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第51話

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コテージの外は、朝霧に包まれていた。風に流される霧が僕の頬を冷たく撫で、白く霞んだ世界に僕たちを誘う。

「映画の世界だぁーーー」

僕の感動の言葉をよそに兄さんが心配げに口を開く。

「正美、本当にボートに乗る気か?視界悪いぞ?」
「でも、まったく見えないわけじゃないよ?薄っすら景色は見えているし。幻想的でいいかんじだと思わない?ねえ、行こうよ兄さん!!」

僕は兄さんの腕を掴んで、コテージ近くのボート乗り場に向かった。予想していた通り、早朝のため営業はしていなかった。でも容易にボートには乗れそうだった。ボートは桟橋にロープで簡単に繋ぎとめてある。僕はよさそうなボートを見つけると、ロープを外して慎重に乗り込んだ。

「うわぁ!」

思いの外ボートが揺れて、僕は慌てて座り込んだ。

「正美、気をつけろ!落ちたら洒落にならないぞ!」

ついに泥棒の仲間入りだとぶつぶつ呟きながら、兄さんもボートに乗り込んできた。ボートがまた大きく揺れる。

「うっ・・ゆっくり乗ってよ!!」

僕の抗議に兄さんが眉を顰める。

「お前が乗りたいって言ってたくせに、文句を言うなよ。ボートは揺れるものなんだから。おい、俺が漕ぐからオールに触るな。絶対正美は下手そうだからな」

「何だよ、その決め付け」

僕は文句を言いながらも兄さんにボートの操縦は任せることにした。あまり自信がなかったのは事実だから。ぎしぎしとオールがボートの縁を擦る音を立てながら、ボートがゆっくりと湖面を進み始める。

白く霞んだ湖に静かにボートが進んでいく。

ちゃぷちゃぷと水音を立てゆっくりと揺られるボートに乗りながら、僕は映画の世界とシンクロしはじめていた。

小説『深海の森』では、このボートの上で兄と妹が体を絡めあうシーンがある。でも、映画の演出では昨夜泊まったようなコテージで、近親相姦の関係を持ったことになっていた。

妹は兄に誘われるままに早朝のボートに乗り込み、まるでそれを望むように兄に押し倒され、キスされながら首に手を掛けられる。ゆっくりと目を閉じ死の瞬間を待つ妹。

絶命した妹を抱き寄せ、頬にキスをする兄。

そして、二人はボートから身を投げ湖の底に沈んでいく。朝霧に包まれた湖と駒ケ岳だけが、ただ静かに兄妹の最期を見届けて映画は終わった。

不意に、ボートの動きがとまる。湖面に留まったボートがゆらりと揺れる。僕は視線を景色から兄さんに移す。兄さんはじっとこちらを見つめて口を開く。

「正美、そろそろこの旅行の意味を教えて欲しい」
「え?」

「ただ思い出を作るためだけに、俺を旅行に誘ったわけじゃないだろ?」

僕は黙って兄さんを見つめる。そして、静かに口を開いた。

「兄さんに聞きたいことがあったんだ」

「聞きたいこと?それなら、俺のマンションでも済む用事だよな?随分と演出に凝るんだな、正美?」

兄さんの言葉に、僕はちょっと笑って答えた。

「漫画家の性かな?演出に凝るのは。でも、日常の延長じゃ聞きにくいこともあるから」

「言えよ」

兄さんがまっすぐに僕を見つめる。その視線が辛くて、僕は目を逸らせた。周辺は相変わらず朝霧に包まれ、世界が淡く霞んでいる。まるで、世界には僕たち兄弟以外いないように感じた。

だから・・聞ける。兄さんの秘密を。

「兄さん、父さんを殺したの?」

僕の言葉が静かに白の世界に響く。ちゃぷりと水音をたててボートが揺る。

「・・質問の意味が分からないな、正美。父さんは、タバコの不始末が原因で火事で死んだ。それ以外の事実はないよ?」

僕は兄さんに視線を移した。動揺の様子は見えない。

「要君が事故に遭う前に言っていたんだ。『俺と弘樹さんは父親殺しの血で繋がっているんだ』って。兄さんは、父さんを火で殺し、要君は刺して父親を殺したって‥‥そうはっきり僕に言ったんだよ?」

「忘れたのか?要は薬で脳の機能を失ったんだ。そんな子供の言葉を信じるのか、正美は?」

「嘘を言っていたようには見えなかった」

兄さんはため息をついて僕を見つめる。

「お前は兄貴の言葉より、要の言葉を信じるのか?俺の家族を殺した殺人犯の言葉を信じるのか?」

「僕は!!」

「お前も・・そう思うのか?俺が父さんを殺したって、そう思っているのか?」

兄さんの声が切なげに響く。僕は逡巡した後に口を開いた。

「父さんは殺されても仕方のない事を僕たちにしていた。もし本当に兄さんが父さんを殺したのなら・・それは、僕たちの未来を守るためでしょ?だったら、僕も真実を知って罪を共有する義務がある!兄さんが一人で罪を背負うなんて間違っているから・・」

「罪の共有?」
「そうだよ。兄さんの心の傷を共有したい・・そう望んでは駄目なの?」

兄さんがそっと笑う。

「俺が父さんを殺したって前提で話を進めるなよ。それに、心の傷なんて他人と共有できるものじゃない」

兄さんの言葉に胸がずきりと痛んだ。

「僕たちは兄弟だよ。他人なんて言わないでよ」
「他人は他人だ・・兄弟でもな。心の傷は人と共有したからって、癒えるって物じゃないだろ、正美?自分で・・克服していかないと駄目なんだ」

「でも、他人でも話せば楽になるよ!!僕が・・そうだったから」
「お前が?」

兄さんが眉を寄せる。

「僕は兄さんが‥‥ずっと好きだったんだ。兄弟としてじゃなく・・好きだったんだよ。その肌でもう一度愛されたいって、ずっとそう望んでた。たとえ禁忌の関係でも。でも、兄さんは父さんが死んで以来、僕を抱いたりしなかった。そして、はるかさんと出会い結婚した。苦しかったよ・・僕は、胸が裂けるほどに」

「正美・・お前」

「兄さんが結婚した夜・・僕は、和樹を頼ったんだ。兄さんの替わりに抱いてもらった。兄さんへの想いも聞いてもらった。そうしたら・・すごく、楽になった。近親相姦を望む罪を、和樹に少し負担してもらったんだ。和樹には・・悪いけど。和樹は優しくて居心地が良くて、いつの間にか傍を離れられない存在になってた。不思議だけど・・今は、兄さんの身代わりとしてではなくて‥‥本当に好きなんだ。これって、僕の心の傷が癒された瞬間だと思う」

「お前にとっては、和樹はなくてはならない存在だって訳だな」

「兄さんだってそうだよ!!兄さんの苦しさの一番の根っこって『父親殺し』じゃないの?僕は怖いんだよ。その苦しみが・・兄さんを殺してしまわないか。もう兄さんの傍には、はるかさんはいない。東京に行っちゃうその前に、僕に教えてよ・・お願いだから。真実を知っても僕が兄さんを責めるはずないって、兄さんなら分かるでしょ!!」

僕は堪らなくなって、兄さんにしがみ付いていた。ボートが大きく揺れる。

「正美・・・」

兄さんの手がそっと僕の背中に回された。

「罪を僕に分けてよ!兄さんーー!!」





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