Eternal Star

綾瀬麻結

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3巻

3-2

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 千佳の額を優しく撫でてくれるその感触に、何故かいやしを覚えた。
 もっと触れて欲しいと願ったその時、救急車のサイレンが耳に入ってきた。しばらくすると、その音が止まり、ゴムがキュッと鳴る音と共にキャスターが回転する音が聞こえてくる。

「医師の渡辺わたなべです。クランケは二十代前半の女性。おそらく……」
(渡辺って……。もしかして、医務室の渡辺女史?)

 そこで一瞬渡辺の声が聞こえなくなったが、再び千佳が理解できるぐらいの声が響く。

「出血が酷いので、専門の医師に診ていただけるように手配していただけますか?」
「わかりました」

 いきなり千佳の躯が浮き、何かに乗せられた。ガチャガチャという音が聞こえると、再び躯が上に上げられる感覚がする。すると、いきなりそれが動き始めた。振動が躯全体に響き、再び激痛が襲ってくる。
 ドアがバタンと閉まる音が何度か聞こえると、いきなりサイレンが鳴った。そこで初めて、千佳は自分が救急車に乗っていることに気付いた。

(助けて……もらえるのね。わたし……)

 その時、誰かが千佳の手を握った。

「頑張って! 大丈夫……大丈夫だからね!」

 朦朧もうろうとしていた千佳だったが、暗雲の切れ間から、暖かな陽が射すのがわかった。その光こそ、千佳の手を握ってくれている渡辺女史。千佳はその光を掴むために、力の出ない手でその手を握り返す。

(離してはいけないのよ……。この手を……)
「あともう少しよ……。鈴木さん、頑張って!」

 誰かにすがることができて安心したせいか、千佳はそこで意識を手放した。
 それからどれぐらい経ったのだろうか。
 突然躯が上下に揺れて、千佳はゆっくりと意識を取り戻し始めた。バタバタと側を走る足音、キャスターが回る音が、再び千佳の耳に届く。
 だが、この時も千佳は目を開けることができなかった。下腹部を襲う激痛のせいで、何も考えられない。
 そんな千佳の身に、さらに激しい痛みが襲いかかってきた。

(痛ッ! ……わたしの身に、いったい何が起こってるの? ああ、早く助けて!!)

 刃物で切り裂かれるような強い痛みが、千佳に襲いかかる。自由に動かせないからだよじるように、ただうめき声を漏らす。
 すると、突然遠くから女性の声が聞こえてきた。スピーカーから流れるような、くぐもった母の声も。何を言っているのか、はっきりとはわからない。わかるのは、母の声がいつもと違っているということだけ。
 意識が朦朧もうろうとしているにもかかわらず、遠くの方で話しているその声音が、何故か千佳をとても悲しくさせた。
 そう思ってしまうのは何故なのだろうか。
 その理由を考える間もなく、千佳は再び眠るように意識を失った。


 ――数時間後。
 まどろみから覚めたくなかった千佳だったが、遠くの方で自分の名を呼ぶ声が聞こえてきた。何度も何度も呼ばれているうちに、自然と意識が覚醒し始める。
 同時に、先程とは違う痛みが下腹部だけでなく躯全体を襲った。

(痛い……、躯が痛い! どうしてこんなに痛いの?)
「千佳? ……目が覚めた?」

 意思の力ではどうにもできないほど重たいまぶたを、千佳は何度も押し上げようとしては失敗した。それでも励ましてくれる声に助けられ、時間をかけてゆっくりと目を開ける。

「千佳……大丈夫? 具合は?」

 その心配そうな声は、母のものだった。何とか焦点を合わせると、千佳の目に髪の乱れた母の姿が飛び込む。母は目をうるませながら千佳を見つめており、いつもはほがらかに微笑んでいるその口元は強ばっていた。

「……わたし、いったいどうしちゃったの?」

 一度瞼を閉じ、カラカラになった口内を何とか潤そうとしたが何故かつばが出てこない。それを訴えるように、千佳はゆっくりと目を開けた。

「喉が、……渇いたわ」

 その言葉に、母は水で濡らしたガーゼを千佳の唇に当てる。

(どうして、わたしに水を飲ませてくれないの? それに、ここはどこ?)

 千佳の視界に、白い天井と点滴が飛び込む。消毒液の匂いが鼻腔をくすぐったことで、病院のベッドに横になっているのだとわかった。
 でも、どうして病院のベッドにいるのだろうか? 

「わたし……」
「覚えていない? 会社で倒れてしまったことを」

 千佳は、力の入らない手でギュッと拳を作った。

「……覚えて、る。わたし、急に……お腹が痛くなって」
「その場に居合わせた会社のお医者さんが、すぐに救急車を呼んでくださったのよ。だから、千佳はこうして無事なのよ」
(無事? 何が無事だというの? わたしの身に、いったい何が起こったというの?)
「わたし、どこが悪かったの? もしかして、盲腸もうちょうだった?」

 頭を少し動かして、枕元にいる母の顔を見つめる。視線が絡まった瞬間、母の目から涙がこぼれ落ちた。それが何を意味するのかきたかったが、千佳はどうしてもけなかった。母がすぐに涙をぬぐい、意を決したように千佳の顔をジッと見つめたからだ。
 どれぐらい見つめられたのかわからない。何かを見極めようと、母はただ千佳の表情を探ってくる。

「お、母さん?」

 張り詰めた緊張に耐え切れなくなり、千佳は母をうながすように声をかけた。

「……ちゃんと話すわ。あなたは、きちんとわかるまでそのことばかり考えてしまうと思うから。お医者さんから言われたことを、そのまま話すけれど、自分を見失わずに聞いてね?」
(自分を見失わずに? ……ええ、もちろん! わたしのからだがいったいどうなったのか。この痛みは、盲腸だったのか。きちんと知りたいもの)

 千佳は、ゆっくりと頷いた。下腹部の痛みとはまた違う痛みが今もまだ躯のあちこちを襲っているが、それでも真実が知りたい。
 母は深呼吸をすると、点滴をしていない方の千佳の手をギュッと握った。

「千佳はね……救急車で運ばれて、つい三十分前に手術室から病室へ戻ってきたばかりなの」

 手術をしたせいでこんなにも躯が痛むのだとわかり、千佳はホッと安堵の息をついた。

「やっぱり、わたし……盲腸、だったのね」

 そう呟いた千佳に、母は小さく頭を振った。

「千佳……あなたは妊娠していたのよ」
「妊娠? わたし、が?」
(まさか……そんなはずはない。だって、だって……わたしは!)

 千佳は、母の手を強く握り返した。

「……生理があったのよ? お母さんも知ってるでしょ? だから、わたしが妊娠していたはずがないわ」
「でも千佳、毎月きちんとあったわけじゃないでしょ? 生理がない月もあったりと、周期がバラバラだったじゃないの。社会人になる前に、一度お医者さんに相談しに行ったことを忘れた?」

 忘れてはいない。毎月生理が来るようにピルを服用しようという話があったが、あまり気にしていなかったから通院も途中でやめてしまった。

「でも、きちんと生理があったわ」

 母は、千佳の手の甲をそっと撫でる。

「お医者さんが言うには、その出血は……異変だと知らせてくれてたんですって」
「異変? 異変って何? わからないわ」

 引きるような痛みに千佳は顔をゆがめながらも、きちんとこうと母だけに意識を向ける。

「妊娠していたけれど、それは普通の妊娠ではなかったの。子宮外妊娠だったの」
(子宮外妊娠? わたしが?)

 数年前、まだ高校生だった頃に学校の授業で習ったことがある。本来、受精卵は子宮に着床する。普通はそれで妊娠したことになるが、受精卵が誤って卵管に着床してしまうこともある。そこに着床しても妊娠の兆候が出るので、もしからだの異変に気付いたら早めに診察を受けるようにと、保健体育の先生が言っていた。もし、受精卵が卵管に着床した場合、早急に手術を受けなければならないからと。
 忘れかけていた知識を引っ張り出した途端、千佳の唇が震え始めた。

「お母さん、わたしの……卵管は破裂したの?」
「開腹した時、既に卵管は破裂していて……危ない状態だったの」
(つまり、わたしの片方の卵管は……)
「安心しなさい、千佳。もう片方は残ってるのよ。だから、あなたは好きな人の子供を産めるわ。悲観することなんて全くないのよ」

 千佳は母を見つめていたが、やがて白い天井へと視線を向けた。

(でも、わたしの生理周期は乱れている。それに、片方だけということは、妊娠しにくくなったことになる)

 千佳の唇が、わなわなと震え始める。

「わたし、バチが当たったのかな? 優貴から愛されていたのに、愛想を尽かされるようなことをして彼の愛を失ってしまった。新しい生命を宿していたのに、これもわたしのせいで……」
「それは違うわ、千佳! 子宮外妊娠は、誰のせいでもないのよ」

 母の言葉に、何度も心の中で頭を振る。

(母体であるわたしがもっとしっかりしていれば、受精卵は子宮に着床していたかもしれない。そうすれば……優貴との子供を、この腕に抱けたかもしれない!)
「お母さん、……優貴さんに連絡しようか?」
「やめて! 彼には知らせないで。妊娠したことも手術を受けたことも、何一つ言わないで。彼には……知られたくないの」

 千佳の目から涙が溢れ、目尻からこめかみへと伝い落ちていく。
 今さら優貴に妊娠していたと言っても、どうなるものでもない。大切なタカラを失い、女として傷を負った今、優貴との復縁を望むのはあまりにも不相応すぎる。
 それに、優貴には婚約者がいる。千佳が二人の間に割り込んで、彼を奪い返すことはもうできない。

(わたしは決めていたから……。優貴とは、彼が結婚するまでのお付き合いだと)

 頭ではわかっているのに、心が千佳の言葉を拒絶する。胸が熱くなり、そのまま張り裂けそうなほどだった。
 千佳は、優貴を本当に失った。彼との子供まで。強烈なダブルパンチに、千佳は静かに涙を流すことしかできなかった。

「わかったわ。千佳がそう望むのなら……お母さんは何も言わないから」

 千佳の心がわかっているのだろうか? 
 母は千佳を慰めるように、ずっと優しく手を握り締めていた。


   ***


 ――数時間前の東京、水嶋グループ本社秘書室。

『わたし、優貴を忘れてはいない。今でも、彼のことだけを想ってる。でも、知らない土地で機械のように働いている時に、東京で知り合った茂庭さんと再会したの。彼と話をすることで、少し気分が晴れたわ。わたし、茂庭さんと食事をする約束をしたの。優貴のことばかり考えていると、自分がダメになりそうだから。もちろん他の男性を探すという意味ではないのよ。ただ……わたしが気ばらししたかっただけなの。菜乃なのさん、こんなのってダメかな?』
「フィフティ・フィフティよね……」

 昼食後に千佳から届いたメールを読んだ桜田は、腕を組みながらうなった。

「何がです?」

 資料を配ろうと移動していた後輩の永長ながおさが、桜田の呟きを聞きつけて背後からたずねた。問いかけるようにこちらを見てくる永長の瞳を見返しながら、桜田は自分と永長との関係を考えた。
 桜田にとって永長は良い後輩で仕事仲間。二人で食事をしたとしても、付き合っている彼氏にきちんと話せば特に問題はない。二人は一度辛い別れを経験したことで、昔よりもさらに強い絆で結ばれているから。

(でも、千佳は違う……)

 一人で考え込む桜田に口を出そうとはせず、永長は手に持っていた資料をそっと桜田の机の上に置いてその場を去った。
 他の秘書にも同じ資料を手渡している永長を気にすることなく、桜田は目をつぶる。心が極限まで張り詰めているのではと、千佳のことが心配でたまらなかった。
 もし、すぐに資料に目を通せば、千佳に連絡することができたのに……


 ――三時間後。

「ええ? ……ちょっと永長くん、これはいったいどういうことなの!?」

 つい数時間前に渡された資料を振りかざして、桜田は永長に向かって大声を出した。
 今やっていた仕事の書類を、知らず知らず上に重ねていたので、桜田は今までその資料に気付けなかったのだ。
 桜田と永長に先輩たちからの鋭い視線が降り注ぐが、そんなことには構っていられない。

「何ですか?」

 永長は手帳を手にして立ち上がると、心配そうに眉をひそめながらこちらに歩いてくる。

「コレよ!」

 永長は、桜田が指す部分を覗き込む。それが何かわかると、ホッと息をついて肩の力を抜いた。

「ああ、それですか。午前中、上から回ってきたものをコピーをして、午後一番に配布したものです」
「ご、午前中!?」
「はい」

 桜田は、千佳からのメールを読んでいた時に、永長が何かを配っていたことを思い出した。

「こうしてはいられないわ!」

 メールで連絡するよりも、直接千佳と話をした方が断然早い。
 桜田はすぐに携帯を手に取り、千佳の携帯番号を表示した。千佳が出てくれるのを待とうとした時、〝電波の届かないところにあるか、電源が入っていないため、かかりません……〟というアナウンスが流れる。
 電源を切っているのだろうかと思いながらデスクの上に携帯を置くと、次は目の前にある受話器を取り上げて大阪支社の短縮ボタンを押す。
 どうか間に合いますように……と祈りながら、桜田はコール音に耳を傾けた。

『水嶋グループ大阪支社です』
(しまった! 直通で秘書室へかければ良かったのに、わたしったら)

 思わず舌打ちをしそうになったが、桜田は舌を噛むようにしてそれを押し止める。

「わたくし、本社秘書室の桜田と申します。秘書室の鈴木をお願いします」
『少々お待ちくださいませ』
(早くっ! 早く、繋がって!)

 受話器を握り締めながら、桜田は目の前にある資料を凝視した。

〝水嶋優貴氏、本日大阪支社へ立ち寄り……〟

 その下には、その業務の関連資料の収集について補足が書かれている。この件に関して何も言われなかったということは、先輩たちが資料をまとめたのだろう。
 後輩ができた今でも、桜田にはまだ任せられないということ。もし、任されていたら、すぐにでも千佳に知らせることができただろうに。
 自分の不甲斐なさにイライラしていた桜田だったが、そこで意識を受話器から流れてくる音に移した。
 そういえば、ずっと保留音が流れている。

(どういうこと? どうして繋がらないの?)

 水嶋グループでは、電話の取り次ぎは迅速にするように言われているので、こんなに待たされることは滅多にない。
 何かがおかしい……と思った時、保留音が切れた。

「千佳!?」
『……申し訳ない』
「えっ?」

 千佳の声が聞こえると思ったのに、受話器から聞こえてきたのは男性の声だった。

『私は垣本かきもとと言います。本社からの電話ということで、鈴木の代わりに出させていただきました』
「あっ、お世話になっております。桜田と申します。以前、鈴木が担当していた仕事の件できたいことがありまして……」

 辛い言い訳だとわかっていながらも、桜田はそう告げた。
 視線をチラッと上げると、先輩や後輩たちは既に自分の仕事に意識を集中しているようで、こちらには一切注意を払わない。
 ただ、永長だけがいぶかしそうにこちらを見つめている。こっちを見るなと手を振った時、桜田の全身に緊張が走った。

「えっ? ……すみません、もう一度」
『鈴木ですが、本日倒れまして……。そのまま緊急手術をしたそうなんです。しばらく入院すると思うので、東京での仕事の件をけるかどうか』
(緊急手術? 会社で千佳が倒れた!?)
「あのっ! 彼女は大丈夫なんですか! ……入院している病院は?」
『まだ、詳しいことはわからないんです。わかり次第、ご連絡しましょうか?』
「いえ、あの……またこちらから連絡させていただきます。どうもありがとうございました。失礼いたします」

 桜田は丁寧にお礼を言うと、電話を切った。

「どうしたんですか? 鈴木さんに何か?」

 尋常ならぬ桜田の態度に、永長が早足で近寄ってきた。桜田は、呆然としたまま彼を見上げる。

「千佳が……倒れたって」
「えっ?」

 驚く永長から視線をらすと、桜田はデスクの上で両手をしっかりと握り締めた。

(もしかして、千佳は元恋人と会って……乱暴されたとか? ああ、そうだったらどうしよう!)

 額に嫌な汗が浮かぶ。不安を振り払うようにそっと手の甲で汗をぬぐうと、桜田は永長がデスクの上に置いたプリントにもう一度視線を落とした。
 もし、もっと早くに資料を見ていたら、今回の件は防げたかもしれないと後悔を覚えながら……



   ***


 ――大阪。
 搬送された大城おおしろ総合病院で、千佳は産婦人科の担当医師から子宮外妊娠について説明を受けた。
 緩やかに進む下腹部痛、生理とは言い難い不正出血は、卵管流産の危険を知らせる一つの信号だったらしい。生理痛と間違う人もいるので、異変を感じた時点で診察を受けるべきだったと。

(……そうしなかったのは、全てわたしのせいね)

 愛し合っていれば妊娠することは有り得るのに、自分に限ってそれはないと思い込んでいた。
 もし、早期に発見できていれば、卵管の破裂だけは免れたかもしれないのに。

(赤ちゃんが、わたしに知らせてくれていたのに!)

 千佳は、シーツをギュッと握った。
 医師いわく、すぐに手術ができたのは本当に運が良かったらしい。もし、子宮外妊娠だと気付かずに病院をたらい回しにされていたら、生命の危険もあったという。
 今回は、偶然にもその場に居合わせた渡辺女史のおかげで、スムーズに治療ができたということだった。千佳が流産しているかもしれないと救急隊員に告げ、産婦人科のある病院を指示してくれたらしい。
 千佳はそっと下腹部に手を置き、赤ん坊ができた日を計算しようとした。
 だが、計算しなくても、優貴に愛されたあの特別な日に命が芽生えたのだとすぐにわかった。彼と最後に愛し合ったのはあの日だし、何といってもあの夜は特別な交わりだったから。

(優貴と名古屋で愛し合った時のことは、今でも忘れられない。お互いを求めて、欲望のまま愛し合ったあの日の二人は、心もからだも一つになっていたもの)

 だから、あの日……いつもと違った快感を得たのかもしれない。とても深く、とても神秘的だった二人のセックス。赤ん坊ができたのも頷ける。

(あの時、二人の気持ちは一つになっていた。でも、今の優貴は……もうわたしのことなんて好きでもなんでもない。二人に未来はないのだから、もう潔く優貴を忘れなければ……)

 わかっているのに、そう思っただけで気持ちがたかぶってくる。それを抑えようと、千佳は目の前にあるペットボトルからグラスに水を注いで一口飲んだ。
 とにかく、今は優貴のことではなく、退院後にするべきことを考えよう。
 まず、赤ん坊の供養くようをする。腕に抱いてあげることはできなかったが、その魂が再び生を受け、この世に誕生することができるように祈りたかった。

「こんにちは、具合はどう?」

 突然、優しい声が病室に響いた。面を上げると、そこには大阪支社の医務室で働く渡辺女史がいた。

「あっ、渡辺女史」

 彼女は、支社内では〝女史〟という愛称で呼ばれており、男性社員のみならず女性社員からも好かれている。つい先日、大阪支社で働く男性と結婚したが、仕事場では以前同様旧姓の渡辺で通していた。

「もう、大丈夫です」

 水嶋グループは、女性の自立を応援してくれているが、下手に流産の事実を知られると後で大変な思いをするかもしれない。そう思った渡辺女史は、千佳が倒れたその時からずっと気を配ってくれていた。
 さらに、産婦人科病棟で入院するはずだった千佳は、術後の経過が順調だということもあり、外科病棟に移っていた。それも、渡辺女史が担当医師にかけ合ってくれたおかげだった。
 もし同じ職場の人たちがお見舞いに来た時、産婦人科では外聞が悪いと考えてくれたのだ。女性ならではのその心配りに、千佳は本当に感謝していた。

「そう? それなら良かったわ」

 渡辺女史はチラッと四人部屋の室内を見渡し、千佳以外の患者がベッドにいないことを確認してから口を開いた。

「秘書室からのお見舞いを持ってきたわ。単なる盲腸もうちょうだから、見舞う必要はないと言っておいたの。それに女性だから……ガスが出たら恥ずかしいでしょって言ってね」

 にこやかに微笑みながら、彼女はテーブルに封筒を置いた。そして、申し訳なさそうにノートパソコンを置く。
 それは、千佳が大阪支社に来た初日に支給されたものだった。

「ごめんなさいね。盲腸だったら大丈夫だろうって言われて、コレを渡すように言われたの。もうすぐ退院するっていうのにね。でも、無理な仕事はさせないでと言っておいたから」
「ありがとうございます。わたしなんかのために、いろいろとお気遣いいただいて」
「ううん、いいのよ。わたしの前で倒れたのも……何かの運命だったんでしょうね」

 渡辺女史が座ろうとしないので、手で椅子を示してうながしたが、彼女は残念そうに頭を振った。

「休憩中に抜けてきたから、すぐに会社へ戻らないといけないのよ。ごめんなさいね。でも、また会えるわね。職場へ復帰したら、是非医務室へ立ち寄ってね」

 手をポンポンと優しく叩かれる。千佳は感謝を示すようにその手を握った。

「ええ、必ず……。必ず伺います!」
「それじゃね」

 渡辺女史は片足を後ろに引いて、入り口の方へ向かおうとした。エレベーターまで送るためにベッドから足を下ろそうとした千佳を見て、渡辺女史は大きく手を左右に振る。

「いいのよ! 入院中は安静にしていた方がいいわ」

 ほがらかな笑顔で微笑む渡辺女史の言葉に甘えると、千佳はベッドで軽く頭を下げて、その場から彼女を見送った。
 病室に一人っきりになると、千佳はすぐにノートパソコンを開いた。大阪に来て以来、桜田とは欠かさずメールの交換をしていたが、千佳が入院してからずっと連絡を取っていない。
 きっと、どうしたのかと心配しているだろう。
 携帯からも確認はできるが、既に充電が切れており、桜田と連絡の取りようがなかった。母に携帯のアダプタを頼んでも、安静を第一にと言って頭を振るばかり。
 途方にくれていた千佳にとって、このノートパソコンはまさに渡りに船だった。
 パソコンの電源をオンにすると、すぐメールの受信を行った。予想していたとおり、桜田からのメールがずらりと並んでいる。
 桜田には、何があったのか全て話そう。嘘をつけば、きっと悲しそうな表情を浮かべるに違いないから。

(彼女なら、わたしの話を受け止めてくれる。東京で全てを告白した、あの日のように)

 千佳は、キーボードにゆっくりと手を置くと、連絡を絶ってから何があったのか、全て吐き出すようにキーを打ち始めた。


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