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間章
間話 俺、絶対に勝ちますから
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「おかえりなさい、兄さん。食事にしますか? それとも、お風呂にしますか? それとも……お土産は?」
「……」
家に帰ると、玄関で上春が待っていた。両手を差しのばしてきた上春に、俺は……。
「これ、洗っといてくれ」
「……」
洗濯物を渡し、俺は部屋に戻る。
お土産だと? 正月に店が開いてるか。
本土に行けば店はやっているが、わざわざお土産を買いに行くかよ。そんな時間すら惜しい。
ご飯を食べたら、練習しないと……いや、もう暗いし、去年の試合をおさらいするか。去年の三田村さんの動きや敵のキャッチャーの動きも参考になるかもしれない。
確か、義信さんがビデオで撮っていたはずだ。
俺は上春の横を通り過ぎようとしたとき、上春に袖を掴まれた。
「に、兄さん~」
「なんだ? 文句があるのか?」
「菜乃花ちゃんに蹴られました! しかも、おじいちゃんが見てないところで!」
「……」
涙目で訴えるが、俺は苦情窓口じゃないぞ、上春。
流石は菜乃花。もう、上春を蹴るとこまでいったか。
誰も見ていないところで蹴るところが玄人っぽい。本当に傍若無人だ。
「兄さん……」
「なんだ? 悪いが、緊急の要件でないなら明日にしてくれ。今は忙しいんだ」
「……知ってます。明日、大事な試合があるんですよね? でも、大丈夫ですか?」
「……なんとかする」
喧嘩の方がまだなんとかしようがある。
しかし、野球は勝手が違うから、努力しなければならない。
たとえ、徹夜になっても糸口を見つけないと……俺は足手まといのままだ。
「兄さん、野球は楽しいですか?」
「楽しいか、だと?」
なんで、そんなことを聞いてくる? 忙しいと言っているだろうが。
俺は苛立ちが抑えきれず、つい、上春を睨んでしまう。
上春は……悲しげな顔をしていた。
「だって、野球ってみんなで楽しくプレイするものですよね? 今の兄さん、辛そうです……」
「だから、なんだ? バカみたいに楽しんだら、うまくなれるのか? その根拠は? 楽しんで野球が上達するのなら、誰も苦労しないだろうが!」
「ご、ごめんなさい……」
やっちまった……バカか、俺は……。
上春は心配してくれただけだろ? なのに俺は……。
すぐに謝らないと……。
「このバカ!」
「うおっ!」
背中に痛みが走った。俺を後ろから叩いたのは……。
「咲ちゃんにあたってどうするの! しっかりしなさい!」
「……なんだ、女か」
くそ、一番見られたくないヤツに見られちまった……謝る気だったのに、コイツのせいで言うタイミングがなくなっただろうが。
俺は女を睨みつけるが、女はもちろん引く気はなく……逆に睨みつけてきた。
「ちゃんと、謝りなさい!」
「うっせえ! 大きな声を出さなくても聞こえとるわ!」
売り言葉に買い言葉、俺は泥沼にはまっていってしまった。
こんなこと、言いたくなかった。けど、胸の中に抱えていたものがあふれだし、俺は女と罵り合う。
くそ! こんなはずじゃないのに……誰も傷つけたくないのに……こんなこと言うつもりはなかったのに……。
「正道……アンタ、何やってるのよ……」
「正道」
怒鳴り声を聞きつけてか、菜乃花と義信さんが出てきた。菜乃花は悲しげな顔で俺を見ている。
義信さんは黙ったままだ。
「……上春、女。悪かったな」
「正道!」
俺は女の言葉を無視し、部屋に戻った。誰とも口をききたくなかった。
「あんちゃん、ご飯」
「……おう」
強がご飯が出来たと教えてくれた。
俺は強と顔を合わせることが出来ず、ぶっきらぼうに返事することしか出来なかった。最悪な気分だった。
自分がうまくいかなかったからといって、家族にあたってしまった。上春や女に暴言を吐き、傷つけた。
なんて、ガキな行動なのだろう。自分ならもっとうまくやれたと思ったのか? 練習もまともにしていなかったのに何様だ。
憂鬱だ……上春や女、菜乃花、義信さんと顔を合わせるのが気まずくてしょうがない。義信さんにはもっと相談しておきたかったのに。
自分でまいた種だ。もう一度、謝っておこう。
自己嫌悪から抜け出せず、俺は晩ご飯の当番である上春に会うため、台所に向かった。
「おかえりなさい、正道さん」
「楓さん? どうして?」
今日は楓さんの食事当番ではないはずだ。それに正月は楓さんに休んでほしいと上春家と相談していたのに……全く休ませていない。
昨日はともかく、今日はおせちの残りで済ませる予定だったが、何を作っているんだ?
「正道さん、もう少しでできるから、リビングで待ってくれます?」
「いや、手伝いますよ。正月のときくらい、休んでください」
「もう十分休ませてもらいました。それに、今日はどうしても、正道さんにご馳走したいの」
ご馳走? どういうことだ?
丼にご飯が盛られている事から、丼物だと推測できるが、何丼だ?
そもそも、豚も牛も鳥も全員分、なかったような気がする。俺は楓さんが何を作っているのか、楓さんの手元を見ようとしたとき。
「正道君! 主役はこっちこっち!」
主役? 何の事だ?
訝しむ俺の手を取り、信吾さんは俺の手を取り、リビングへと連れて行かれる。
何を隠しているのかは知らないが、楓さんがやるといったら、テコでも動かせないからな。ここらへんは藤堂家だな。
もうすぐだと言われたので、大人しく待つしかないか。本当はギリギリまでリビングに行く気はなかったのだが、仕方ない。
リビングでは、総次郎さん、古都音さんは正月の特別番組を見ている。
義信さん、信吾さんは将棋を、強と菜乃花は庭でシュナイダーと遊んでいた。犬が嫌いなのにたいしたものだ。
上春はどこにいるんだ? 女の姿も見えない。
「お、お待たせしました~」
上春は両手に盆を持ちながら、リビングに入ってきた。入れ違いか?
上春は一度に六つも丼を持ってくる。無謀すぎて見ていられない。ぷるぷる手が震えてるぞ。
俺は上春から盆を取り上げる。
「あ、ありがとうございます、兄さん」
「一度に運ぶなら俺を呼べ」
上春が努力家だってことは知っている。そして、空回りすることも。要は自分一人で抱え込みすぎて、自爆するタイプだ。
頑張って丼を運ぼうとしたが、重すぎてひっくり返し、落ち込む姿が目に見える。
こういうときは朝乃宮がさりげなくフォローをするのだが、今は朝乃宮がいない。俺が手伝うべきだ。
「兄さん、さっきは……」
「悪かったな。虫の居所が悪かったんだ。許してくれ」
「は、はい、それはいいんですけど……」
「残りは俺が持ってくるから」
俺は上春の言葉を遮り、テーブルに丼を置いた後、上春を置き去りにしたまま、台所にある残りの丼を取りに行く。全部で十人分なので、残り四つだ。
「その必要はないわよ」
「……」
女が不機嫌そうな顔で俺を睨んできた。俺もつい睨んでしまう。女の両手には盆があり二つずつ丼が乗っていた。
俺は黙って盆を受け取る。そして、睨み合う。
「さ、流石は兄さんですね~。力持ちですー」
上春は強引に俺達の間に割り込んできた。俺はため息をついた。
「……上春は非力だな」
「もう! 空気が読めてない! 兄さんのような怪力なんて私にはありませんから!」
ぷりぷりと怒りつつ、上春は吸い物や箸など準備を始める。
すまないな、上春。逆にフォローしてくれて。
俺は心の中で謝罪した。
さて、準備は完了した。
今日は丼と吸い物、漬物だ。
本来ならおせちの残り物を食べる予定だったはずだが……昼間に全て食べたのか?
まあ、菜乃花の機嫌が悪くなるのを防げたので、よしとするか。さっそく丼の蓋を開けてみると……。
「……カツ丼?」
丼には二つのカツが盛っていた。
卵の卵黄と卵白で彩られた二枚のカツは丼一杯にひろがり、ボリューム感を出している。
お椀に閉じ込められていた湯気と一緒に卵の香りが漂い、空腹を刺激してくる。
衣がしっとりとしていてその上に半熟の黄身に白身が包まれた状態でのっかっていて、黄身を潰してとんかつにかけて食べるか、黄身だけを味わうか、悩みどころだな。
見ているだけでも食欲をそそるが、練習後だと、余計に美味しく見えてくる。
だが、なんでカツ丼なんだ? 正月にカツ丼なんて聞いたことがない。いや、待て。カツ丼だと?
俺は楓さんを見た。
「正道さんが明日、試合に出るって聞いたものですから。験担ぎに」
楓さんはそっと微笑み、俺はつい顔をそらした。
その……なんというか……ベタというか……だからこそ、ぐっときた。
言葉が出てこない。こんなとき、何を言ったらいいのか……。
頑張ります、か? それとも、足を引っ張らないようにします、か?
いや、違うだろ。きっと、楓さんが……義信さんが言いたいことは……この丼に込められた願いは……。
俺はカツ丼を喉に流し込むように、ガツガツと食べた。
肉が軟らかい……噛むと豚肉の柔らかくて感触のいい歯ごたえがする。
肉の脂身と半熟卵の甘み、醤油、みりん、鰹ダシの味が口の中に広がっていく。
調理もだが、素材もいい。
ただの豚肉じゃない。国産のいい豚肉を使っている。
それに米もいい。ふっくらと炊き上がった米はむらがなく、充分に蒸らしている。
驚くほど、米はカツと卵と相性がよくて、肉と卵のうまみを受け止めていて、一緒に口に放り込むと、手が止まらなくなる。
米の熱さもちょうどよくて食べやすい。
美味い……美味い……。
今までで一番美味しいカツ丼だ。
俺が作ったら、もっと肉は固くて、ご飯もほかほかで熱く、そのせいで卵も少しふやけ過ぎるだろう。
楓さんが作ったカツ丼は肉、卵、米……その全てが丁寧に下ごしらえされていて、手間をかけて、食べやすさも考慮して作られている。
だから一口目で理解できるんだ。
料理を作ってきたからこそ、このカツ丼に込められた楓さんの心遣いが伝わってくる。それ故、これほど美味いんだ。
お前は一人じゃない……。
家族が……みんながいてくれるって実感できるんだ。
俺の中で沸き上がってきたものは熱い想いだった。先ほどまでに感じていた劣等感は消え去り、ただ、目頭が熱くなった。
誰かに勝手な期待を押しつけられるのは嫌いだった。
風紀委員を立ち上げ時、多くの生徒が風紀委員に期待してくれた。不良が闊歩するこの青島で、風紀委員は自分達を護ってくれる組織だと思われた。
最初は人に期待されることが嬉しかった。誇らしかった。
信頼されるよう、頑張りたかった。けど、ダメだった。
俺は期待に応えようとして、頑張ったけど、俺は無敵ではない。その逆で弱い人間だ。当時は喧嘩に負けることの方が多かった。
弱い俺を見て、生徒達はあからさまに失望し、手のひらを返され、陰口をたたかれた。
教師の犬、何も出来ない役立たず、融通の利かない面白みのないヤツ、ちょっとふざけただけで注意してくる偽善でウザいヤツ……。
理不尽だった。
こっちはそれこそ命がけで期待に応えようとした。だが、人生は頑張ればなんでも叶うこともなく、失敗することだってある。
誰かに頼まれたわけではない。俺達が目的のため、自主的に始めたことだ。文句を言う筋合いなど俺にはないのだろう。
だが、それでも……勝手に期待しておいて、応えられなかったら勝手に失望して、責めてくるのは納得がいかないだろうが。
苦い思いが心を占める。一年前の出来事が脳裏に浮かぶ。あのとき、俺は期待に応えるのをやめた。
世間で少年Aだともちあげられ、犯罪者である自分にも人のために何か出来ると、必要とされていると錯覚していた。幻想だった。
それに気づいたとき、身の丈に合わない事はせず、自分に出来る事を精一杯することにした。
期待されることから逃げてきたのは……嫌われるのが怖かった……そうだ、怖かったんだ……俺は……。
それなのに、ちょっとチームメイトに褒められたからって、期待されたからって、また俺は期待に応えようとした。
そして、自分の力のなさに失望し、嫌われるのを恐れた。勝手なヤツだった。
それが俺の正体。醜くて、器の小さい情けない男。
好意を向けてくれる御堂や伊藤に嫌われるのが怖かった。チームのみんなに……義信さんに失望されるのが怖かった。
でも、義信さんも楓さんも俺を応援してくれているんだ。
きっと、このカツ丼は義信さんが楓さんに頼んで作ってくれた物だ。でなければ、俺が明日の試合の選手に選ばれた事なんて、楓さんが知るはずがない。
そして、この豚を用意してくれたのは、本土にデートしに行った女と信吾さんだ。青島は今、正月休みで店は開いてないからな。
俺なんかのために……みんなが用意してくれたんだ。
そうだよな……家族だもんな……こんな情けない俺でも……間違いばかり繰り返してきたバカな俺なんかを……笑顔で応援してくれるんだよな。
なあ、俺。どうするよ? いつまでふてくされているんだ?
足を引っ張るだ? 下手くそだ? だから、なんだ?
家族が応援してくれているんだぜ? なら……応えるべきだろうが!
どこの誰に失望されても、家族にだけは格好いいところを見せたい。
藤堂の名に恥じないよう、胸を張って成果をあげて、家に帰還したい。
「ははっ、正道君。がっつりいくね! 僕も食べよう! あっ、豚肉を買ってきたのは僕らだよ! 澪さんと一緒に美味しい豚肉を吟味して選んだからね!」
そんなこと、言われなくても分かってる。
それとな、信吾さん。そんなに女いい人アピールしても、俺は再婚など認めないからな。嫌なものは嫌なんだ。
後、『キミならやれる!』とか文字を書いたTシャツを着るな。フリーターが無駄遣いしてるんじゃねえぞ。
「兄さんだけ二枚なんですよ! これで効果二倍ですね!」
確かに俺だけ二枚ある。だがな、上春よ、カツ二枚でかつかつだから、苦戦しそうで縁起が悪い。
けど、ありがとな。
俺はただひたすらカツ丼を口にした。
「ふぅ……」
俺はカツ丼を平らげた。たくわんを噛みしめ、吸い物でしめる。つい、息が漏れる。
もしかすると、早食いの自己新記録を出したのかもしれない。
力がわいてくる。今なら誰が相手でも、勝てそうな気がする。
この気持ちが冷める前に、やれることをやろう。
格好悪くても、泥臭い無駄な努力になるかもしれないけど、行動するんだ。必ず、このカツ丼に報いてみせる。
俺はカツ丼を用意してくれた楓さん達に頭を下げた。
「義信さん、去年の試合のビデオを見たいのですが」
「ああっ、かまわない。私の部屋の棚にある。ラベルがあるからそれを見なさい」
俺は丼と椀を台所に持って行き、義信さんの部屋に行く。ビデオでとった去年の交流戦見ておきたい。
敵の分析と味方の動きを把握しておきたい。連携がとれるように頭にたたき込むんだ。
俺にはもう、迷いはなかった。だから、言っておきたかった。
俺はジッと義信さんを見つめる。
「どうした、正道?」
「義信さん。俺、絶対に勝ちますから。見ててください」
その一言だけ告げて、リビングを後にした。
俺は夜遅くまで、何度も何度もビデオを見て研究した。
□□□
「相変わらず暑苦しいわね、正道は」
正道が去った後、菜乃花はため息をついた。だが、菜乃花の顔には侮蔑ではなく、笑顔があった。
笑っていたのは菜乃花だけではなかた。
「正道君って難儀な性格してるね。お礼に頭を下げたけど、僕じゃなくて澪さんに頭を下げたでしょ。ちゃんと分かってるんだよね」
「よかったわね、姉さん」
古都音の笑顔が恥ずかしくて、澪は顔を背ける。
「……別に父さんが考えたんでしょ、この計画」
今日のカツ丼は正道が推測したとおり、義信が考えた事だ。
正道がレギュラーに選ばれたことで、プレッシャーを感じていたので、この案を思いついたのだ。
まず義信が楓に連絡し、楓がデート中の澪に連絡した。
澪はデートを中断し、寒空の下、何軒も店をまわって美味しい豚肉をそろえたのだ。
正道は全てを悟り、お礼に頭を下げたわけだ。
「それにしても、カツ丼効果、抜群ですね! すごく気合い入ってましたよ!」
咲は嬉しそうに両手でガッツポーズをとってみせる。澪は苦笑しつつ、正道が去って行った場所に視線を送る。
「単純なのよ、正道は。あの子は体が大きいくせに臆病者で……練習で不安を押し隠す性格なのよ。子供の頃からそうだった。運動会も球技大会も夜遅くまで健司君と練習してたっけ」
澪が懐かしむように天井を見上げている。
正道の子供の頃が一番幸せだったと澪は感じていた。あの頃は、正道は素直で優しい子だった。
今でも優しいが、種類が違う。正道の今の優しさは暴力で解決させるものだ。
弱きを助け強きを挫く、聞こえはいいが、暴力ではきっとまた同じ過ちを繰り返す。また、正道が傷つく。
それが分かっているのに、澪の声は正道に届かない。それがもどかしく、苦しいかった。
親の愛情とはどうして、子に伝わりにくいのだろう。自業自得だけど、と澪は自嘲してしまう。
「ねえ、おばさん。正道のこと捨てておいて、どうして母親ツラできるの? おばさんに常識って言葉、あるの?」
アンタに言われなくても知ってるわよ、と言いたげに澪は古都音に文句を言う。
「古都音、あんた娘の教育、ちゃんとしてるの? 特に言葉遣い」
「ブーメランよ、姉さん」
澪と古都音は同時にため息をついた。お互い子育ての難しさを噛みしめているのだろう。
総次郎が慌ててフォローに入る。
「菜乃花、いい加減にしなさい。澪さんに謝って」
「本当のことを言っただけなのに? 私は正直者でいたいの。心にもないことを言う方が嘘つきでひどいと思うんだけど」
「ママ……菜乃花が~」
総次郎は自分の愛娘の強烈な言い分に、古都音に助けを求める。
古都音はいつまでも娘を溺愛する夫の姿に呆れながらも、菜乃花を注意する。
「はいはい。パパ、女の子に口喧嘩に勝てると思ってるの? 菜乃花は少し黙りなさい」
「私、悪くないのに……」
菜乃花は唇をとがらせ、そっぽ向いた。父親に強い娘も母親には勝てないのだ。
「あの、澪さん。健司って誰?」
強はさきほど澪の会話で出てきた健司の名前に興味を持ち、尋ねてみた。
澪は目を丸くし、唇をゆるめる。
いい兆候だと思った。少し前まで強は信吾と咲、朝乃宮の三人しか話をしなかった。
話と言っても、口数は少なく、一日に一言も話さなかったこともある。
心を閉ざしていた強が他人に、正道に興味を持ったことは、澪としては喜ばしいことだった。
強の心を開かせた自分の息子が誇らしかった。
願わくは、もっと自分に話しかけて欲しいとも澪は思っている。
「健司君はね、正道の親友だったの。でも、中学一年の三学期だったかな……引っ越しちゃたのよね……」
澪は健司の引っ越しについて、正道に黙っていることがあった。
澪は突き止めたのだ。正道をいじめている相手が誰なのかを。
息子がいじめられていた事は知っていた。毎日顔を合わせているのだ。分からないわけがない。
それで澪は調べたのだ。
自分の息子をいじめていた相手が、よりにもよって息子の親友であるはずの健司だと知ったとき、澪は激怒し、健司に問い詰めたのだ。
許せなかった。正道をいじめていたのが、よりにもよって、幼い頃からずっと一緒にいた親友だったとは。
問い詰めた一週間後、健司は引っ越していった。澪は今でも忘れられない。
健司の涙と謝罪。そして……。
「へえ……正道にも友達がいたんだ」
菜乃花の失礼な発言に、澪はむっとした顔で反論する。
「いるわよ。当然でしょ。でも、因果応報よね。正道と別れた後、まさか、あんなことが起こるなんてね……」
「あんなこと?」
一年前、澪は偶然健司の母親と出会った。正道と健司は幼稚園からの付き合いなので、母親同士交流があった。
いじめのことがあって疎遠になっていたが、たまたま出会う事があって、それから、何度かメールや電話でやりとりをしている。
そして、知ってしまったのだ。
「澪、その話はするな」
「何よ、いきなり」
「二度同じことを言わすな」
いきなり義信に怒られ、澪は唇を尖らせる。その姿に古都音と総次郎はプッと笑い出す。
澪の拗ねた姿は古都音とそっくりだったからだ。
澪に睨まれ、二人は黙った。
そして、別の話題となり、とりとめのない話が続いた。
澪が話そうとしたことは、後に正道の運命を大きく変えることになる。
そして、真実を知った後、正道に訪れる運命を、このとき誰も予測できなかった。
□□□
「……」
家に帰ると、玄関で上春が待っていた。両手を差しのばしてきた上春に、俺は……。
「これ、洗っといてくれ」
「……」
洗濯物を渡し、俺は部屋に戻る。
お土産だと? 正月に店が開いてるか。
本土に行けば店はやっているが、わざわざお土産を買いに行くかよ。そんな時間すら惜しい。
ご飯を食べたら、練習しないと……いや、もう暗いし、去年の試合をおさらいするか。去年の三田村さんの動きや敵のキャッチャーの動きも参考になるかもしれない。
確か、義信さんがビデオで撮っていたはずだ。
俺は上春の横を通り過ぎようとしたとき、上春に袖を掴まれた。
「に、兄さん~」
「なんだ? 文句があるのか?」
「菜乃花ちゃんに蹴られました! しかも、おじいちゃんが見てないところで!」
「……」
涙目で訴えるが、俺は苦情窓口じゃないぞ、上春。
流石は菜乃花。もう、上春を蹴るとこまでいったか。
誰も見ていないところで蹴るところが玄人っぽい。本当に傍若無人だ。
「兄さん……」
「なんだ? 悪いが、緊急の要件でないなら明日にしてくれ。今は忙しいんだ」
「……知ってます。明日、大事な試合があるんですよね? でも、大丈夫ですか?」
「……なんとかする」
喧嘩の方がまだなんとかしようがある。
しかし、野球は勝手が違うから、努力しなければならない。
たとえ、徹夜になっても糸口を見つけないと……俺は足手まといのままだ。
「兄さん、野球は楽しいですか?」
「楽しいか、だと?」
なんで、そんなことを聞いてくる? 忙しいと言っているだろうが。
俺は苛立ちが抑えきれず、つい、上春を睨んでしまう。
上春は……悲しげな顔をしていた。
「だって、野球ってみんなで楽しくプレイするものですよね? 今の兄さん、辛そうです……」
「だから、なんだ? バカみたいに楽しんだら、うまくなれるのか? その根拠は? 楽しんで野球が上達するのなら、誰も苦労しないだろうが!」
「ご、ごめんなさい……」
やっちまった……バカか、俺は……。
上春は心配してくれただけだろ? なのに俺は……。
すぐに謝らないと……。
「このバカ!」
「うおっ!」
背中に痛みが走った。俺を後ろから叩いたのは……。
「咲ちゃんにあたってどうするの! しっかりしなさい!」
「……なんだ、女か」
くそ、一番見られたくないヤツに見られちまった……謝る気だったのに、コイツのせいで言うタイミングがなくなっただろうが。
俺は女を睨みつけるが、女はもちろん引く気はなく……逆に睨みつけてきた。
「ちゃんと、謝りなさい!」
「うっせえ! 大きな声を出さなくても聞こえとるわ!」
売り言葉に買い言葉、俺は泥沼にはまっていってしまった。
こんなこと、言いたくなかった。けど、胸の中に抱えていたものがあふれだし、俺は女と罵り合う。
くそ! こんなはずじゃないのに……誰も傷つけたくないのに……こんなこと言うつもりはなかったのに……。
「正道……アンタ、何やってるのよ……」
「正道」
怒鳴り声を聞きつけてか、菜乃花と義信さんが出てきた。菜乃花は悲しげな顔で俺を見ている。
義信さんは黙ったままだ。
「……上春、女。悪かったな」
「正道!」
俺は女の言葉を無視し、部屋に戻った。誰とも口をききたくなかった。
「あんちゃん、ご飯」
「……おう」
強がご飯が出来たと教えてくれた。
俺は強と顔を合わせることが出来ず、ぶっきらぼうに返事することしか出来なかった。最悪な気分だった。
自分がうまくいかなかったからといって、家族にあたってしまった。上春や女に暴言を吐き、傷つけた。
なんて、ガキな行動なのだろう。自分ならもっとうまくやれたと思ったのか? 練習もまともにしていなかったのに何様だ。
憂鬱だ……上春や女、菜乃花、義信さんと顔を合わせるのが気まずくてしょうがない。義信さんにはもっと相談しておきたかったのに。
自分でまいた種だ。もう一度、謝っておこう。
自己嫌悪から抜け出せず、俺は晩ご飯の当番である上春に会うため、台所に向かった。
「おかえりなさい、正道さん」
「楓さん? どうして?」
今日は楓さんの食事当番ではないはずだ。それに正月は楓さんに休んでほしいと上春家と相談していたのに……全く休ませていない。
昨日はともかく、今日はおせちの残りで済ませる予定だったが、何を作っているんだ?
「正道さん、もう少しでできるから、リビングで待ってくれます?」
「いや、手伝いますよ。正月のときくらい、休んでください」
「もう十分休ませてもらいました。それに、今日はどうしても、正道さんにご馳走したいの」
ご馳走? どういうことだ?
丼にご飯が盛られている事から、丼物だと推測できるが、何丼だ?
そもそも、豚も牛も鳥も全員分、なかったような気がする。俺は楓さんが何を作っているのか、楓さんの手元を見ようとしたとき。
「正道君! 主役はこっちこっち!」
主役? 何の事だ?
訝しむ俺の手を取り、信吾さんは俺の手を取り、リビングへと連れて行かれる。
何を隠しているのかは知らないが、楓さんがやるといったら、テコでも動かせないからな。ここらへんは藤堂家だな。
もうすぐだと言われたので、大人しく待つしかないか。本当はギリギリまでリビングに行く気はなかったのだが、仕方ない。
リビングでは、総次郎さん、古都音さんは正月の特別番組を見ている。
義信さん、信吾さんは将棋を、強と菜乃花は庭でシュナイダーと遊んでいた。犬が嫌いなのにたいしたものだ。
上春はどこにいるんだ? 女の姿も見えない。
「お、お待たせしました~」
上春は両手に盆を持ちながら、リビングに入ってきた。入れ違いか?
上春は一度に六つも丼を持ってくる。無謀すぎて見ていられない。ぷるぷる手が震えてるぞ。
俺は上春から盆を取り上げる。
「あ、ありがとうございます、兄さん」
「一度に運ぶなら俺を呼べ」
上春が努力家だってことは知っている。そして、空回りすることも。要は自分一人で抱え込みすぎて、自爆するタイプだ。
頑張って丼を運ぼうとしたが、重すぎてひっくり返し、落ち込む姿が目に見える。
こういうときは朝乃宮がさりげなくフォローをするのだが、今は朝乃宮がいない。俺が手伝うべきだ。
「兄さん、さっきは……」
「悪かったな。虫の居所が悪かったんだ。許してくれ」
「は、はい、それはいいんですけど……」
「残りは俺が持ってくるから」
俺は上春の言葉を遮り、テーブルに丼を置いた後、上春を置き去りにしたまま、台所にある残りの丼を取りに行く。全部で十人分なので、残り四つだ。
「その必要はないわよ」
「……」
女が不機嫌そうな顔で俺を睨んできた。俺もつい睨んでしまう。女の両手には盆があり二つずつ丼が乗っていた。
俺は黙って盆を受け取る。そして、睨み合う。
「さ、流石は兄さんですね~。力持ちですー」
上春は強引に俺達の間に割り込んできた。俺はため息をついた。
「……上春は非力だな」
「もう! 空気が読めてない! 兄さんのような怪力なんて私にはありませんから!」
ぷりぷりと怒りつつ、上春は吸い物や箸など準備を始める。
すまないな、上春。逆にフォローしてくれて。
俺は心の中で謝罪した。
さて、準備は完了した。
今日は丼と吸い物、漬物だ。
本来ならおせちの残り物を食べる予定だったはずだが……昼間に全て食べたのか?
まあ、菜乃花の機嫌が悪くなるのを防げたので、よしとするか。さっそく丼の蓋を開けてみると……。
「……カツ丼?」
丼には二つのカツが盛っていた。
卵の卵黄と卵白で彩られた二枚のカツは丼一杯にひろがり、ボリューム感を出している。
お椀に閉じ込められていた湯気と一緒に卵の香りが漂い、空腹を刺激してくる。
衣がしっとりとしていてその上に半熟の黄身に白身が包まれた状態でのっかっていて、黄身を潰してとんかつにかけて食べるか、黄身だけを味わうか、悩みどころだな。
見ているだけでも食欲をそそるが、練習後だと、余計に美味しく見えてくる。
だが、なんでカツ丼なんだ? 正月にカツ丼なんて聞いたことがない。いや、待て。カツ丼だと?
俺は楓さんを見た。
「正道さんが明日、試合に出るって聞いたものですから。験担ぎに」
楓さんはそっと微笑み、俺はつい顔をそらした。
その……なんというか……ベタというか……だからこそ、ぐっときた。
言葉が出てこない。こんなとき、何を言ったらいいのか……。
頑張ります、か? それとも、足を引っ張らないようにします、か?
いや、違うだろ。きっと、楓さんが……義信さんが言いたいことは……この丼に込められた願いは……。
俺はカツ丼を喉に流し込むように、ガツガツと食べた。
肉が軟らかい……噛むと豚肉の柔らかくて感触のいい歯ごたえがする。
肉の脂身と半熟卵の甘み、醤油、みりん、鰹ダシの味が口の中に広がっていく。
調理もだが、素材もいい。
ただの豚肉じゃない。国産のいい豚肉を使っている。
それに米もいい。ふっくらと炊き上がった米はむらがなく、充分に蒸らしている。
驚くほど、米はカツと卵と相性がよくて、肉と卵のうまみを受け止めていて、一緒に口に放り込むと、手が止まらなくなる。
米の熱さもちょうどよくて食べやすい。
美味い……美味い……。
今までで一番美味しいカツ丼だ。
俺が作ったら、もっと肉は固くて、ご飯もほかほかで熱く、そのせいで卵も少しふやけ過ぎるだろう。
楓さんが作ったカツ丼は肉、卵、米……その全てが丁寧に下ごしらえされていて、手間をかけて、食べやすさも考慮して作られている。
だから一口目で理解できるんだ。
料理を作ってきたからこそ、このカツ丼に込められた楓さんの心遣いが伝わってくる。それ故、これほど美味いんだ。
お前は一人じゃない……。
家族が……みんながいてくれるって実感できるんだ。
俺の中で沸き上がってきたものは熱い想いだった。先ほどまでに感じていた劣等感は消え去り、ただ、目頭が熱くなった。
誰かに勝手な期待を押しつけられるのは嫌いだった。
風紀委員を立ち上げ時、多くの生徒が風紀委員に期待してくれた。不良が闊歩するこの青島で、風紀委員は自分達を護ってくれる組織だと思われた。
最初は人に期待されることが嬉しかった。誇らしかった。
信頼されるよう、頑張りたかった。けど、ダメだった。
俺は期待に応えようとして、頑張ったけど、俺は無敵ではない。その逆で弱い人間だ。当時は喧嘩に負けることの方が多かった。
弱い俺を見て、生徒達はあからさまに失望し、手のひらを返され、陰口をたたかれた。
教師の犬、何も出来ない役立たず、融通の利かない面白みのないヤツ、ちょっとふざけただけで注意してくる偽善でウザいヤツ……。
理不尽だった。
こっちはそれこそ命がけで期待に応えようとした。だが、人生は頑張ればなんでも叶うこともなく、失敗することだってある。
誰かに頼まれたわけではない。俺達が目的のため、自主的に始めたことだ。文句を言う筋合いなど俺にはないのだろう。
だが、それでも……勝手に期待しておいて、応えられなかったら勝手に失望して、責めてくるのは納得がいかないだろうが。
苦い思いが心を占める。一年前の出来事が脳裏に浮かぶ。あのとき、俺は期待に応えるのをやめた。
世間で少年Aだともちあげられ、犯罪者である自分にも人のために何か出来ると、必要とされていると錯覚していた。幻想だった。
それに気づいたとき、身の丈に合わない事はせず、自分に出来る事を精一杯することにした。
期待されることから逃げてきたのは……嫌われるのが怖かった……そうだ、怖かったんだ……俺は……。
それなのに、ちょっとチームメイトに褒められたからって、期待されたからって、また俺は期待に応えようとした。
そして、自分の力のなさに失望し、嫌われるのを恐れた。勝手なヤツだった。
それが俺の正体。醜くて、器の小さい情けない男。
好意を向けてくれる御堂や伊藤に嫌われるのが怖かった。チームのみんなに……義信さんに失望されるのが怖かった。
でも、義信さんも楓さんも俺を応援してくれているんだ。
きっと、このカツ丼は義信さんが楓さんに頼んで作ってくれた物だ。でなければ、俺が明日の試合の選手に選ばれた事なんて、楓さんが知るはずがない。
そして、この豚を用意してくれたのは、本土にデートしに行った女と信吾さんだ。青島は今、正月休みで店は開いてないからな。
俺なんかのために……みんなが用意してくれたんだ。
そうだよな……家族だもんな……こんな情けない俺でも……間違いばかり繰り返してきたバカな俺なんかを……笑顔で応援してくれるんだよな。
なあ、俺。どうするよ? いつまでふてくされているんだ?
足を引っ張るだ? 下手くそだ? だから、なんだ?
家族が応援してくれているんだぜ? なら……応えるべきだろうが!
どこの誰に失望されても、家族にだけは格好いいところを見せたい。
藤堂の名に恥じないよう、胸を張って成果をあげて、家に帰還したい。
「ははっ、正道君。がっつりいくね! 僕も食べよう! あっ、豚肉を買ってきたのは僕らだよ! 澪さんと一緒に美味しい豚肉を吟味して選んだからね!」
そんなこと、言われなくても分かってる。
それとな、信吾さん。そんなに女いい人アピールしても、俺は再婚など認めないからな。嫌なものは嫌なんだ。
後、『キミならやれる!』とか文字を書いたTシャツを着るな。フリーターが無駄遣いしてるんじゃねえぞ。
「兄さんだけ二枚なんですよ! これで効果二倍ですね!」
確かに俺だけ二枚ある。だがな、上春よ、カツ二枚でかつかつだから、苦戦しそうで縁起が悪い。
けど、ありがとな。
俺はただひたすらカツ丼を口にした。
「ふぅ……」
俺はカツ丼を平らげた。たくわんを噛みしめ、吸い物でしめる。つい、息が漏れる。
もしかすると、早食いの自己新記録を出したのかもしれない。
力がわいてくる。今なら誰が相手でも、勝てそうな気がする。
この気持ちが冷める前に、やれることをやろう。
格好悪くても、泥臭い無駄な努力になるかもしれないけど、行動するんだ。必ず、このカツ丼に報いてみせる。
俺はカツ丼を用意してくれた楓さん達に頭を下げた。
「義信さん、去年の試合のビデオを見たいのですが」
「ああっ、かまわない。私の部屋の棚にある。ラベルがあるからそれを見なさい」
俺は丼と椀を台所に持って行き、義信さんの部屋に行く。ビデオでとった去年の交流戦見ておきたい。
敵の分析と味方の動きを把握しておきたい。連携がとれるように頭にたたき込むんだ。
俺にはもう、迷いはなかった。だから、言っておきたかった。
俺はジッと義信さんを見つめる。
「どうした、正道?」
「義信さん。俺、絶対に勝ちますから。見ててください」
その一言だけ告げて、リビングを後にした。
俺は夜遅くまで、何度も何度もビデオを見て研究した。
□□□
「相変わらず暑苦しいわね、正道は」
正道が去った後、菜乃花はため息をついた。だが、菜乃花の顔には侮蔑ではなく、笑顔があった。
笑っていたのは菜乃花だけではなかた。
「正道君って難儀な性格してるね。お礼に頭を下げたけど、僕じゃなくて澪さんに頭を下げたでしょ。ちゃんと分かってるんだよね」
「よかったわね、姉さん」
古都音の笑顔が恥ずかしくて、澪は顔を背ける。
「……別に父さんが考えたんでしょ、この計画」
今日のカツ丼は正道が推測したとおり、義信が考えた事だ。
正道がレギュラーに選ばれたことで、プレッシャーを感じていたので、この案を思いついたのだ。
まず義信が楓に連絡し、楓がデート中の澪に連絡した。
澪はデートを中断し、寒空の下、何軒も店をまわって美味しい豚肉をそろえたのだ。
正道は全てを悟り、お礼に頭を下げたわけだ。
「それにしても、カツ丼効果、抜群ですね! すごく気合い入ってましたよ!」
咲は嬉しそうに両手でガッツポーズをとってみせる。澪は苦笑しつつ、正道が去って行った場所に視線を送る。
「単純なのよ、正道は。あの子は体が大きいくせに臆病者で……練習で不安を押し隠す性格なのよ。子供の頃からそうだった。運動会も球技大会も夜遅くまで健司君と練習してたっけ」
澪が懐かしむように天井を見上げている。
正道の子供の頃が一番幸せだったと澪は感じていた。あの頃は、正道は素直で優しい子だった。
今でも優しいが、種類が違う。正道の今の優しさは暴力で解決させるものだ。
弱きを助け強きを挫く、聞こえはいいが、暴力ではきっとまた同じ過ちを繰り返す。また、正道が傷つく。
それが分かっているのに、澪の声は正道に届かない。それがもどかしく、苦しいかった。
親の愛情とはどうして、子に伝わりにくいのだろう。自業自得だけど、と澪は自嘲してしまう。
「ねえ、おばさん。正道のこと捨てておいて、どうして母親ツラできるの? おばさんに常識って言葉、あるの?」
アンタに言われなくても知ってるわよ、と言いたげに澪は古都音に文句を言う。
「古都音、あんた娘の教育、ちゃんとしてるの? 特に言葉遣い」
「ブーメランよ、姉さん」
澪と古都音は同時にため息をついた。お互い子育ての難しさを噛みしめているのだろう。
総次郎が慌ててフォローに入る。
「菜乃花、いい加減にしなさい。澪さんに謝って」
「本当のことを言っただけなのに? 私は正直者でいたいの。心にもないことを言う方が嘘つきでひどいと思うんだけど」
「ママ……菜乃花が~」
総次郎は自分の愛娘の強烈な言い分に、古都音に助けを求める。
古都音はいつまでも娘を溺愛する夫の姿に呆れながらも、菜乃花を注意する。
「はいはい。パパ、女の子に口喧嘩に勝てると思ってるの? 菜乃花は少し黙りなさい」
「私、悪くないのに……」
菜乃花は唇をとがらせ、そっぽ向いた。父親に強い娘も母親には勝てないのだ。
「あの、澪さん。健司って誰?」
強はさきほど澪の会話で出てきた健司の名前に興味を持ち、尋ねてみた。
澪は目を丸くし、唇をゆるめる。
いい兆候だと思った。少し前まで強は信吾と咲、朝乃宮の三人しか話をしなかった。
話と言っても、口数は少なく、一日に一言も話さなかったこともある。
心を閉ざしていた強が他人に、正道に興味を持ったことは、澪としては喜ばしいことだった。
強の心を開かせた自分の息子が誇らしかった。
願わくは、もっと自分に話しかけて欲しいとも澪は思っている。
「健司君はね、正道の親友だったの。でも、中学一年の三学期だったかな……引っ越しちゃたのよね……」
澪は健司の引っ越しについて、正道に黙っていることがあった。
澪は突き止めたのだ。正道をいじめている相手が誰なのかを。
息子がいじめられていた事は知っていた。毎日顔を合わせているのだ。分からないわけがない。
それで澪は調べたのだ。
自分の息子をいじめていた相手が、よりにもよって息子の親友であるはずの健司だと知ったとき、澪は激怒し、健司に問い詰めたのだ。
許せなかった。正道をいじめていたのが、よりにもよって、幼い頃からずっと一緒にいた親友だったとは。
問い詰めた一週間後、健司は引っ越していった。澪は今でも忘れられない。
健司の涙と謝罪。そして……。
「へえ……正道にも友達がいたんだ」
菜乃花の失礼な発言に、澪はむっとした顔で反論する。
「いるわよ。当然でしょ。でも、因果応報よね。正道と別れた後、まさか、あんなことが起こるなんてね……」
「あんなこと?」
一年前、澪は偶然健司の母親と出会った。正道と健司は幼稚園からの付き合いなので、母親同士交流があった。
いじめのことがあって疎遠になっていたが、たまたま出会う事があって、それから、何度かメールや電話でやりとりをしている。
そして、知ってしまったのだ。
「澪、その話はするな」
「何よ、いきなり」
「二度同じことを言わすな」
いきなり義信に怒られ、澪は唇を尖らせる。その姿に古都音と総次郎はプッと笑い出す。
澪の拗ねた姿は古都音とそっくりだったからだ。
澪に睨まれ、二人は黙った。
そして、別の話題となり、とりとめのない話が続いた。
澪が話そうとしたことは、後に正道の運命を大きく変えることになる。
そして、真実を知った後、正道に訪れる運命を、このとき誰も予測できなかった。
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