聖典のファルザーン

佐々城鎌乃

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第1章 Ⅳ節 皇都陥落─前編─

Ⅳ節 皇都陥落─前編─ 3

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 高くない陽の光が曇りがちな空から注ぐ昼下がりの事である。ケイヴァーンは今朝から兵の配置や物資の管理について部下より報告を受けて対応に追われ続けていた。

 ケイヴァーンは万騎将ではあるが、平時の、殊に皇都においては鎮護の役割を皇帝より任命されていた。三重の城壁のうち、ケイヴァーンが受け持つ区域は、最も外の城壁南門と、その付近の南地区であった。

 今朝から続く南西の貧困区の噂の封じ込めが芳しくなく、南地区では既に市場バザールや酒場の閉鎖も行われていた。

 というのも、ケイヴァーンが危惧した通り、南西の警備を担うニハヴァンテが、見せしめに貧困区の民や奴隷を十数人ほど鞭打ちにしたからである。結果、布地にインクを滲ませたように、噂は尾ひれをつけてみるみるうちに拡がっていったのだった。

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「知っているか? 南西で妙な噂をした輩が鞭打ちにあったそうだ」

「いや、噂したやつが見つからなかったから、見せしめに鞭打ちをしたらしい」

「そもそもその噂ってのは何なんだい?」

「実はこの前出征した皇太子フェルキエス殿下の軍がキースヴァルト相手に全滅したらしい」

「いや、実はまだ戦いが続いているらしいぞ」

「細かい事は知らないが、なんでも万騎将が大勢討ち死にしたんだとよ」

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 この毒煙は市民だけに留まらず、兵士の間にまで拡がっていた。

 故に大万騎将サーヴァールダレイマーニは事態を重く見て、皇都全ての兵士に箝口令を出し、南地区と西地区の市場バザールや酒場を閉鎖させたのだった。

 ケイヴァーンは兵士の配置を終わらせた頃を見計らって、皇宮へと直々に出向いた。ダレイマーニと今後の方針を話すためである。

「おや、ケイヴァーンではないか。南地区はどうしたのじゃ」

「父上、丁度探しておりました。お話したき議がございます」

 向こうから歩いてきたところをばったり出会でくわして、ふたりは互いに多忙のために皇宮の大回廊をせかせかと歩きながら談義した。

 難しい顔持ちでケイヴァーンが切り出す。


「パルソリア平原での戦に関する布告を皇帝陛下に申し上げて出して頂くべきです。このままでは皇都が治められなくなるやも知れません」

 老将は少し驚いたようにケイヴァーンを見やった。

「そなたも知っておるだろうが、皇帝陛下は今、病の床に就いておられる。おおごとでもない件を奏し奉るのは、無礼にあたる。それに、噂を押さえるためだけに勅旨を出すわけにもいかんじゃろうて」

 ダレイマーニはケイヴァーンの意見を諌めつつ却下した。しかしケイヴァーンは、表情をより険しくして迫った。

「おおごとには見えぬから問題なのです。敗北したという旨の噂が、このように広まるのは、些かおかしくはありませぬか。我が軍は長きに渡り無敗を誇ってきました。民も我が軍には大いに信頼を向けているでしょう。それなのに、敗北したという噂に感化されるというのは、妙です。些事ゆえに今のままの対応を続けていては、騒ぎに成ってからでは遅いではありませぬか。ですから、ここは皇帝陛下の御名おんなで、民に向けて妄言を信じるなかれと、お言葉を頂く方が、かえって憂いを残しませぬ」

 ダレイマーニは昨夜ベルマンと話した事をぶり返されたように感じられて、少し苛立った。

「妙なのはわしもわかっておる。じゃが勅旨を出して頂く理由が"妙だから"などというのは、根拠が薄すぎよう」

 ケイヴァーンは、今度は引き下がるを得なかった。確かに漠然とした懸念があるのみで、確固たる根拠がなかったのだ。

「じゃが、おぬしの懸案はベルマンに伝えておこう。いつまでも南地区の将が持ち場を離れているわけにはいかぬ。早々に戻るが良かろう」

「......わかりました。宰相閣下に宜しくお伝え下さい。では」

 ケイヴァーンは去っていくダレイマーニの背に朝と同様に一礼して踵を返した。

 午後の陽光が中庭の池から照り返して揺れる大理石の回廊を足早に音を立てて歩きながら、ケイヴァーンは今朝から感じていた違和感について考えた。

(やはり父上は何か隠している。父上の立場であれば、皇都の風紀に意を唱える事ははばかられるのは解る。宰相閣下の顔を立てねばならないからな。しかし、軍紀となると別だ。噂によって乱れた軍紀を一度の箝口令程度で留めおくなどあり得ぬ。それに、パルソリア平原での戦の勝敗が未だに届いていないはずはない)

「......もしや、我が軍は本当に敗退している......?」

 思わず口に出してしまったケイヴァーンは、辺りに誰もいないことを静かに確かめて、再び歩き出した。

(だとすれば、知れ渡るのも時間の問題だろう。皇都や州郡で隠し通せたとしても、諸侯にはそうはいくまい。であれば執拗に隠し立てすることもないはずだが......)

 皇宮の門を出た時、刻限は正午から一刻半ほど過ぎた頃であった。この時、ケイヴァーンは皇宮の建つ丘から見おろす城外の砂漠の街道に、多くの兵士の鎧の煌めきを見た。

(あれはなんだ......?)

 ケイヴァーンは急いで門外の衛士に預けていた自分の馬に乗り、南地区へと駆け戻った。ケイヴァーンはすぐに部下に問うた。

「サキュロエス街道に軍馬の影が見えたが、あれはどこの軍だ」

「旗からアミル=セシム侯かと思われます」

「アミル=セシム侯......」

 アミル=セシム侯は皇国南西の港湾を有するナンガルハルの領主にして、皇国12諸侯の一人である。諸侯の中でも最有力の力を持ち、皇家からの用心も深い注意すべき勢力であった。そのアミル侯の軍が、小規模ではあるが街道を上ってきているという報は、ケイヴァーンに不安を過らせた。

(よもや挙兵した? いや、あり得ぬ。ナンガルハルから軍を動かしたとて、諸々の備えもせねばならぬことを考えれば到着が早すぎる。それに数も少ない......あの軍、一体......)

 1000人余りのアミル侯の軍は、行き交う商人や旅人たちを道の端に追いやりながら、ゆっくりとアキシュバルの南門前へと進んで来ると、門前で止まった。長蛇の列は中央に荷馬車を擁していた。

(荷馬車......?)

 軍団の先頭にいた長らしき一騎が、門前に歩み出た。

「我らはアミル侯の守護する都市クテシフォンより参った糧食運搬部隊である。今朝がた皇帝陛下の命により、皇都鎮護軍の追加糧食を運んで参った次第。入城を許可されたし!」

(そのような命、あったか......?)

 ケイヴァーンが問おうとしたその時、門前に居た入出城を管理する検問の門兵の長が声を出した。

「そのような命があることは、こちらは聞いていない」

 騎乗した軍団の長は懐から丸めた羊皮紙を取り出して声を発した門兵に見えるように掲げた。門兵はその羊皮紙を受け取って検分する。すると回りにいた部下たちと、何やら慌てて話し始めた。

 ケイヴァーンはそれを見て、羊皮紙を持って来るように言うと、持って来させた羊皮紙を確認した。

(これは確かに糧食を届けよという令だ。皇帝陛下の印章と宰相の封印もある......偽物ではない......)

 皇帝の印章があるが、病床の皇帝に代わって、事実上、国政を執っている宰相ベルマンの名で書かれている。

 ケイヴァーンが命令書を確認している間、門兵は先頭の荷馬車の荷を検分していた。終わると、報告しに来る。

「どうやら問題無いようです」

「そうか、ご苦労」

 荷も間違いなく糧食で、正式な命令書もある以上、通さないわけにもいかない。ケイヴァーンはクテシフォンからの糧食部隊のアキシュバルへの入城を許さざるを得なかった。

 諸侯の軍は、くすんだ輝きを返す古い鎧を身に纏っている分、歴戦の皇家の軍に比べれば見劣りする出で立ちである。不審なところは一見見当たらない

 ケイヴァーンはぞろぞろと入城してくるアミル侯の私兵を訝しげに眺めた。

(それにしても、今朝から不可解な事が多すぎる。届かない戦報、父上の優柔不断、宰相の名で届けられた予定外の糧食運搬部隊......)

 ケイヴァーンが詰め所に戻って遅めの昼を摂ろうとした時、宰相処ラーシャイールから遣いの文官がゆっくりと糧食部隊の横をすれ違いながら馬に乗ってやってきた。白い官吏服に、階級を示す羽根飾りをつけた紫の帽子タルブーシュが目に付く。

「ケイヴァーン殿は何処いずこにおわす」

「ケイヴァーンはここだ」

 呼び止められて苛立ち気味に応えた。文官は馬を降りると、ケイヴァーンに寄った。

「ケイヴァーン殿、宰相よりお伝えせよとの名があり、参上致した。実は今朝方、宰相閣下が近隣都市から糧食を届けよ、との命をお出しになって、その報告に来た次第で──」

 ケイヴァーンは言い終わる前に恐ろしい剣幕で文官を睨み付けた。秀麗な顔でも、眉間に皺を刻むと極東の厳めしい神像にも劣らない凄みが殺気をも伺わせた。

「ひっ!?」

 睨まれた文官は今にも心臓が止まるようなその強烈な眼光に軽く悲鳴を漏らした。

「何ゆえ今頃来られた。そなたの顔に空いている2つの穴は、前を通る荷馬車の列を映さないらしいな」

「そ、そうは申されても、私は宰相閣下よりお伝えせよとの命を承っただけで......っ!」

「いつ」

「今朝方......っ」

 ケイヴァーンは柄にもなくいかった。声低く心臓に重く圧が掛かるように。

「今は何刻だ?」

 文官は恐れおののいて腰を抜かして地面に崩れた。

「わ、私が間違っておりましたっ! どうかお許しをっ......!!」

 崩れ落ちざまに膝を屈してこうべを地に付け陳謝した。ケイヴァーンの豪勇は、知らぬ者が居ない。声は、今にも斬り殺そうとしているように聞こえたであろう。

「そなた、名は」

「ケスファルです......!」

「ではケスファル、そなたの信ずる神に祈ると良い。そなたを賊とたがえて処してしまってから伝令が来て、俺が後悔しないように」

 ケイヴァーンは足を鳴らした。

「戻るとよかろう」

「は、は、は、はいっ!!」

 文官は一目散に馬に飛び乗ると、呆れるほどの駿足で逃げ帰っていった。

 ケイヴァーンは文官が去ると、何事も無かったように詰め所へと戻った。すると一部始終を見ていたらしい部下がケイヴァーンに話しかけてきた。

「あの文官には怒りを通り越して呆れすらしません。このような大事だいじを、丸1日も遅れて報せてくるなど。宰相閣下は朝に命じられていたというのに」

「それほどに文官の堕落が進んでいるということだろうさ」

 部下はケイヴァーンの怒りに同情するように話したが、実のところケイヴァーンは怒りこそあるものの、本気で怒っているわけではなかった。

(昨今の文官たちは、全くもって論外なほどに仕事をしない。軍司処アールティシャイールは、まだ父上の息のかかった者が多いゆえ、信用できないこともないが、よりによって宰相処にまであのような官吏が登用されているとは......)

 登用の出入りが激しい武官に比べて、文官は一度登用されれば長い間、職を失うことはない。それゆえに、いかに長く国庫を食い潰すかに心血を注ぐようになる。地位で言えば武官の方が少し上の位にあるが、武官よりも地位の序列が細かく多いために、責任の所在が曖昧になりがちである。今しがたの宰相処ラーシャイールの遣いの文官も、恐らくは命令が下ってからかなりの間、たらい回しにされた果てに遣わされたのであろうことは容易に想像できた。

(いずれにせよ、糧食隊の宿舎や厩舎の手配をせねばならんな)

 ケイヴァーンはライ麦の平たいパンをちぎって口に放りながら、冷めた羊肉の薄いシチューに手をつけようとした。

 すると、部屋の戸を叩く音がした。

(今日は何やら俺に昼飯を食わせたくない悪魔が知恵を働かせているらしい......)

「報告します。南西区にて──」

 その報告はケイヴァーンを驚嘆させた。

 ニハヴァンテが住人を殺害したのだ。














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