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五章

五話 伊藤ほのかの傷心 その八

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「……」
「気が付いたら、血の池に立っていた。覚えているのは教師か誰かが何かを話していたことくらいだ。次に気が付いたら病院のベットの上だった」

 私は何も言葉にできなかった。先輩の怒りが、殺意がこれほどまでとは思っていなかった。
 意識が飛ぶくらい怒るってどんな状態なんだろう? 想像もできない。

「病院のベットの上で全て聞かされた。俺がなぜここにいるのか、何をしたのか、全てを。何の実感もなかった。覚えていないからな。ただ、ああそうなんだって思ったくらいだ」
「先輩、さっき言っていた失敗ってなんですか? 復讐を果たしましたよね?」

 どんなかたちであれ、先輩と健司さんをいじめていた相手を、先輩はやっつけた。健司さんの仇をとったんだよね? 復讐したんだよね? 失敗ってどういうこと?

「アイツらを病院送りにしたことは後悔していない。だが、俺の行動のせいで多くの人に迷惑をかけた。殺人の理由にも使われた」

 殺人の理由に使われたのは先輩のせいじゃない、殺人を犯した人が悪い。でも、お前のせいで殺人をしたと言われたら、悪くなくても気にしてしまうかも。
 私が、先輩は悪くないですよ、と言ったところで、先輩に通じるのか? 当事者でも関係者でもない私の声が届くの?
 私では先輩に何もしてあげられない。それがすごくもどかしい。

「俺が事件を起こしてから数ヶ月後、両親は離婚した。これが一番、辛かった。毎日のように親父とおふくろは喧嘩していた。お互い誰が悪いとか、育て方が悪いとか……結婚したのが間違いだったとか……散々だった。両親は俺にも怒鳴った。泣きながら俺に罵声ばせいを浴びせてくる母さんの声が、俺の存在を全否定する父さんの声が、俺の心をえぐってくるんだ。アンタなんて、産まれてこなければよかったのに、お前みたいな疫病神、死んでしまえ、この言葉が特にキツかった。二人にはっきりと拒絶された時、こたえたよ。どんな暴力よりも、痛かった。俺は何も言えなかった。俺の責任だから」

 私は先輩に何も言えなかった。何を言えばいいのか分からなかった。
 胸の奥が痛むのはなぜだろう?
 先輩に同情して? 先輩の力になれないから? それとも、別の……。
 違う……そんなことじゃない。でも……。
 押水先輩の時から感じていたある推論。
 先輩が私のことを助けてくれたのは、私の為じゃなくて……先輩が風紀委員になったのって……。
 私は恐る恐る思っていたことを口にする。

「だから、先輩は風紀委員になって罪ほろしをしているんですか? 理不尽な目にあっている人を助けるのはその為ですか? 罪の意識から逃げ出す為ですか? 誰にも負けない強さを手に入れたいんですか?」

 私を助けてくれたのは、ただの義務だったんですか? とは聞けなかった。怖くて聞けなかった。
 先輩は首を横に振る。

「違う。俺が、俺達が風紀委員を立ち上げたのは、それぞれの思惑があったからだ。風紀委員を続けているのは、これ以上、納得いかないことを見過ごしたくないからだ」

 それぞれの思惑? どういうこと? きっと、風紀委員設立には先輩と橘先輩が関わっているはず。
 先輩が風紀委員になった理由は分かった。でも、橘先輩はなぜ風紀委員を立ち上げたの?
 それに、御堂先輩、朝乃宮先輩、長尾先輩はどうして風紀委員にいるの? この四人がどうして風紀委員に入ったのか、私には想像できなかった。
 いけない、今は先輩の事を考えなきゃ。私は疑問をのみこんだ。

「こんなことを言ったら軽蔑けいべつされるかもしれないが、俺には分からないんだ。俺のやったことがどんな罪なのか、どう償えばいいのか。俺の罪は警察ではさばかれなかった。俺を支持する者もいれば、間違っていると言ってくれる人もいる。誰も明確な答えを教えてくれない。でも、困っているときに、苦しんでいるときに助けて欲しいって気持ちは理解できるんだ。傲慢ごうまんだが、それでも、こんな俺でも誰かの助けになれるなら、助けたい。見過ごすのは嫌なんだ。後悔、したくないんだ。泣くのは……嫌なんだ。泣くのは弱さだ。弱かったら何もできない、助けられない」
「先輩は……本当は何がしたいんですか? 罪を償いたいんですか? 誰かを助けたいんですか? 苦しみから解放されたいんですか?」
「……」

 先輩はうつむいたまま、答えない。

「先輩の本当の願いは……なんですか?」
「……本当の絆が見てみたい。どんな困難でも壊れることのない強い絆が……ほしいんだ」

 冷たい感触がした。先輩の手を、握りしめていた私の手に水滴がこぼれる。
 泣いているの、先輩?
 先輩が泣いている。
 胸が痛い……苦しいよ……。

 どうしたら、いいの?
 絆なんて目に見えないし、証明できない。そんなものをどうしたら見せてあげられるの?
 壊れない絆なんてあるの? どこにあるの?
 私にはわからないよ。でも、先輩の為に何かしてあげたい。
 私にできることなんてあるの?

「先輩……」

 私は泣いている先輩の頭をぎゅっと抱きしめた。

「伊藤?」
「泣かないで、先輩。先輩が泣くと……私も……ううっ……」
「なんで……伊藤が泣くんだ?」

 ダメだ。私だってわからない。先輩に気のきいたこと、一つも言えない。でも、それでも……。

「……哀しいからです。先輩のこと、元気にしてあげられないから……なにもできない自分が情け……グスッ……なくて……ううっ……」
「すまない、すまない……」

 私達はお互い抱きしめあい、泣き続けた。未熟で無力で情けなくて……泣いた。
 泣いても何の解決にもならないけど、私達は泣いたんだ。
 泣いた後にはきっと何かがあると信じて。今度は泣かなくていいように、強くなる為に私達は泣くんだ。



 私はまた先輩に慰められ、泣きやんだ。
 本当に格好悪い。自分の弱さに自己嫌悪じこけんおおちいる。でも、弱いからこそ寄り添える、共感できるから支え合っていける。
 私は先輩の事、どんな困難にも打ち勝てる凄い人だって思っていた。
 これと決めたらテコでも動かない、頭が固くて意志も固い人だって思っていた。
 強い先輩に憧れていた。私も先輩のようになりたいって思った。

 でも、違った。先輩も弱い人だった。自分の過去の過ちに今も苦しんでいる人だった。
 弱い先輩を見て、私の中にあった先輩への憧れは消えた。消えた感情を補うように、別の感情がわきあがってくる。
 私、先輩の力になりたい。
 愛おしい気持ちがあふれてくる。この人を支えていきたいって願ってる。

 私、先輩の事が好き。
 この気持ち、抑えきれない。

「先輩……」
「なんだ?」
「責任……取ってください」
「何の……」

 先輩の唇に自分の唇を重ねる。
 セカンドキス。初めてじゃないけど、私の偽りのない本当の気持ちです、先輩。
 そっと、キスの感触を惜しむようにゆっくりと離れる。

「ファーストキス、奪われた責任です。先輩のキスで上書きしてください」

 私はもう一度キスして……何度も何度もキスを繰り返した。
 キスをするたびに体が熱くなって、何も考えられなくなって、ただ先輩の唇を求め続ける。
 唇に残るぬくもりを一瞬でも消えないように……むさぼるようにキスを繰り返した。
 唾液が音を立てて交わりあい、唇を濡らしていく。先輩の、男の人の匂いが……濡れた唇の感触が……甘酸っぱさが私の脳を刺激し、体中に熱を帯びてゆく。

 離れたくない……このまま、ずっと一緒に……先輩……。
 先輩とのキスはあたたかくて……せつなくて……苦しかった。
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