秘密
MisakiNonagaseこの物語は、思春期という複雑で繊細な時期を生きる少年の内面と、彼を取り巻く家族の静かなる絆を描いた作品です。
颯真(そうま)という一人の高校生の、ある「秘密」を通して、私たちは成長の過程で誰もが抱くかもしれない戸惑い、罪悪感、そしてそれらを包み込む家族の無言の理解に触れます。
物語は、現在の颯真と恋人・彩花との関係から、中学時代にさかのぼる形で展開されます。そこで明らかになるのは、彼がかつて母親の下着に対して抱いた抑えがたい好奇心と、それに伴う一連の行為です。それは彼自身が「歪んだ」と感じる過去の断片であり、深い恥ずかしさと自己嫌悪を伴う記憶です。
しかし、この物語の核心は、単なる過去の告白にはありません。むしろ、その行為に「気づいていたはず」の母親が、なぜ一言も問い詰めず、誰にも告げず、ただ静かに見守り続けたのか——という問いにこそあります。そこには、親子という関係を超えた、深い人間理解と、言葉にされない優しさが横たわっています。
センシティブな題材を、露骨な描写や扇情的な表現に頼ることなく、あくまで颯真の内省的な視点から丁寧に紡ぎ出しています。読者は、主人公の痛みと恥ずかしさを共有しながら、同時に、彼を破綻から救った「沈黙の救済」の重みと温かさを感じ取ることでしょう。
これは、一つの過ちと、その赦しについての物語です。また、成長とは時に恥ずかしい過去を背負いながら、他者の無償の寛容さによって初めて前を向けるようになる過程であること、そして家族の愛が最も深く現れるのは、時に何も言わない瞬間であることを、静かにしかし確かに伝える物語です。
どうか、登場人物たちの静かなる心の襞に寄り添いながら、ページをめくってください。