Eternal Star

綾瀬麻結

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3巻

3-1

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 Eternal Star 3



   プロローグ


 ――大阪、八月。
 すず千佳ちかは流れる景色を眺めていた。外はだるような暑さだが、新幹線の車内はエアコンが効いていて、涼しい環境が保たれている。
 だが、千佳のからだは異常なぐらい火照ほてっていた。その瞳はうるみ、頬には幾筋もの涙の跡がある。
 東京を離れることにためらいはない。快適だった一人暮らしをやめるのも、東京本社から大阪支社へ出向するのも自分で決めたことだから。
 だが、たった一つだけ残念でたまらないことがある。数週間前まで付き合っていた水嶋みずしまゆうと、出発前に会えなかったこと。彼に別れを告げられたが、何故、優貴に相談もせず一人で大阪へ行くことを決めたのか、もう一度だけ会ってきちんと説明をしたかった。
 二人の未来は、再びどこかで繋がると信じている。だからこそ、優貴と会ってから東京を発ちたかったのに、それは叶わなかった。
 千佳は、どうやって希望を持てばいいのかわからなくなっていた。
 同じ秘書室で働く同僚で、ずっと仲良くしてくれていた桜田さくらだに全てを話した時には、千佳の気持ちも前向きになっていたというのに。
 想いを押し込めるように唇を引き結ぶものの、すぐにわなわなと震え出す。膝に置いた手には自然と力が入り、いつの間にかギュッと拳を作っていた。
 千佳は、妹の実佳みかが突然訪ねてきた時のことを思い出していた。

(わたしは、知らなかった。何故、実佳がたった一人で東京へ来たのかということを。目の前の問題しか見えていなかったから、気付いてあげることもできなかった……)

 両親が入院してしまい、実佳はたった一人でどれだけ心細かったことだろう。
 だから、罰が当たったのかもしれない……。優貴以外の男性にときめき、結果、恋人を失うはめになった。
 大阪へ向かう新幹線の自由席。自分の愚かさに、千佳はたった一人で涙を流していた。




   第一章 そして、タカラがこぼれ落ちた……


「じゃ、行ってくるね」

 今日から、水嶋グループ大阪支社での仕事が始まる。初日ということもあり、千佳は家を出る時から少し緊張していた。

「千佳……、ご飯ぐらい食べていったら?」

 ご飯と聞いただけで、胸がムカムカしてきた。吐き気さえ覚える。それを極力無視してハイヒールを履き、スカートについた埃を払うと、千佳は上がりかまちから腰を上げた。ゆっくり振り返って、心配そうに見つめる母へ視線を向ける。

「ごめんね。食べた方がいいのはわかってるんだけど……まだ胃の調子がおかしいみたい」

 千佳は、軽く胃をさすりながら顔をしかめた。

「病院へ行ったら? ちょっと……長すぎるわ」
「うん。だけど……理由はだいたいわかってるの。東京を出る前から、体調が悪かったし」

 母は、千佳が優貴と別れたことを知っている。大阪へ着いてから何気なく優貴のことをかれ、千佳は素直に別れたと告げたからだ。
 どうして別れたのか理由はかれなかったが、その影響で千佳の体調が優れないと薄々感じ取っているのだろう。だから、この日も曖昧に答える千佳を追及しようとはしなかった。

「それなら、これを持っていきなさい」

 母が差し出したのは、スパウト付きパウチだった。手軽に栄養補給ができるゼリーが入っている。時間がない時は食事代わりにもなるので、千佳も東京では重宝していた。

「ありがとう、お母さん」

 母の愛情を感じながらそれをバッグに入れると、千佳は面を上げて背筋を真っ直ぐに伸ばした。

「じゃ、いってきます!」
「いってらっしゃい。気を付けてね」
「お姉ちゃん、いってらっしゃい!」

 ダイニングルームで朝食を取っている実佳の声が、玄関まで聞こえた。母と目を合わせて笑みを交わすと、千佳はドアを開けた。
 外に出ると、日射しが容赦なく降り注く。その眩しさに、千佳は思わず目を細めた。せみの鳴き声も朝から元気なので、今日もいい天気になるのだろう。
 今日から始まる新しい仕事に向き合うために、千佳は大きく深呼吸を三回繰り返した。

「よし!」

 気合いを入れて自分を奮い立たせると、そのまま駅に向かって歩き出した。


「鈴木千佳です。皆さんにご迷惑をおかけしないように頑張ります。いろいろとご指導よろしくお願いします」

 これから共に働く秘書たちの前で挨拶すると、温かい拍手で迎えられた。
 それからの数日は、秘書室内での動きを頭に叩き込んだ。いろいろと親身になって教えてくれたこともあり、何とか一日一日を過ごすことができた。
 そんな時、本社社長に初孫が誕生したというビッグニュースが社内を駆け巡った。

亜弥あやさんとこうさんの赤ちゃん、無事に生まれたのね。良かった!)

 優貴の弟である康貴と、その妻の亜弥に、千佳は心の中で何度もおめでとうと告げた。
 初孫が誕生したことを受け、大阪に住む康貴夫妻のもとに、水嶋一族が総出で訪れるという噂が千佳の耳に入った。
 もしかしたら、その時に優貴も大阪支社に顔を出してくれるかもしれない。
 少し心を弾ませたが、結局顔を出したのは本社社長だけだった。
 まだ、優貴に避けられているのだろうか? 
 そう思うとショックだったが、千佳はあまり深く考えないようにした。気持ちを切り替えて、亜弥のことを考える。

(九月に入ったら、わたしが大阪へ来たことを告げよう。数ヶ月前に会って以来、亜弥さんにはずっと連絡をしていなかったし)

 そのことを忘れないようにするために、机の引出しに臨時に発行された社内報をそっと入れた。
 社内報で水嶋家の近況を垣間見ることができたからか、千佳はほんの少しだけ幸せな気分に浸れた。
 だが、すぐに気を引き締めると、千佳は仕事モードに切り替えた。
 それ以降、仕事場では仕事を、家に帰れば家族のことを第一に思って行動をした。一人っきりになると、優貴のことを思い出して涙する。人目もはばからず、新幹線の中で涙を流したのが引き金となっているのかもしれない。

(感情がたかぶってるのかな? 優貴に別れを告げられてからというもの、わたしの体調も精神状態も不安定だし……)

 家族が、千佳のことをとても心配していることはわかっていた。だからこそ、無理をしてでもいつもの自分でいるように心懸けていた。


 ――九月。
 いつの間にか八月も終わり、長い夏休みを終えた学生たちと電車で顔を合わせるようになった。
 千佳の体調は悪くなる一方だというのに、時間だけはどんどん過ぎていく。体調管理すらできない自分を不甲斐なく感じながら仕事をしていたが、そんな千佳とは裏腹に、社内の雰囲気が少し活気づいているような気がした。
 それとなく耳をすますと、大阪府岸和田市で毎年秋に行われる岸和田だんじり祭の話題で盛り上がっているようだ。岸和田だんじり祭は約三百年の歴史と伝統を持ち、日本を代表する祭の一つとなっている。町会の青年団に属している社員もいるので、毎年この時期は社内も賑わうらしい。
 だが、特にその話題に加わることもなく、千佳は今までと変わらない生活を送っていた。
 親しくしている社員もいなかったので、この日も千佳は一人で社員食堂へ向かった。
 相変わらず食欲がないまま無理をして食べ物を口に入れていると、いきなり誰かが目の前のテーブルに乱暴にトレイを置いた。ガシャンと食器がぶつかり合う音にびっくりして、千佳は面を上げる。
 そこには、にわが立っていた。今年の春、千佳に告白をしてくれた男性だ。
 彼と一緒にいたことが優貴の誤解を招き、最終的には別れることになってしまった。優貴が茂庭の存在を過剰なほど気にしていたことを知りながら、勝手に茂庭もいる大阪へと行くことを決めてしまった。そのことも、別れを告げられた原因の一つかもしれない。
 その茂庭が、今は千佳の目の前に立って怒ったように睨んでくる。千佳と視線が絡まり合うと、何の断りもなく向かいの席に腰を下ろした。

「茂庭、さん?」
「俺、怒ってるんですよ」

 彼は、Aランチのスタミナ定食を食べ始める。以前、東京で食事に誘われた時とは違って、豪快にご飯を頬張る姿に、千佳は思わず男を感じた。
 性欲を刺激する〝男〟ということではない。その食事の量や、お腹を満たして午後からも仕事に励もうと頑張っている男の姿を見て、自然とそう思ったのだ。
 千佳が呆然としていることに気付いたのか、彼は諦めに似た面持ちになった。口の中の物を全て呑み込んでからテーブルに手をつき、千佳の方へ近寄るように前屈みになる。

「俺が何を言っているのかわからない? 三ヶ月前、一緒に食事をしようと誘って段取りまでしていたのに、鈴木さんは急に東京へ戻ってしまった」
(そうだった。あの時は、茂庭さんと一緒に食事をするのは良くないと判断したのよね。彼の誘い方が強引だったのもあるけれど、わたしは優貴だけを見つめたいと思ったから)
「……ごめんなさい」

 あれからまだ三ヶ月ほどしか経っていないというのに、千佳には遠い昔のことのように思えた。

(わたしは、茂庭さんから逃げるように名古屋へ向かって、そして優貴と会って……)

 そこで過ごした濃厚な時間を、千佳はふと思い出してしまった。すぐにまぶたをギュッと閉じて、その光景やこの身が覚えている官能を振り払おうとする。

「それじゃ、俺のために時間を作ってくれますよね? 本社から来た俺たちは、似た者同士なんですから」

 その言葉にパッと目を開けて、千佳は彼を探るように見つめる。
 似た者同士とは、どういう意味なのだろうか? 
 千佳は出向という扱いだが、茂庭は少し違う。茂庭は優貴によって左遷させられたのだ。それでも、二人の境遇は東京から来たという点については似ているかもしれない。

「茂庭さんは、どうして知ってるの? わたしが大阪へ来たって」
「ああ、本社から来たっていうだけで、一瞬でいろいろと噂が」

 茂庭は、箸で食堂にいる社員たちを指す。

「鈴木さんが……俺のところへ来て、大阪支社勤務になったことを知らせてくれるのをずっと待ってた。でも、一向に何も言いに来てくれないから、業を煮やしたってわけで……」

 そこで茂庭は一旦言葉を止め、少ししてから再び口を開いた。

「鈴木さん、食べないんですか?」

 ちょっとしか手をつけていない海鮮リゾットに視線を落とし、千佳は軽く頷いた。

「最近、食欲なくて……」

 ずっと気になっている下腹部付近を、そっと手で撫でる。優貴に別れを告げられてから、千佳は食欲不振におちいり、胃のむかつきがおさまらなくなった。おそらく、心が不安定だから、からだの調子もおかしいのだろうと思っていた。
 だが、最近は突然下腹部が張ってキリキリと痛むことがある。ただの神経性だと言われそうな気もするが、ここまで不調が長引くのであれば、早めに病院へ行った方がいいのかもしれない。

(生理中でなければ、すぐにでも病院へ行くんだけど……)

 躯の不調が続くのに食欲が出るはずもなく、千佳はそっと皿を押した。

「まだ胃に優しいリゾットなら食べられるかなって思ったんだけど、やっぱりムカムカして食べられそうにないみたい」
「それじゃ、今週の土曜に美味しいものを食べに行きましょう! 胃に優しいものを探しておきますから」

 楽しそうに微笑む茂庭を見て、千佳も口元をゆるめた。
 彼のことは恋愛対象として見られないが、この率直な話し方は好きだった。

(優貴のことを諦めたわけではないけれど、今のわたしには……こういう環境が必要なのかもしれない)
「ええ、行くわ」
「よっしゃ!」

 躯で喜びを表現する茂庭を、思わず優貴と比較していた。優貴は、こんな風に喜びを表に出すことはなかった。傍目にわかる感情といえば、怒りだけ。
 千佳の口は、自然とへの字になる。

(そういう優貴を怖いと思ったこともあったけど、それでも彼を愛さない日はなかった。ねえ、優貴。あなたは? あなたは……もうわたしを愛していないの?)

 親密そうに茂庭と話す千佳を、社員食堂の入り口から一人の男性が見つめていた。
 他の社員と同様にスーツの上着を脱いでいるが、その顔を見れば一目瞭然。水嶋グループ会長の孫の一人で、本社社長の息子でもある水嶋康貴が千佳を眺めていた。

「……ちょっとヤバイんじゃないのか? 優はいったい何をしてるんだ?」

 康貴がボソッと呟いたが、その言葉は誰にも聞こえなかった。もちろん、千佳の耳にも届かなかった。


 午後、千佳は頼まれた出張資料を手にエレベーターに乗り込んだ。
 仕事をしていれば、他のことを考えなくてすむが、一人になると優貴のことが自然と頭に浮かんでくる。
 千佳はそっとまぶたを閉じて、脳裏に焼きついてる優貴の顔を思い浮かべた。口数の少なかった優貴だったが、態度で瞳で愛情を示してくれた。

(もうあんな目で、わたしを見つめてはくれないの?)

 その時、いつもと同じように下腹にチクッと痛みが走る。

「……っあ!」

 そっとお腹に手を置いて、軽くさする。胃のむかつきに食欲不振、そしてこの下腹部の痛み。これは異常かもしれない。市販の薬を服用しているが、痛みがひく気配はなかった。生理痛のような痛みが断続的に続くなんて、今まで一度も経験をしたことがない。
 千佳は、茂庭との約束を変更してもらい、土曜日に病院へ行こうかと考えた。
 だが、前回、約束を破り、逃げるように大阪を後にしたので、今回は自分から変更を言い出したくなかった。

(絶え間なく痛むわけではないから……大丈夫、よね?)

 エレベーターを降りると、千佳は土地開発部へと向かった。

「失礼します。秘書室の鈴木ですが、つち課長はどちらにいらっしゃいますか?」

 入り口近くのデスクに座る男性にたずねる。

「ああ、たった今急いだ様子で一階へ行きましたよ」
(一階へ? 十四時までにこの資料を届けるようにと言っていた土屋課長が?)
「すぐに戻ってこられます?」
「どうだろう? そのまま会議室へ直行するかもしれないな」

 千佳は、顔をしかめた。時間を指定してきたということは、今日必要な書類ということになる。もし時間までに渡せなければ、きっと大変なことになるだろう。
 土屋課長を、一階で捕まえた方がいいかもしれない……

「わかりました。わたしも一階へ行ってみます。もし、行き違いになりましたら、秘書室の鈴木が来たと伝えていただけますか?」

 彼が頷くのを見てから、千佳は急いでその場を後にした。
 エレベーターのボタンを押すと、タイミングよく扉が開く。それに飛び乗ると、一階のボタンを押した。

(どうして土屋課長はわたしの約束を放り出すほど急いでロビーへ向かったの?)

 扉が開くと同時に、千佳はロビーに向かって歩き出した。周囲を見回し、目的の人物を探す。窓際に置かれた応接セットには、それらしき人物はいない。観葉植物の陰にも、奥に設置された小型ロッカーのところにも。
 キョロキョロと見回しながら、千佳は中央にある受付カウンターへと向かった。歩いていくにつれ、受付の女性の姿が大きくなってくる。エントランスが見渡せる場所まで来たところで、千佳の足はピタリと止まった。

「えっ!?」

 心臓がドクンと跳ね上がる。

(嘘……。あれは、優貴っ!?)

 千佳の足は、床にピタッと張りついたように一歩も動けなくなった。
 突然のことに胸が痛くなったが、優貴が表情を和ませて誰かと話している姿を見た途端、胸がトクントクンと早鐘を打ち始めた。心だけでなくからだも彼を愛していると知らせるように、千佳の躯がどんどん火照ほてっていく。

(あれは、絶対に優貴よ。弟の康貴さんではないわ。わたしの心が、躯が……あれは優貴だと告げている!)

 優貴に別れを告げられて以来、こんなにも幸せを感じたことはなかった。千佳は目をキラキラと輝かせ、口元をほころばせながら優貴を見つめ続けた。しかも、探していた土屋課長が、優貴の側にいる。

(土屋課長に資料を渡すために、優貴の側にいける! もしかしたら、優貴から声をかけてもらえるかもしれない!)

 胸の高鳴りを抑えきれないまま一歩前へ踏み出そうとした途端、土屋課長が少し立つ位置を変えた。愛しい人に会える喜びで、幸せそうに微笑んでいた千佳の表情が、一瞬にして凍りついた。

(……えっ?)

 見たことのある女性が優貴に腕を絡ませて、ぴったりと寄り添っていた。優貴はそれを嫌がりもせず、千佳にもあまり見せたことのないような優しい笑みをその女性に向けている。
 優貴の隣にいる女性は、千佳も名古屋で会ったHKコーポレーションの宝来ほうらいなつ。優貴を狙っているとホテルの化粧室で宣言していた光景が、すぐに千佳の脳裏に浮かぶ。

(胸が痛い。……お腹もキリキリと痛い!)

 千佳は、ブラウスの胸のあたりをギュッと片手で握った。ドロドロとしたみにくい嫉妬が、千佳の躯の中に湧き起こってくる。

「……っ!」

 悲痛なうめき声を漏らしながらも、千佳は恋人同士にしか見えない二人から目をらすことができなかった。
 名古屋では、優貴は夏希を取引相手の一人として扱っていた。
 だが、今の優貴は全く違っていた。普通なら人目のある場所で、あんな風に堂々と女性に腕を絡ませるようなことはしない。
 にもかかわらず、夏希の腕を振りほどかないということは、つまり二人の関係は……
 その時、土屋課長が千佳の方へ歩き出した。続いて、優貴と夏希も歩き出す。
 優貴はまだ千佳の存在に気付いていなかったが、側にいた優貴付きのアシスタントの柳原やなぎはらが千佳の姿を認めたようだった。柳原が何かを耳打ちすると、優貴の躯が一瞬で強ばる。触れ合っている腕から異変を感じ取ったのか、夏希がうかがうようにチラッと優貴へ視線を向けた。

「ああ、鈴木さん! すまなかったね。ロビーまで持ってきてくれたのかい?」
「……はい」

 脂汗あぶらあせが額や背中を流れるのを感じながら、千佳は土屋課長の方へからだを向けた。面を上げられず、足元から五十センチほど離れた床をジッと見つめる。
 千佳の足は床に張りつき、思うように動けない。しかも、拒絶反応を示すように、躯のあちこちが悲鳴を上げていた。

「どうしたんだい? 何やら、具合が悪いようだが……」
「いえ、大丈夫です。あの……これ、全て中に入っております」

 千佳は、どうにかして課長に封筒を差し出すことができた。

「ありがとう、本当に助かったよ。それじゃ、また何かあったら秘書室に連絡を入れるから」
「……はい」

 千佳は、ぎこちない動作で深々と頭を下げた。
 目の前を土屋課長の足が通り過ぎ、続いて優貴の足とピンヒールを履いた夏希の足が視界に入る。

(優貴! お願い、一言でいいから……わたしに声をかけて!)

 そう願ったのに、優貴はためらうこともなく千佳の横を通り過ぎていった。
 ガタガタと震える躯を抱き締めたい思いに駆られたが、千佳はそれをこらえてゆっくり頭を上げた。

「鈴木さん、本当に大丈夫?」

 そこには、心配そうにこちらを見る柳原がいた。
 東京では、優貴に会わせてと、何度も柳原に詰め寄った。だから、彼は全てを知っている。優貴と千佳は別れたが、それは合意の上ではなく、千佳が一方的にフラれてしまったのだと。
 それもあるから、愛する男性が他の女性と仲睦なかむつまじくしている姿を見て、千佳がショックを受けていると思ったのだろう。

(もし、こうやってわたしを心配してくれたのが優貴だったら……)
「……はい」

 か細い声で、千佳は応えた。

「柳原! 何をしてる!」

 優貴の怒号が、ロビーに響き渡る。

「行って、ください。早く……」

 懇願するように千佳は囁いた。それでも柳原は心配そうに千佳を見つめていたが、再び優貴の怒号が響くときびすを返して足早にエレベーターホールへと向かった。
 それから何分経っただろうか? 
 優貴たちが去ってからも、千佳はずっとその場に立ち尽くしていた。断続的に襲ってくる下腹部の痛みに顔をしかめて、そっと汗を指の腹でぬぐう。
 その時、再び爆弾が千佳を襲った。

「さっき、次男の横にいた女性が……もう一人側にいた年配の男性に話していたのを聞いちゃったんだけど、近い将来、もっと顔を合わすようになるって言ってたわよ。次男と一緒に挨拶に伺うとか。それって、結婚よね」

 受付の女性の言葉が凶器となり、千佳の頭を思い切り殴りつけてきた。あまりの痛さに、目の前がチカチカする。さらに、耳の奥ではガンガンと音が反響し、周囲の音が全く聞こえなくなった。
 受付の女性はまだ何かを話していたようだが、その部分は全く聞こえなかった。しばらくすると耳鳴りもおさまり、再び受付の女性の言葉が耳に届いた。

「じゃ、あとは後継ぎの長男だけ? あたしたちには、絶対に手が届かない人しか残ってないなんて! そんなの、もう無理じゃないの」
(優貴が結婚する? あの夏希さんと? つまり、わたしたちは……もうあの頃には戻れないということなの? 二人は、もう元に戻れない……)

 絶望を感じたまさにその瞬間、胸の内に湧き起こったどす黒いものが渦となり、からだ中を駆け巡った。
 同時に、例えようのない鋭い痛みが千佳に襲いかかる。

「アアアアァァッーーー!!」

 お腹全体を両手で包み込むようにしながら、千佳は悲鳴を上げた。渦を巻くどす黒い嫉妬が、おへそ周辺から下腹部へと到達すると、ドロッと温かいものが流れ落ちていった。
 痛みに耐え切れず、千佳はその場にうずくまるようにして倒れた。襲いかかる激痛と優貴を失った絶望で、涙が止まらない。

(もう……イヤ。わたし、もう……何も考えたくない)

 一条の光さえも見えない闇に引き込まれ、千佳はそのまま意識を放り出そうとしたが、それも叶わなかった。

「ちょっと、あなた!」

 千佳がちょうど倒れる瞬間、その場に居合わせた一人の女性が側に走り寄ってきた。

「大丈夫!? ……ちょっとこれって……、そこの受付、救急車を呼んで! 早く!」
「は、はい!」

 一瞬でロビーは騒然となる。

「しっかりして、すぐ病院へ連れていってあげるから!」

 下半身に、何かがかけられた。スカートからあらわになった大腿だいたいに触れる布の感触にも、千佳は反応できない。

「鈴木さん! 聞こえたら頷いて! ……鈴木さん!」

 いきなり頬を叩かれたが、千佳は口を開くことができなかった。頭にもやがかかったような夢うつつの状態で、手足に全く力が入らない。下腹部に走る激痛に、千佳はただうめくことしかできなかった。

(ああ、助けて……誰か……、優貴!)

 時間が経つにつれて、千佳の大腿が濡れていく。

「嘘……、あれ、血?」

 貧血か何かで倒れていると思っていた人たちが、急にざわめき始める。普通なら、その慌てように千佳は戸惑いを覚えていただろう。
 しかし、千佳に聞こえてくるのは、エコーがかかったようないろいろな人の声。そのせいで、それほど緊迫しているようには聞こえなかった。
 バタバタと人が駆け寄る音が響く。

「事件ではないわ! すぐに清掃員を寄越して、この場を片付けるように指示を! そして……秘書室に連絡を。鈴木が倒れたので、救急車で運ぶと伝えてちょうだい」
「はい、わかりました」

 次は、遠ざかる足音が耳に届く。

「お願い……、もうこれ以上出血はしないで!」
(出血? わたしが? ……どうして?)

 再び激痛が走り、千佳は朦朧もうろうとしながら身をよじった。

「ううっ……」

 誰かが、千佳の首に手を当てている。女性の優しいささやきが耳に届くものの、何を言ってるのかさっぱりわからない。どういった状況なのか頭の中を整理しようと思っても、貧血を起こしたように目が回って何も考えられなかった。

「いったい、何があったの?」

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